第四章 ドレイク擾乱(一)
シュタール帝国のカロッサ伯がやってきてからというもの、名のみの存在となったドレイク評議会。その議長であるパルジャフ・リンドガルは鬱々として楽しまない日々を送っていた。
眉間に刻まれたしわは、日を追うごとに深くなっている。
カロッサ伯が商売の統制を強化してからというもの、交易市場の活気は衰える一方であったが、カロッサ伯は商人たちの苦情に耳を貸さず、憤った商人たちは不平不満をパルジャフのもとに持ち込んだ。
議長なのだから何とかしてくれ、という理屈である。
むろん、パルジャフとしても何とかできるものなら何とかしたいのだが、カロッサ伯に相手にされないという意味では交易商人も評議長も大差はない。
十回を越える面会の申し込みは、同じ数だけの拒否をもって報われている。
シュタール帝国が本気で評議会を潰しにきていることを、パルジャフは悟らざるをえなかった。
カロッサ伯はラーカルト・グリーベル子爵の横死について評議会を責め立てていたが、あれはただの口実だろう、とパルジャフは考えている。
もともと、ドルレアク公爵はドレイクが欲しくてたまらなかったのだ。ラーカルトの死に乗じて腹心であるカロッサ伯を派遣し、都市の実権を奪ってしまう心積もりであろう。
公爵の狙いがパルジャフにはよくわかる。わからないのは帝国宰相ダヤン侯爵の変心だ。
これまでダヤン侯はドレイクの自治を尊重し、一貫してドルレアク公の野心をおさえる側にまわってきた。今回の一件でその態度を百八十度ひるがえした裏には、奥深い企みが潜んでいるに違いない。
ダヤン侯の狙いがどこにあるかは分からないが、現在の状況がこの先も続くようなら、遠からずドレイクは大きな混乱に見舞われる。パルジャフはドレイクの議長として、帝国宰相の企みを防がなければならなかった。
しかし、カロッサ伯がパルジャフを無視している今、パルジャフにとれる選択肢は多くない。相手がこちらの話に耳を傾けないのだから、説得も嘆願も意味を為さず、賄賂の類も効果がない。
シュタール宮廷に活路を見出そうとして差し向けた使者も、これまでのところ全てアルシャート要塞で止められている。これでは長年培ってきた人脈も活かしようがなかった。
残るは武力による反抗か。
しかし、ドレイクが抱える六千の兵士はパルジャフの一存で動かせる兵力ではない。彼らを動かすには他の評議員の同意と協力が不可欠であり、仮にこの六千人を動かせたとしても、相手にするのはカロッサ伯の手勢二千と紅金騎士団一千の計三千。数において優っているとはいえ、一都市の守備兵が帝国軍の精鋭相手にどれだけ戦えるかは分からない。
なにより、高らかに自治を謳っていようとも、ドレイクはまぎれもなくシュタール帝国領。現在の状況に不満を抱く者は多いだろうが、だからといって宗主国に対して武力による反抗を企てる者、これに参加しようと思う者は少ないだろう。戦えと命じた途端、守備兵が四散しても不思議はない。
パルジャフにしても、ここで武力に訴える気にはなれなかった。一時的な勝利を得たとしても、遠からずアルシャート要塞を発した大軍に踏み潰されることが目に見えているからである。
交渉は駄目。蜂起は無駄。残る選択肢は静観くらいのものだが、ここでパルジャフが静観を選べば、ドレイクに待っているのは帝国貴族の政略の駒として扱われる未来だけだ。
誰かに利用されようとも、それが結果として自由都市の安定に結びつくなら耐える意味もあるが、パルジャフが見るところ、そうはならない。
現状での静観は議長としての責任放棄と同義であろう。
――八方塞がりの状況に、パルジャフの口から深いため息がこぼれる。
そんなパルジャフの眼前に、どすんと音を立てて置かれたものがあった。
香辛料の香りが鼻腔を刺激するそれは深皿に盛られたスープで、タマネギ、ニンニク、キャペツにジャガイモ、さらにはダウム河でとれた魚がこれでもかとばかりに盛られている。
思わず目を点にするパルジャフの耳に豪快な笑い声が響いた。
「なーにを朝っぱらから辛気臭い顔をしてるんだい、うちの旦那は!」
