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僭王記  作者: 玉兎
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第一章 緋色の凶賊(三)


 下水道を通ってドレイクの外から中へ。

 地上に出るや、インは溜め込んでいた息を盛大に吐き出した。



「…………ここばかりは何度通っても慣れないな」

「…………慣れたくない」



 めずらしく、はっきり辟易とした表情を見せながらキルが応じる。

 かつて一国の王都だったドレイクの街には、往時の繁栄をしのばせる都市施設が幾つも残っているが、地下水路はその一つだった。

 大陸広しといえど、主要街区以外に上下水道が設置された都市はそうそうあるものではない。



 ただし、これには問題も存在する。

 ドレイクの発展にともない、増改築を繰り返してきた地下水路は構造が非常に複雑になっており、地下に逃げ込んだ犯罪者が自分たちの手で掘った水路などもあって、評議会でさえ全容を把握しきれていないのだ。

 為政者が全容を把握できていない水路が綺麗に整備されているはずもなく、特に下水区画は凄まじいまでの悪臭が渦巻く魔境と化している。



 大げさな表現ではない。子供の身体ほどもあるドブネズミやら、手のひらほどの大きさを持つ油虫やらがそこかしこに徘徊する場所は、魔境と呼ぶ以外にないだろう。

 半ば迷宮と化してしまった観のあるドレイク地下水路。

 緋賊はこれを利用することで都市の内外を行き来し、神出鬼没の評を得ているのである。



「イン。それにキル君も。無事で何よりです」



 地上に戻ったインたちを真っ先に出迎えたのは、金の髪と青の双眸を持つ青年だった。

 整った顔立ちに柔和な笑みを浮かべるこの青年の名をカイという。

 正確にはカールハインツという、もう少し長い名前があるのだが、面倒くさがったインが短く省略してしまい、当人も当人で「その方が呼びやすくていいね」とあっさり納得してしまった。

 以後、みずからカイと名乗るようになっている。



 緋賊の中で最も古参であるカイは、年齢だけ見ればインと同年なのだが、外見上はインよりも三つか四つ若く見える。

 白い肌に細い手足、男臭さというものをまったく感じさせない容姿は、時に女子供と間違われるほどであった。



 ただし、カイに繊弱さがあるとしても、それは外見だけのこと。

 じかに言葉を交わせば、誰もがそのことに気づくだろう。

 穏やかな物腰の中に確かな気品と意志の強さを併せ持つ、カイとはそんな人物であった。



「留守中、何かあったか?」



 留守をあずけていたカイが真っ先に出迎えたことを怪訝に思ったインが訊ねると、カイは小さくかぶりを振る。



「なべて世は事もなし、というところだね。今日は身体の調子が良かったから、たまには我が主君を一番に出迎えようと思い立ったんだ」

「ふむ。では主君らしく応じるとしよう――出迎えごくろう、カイ」



 インが鷹揚おうように応じると、カイはかしこまって頭を垂れる。

 もしこの場にシュタール宮廷に出入りする人間がいれば、カイの動作が宮中の礼儀作法の見本になるほど見事なものであることに気づき、目を丸くしただろう。

 顔をあげたカイは照れたように笑ってから、今も異臭を放っている二人に休息を勧めた。



「後のことはやっておくから、インとキル君はどうぞ汚れを落としてきてください。ちょうど湯も暖まった頃だと思います」



 その言葉にキルが素早い反応を見せる。

 インを見上げる顔はいつものように無表情だったが、目には硬質の意思が宿っていた。この言外の要求に抗うのは頭目といえども容易ではない。

 もとより抗うつもりもなかったインは、素直にカイの勧めに従うことにした。



◆◆



 セーデ。

 それは自由都市ドレイクの西隅に位置する街区の名称である。

 貧民窟――スラムと呼ぶ者も多い。



 交易都市として多くの人と物が集まるドレイクには華やかな成功の話が絶えないが、光が強ければ影が濃くなる道理で、成功の下にはそれに数倍、数十倍する失敗が積み上げられている。

 ひとたび失敗すれば、店に財産、家族といった形あるものから、運に気力、信用といった無形のものまで、多くのものが手のひらからこぼれ落ちていく。中にはそういった逆境から再起する者もいたが、都市の闇に引きずられ、道を踏み外してしまう者も多い。

 セーデはそういった人々が流れ込む場所のひとつであった。



 昼日中から女子供の悲鳴が響き渡り、その響きをかき消すように男たちの怒号が耳朶を打つ。物陰には何のものともしれない腐乱した屍が放置され、そこかしこに植えられた赤紫色の幻覚草が放つ臭いとあいまって、吐気を催すほどの腐臭が街区全体を覆う。

