表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僭王記  作者: 玉兎
27/67

第三章 セーデの紅狼(八)

 東の空が白みはじめるころ、インは重い足を引きずるようにして地下の氷室ひむろに足を運んでいた。

「……いや、確かに興奮を静めるために身体をいじめようとは思っていたんだが」

 まさか一晩中、暴れまわるキルをおさえる羽目になろうとは予想外にもほどがある。

 がしがしと頭をかきつつ地下への階段をおりたインは、鍵をあけて氷室に足を踏み入れる。

 途端、冷たい空気が首筋を撫ぜた。



 地下につくられた冷温部屋には地上の熱が及ばないように様々な工夫が施されている。

 ヴォルフラムの時代には酒の保存に使われていたようだが、インが主となってからはもっぱら傷みやすい食糧の保管のために使われていた。

 緋賊の食生活が味、量、いずれの面でも水準を保っている理由の一つは、この部屋のおかげで食糧が日持ちするからである。その意味でここは緋賊本拠の重要施設の一つといってよい。



 半ば食糧庫と化している氷室にインが足を運んだのは、別に小腹が空いたからではなかった。この部屋にはほとんど唯一といっていいインの好物が常備されており、それ目当てにやってきたのである。

 氷室の隅に置かれた樽に入っているのは酒――ではなく水だった。ただの水ではなく、ヒルス山脈を源とする湧水だ。

 昨夜、アトにちらと話したインの故郷は水の質が極めて悪く、湖の水も井戸水も塩辛いわ錆びた鉄の臭いがするわでとても飲めた代物ではなかった。およそ食事や酒の質にこだわることのないインが、飲み水にだけは強いこだわりを見せるのは、そのあたりが大きく影響している。



 ドレイクは都市の東を流れるダウム河から水を引いているため、乾季であっても水不足に悩まされることはなく、水の質自体も良い。当然というべきか、貧民窟にまでその恩恵はまわってこないのだが、そこはそれ、数年にわたって地下水路を調べてきたインたちは上水道の構造も一部分だが把握しており、セーデに水を引く仕組みはとうの昔に組み上げられている。

 しかし、インはこの河水でも満足できず、求めて湧水を買い込むようになり、手が空いていれば自らヒルス山脈に登ることもあった。

 そうして得た成果が氷室の壁面に並べられた幾つもの樽に詰められているのである。






「わっ!?」

 冷えた湧水を思う存分味わったインが、満足の吐息をもらしながら階段をのぼりきったときのこと。

 不意に廊下に現れたインを見て、小さな驚きの声をあげ、ぽすんとしりもちをついた人影があった。

 まだ日はのぼりきっておらず、廊下は夜明け前の暗さに包まれている。暗がりの中、相手の髪がくすんだ灰色であることを見てとったインは短く声をかけた。



「ツキノか?」

 一応、問いかけの形をとっているが、夜目がきくインはすでに相手の顔を判別している。声を出した目的は、向こうにこちらの正体を伝えることにあった。

 相手はぺたりと座り込んだまま、びっくりしたように目を瞬かせる。

「あ、イン様でしたか。ごめんなさい、びっくりしてしまって」

 そう言って、ツキノは壁に手をあてながら、ぎこちない動作で立ち上がった。



 そんなツキノを見てインは怪訝そうな顔をした。

 タチの悪い野盗につかまっていたこともあり、本拠にやってきた当初のツキノはほとんど寝たきりの状態であった。その後、回復は順調だとカイから聞いていたが、インが見かけるときは必ず姉であるリッカが付き添っていたので、まだ一人で出歩ける状態ではないのだろう、と思っていた。

 そのツキノがこんな時間にひとりで廊下を歩いている。そのことが不思議だったのである。



「花壇の水やり、です」

 一瞬、インはそれが用足しの隠語であると誤解しかけたが、ツキノのそれは言葉どおりの意味であった。

 いわく、自分はまだ食事や洗濯の手伝いができるような状態ではないが、水やりならば一人でもできる。母であるスズハにそういって早朝から部屋を出てきたらしい。



「それにしてはえらく早いな」

 花壇といっても植えられているのは観賞用の花ではなく、薬用ないし食用の草花ばかりであり、その水やりは大切な仕事である。が、別段こんな早朝にしなければならないことではない。

