第四章 ドレイク擾乱(五)
手にはハタキ、頭には頭巾、着ているのは年季の入った古着で、多少の汚れなど意に介する必要はない。
ノエル・ド・オリオール――かつて、アルセイス王国で屈指の名家として知られたオリオール伯爵家、その次女として生まれた少女は完全武装としか言いようのない自らの格好を見下ろした後、むんっと気合をいれて腕まくりした。
「それでは参ります!」
凛々しい表情で宣言するノエルを見て、隣で同じような格好をしたアトが目をぱちくりとさせる。
「ノエルちゃん、すごい張り切ってるね?」
「はい、お掃除は得意ですので!」
アトを見上げるノエルの瞳は明るく輝いており、やる気に満ちた表情といい、はきはきとした言葉づかいといい、全身で溌剌さを表現している。何年も妓館の下働きとして働いてきた経験の賜物か、ハタキを持った少女からは風格らしきものさえ感じられた。
そんなノエルを前にして、家事全般に自信のないアトは肩をすぼめる。この場で指示を請うべきは明らかにアトの方であった。
思えば奇妙な縁もあったものだ、とアトは思う。
みずからもハタキをかけながらそっと横をうかがえば、ノエルが鼻歌まじりに軽快に動き回っている。
シュタール帝国とアルセイス王国は不倶戴天の間柄、第一皇女であるアトと伯爵令嬢であるノエルが一緒に掃除をするなど、本来なら決してありえないことだ。
もう一人の伯爵令嬢であるクロエも、今ごろ他の女性たち――解放奴隷に混じって慣れない食事の下ごしらえをしており、こちらも見る者が見れば絶句してしまうだろう。
それぞれの肩書きには「元」がつくが、それを差し引いても、ここフェルゼンの光景はずいぶんと珍妙なものに違いなかった。
ハタキは高いところから、という基本にそって棚の上部を払っていたノエルは、もうもうと舞い上がる埃の量に目を丸くした。
「大きなお家ですけど、ずいぶん長い間、人が出入りしてなかったみたいですね」
「そうだね。前の住人は一年くらい前に他所に移ったって話だけど――」
アトたちがフェルゼンにたどり着いて数日。先行していたゴズの報告どおり、この土地には幾つかの家屋が立ち並び、井戸や小さな畑、さらには獣よけの柵もつくられていた。
村の中央には礼拝所とおぼしき立派な建物が建っており、それ以外の家もきちんとした造りのものばかり。言ってはなんだが、貧民窟であるセーデよりよほど景観に優れている。
教会管理の土地ということを考え合わせれば、それなりに資金もあれば、知識もある人たちが住んでいたのだと推測できた。
そんな人々がこの土地を捨てざるを得なかった理由は何だったのか。
アトは外から見たフェルゼンの光景を脳裏に思い浮かべる。岩と石だらけの不毛の地、というのが仲介者の言葉だったそうだが、実際にアトが自分の目で見た感想をいえば、不毛の地という印象はまったく受けなかった。
広大なヒルス山脈の麓、山の緑に抱かれるように存在する集落は、風光明媚と称してもいいくらい落ち着いた佇まいを見せていたからだ。旅の途中でこの村を見かけたなら、しばらく足を止めて眺めていたかもしれない。
とはいえ、実際に中に入って数日を過ごしてみれば、仲介者の言葉もあながち間違いではない――というより、しごく的確に実情を教えてくれていたのだと理解できた。
『翼をもっても越えるあたわず』と謳われるヒルス山脈は、山頂、中腹はもとより、ふもとの地形も決してなだらかではない。あたかも山自体が人の侵入を拒んでいるかのように、切り立った崖や急斜面といった険阻な地形が広がっている。
土地を耕すべく鍬を振るっても硬い岩が農具を阻み、夜ともなれば野獣が周囲を徘徊して不気味なうなり声をあげる。
村にある畑は先人たちの試行錯誤の痕跡だと思われるが、土がひどく乾いており、穀物を植えてもまともに育たないのではないか、とアトには思えた。フェルゼンの現状を見れば、その推測はおそらく正しいだろう。
以前の住民たちは、生活するだけの糧が得られず他所に去ったのか、あるいは税が払えなくなって教会騎士団に追い出されたのか。いずれにせよ、考えて楽しい理由ではなさそうだった。
わざわざノエルを不安にさせることもないと考えたアトは、それとなく話題をかえる。
「ゴズさんが一通り確認してくれているけど、頭の上や足下には注意してね、ノエルちゃん」