 毎日のように人が死に、それが問題とされることもなく、血で染まった衣服を着た人間が平然と道をうろついている……



 それらは今となっては過去の情景である。

 しかし、かつて確かに存在したセーデの日常でもあった。

 今から三年前。

 当時、セーデを牛耳っていたキルの父親をインが切り捨てたその日まで、セーデはまごうことなきこの世の地獄だったのである。





「……セーデの紅狼こうろう、か」



 カイが用意した湯につかりながらインがぼそりと呟く。

 すると、同じ浴槽に身を沈めていたキルが不思議そうに顔をあげた。



「父さんが、どうかした?」



 こてんと首をかたむけるキル。

 紅狼とは亡きキルの父親ヴォルフラムの異名であった。

 インは過去の記憶をさかのぼりつつ、短く応じた。



「三年前を思い出した」

「父さんを、殺したときのこと?」

「ああ」



 インの言葉で自分もその時のことを思い出したのか、キルは淡々と言った。



「強かった、イン」

「お前の父親もな。もっとも、今となってはキルの方が上かもしれないが」



 その言葉にキルは小さくかぶりを振った。



「まだ、届いていない、と思う」

「そうか? ま、キルが言うならそうなんだろう」

「ん。キルは三年前の父さんに届かない。だから、今のインにも届かない。けど――」



 不意に、キルの目に強い光が浮かぶ。

 それまで、自身の父を殺した相手と会話を交わしながら、一片の恨みも憎しみも感じさせなかった少女が、はじめて強い意志をあらわにしていた。



「追いつく。いつか絶対に」



 だから待ってて。

 そう呟くキルに、インは楽しげに笑って応じた。



「楽しみにしているが、なるべく急げ。俺が狙う敵も、俺を狙う敵も、どちらも多いからな」

「大丈夫。どっちもキルが片付ける」



 まったく力むことなく断言したキルは、前触れなく湯船に潜った。

 蜂蜜色の髪が水面に放射状に広がり、キルが吐き出した息が泡となってブクブクと浮き上がってくる。

 ややあって、キルはぷはっと息を吐き出しながら湯の中から顔をのぞかせた。

 その後も湯に潜ったり、両手で水をためて宙に撃ち出したりと、無表情ながらどこか楽しげな様子で湯と戯れるキル。



 インは同じ浴槽で所せましと暴れるキルを見て、小さく肩をすくめた。

 この場に第三者がいれば、その口元にかすかな微笑が浮かんでいることに気づいただろう。





 しばらく後、キルはおぼつかない足取りで浴室から立ち去った。どうやら少しばかりはしゃぎ過ぎたらしい。

 こんなところは子供らしいと、一糸纏わぬキルの後姿を見やりながらインは苦笑する。



 キルが去った後も、インは一人で湯に浸かり続けた。

 水が貴重であるスラムでは、湯に入って身体を洗うという行為は最大級の贅沢に分類される。そもそも、そのための施設を備えている家がない。あるのは、かつてヴォルフラムが拠点として使っていたこの建物くらいだろう。

 頭目といえど、この浴場はそうそう利用できるものではない。

 なので、利用できるときは限界まで利用しつくすとインは心ひそかに決めている。このあたり、我ながら貧乏性である、とインは自覚していた。



 そうやって湯を楽しみながら、インはこの先の展開に思いを馳せる。

 子飼いの傭兵団を失った帝国派の動きが先鋭化することは火を見るより明らかであり、彼らは本腰をいれて緋賊を狩り立てに来るだろう。

 そうなれば、ドレイクにおける騒動はまた新たな局面を迎えることになる。



「評議会も間抜けばかりじゃない。都市の外をいくら探し回っても賊の拠点が見つからないとなれば、都市の中に目をつける奴も出てくるだろう」



 そして、都市の中で最も賊が隠れていそうな場所となれば、真っ先に疑われるのは貧民窟スラム――セーデ区である。

 むろん、インとて簡単に尻尾をつかませるつもりはなかった。

 インが緋賊の頭目であり、セーデが緋賊の拠点となっていることを知っている者はほとんどいない。これはセーデの外ばかりでなく、内で暮らしている者たちも同様である。

 セーデの住民すべてが緋賊に加担しているわけではない。

 むしろ、インたちと関わりを持っていない者の方がずっと多いのだ。

 ただし。



「それとなく勘付いている者はいるだろうな」



 インはそう判断していた。

 評議会の調査が通りいっぺんのものではなく、金も時間もかけた本格的なものであった場合、インたちの正体が暴かれてしまう可能性はゼロではない。

 その時はその時で評議会と刃を交えればいいと思う反面、まだ早いと囁く声もインの中には存在する。



 インが奴隷商を繰り返し襲う理由のひとつは、解放した奴隷を自分の兵に仕立てあげることにある。その数はまだ百の半分にも達していない。

 対するドレイクの正規兵は六千弱。評議員たちが私財を割いて傭兵を雇い入れれば、一万を越える兵を動員できる。

 これと正面から戦えば勝ち目はなかった。



 いざとなれば評議員暗殺も辞さないつもりのインだったが、仮にそれでドレイク軍を破ったとしても、次に出てくるのは宗主国シュタールの正規軍である。

 大陸最強をうたわれる五十万の帝国軍を相手にして、なお勝ちを拾えると思うほどインはうぬぼれていない。

 したがって、評議会とぶつかる時は、帝国がドレイクの混乱に介入できない状態をつくりあげておく必要があった。



 街道でこそこそ暴れるだけの今のインには、いささか荷が勝った条件である。

 だからこそ、今はまだ力を蓄える時なのだ――それがカイの意見であり、イン自身もその意見に賛同している。

 だが、ドレイク評議会がいつまでも緋賊に振り回されたままだと考えるのも虫が良い話であろう。



「帝国で内戦でも起きてくれれば言うことはないんだが……ふん、それこそ虫が良い話か」



 自分の着想を笑い飛ばしたインは、さらに深く考えにふける。

 次に気がついたとき、浴場に入ってからすでに二時間以上が経過していた。



「イン、長風呂もほどほどにね」

「………………ああ」



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