 インが問うと、ツキノは恥ずかしそうにうつむいた。

「お姉ちゃんが起きていると、一人では行かせてくれませんから。それで、今のうちにと思って」

 そう言って、たははと笑うツキノ。

 もちろん、ツキノは姉を疎んじているわけではないだろう。むしろ、姉にこれ以上心配や負担をかけないために、こうしてひとりで行動しようとしているに違いない。もう自分は大丈夫なのだと証明するために。



 ツキノの頬はこけ、声もわずかにかすれていたが、以前に見かけたときよりも顔色は良くなっているように見える。インを見上げる瞳にも光が戻ってきており、回復は順調だというカイの言葉にインは心密かにうなずいた。

 と、不意にツキノが心配そうに眉を曇らせる。

「イン様、もしかして怪我をなさっていますか?」

 体調の回復と共に視力も少しずつ元に戻ってきている。暗がりの中、インを見上げていたツキノは、頬をはしる斜めの傷痕に気がついた。



「うん? ああ、ちょっと虎に引っ掻かれたか。放っておけばそのうち治る――」

「いけません」

 ピシャリと言葉を遮られ、インはわずかに目を瞠り、頬をさぐっていた手を止めた。

 虎に引っ掻かれたという戯言にはまったくとりあわず、ツキノは真剣そのものといった口調で言う。

「小さな傷口から悪い病気が入り込むこともあります」

 むんずと小さな手でインの服の裾を掴んだツキノは、そのまま有無をいわさずインを引っ張って歩き出す。

 もちろん抗おうと思えばいくらでも抗えたが、病み上がりの子供を無下に振り払うこともならず、インは細い手に引かれるままについていった。



 連れて行かれた先は食堂がわりに利用されている広間の一角である。

 並べられた椅子の一つにインを座らせたツキノは、自身は立ったまま懐から傷薬を取り出すと、それを指先につけて頬の引っ掻き傷を指先でなぞりはじめた。

 眉目に困惑を漂わせつつも、インは身じろぎせず、神妙な様子でツキノの治療を受ける。その様は大型の闘犬が小さな女の子を傷つけまいとしているかのようで、どこか微笑ましかった。

 途中、どうして都合よく傷薬を持っているのかとインが訊ねたところ、返って来た答えは次のようなものだった。

「カイ先生からいただきました。身体が弱っているときは病魔に入られやすいから、小さな傷でも甘く見たりせず、しっかり手当てしておくようにって――はい、これでおしまいです」

 んーっと目をこらしてインの顔を見つめた後、ツキノはにこりと微笑んでそう言った。



「悪いな、手間をとらせた」

「どういたしまして――ところで、虎ってなんのことですか?」

 心底不思議そうに訊ねてくるところを見るに、先の戯言はしっかりと気になっていたらしい。好奇心をのぞかせて身を乗り出してくるツキノを前にして、インは若干の戸惑いを覚えた。

 インは傷病者の治療、回復に関してはカイに一任しているため、これまでツキノと会話を交わす機会はほとんどなかった。

 したがって、この少女が自分に対して抱く感情は感謝と恐怖の入り混じったもの――要するに姉のリッカと同じようなものだろう、と推察していたのである。



 ところが、こうして言葉を交わしてみれば、ツキノはインを前にしても受け答えにおびえを見せない。むしろ、リッカや、あるいはアトよりもよほどハキハキとした物言いをしている気さえする。

 ツキノが、時に母や姉が手を焼くほど回復に意欲を見せていることは聞いていたが、なるほど、芯の強さは相当なものであるらしい。相手の問いに応じながら、インはこの少女に対する印象を大幅に改めていた。





 その後、インは手当ての礼がわりに花壇の水やりに付き合うことにした。

 といっても、ツキノの仕事をとってしまっては意味がないので、実際にやったことといえば、ツキノが働いているところを横から見ていただけであるが。

 ツキノの動きには多少危ういところが見受けられたが、ツキノ自身、そのあたりは承知しているようで、無理に作業を急ぐことはせず、疲れたと思ったらすぐに休むなど、きちんと身体を気遣いながら動いている。その分、水やり一つにもずいぶんと時間がかかってしまっているが、短時間で仕上げなければならない作業ではないので、特に問題はないだろう。