バシンと勢いよく背を叩かれ、ドレイクの評議長は困ったように傍らを見た。視線の先では、パルジャフの妻が夫とは対照的な晴れ晴れとした笑みを浮かべている。
「笑う門にはなんとやら、だよ。ほら、美味いもんでも食べて、その眉間のしわをちょっとは緩めな」
「パウラ、今わしは大事な考えごとをだな……」
「一分一秒を争うってわけでもないんだろう? 暗い顔つきで、おまけに空腹を我慢して考えたからって名案が浮かぶものでもないさね。手軽に済ませられるようにスープにしたんだから、ささっと食べちまいな」
そう言うと、パルジャフの妻パウラは夫の答えを待たずにパンやチーズを机の上に並べていく。
こうなると、これ以上の抵抗は無意味であることをパルジャフは長年の経験から知悉していた。
それに、スープの香りをかいでからというもの、腹の虫が騒ぎ始めたのも事実である。軽く両手を掲げて降伏を受けいれたパルジャフはおとなしく匙をとった。
たくわえたヒゲにスープがこぼれないように注意しながら、中身をもしゃもしゃと咀嚼する。そして、感嘆の息と共に感想を口にした。、
「……うむ、美味いな」
それを聞いたパウラは満足そうにうなずいたが、瞳に悪戯っぽい光を浮かべると、からかうように言った。
「つくったもんとしては、具体的にどのあたりが気にいったのかを知りたいところだね」
「具体的に、であるか。ううむ、具はよく煮えて味が染みておるし、魚に生臭みはない。胡椒の利き具合もちょうどいいな」
「はっは、愛する旦那の食事に生煮えの野菜やら、下ごしらえの済んでいない魚やらを出すわけにはいかないからねぇ」
面と向かって愛情を口にされたパルジャフの口から、むぐ、と妙な音がもれた。
「おや、のどでも詰まらせたのかい?」
「いや、大丈夫だ……うぉっほん」
わざとらしい咳払いするパルジャフに、パウラは莞爾とした笑みを向ける。
「そいつは良かった。ああ、おかわりはたくさんあるから、二杯でも三杯でもどんとこいだよ」
「さすがにもう若い頃のように食べるのは厳しいのだがな」
「おやおや、あの大食漢だった坊やも年には勝てないか。一緒になった頃は、深鍋ひとつ、ぺろりと平らげていたのにねえ」
嘆くような妻の言葉に、パルジャフは思わず言い返していた。
「坊やはよさぬか。それに、厳しいとは言ったが食べぬとは言っておらぬ。これから先も激務が待っていることであるし、しっかりと腹ごしらえをさせてもらおう」
「かしこまったよ、旦那さま。ああ、だからといってスープをかっ込んだりしたら駄目だからね。しっかりと噛んで、しっかりと味わって食べること」
「だから子供扱いするなというにッ」
憤慨したように言うパルジャフを見て、パウラはからからと笑う。
気がつけば、先ほどまでパルジャフを包んでいた重苦しい空気は霧散していた。心なし、眉間のしわも小さくなったようである。
パルジャフ自身もそれを自覚していたのだろう、スープのお代わりをよそうために妻が部屋から出て行くと、目元をほぐしながら呟いた。
「確かに、先ほどよりは良い案が浮かびそうであるな」
視線を窓の外に転じれば、今日も晴れ渡った青空が広がっている。
フレデリク邸襲撃から今日で一週間、ドレイクでは好天が続いており、王国派評議員に対するシュタール軍の行動も一段落していた。
しかし、この騒動が市民生活に与えた影響は大きく、街の通りからは子供たちの姿が消え、大人たちも騒ぎに巻き込まれることを恐れて皆が足早になっている。不安げに周囲を見まわしながら、声をひそめて話をしている者たちの姿も目につく。
市場は通常どおり開かれていたが、市街の騒動にくわえてシュタール軍の商売統制の影響もあり、かつての活況は見る影もなかった。
いずれも一月前のドレイクでは考えられなかった光景だ。
評議会における三派閥の対立や、緋賊の跳梁が問題視されていた頃でも、都市としてのドレイクは正常に機能していた。
この点、カロッサ伯の行動はドレイクの根幹を揺るがすものであり、ある意味、緋賊などよりよほど性質が悪いといえる。
せめて、これ以上の事態の悪化は防がなければならぬ、とパルジャフは決意を新たにした。