最低でも一年は放置されていた家屋だ、どこにガタが来ていてもおかしくはない。
テキパキとハタキをかけてまわるノエルに注意を呼びかけると、弾むような声がかえってきた。
「はい、アトさま!」
明るい声音を聞き、アトの口が自然とほころぶ。ちなみに、さま付けに関してはもう訂正を諦めていた。意外に頑固なノエルは、年長者に対してはさま付けをやめないのである。
聞けば、インが「御主人さま」という呼びかたを受けいれた経緯も似たようなものであるそうな。
あの強面の青年がノエルのことを気に入っている理由は、案外こんなところにもあるのかもしれない。
インからフェルゼンの守りを託されたアトは、任務のかたわら、オリオール姉妹のことを常に気にかけていた。インから何か直接の指示を受けたわけではなかったが、彼がノエルたちのことを深く気にかけていることに気づいていたからである。
これはアトが鋭いというより、インがわかりやすいだけだろう。王国派評議員はおろか、アルセイス王国そのものを敵にまわすことも厭わないやり方を見れば、アトならずともインの心中を察することは容易であった。
ただ、仮にインの内心に気がついていなかったとしても、姉妹に対するアトの態度が変わることはなかったであろう。
インに救われ、ドレイクを離れたとはいえ、ノエルたちが置かれた境遇は決して安楽なものではない。むしろアトのそれに優り劣りのない過酷なものだ。
クロエはもちろん、ノエルも幼いながらに聡い子であり、ふたりは自分たちをとりまく境遇を理解している。これから先の不安を感じていないはずがない。
それでも、姉は妹を、妹は姉を、それぞれ心配させまいと健気に頑張っている姉妹をアトはとても好ましく思っていた。
同時に、羨ましくも思っていた。
過酷な境遇であっても、互いに支えあうことができる姉と妹が。
それはアトが望んでも得られなかったものであったから。
ノエルを見やるアトの菫色の瞳に影が差す。
目の前の少女を見ていると、遠くシュタールの帝都にいる妹のことが思い出された。
妹――シュタール帝国第二十代皇帝ジークリンデ・フォン・アルトアイゼンが、ことさらノエルと似通っているわけではない。
ノエルは十二歳、ジークリンデは十一歳なので年齢的には近しいが、それ以外に共通する要素はあまりなかった。
髪の色が違う、目の色が違う、何より表情が違う。
帝位継承者の筆頭であったジークリンデは、幼少の頃から次代の皇帝として相応しい振る舞いを求められて育った。そのため、臣下の前でノエルのように子供らしい溌剌さを見せたことはほとんどなかったように思う。
それでも父帝やアトをはじめ、信頼する者たちの前では年相応の顔を見せてくれていたが、姉妹の父が亡くなり、皇帝の座についてからはますます子供らしさは鳴りを潜めた。もっといえば、臣下の前に顔を見せることすら少なくなり、姉であるアトでさえ自侭に会うことはできなくなった。
すべては帝国宰相ダヤン侯爵の指図による。
アトが妹と最後に言葉を交わしたのはもう何ヶ月も前の話だが、今のジークリンデがノエルのように笑えているとはとうてい思えない。
そのことにアトは慙愧の念を抱いている。
妹を助けようと願いながら、かえって悲しませてしまった自分。今なお苦しめてしまっている自分が許せない。
今度こそ妹を今の境遇から解放する。それがアトの願いであり、戦う目的であった。
アトとジークリンデは仲の良い姉妹だったので、妹が心優しい子であることも、望んで帝位についたわけではないことも知っている。妹を皇帝に担ぎ上げ、自分を叛逆者に追い落としたのはダヤン侯爵だ。
アトが願いをかなえるためには、どうしても帝国宰相を打倒しなければならない。
では、先の叛逆事件はそのために引き起こされたものなのかと問われれば、アトは力なく首を横に振ったであろう。
あの時、アトはダヤン侯と戦ったわけではない。戦うことすらできずにひねりつぶされたのだ。そして放り捨てられた。
宰相の奸智の前に、アトは幼児のごとく無力であった。
◆◆
ぎり、とハタキを握る手に力がこもる。
自然と表情が厳しくなったアトの耳に、ノエルの心配そうな声が飛び込んできた。
「……あの、アトさま、どうかしましたか?」
気遣わしげな視線を感じ取り、アトは慌てて表情をあらためる。
「あ、ごめんね。ちょっと考え事をしてたの」