「――ですので、カクラの姓は神座かむくらから転じたものであると言われているのです」

「ふむ、神霊の座所を守る一族というわけか」

 休憩をしている最中、ツキノは郷里のことについて語り、インは興味深げに耳を傾ける。

「はい。他にもカグラやカムイ、カミキといった家々がありました」

「……また、えらく似た名前ばかりだな」

 舌をかみそうだ、とインが言うと、ツキノはころころと笑った。

「そうですね。異国の方にはわかりづらいかもしれません」



 と、ここでツキノは何かに気づいたようにインの顔を見つめた。

「異国……不躾ですが、イン様の生国についてお訊ねしてもいいですか?」

「ん? ああ、この髪の色か」

 インが自分の黒髪に手を置いてツキノを見ると、ツキノがこくりとうなずいた。

 このあたりでは黒色の髪はめずらしい。といっても、たとえばアルセイス生まれのクロエがそうであるように、黒系統の髪の持ち主がまったくいないわけではないのだが、インの場合は髪に加えて瞳の色も黒い。この特徴は東方諸国の民を想起させる。ツキノもそれが気になったのだろう。



 しかし、この答えはイン当人にもわからないものだった。

 物心ついた頃には鎖に繋がれており、周囲には親も兄弟もいなかった。親に売られたのか、奴隷狩りに遭ったのか、あるいはそれ以外の理由があったのか、知る術はとうに失われている。

 ただ、東方生まれである傍証があるといえばある。インはそれを口にした。

「東方の料理や味付けは不思議と舌に合う。東方諸国のどこかが生国である可能性はけっこう高いな」

「イン様と私たちは、同じ国で生まれたのかもしれないのですね」

 不思議な縁です、とツキノは真剣な顔で呟いた。



 そんなツキノを見て、インは軽く肩をすくめる。

「もう確かめようがないことだがな」

 自身の両親や生国に関する興味はとうの昔に摩滅している。

 ただ、東方料理が舌に合うというのは本当のことだった。今しがたインが訪れた氷室の鍵を持っているのは、緋賊の中でもほんの一握りの人間だけなのだが、そのひとりにツキノの母であるスズハがいる。

 これは彼女のつくる食事を気に入ったインが、厨房の全権を任せていることに由来していた。



 基本的にインは食事に文句はつけないが、どうせ食べるなら不味いものよりも美味いものの方が良いのは当然のこと。その点、スズハの料理は東方のものであれ、シュタール風のものであれ、これ以上ないほどインの舌にあっており、このあたりがインとカクラ一族の縁のはじまりになっていたりするのだが、それはさておき、今後スズハをはじめとした女子供がフェルゼンに移ると、食事の量はともかく質の低下は避けられないだろう。

 実のところ、インはこのことに少しばかり頭を悩ませていた。

 食事の質の低下が配下の不満を招くのは容易に予測できる。イン自身、スズハがいない食生活を考えると少々うんざりしてしまう。すぐには無理だが、いずれ何らかの手を打たねばなるまい、と眉間にしわを寄せた。



 ――水を飲みに来ただけのはずなのに、何故だか花壇で今後の食糧事情を憂えることになったインの姿を、ツキノが不思議そうに見つめている。

 と、その目が不意に眩しげに細められた。東の空から朝の陽射しが差し込んできたのだ。

 上空を見上げれば、いつの間にか夜闇の色はすっかり拭われており、かわって抜けるような青空が広がっている。

 ドレイクを包む混迷の霧はますます深まりつつあったが、天候を司る何者かにとっては、それも些事であるようだった。




◆◆◆




「いらっしゃいませ! あ、これはカイ様、お元気そうで何よりです!」

「やあ、マリク君」

 闇商人フクロウの店。

 来客を告げる鐘の音が響く店内で、カイはマリクと挨拶を交わす。

 棚の整理でもしていたのか、マリクの栗色の巻き毛には少量の埃がつもっていた。それを払いながら、少年は不思議そうな顔をする。

「今日は御主人さまがいらっしゃらない日なのはご存知、ですよね? どういったご用件でしょうか? 特に注文は承っていないと思うのですけど……あ、でも」



 もしや自分がうっかりしていたのか、とマリクは慌てて店の帳面を確認しようとする。

 カイはそれを制すると、訊ねたいことがあって来ただけだよ、とやわらかい声音で告げた。

 それを聞いたマリクの顔をさらなる困惑が覆う。

「あの、御主人さまは不在なのですが、ぼくでわかることでしょうか?」

「訊きたいのはフェルゼンの土地取引についてのことだね。例によって、間に立っていたのはマリク君なんだろう?」

 カイは入手の難しい薬草や、時には武器をフクロウ経由で仕入れており、この店にとっては常連といっていい。フクロウが人前に顔を見せないことも、マリクが客と主人の間に立って駆け回っていることも知っていた。