この時、すでに事態はパルジャフにとってより悪い方向へ転げ落ちつつあったのだが、全能ならざるパルジャフに、そのことが予期できるはずもなかった。
◆◆◆
ドレイクの中心に位置する白亜の評議会館、その執務室に座るカロッサ伯ウィルフリートは厳しい眼差しで一通の書簡を眺めていた。
今しがたアルセイスの使者が置いていったものだ。もっと正確にいえば、叩きつけていったものである。
「いずれアルセイスが出てくることはメルヒオール閣下も予測しておられた。だが……」
カロッサ伯はそりたての青々としたあごに手をあて、考えに沈んだ。
紅金騎士団を動かしてフレデリク・ゲドの邸宅を襲撃してから一週間。今日までにフレデリク以外の王国派評議員の掃滅はほぼ完了している。この挙に対してアルセイス王国が動くのはあらかじめ予測されていたことだ。使者が到着するまでの日数は、早すぎもせず、遅すぎもせず、つまりはこちらも予測どおりといってよい。
ただ、その内容はシュタール側の予測をはるかに越えて激烈だった。
アルセイス王国は今回の騒動で命を失ったアルセイス人の名前を綿密に調べ上げ、それを書簡に細かく記した上で、彼らの死に対する責任を問うてきたのである。
いわく、今回のシュタール帝国の行動はドレイク内部の抗争に事寄せたアルセイス人虐殺である、と。
アルセイス側が王国派評議員の排除に関して抗議ないし非難をしてきたのなら、カロッサ伯はこれを内政干渉であると突っぱねる心積もりでいたのだが、おそらくアルセイス側はこの反応を予測していたのだろう、異なる視点からシュタールのやりようを責め立ててきた。
アルセイスにくみする評議員の家にアルセイス人が多いのは当然のこと。どのように調べ上げたのか、書状に記された姓名は五十名を超えており、今回の騒動で命を失ったアルセイス人――兵士を除く――を網羅していた。
使者はいう。
戦場で武器をもって対峙したならばいざ知らず、武器を持たないわが国の民を多数手にかけたシュタール兵の振る舞いは残虐にして卑劣、愚行というもおぞましき無辜の虐殺である。シュタール皇帝による全面的な陳謝をもってしてもこれを償うには足りぬ。この帝国の蛮行に対し、アルセイス王国は即時開戦をもって応じることも辞さぬと心得よ。
そう通告すると、使者はカロッサ伯が返書をしたためるのも待たず、席を蹴立てて帰国してしまった。
帝国側の反応など意に介さない決然とした行動の裏には、はじめに強く出て今後の交渉を有利に運ぼうという思惑があったのかもしれない。「即時開戦をもって応じる」ではなく「即時開戦をもって応じることも辞さず」というあたりに交渉の余地を見出すこともできる。
だが、それにしても強気一方の宣告であった。事実上の宣戦布告、そう受け取ることもできる。
あごにあてていた手をおろしたカロッサ伯は小さくひとりごちた。
「まあよい。多少、予定が早まっただけのことだ」
腰に差した長剣の柄頭に手をあてる伯爵の姿にはひとかけらの動揺も見られない。ドレイクの直接支配を確固たるものにするためには、どうあってもアルセイスとの一戦は避けられない。であれば、今回のことも別段驚くには値しない。
赤毛の伯爵はただちにアルシャート要塞ならびにドルレアク公爵の本拠地である公都ドラッヘに急使を送り、事態を説明する一方で、アルセイス方面に対する警戒を厳しくするよう配下に通達した。哨戒の兵を増やし、街道を往来する者たちはもちろん、ダウム河を利用する河船にも監視の目を光らせる。
結果として今より更に交易が滞ることになるだろうが、カロッサ伯はまったく意に介さなかった。伯爵にとって経済は軍事に従属するものであり、その逆はありえないのである。
この時、次々に手を打っていくカロッサ伯の脳裏に緋賊の名は浮かんでいない。
もともと、カロッサ伯は緋賊がラーカルト・グリーベル子爵の死に関与しているという話を信じていなかった。アルセイスにくみする王国派が子爵を謀殺し、その責任を野盗になすりつけたものとみなしている。カロッサ伯にしてみれば、王国派の掃滅は正当な報復であった。
当然、王国派に利用されただけの緋賊に対する関心はきわめて薄い。