「そう、なんですか?」
「うん。こんなんじゃイン様に怒られちゃうね」
なおも心配そうに見上げてくるノエルに対し、アトはややわざとらしい仕草で自分の頭を小突いてみせる。
妹と同じ年頃の女の子を不安にさせてどうする、との自省が込められた拳はけっこうかたく「こつん」ではなく「ごちん」くらいの響きがあった。
「そ、そういえばアトさま、お聞きしたいことがあるのですけどッ」
ノエルが慌てたように口を開いたのは、強張ったアトの顔を見て、話をかえる必要を感じたからであろう。このあたり、ノエルは他者の感情の変化に敏感だった。
「アトさまは地竜さんのお話を知っていますか?」
「地竜、さん? リンドドレイクのことかな?」
アトが応じると、ノエルはこくこくとうなずいた。
自由都市の名前の元となり、かつては同名の国家も存在した竜の寓話は、中央地域では広く知られている。内容に関する好悪はあっても、話そのものを知らないという者は少ないだろう。
それは一匹の小さな蛇が、大きな竜になる物語だった。
話の中で、小蛇と家族の身には数々の災難がふりかかる。大蛇、猛禽、虎、時には人間。小蛇は家族を守るためにたくさんの試練を経て、大きな身体、大きな爪、火を吐く口を手に入れる。
すべてを得た小蛇は強くなった。だが、その強さゆえに家族から恐れられた。もはや『蛇』と呼べる生き物ではなくなってしまった小蛇を見て、家族は恐れおののくばかり。眼前の『竜』が誰であるかに気づけなかった。
小蛇は自分のことを話したが、恐怖に震える家族は信じようとしない。『蛇』が『竜』になるなどありえないこと。きっと『竜』は自分たちをだまして食べるつもりだろうと思い込んだ。
ただひたすら恐れ、怯え、この山から去ってくれと懇願してくる家族を見て、小蛇は嘆き悲しんだ。家族を守るために手に入れた力が、小蛇と家族の絆を断ち切ってしまったのである。
優しい小蛇は家族の願いを受け入れる。隣の山に移り住み、離れた場所から家族を見守る道を選んだ。いつか家族が自分のことを認めてくれると信じて――というところで物語は終わりを迎える。
以前、妹に読んであげた絵本を思い出しながら、アトは不思議そうにノエルに問いかける。
「あのお話がどうかしたの?」
「ええとですね、この前リッカさんに聞いたのですが――」
同じ年頃ということもあり、ノエルはセーデに残ったリッカやツキノと親しかった。彼女らとの会話の中で、ノエルは東域に伝わるという地竜の物語の続きを知った。
アトの眉が視認できない範囲でかすかに動いた。
「……続き?」
「はい。地竜さんが家族のことを見守っていたある日、空から山のような大きさの岩が降ってきたんだそうです」
その岩はあまりに大きく、爪では砕けそうになかった。火を吐いても壊れそうになかった。
残った武器は大きな身体だが、地上で岩と竜がぶつかれば、家族は巻き添えをくって死んでしまうだろう。
だから『竜』である小蛇は空を飛んだ。翼を得て、地上ではなく空で岩塊に立ち向かったのである。これまでと同じように家族を守るために。
結果、小蛇の家族は助かった。しかし、小蛇は助からなかった。
『竜』がみずからの命を代償として岩塊をはねのけたのを見て、家族はおおいに喜んだ。
自分たちにつきまとう化け物がとうとう死んでくれたからだ。きっとあの岩は天の神様が化け物を討つために落としてくれたものに違いない。これでようやく安心して暮らすことができる……
――語り終えた際の寂しげな表情が、この救いのない寓話に対するノエルの感想を物語っている。
ノエルはやや沈んだ声で続けた。
「だから、リッカさんたちが生まれた国では、地竜さんではなく飛竜さんのお話なのだそうです」
これを聞いたとき、ノエルは不思議だなと思った。
地竜と飛竜。明らかに根を同じくする二つの物語の、どちらが元なのか。
元が地竜だとすれば、翼がなかった竜に後世の人間が翼をうえつけたことになる。
元が飛竜だとすれば、翼を持っていた竜から後世の人間が翼をもぎとったことになる。
ノエルがアトに聞きたかったのはその点だった。
深い意図があってのことではない。いってみれば掃除の間の話の接ぎ穂として――話をしている間も当然掃除は続けている――訊ねてみたに過ぎない。
しかし、問われたアトは困惑せざるを得なかった。