 マリクの表情から戸惑いが去り、かすかな警戒の色が加わった。フクロウの店の取引項目には「情報」というものもある。それに携わっているマリクは、幼いながらに情報の重要性を知悉しており、訊かれれば何でも答えるというわけにはいかなかった。

「取引のことについては口外できないこともあります」

 はじめにきっぱりと断言するマリク。

 カイは当然だというようにうなずいた。

「こちらとしても無理に訊き出すつもりはないよ。ただ、後々妙なことにならないように万全を期しておきたいと思ってね」

「は、はあ……それであの、取引の何についてお訊きになりたいのですか?」



 いったん間を置いてから、カイはおもむろに口を開いた。

「ウズ教会は地位や格式にうるさい組織だ。その教会が管理している土地ともなれば、取引をまとめるためにはけっこうな手間と時間がかかるはず。それこそどんな僻地であってもね」

 すっとカイの碧眼が細くなった。

「だというのに、今回の取引は頼んだこちらが驚くほど速やかにまとまっただろう? そのあたりのからくりをご教授願えないかな?」



 今回、緋賊の側は金銭的に十分なものを吐き出したから――ラーカルトの屋敷から奪った金品はもちろん、もともとあった蓄えにも手をつけている――そのおかげだと考えてもおかしくはない。カイにしても、取引相手がウズ教会だと知らなければ気にしなかったかもしれない。

 しかし、カイはウズ教会の性質をよく知っている。ウズ教の信者には貴族や富豪が多く、よほど辺鄙な土地でもないかぎり、教会が貧窮にあえぐことはない。従って、金銭だけでウズ教会に無理を通すのは限度があるのだ。

 闇商人であるフクロウが、ウズ教会相手に無理を通したというのなら、彼の背後には教会が遠慮せざるを得ない大物が潜んでいる可能性がある。

 その点を確認する必要を感じたカイは、こうして店まで足を運んだ。このままでは気づかないうちに他所の勢力に組み込まれていた、あるいは利用されていた、といった事態が起こり得るからである。




 しかし、マリクとしてはこのカイの問いはまさに「口外できないこと」そのものだった。困惑もあらわにかぶりを振る。

「カイ様、それは使用人が口にできることではありません。どうしてもと仰るのであれば、御主人さまがいらっしゃるときに改めてお越しください」

「そうだね、正論だ。なら、この件はフクロウの耳に入れておいてもらえるかな。それくらいなら問題ないだろう?」

「は、はい、それはもちろんです、けど……?」

 あっさりと引き下がったカイを見て、マリクは不審そうに眉をひそめる。その顔には幼い容姿に似合わない険がうっすらと浮かび上がっていた。



 そもそも、自分の問いが使用人マリクには答えられないものであることくらいカイならば分かりそうなものだ。わざわざフクロウ不在の日に店をおとずれ、マリクに向けてこの質問をした理由はどこにあるのか。

 マリクの目が警戒の念を宿して細くなる。今しがたのカイの表情によく似ていたが、そのカイはといえば、すでに寸前の一幕を忘れてしまったかのように温和な表情に戻っている。

 そして、いつもの注文――薬草や薬木、クロスボウをつくるための部品や金具の取り寄せを頼むと、さっさと店を後にしてしまった。





「ありがとうございました!」

 ほとんど条件反射で元気に声を張り上げたマリクは、一見なよやかなカイの後ろ姿が扉の向こうに消えていくのを見送った。

 かわいた鐘の音がなり、木製の扉がカイの姿を視界から消し去る。途端、マリクの口から吐息がこぼれおちた。

「あいかわらず怖い人だなあ……」

 威圧感でいうなら、たとえばインの方がよほど「怖い人」であるのだが、カイにはインと別種の怖さがある、とマリクは感じている。

 実のところ、マリクは初対面の時からカイが苦手で仕方ない。何もかも見通しているかのような青い双眸に見据えられると、どうにも落ち着かないのである。



 とはいえ、カイたちが上客である事実は動かない。

 少しの間、その場で立ち尽くしていたマリクだったが、やがて気を取り直したように頬をぺしりと叩くと、受けたばかりの注文を処理するために店の奥に姿を消した。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