そもそも、カロッサ伯は緋賊の本拠地がセーデ区にあるという情報を掴んでおらず、現段階で緋賊を気にする理由がまったくなかった。
というのも、はじめにセーデの情報を掴んだのは王国派であり、王国派からカロッサ伯に情報が流れるはずがない。
他にこの事実を知っている者といえば、インから直接告げられたパルジャフが挙げられるが、パルジャフは求められてもいない情報をすすんで提供する気はなかった。
カロッサ伯のためにそこまで献身的に働く理由がないということもあるが、多くは自衛のためである。
王国派を武力で弾圧したカロッサ伯が、独立派のみを寛大に扱う理由はない。情報源を詮索された挙句、緋賊と通じているなどとあらぬ疑いをかけられる可能性が高いと判断したのだ。
フレデリクの配下にはセーデ区のことを知っている者たちもいたが、彼らの多くは先の襲撃で鬼籍に入っており、生き延びた者たちの中にも、仇であるカロッサ伯に情報をもたらそうという酔狂な人間はいなかった。
結果、カロッサ伯は緋賊の存在を今日まで気に留めずにきたのである。
――今日、この日までは。
と、慌しい足音と共に現れた伯爵の部下が緊張した面持ちで変事を報告した。
ドレイク西隅の貧民窟、すなわちセーデ区において火の手があがっているという。
この報せが、これからドレイクを襲う未曾有の兵火の先駆けであることを知る者は、この時点ではまだほんの一握りしか存在しない。
その一握りに含まれないカロッサ伯は眉をひそめた。失火か、放火か。いずれにせよ放ってはおけない。スラムなど燃え落ちてしまっても一向にかまわないが、火が他の街区に広がってしまうと厄介だ。
面倒なときに、と内心で舌打ちしながらも、カロッサ伯は素早く指示を出し、ドレイク守備兵の一隊をセーデ区に差し向ける。自身の手勢や紅金騎士団を使うまでもない。そう考えてのことであった。
◆◆◆
セーデ区から立ち上る数条の黒煙は、ドレイクの他の街区からも見ることができた。
ルテラト区にある宿の一室から黒煙を眺めていたブリス・ブルタニアスの耳に外の騒ぎが伝わってくる。
窓の向こうで立ち騒ぐ人々とは対照的にブリスは平静を保っていたが、これは当然といえば当然の話だった。
なにしろ、あの火を放つように命じたのは、他ならぬブリスであったから。
と、室内からブリスのものとは異なる声があがる。
「作戦は順調に進行中、というところかしら」
そう口にしたのは、赤茶色の髪と淡黄色の瞳を持つ青年だった。
中肉中背で、容姿にも服装にもこれといった特徴がない青年は、外見に比して特徴的な言葉遣いでブリスに話しかけてきた。
この青年、なまじ同室者のブリスが長身、金髪、碧眼といういかにも貴公子然とした外見をしているだけに、いかにも凡庸といった印象がつきまとうのだが、それがあくまで外見だけであることをブリスは知っている。
青年に応じるブリスの態度はしごく丁重なものであった
「は。これでしばらくの間、シュタール軍の耳目はセーデに集まるでしょう。あそこに巣食う賊と守備兵をかみあわせることができれば、騒ぎはさらに拡大します」
そのための手もすでに打っている。
背筋をただして答えた後、ブリスは声にわずかな困惑を込めた。
「しかし、まさかカラドゥ卿みずからお越しになるとは思っておりませんでした。カロッサ伯爵は決して無能な人物ではありません。十分にご注意くださいますよう」
今、ブリスの前に座っている人物の名はカラドゥ・シェロンといい、アルセイス軍において第十将軍の地位にある高官だった。本来であれば一軍の先頭に立つべき身であり、間違ってもこんな安宿に足を運んでいい人物ではない。
カラドゥはふふっとあだっぽく笑う。
「別にあなたの邪魔をする気はないから安心なさい。いえね、隠す必要もないから正直にいうけど、堅物のリリアンと一緒に行動するのが気詰まりだったから、テオドール閣下に頼んでこっちに来させてもらったのよ」
その言葉にブリスはさらに困惑を深めた。
今、カラドゥが口にしたリリアンという人物もれっきとした高官の一人であり、その名を冗談の種にされても反応に困ってしまうのだ。本気で言っているのだとしたら、なおのこと反応しにくい。