今の飛竜の話、知っているかと問われれば知っている。ノエルの疑問の答えも、少なくとも一部は知っている。
アトが知るかぎり、原典により近いのは東域の飛竜の方である。
飛竜リンドブルム。それが本来の物語の名であり、リンドドレイクは後世の人間によって翼をもぎとられ、名前さえ捻じ曲げられた姿だった。
アトはそのことを知っていたが、それをノエルに説明する気にはなれなかった。なんとなれば、それを為したのがウズ教会であるからだ。
アトはシュタール皇家の一員であり、そして皇家は代々ウズ神を信仰してきた。その過程で教会の裏面を知る機会も多く、リンドブルムの話もその一つに含まれる。
アトが知る物語では、飛竜が最後に立ち向かった天から降り注ぐ岩塊、あれはウズ神が引き起こしたものとされている。神が定めた『蛇』の枠を飛び越えて『竜』となってしまった小蛇を罰するため、審判を司る主神が山そのものを落としたのである。
しかし、家族思いの優しい小蛇の望みを砕いたのが主神ウズであった、などという物語が巷間に流布することを嫌ったウズ教会は、翼を持たない竜リンドドレイクをうみだし、小蛇の名前ごと話の内容を改ざんしてしまう。
それは昨日今日の話ではなく、アトの祖父母が生まれるよりもずっとずっと前のこと。
リッカたちが生まれた東域では、中央地域ほどウズ教会の影響力が強くない。だから、より原典に近い物語が残っていたのだろう。
このリンドブルムにまつわる話は、シュタール皇家だけに伝わる教会の秘密――というわけではなかった。おそらく、ある程度以上の家柄であれば、耳にしたことくらいはあるだろう。オリオール伯爵家の長女であるクロエも知っているのではないか、とアトは思う。
はっきりいってしまえば、この手の改ざんはめずらしい話ではない。教会に限った話ではなく、シュタール帝国の中でも似たようなことは行われている。
英雄譚の主人公をシュタール人にする、あるいは敵役をアルセイス人にする。自国は正義、他国は悪。単純ゆえに分かりやすい理を寓話という形で民衆に、特に子供たちに刷り込んでいく。そのやり方は帝国も教会も大差ない。
「クロエさんには訊ねてみたの?」
窮余の一策として相手の実姉の名前を持ち出してみる。
ノエルは不得要領な顔でうなずいた。
「はい。もとは一つの物語でも、地域によって差が出るものだから、どちらが先とか、どちらが間違っているとか、そういうものじゃないのよって言われました」
それを話したときのクロエの困った顔が目に浮かぶようで、アトは勝手に親近感をおぼえてしまう。
今の言葉から察するに、クロエもまたノエルに裏面を教える気にはなれなかったのだろう。
ここはその意思を汲んで話をそらさねば、とアトは頭をひねった。
……ひねったが、しかし、いっこうに良い思案が浮かんでこない。
もとよりお世辞にも口がうまいとはいえないアトのこと、咄嗟に機転をきかせることもできず、埃が舞う室内に不自然な沈黙が積み重なってゆく。
アトは内心で慌てたが、それ以上に慌てたのがノエルであった。空気をかえるべく話題をかえたら、余計に空気が重たくなってしまった。
これはいかんと幼いながらに感じとり、急いで口を開く。
「あ、ご、ごめんなさい! 今はお掃除に集中しないと、御主人さま(イン)に怒られてしまいますね!」
「そ、そうだね、しっかりやらないと駄目だよねッ」
互いにインをダシにすることで、埃を掃きだすよりも先に、妙に重たくなってしまった空気を掃きだしてしまう。
二人は内心でインに謝罪しつつ、気を取り直して掃除にとりかかった。
この家はフェルゼンの中で礼拝所に次いで大きく、インがフェルゼンに来訪した時のため、今からきっちり綺麗にしておく必要がある。
ハタキで棚の埃を落とし、箒で床の汚れを掃きだし、その後で雑巾がけをして――と休みなく作業をすすめていくと、時間はみるみるうちに過ぎていく。
二人の目に終わりが見え始めたのは、日が中天に差し掛かる頃のことだった。
朝早くにとりかかったはずなのに、気がつけばこの時刻。想像よりも汚れ具合がひどかったという理由はあったが、手早く済ませようと思えば、もっと早くに終わらせることもできた。
そうしなかったのは二人が「どうせやるなら徹底的に」と凝り性な一面をのぞかせたためである。
妙なところで気が合うアトとノエルであった。