アルセイス第七将軍リリアン・シェロン。姓からもわかるようにカラドゥと同じ一族であるが、両者の性格は正反対と言われている。
リリアンは、その可愛いらしい名前とは裏腹にアルセイスでも屈指の猛将として知られており、精悍な顔には太い向こう傷が斜めにはしっている。当人の性格も真面目そのもので、無駄口、冗談口などまったく叩かず、カラドゥがその手の発言をするたびに眉間にしわを寄せていた。
そんな二人であるから、軍内でも事あるごとに角をつきあわせている。テオドールなどは二人を見て「よく飽きないものだ」と楽しげに笑っていた。
ともあれ、予定になかった第十将軍カラドゥの参戦は、これからドレイクで難しい任務にあたるブリスにとって僥倖といってよい出来事だった。
しかし、ブリスの内心は表情ほど穏やかではない。
ここに来てのカラドゥの登場は、ブリスに対するテオドールの評価が急落していることをうかがわせたからである。ブリスにすべてを任せるつもりなら、わざわざ将軍級の人材をドレイクに派遣したりはしないだろう。
フレデリクを利用してドレイクの実権を握るという当初の目的を果たせなかった以上、自身に対する評価が下落するのは仕方ない。だが、それでも今回の作戦はブリスにとって数年来の任務の集大成。昨日今日ドレイクにやってきたような相手に引っ掻き回されたくはなかった。ブリスにとっては汚名返上の機会でもあるのだから尚更だ。
もし、カラドゥが邪魔をしてくるようなら。あるいはブリスをだしに功績を横から奪うような真似をすれば――ブリスの瞳に冷たい光が浮かぶ。
ブリスはその外見や柔らかい物腰から貴族の子弟だと思われることが多く、実際にそのとおりではあるのだが、その境遇は決して安楽なものではない。
当主が端女にうませた一族の厄介者。それが幼い頃のブリスの立場であり、下男同様の扱いを受けて育ってきた。時に本妻とその子供たちの手で命を奪われそうになったこともある。
目的のためには情を切り捨てることができる為人は、そういった境遇の中で育まれてきた。
裏面はどうあれ、数年来、忠実に仕えてきたフレデリクを我が手で斬ったことも。
親身になって世話をしてきたリムカや侍女たちをフレデリク邸に置き去りにしたことも。
さかのぼれば、フレデリクの注意を引くために、幼いオリオールの娘を剣でセーデに追い立てたことも。
すべて、ブリスは後悔していない。心に痛みは覚えるが、栄達のためであれば耐えることができる。
それがブリス・ブルタニアスという人間だった。
一方、そんなブリスを見やるカラドゥは内心でほくそ笑んでいた。
どう取り繕ったところで、ブリスがカラドゥのことを快く思っていないことは明白だ。
カラドゥの派遣が、自身の立場の危うさを示していることに気づかないブリスではない。今後、ブリスはますます任務に集中するであろうし、そうなればカラドゥはテオドールから受けた密命――ブリスの尻を叩く――を果たすことができる。
カラドゥがアルセイスを出国する前、テオドールはブリスを評して次のように言っていた。
『なんのかんのといったところで、ブリスは耐えることはできても捨てることはできない奴だ。長年、力を貸してきたフレデリク・ゲドを討てという命令に対し、思うところは必ずある。そのことがあれの智謀を曇らせる可能性、なきにしもあらず。奴の尻をひっぱたき、栄達に飢えていた初心を思い出させるためにも、貴公のドレイク入りは必要なのだ』
どうせ貴公もリリアンと共に行動するのはいやだろう?
そう笑うテオドールに命じられ、カラドゥは使者の一団にまぎれてドレイクへとやってきた。
――やはりテオドール閣下は人を良く見ておられるわね。
カラドゥはそう思う。第一将軍であるディオン公爵と不仲であるため、今のテオドールは行動に掣肘が加えられているが、今回の作戦が成功すればディオン公といえども態度を改めざるを得ないだろう。
アルセイス王国が飛躍するための大きな一歩。
その一翼を担うカラドゥは、こみ上げる戦意をこらえかねたように唇の端をわずかに吊り上げた。




