第三章 セーデの紅狼(七)
しばしの間、何事か考えていたインは、やがて一つうなずいてから話しはじめた。
「――カイが言っていたとおり、シュシュの秘薬は『どこで』『どうやって』つくっているのかはっきりしていない。だからこそ贋作が大量に出回るわけだが、俺はそのうちの一つ、『どこで』は知っている。なにせつくっている場所は俺が育ったところだったからな」
「……イン様が、育ったところ?」
「奴隷、猛獣、剣闘士、なんでもかでもテアトルム(闘技場)にぶちこんで、命果てるまで戦わせ、その血と酒に酔いしれる――そんな場所だ」
インはどこか自嘲するように唇を歪めた。
「俺は物心つく前からそこにいた。周りには似た境遇の連中がけっこういてな。その中に俺とよく一緒に行動していた姉弟がいた」
それを聞いたアトは、インの表情に嫌な予感を覚えながらも、ためらいがちに相槌を打った。
「はじめてのご友人だったのですね」
「一応、そういうことになるな。最終的にはどちらも俺が手にかけたから、友人呼ばわりすれば向こうは怒るだろうが」
「……ッ」
外れてほしい予感にかぎって的中する。
アトは後悔しながら顔を伏せた。
そんなアトにかまわず、インは先を続けた。
「性格に違いはあったが、二人とも、お世辞にも戦いに向いているとはいえないあたりは共通していた。それこそナイフを握っただけで顔が強張ってたくらいだ。その後、色々あったんだが、結論だけいえば、はじめに俺が弟の方を喰い殺し、戦う力のなかった姉は復讐のためにシュシュの秘薬に手を出した。その姉も最後には俺に呪いの言葉を吐きながら死んでいった。以来、俺はあの秘薬に関わる人間を見つけ次第つぶしてまわっている。八つ当たりでな」
「や、八つ当たり……?」
思わず疑問の声を発してしまったアトに、インはそうだとうなずいてみせた。
「今いったように姉の目的は俺を殺すことだった。シュシュの秘薬は単なる手段に過ぎない。が、俺はこう考えたわけだ。あんな薬さえなければ、あんな結末にはならなかった。シュシュの秘薬などこの世から消し去ってやる、とな」
カイのように秘薬による被害を憂えたわけではない。秘薬の拡散を防ぐためでもない。
インの内にあるのは責任転嫁と八つ当たり。徹頭徹尾、私情のみ。見当外れの私怨のみ。
「それが俺とあの秘薬の関係だ。他に訊きたいことはあるか?」
問われたアトは困惑した。
訊きたいことがなかったのではなく、ありすぎてどれから訊けばいいのか分からなかったのである。
シュシュの秘薬をつくっていたところ――インが育った場所とはどこなのか。そこを支配していたのは誰なのか。秘薬は今もつくられているのか。
インが殺したという姉弟についても奇妙な点はある。
弟を殺された姉がインを恨んだのは仕方ないと思えるし、結果としてインが返り討ちにしたという顛末もわからないではない。
しかし、その理由となった弟の死はどうしてもたらされたのか。食い殺したというのは何かの比喩なのだろうか。
『俺は楽しいぞ。人を殺す時も、飯を食う時も、糞を始末する時も、女を抱く時も。今、こうしている瞬間さえ楽しくて仕方ない。自分の行動を自分で決める。どこに行くか、何をするか、すべて自分で決める。それだけで、俺は楽しいんだよ』
『だからこそ、俺は俺の上に誰かが立つことを許さない。俺以外の誰かが、俺を決めることを許さない。俺の主は俺だけだ』
いつか、アトの前でインが口にしたその言葉。
狷介不羈なその在り方の根源が過去にあることは明白だ。その過去が今の話で垣間見えたテアトルムと結びついているのだとすれば、そこはいったいどれだけおぞましい場所なのか――それを思って、アトはかすかに身震いした。
「何もないならそれでいい」
黙りこくるアトを見て、インはやや唐突にそう言った。
「訊けば何でも答えてやれるわけでもないしな。今日はこのあたりにしておくぞ」
半ば強制的な質問の打ち切り。それに対して落胆ではなく安堵を覚えたあたり、すでに自分には新しい事実を受け容れる心の余裕がなかったのだろう、とアトは自己分析した。
端的にいえば、いっぱいいっぱいだったのだ。この先を問うにしても日を改めた方がいい。
と、インが何かを思い出したように口を開く。
「そうだ。一応、これだけは言っておこう」
「な、なんでしょうか?」
「いま俺が言った場所はもう大陸のどこにもない。主宰者も死んだ。そこは心配しないでいい」
「……はい、ありがとうございます」
心中を見透かしたかのようなインの言葉に、アトは深々と頭を下げる。
やはり、なんだかんだと言いつつ優しい人だ、とアトは思う。先ほど優しいと口にしたときはあからさまに嫌そうな顔をされたので、たぶん本人は自分が優しいなどとは微塵も思っていないだろうけれど。
もちろん、アトだってインが一から十まで善意と優しさで行動しているとは考えていない。インなりに打算もあれば欲も絡んでいることだろう。むしろ主な行動理由はそちらなのかもしれない。
しかし、その事実はインの優しさを否定するものではない。
だいたい、打算と欲でしか行動できない人間が、あんな表情を浮かべられるはずがない――先ほど膝の上で眠るキルを見守っていたインの姿を思い出しながら、アトはそう結論づけた。
口には出さず、ただ自分の心の中だけで。
そして、その結論はアトに一つの行動を促した。
自身の素性。
多事多端な今日という日に持ち出す話ではないような気もするが、逆に頭が煮立っている今のような状況だからこそ、ためらうことなく語れそうな気もする。どうせ明日になれば、またなんやかやと気後れしてしまうに違いないのだ。
シュタール軍と本格的にぶつかるようになれば、どんな拍子で自分の素性を知る者と顔をあわせるか分かったものではなく、その時になって慌てて釈明するよりは、今のうちに自分の口で伝えておくべきだと、そう考えた。
正直なところ、これを聞いたインがどういう反応を示すか、まったくわからないのだが、袂を分かつ事態になったら、それはその時のことだと覚悟する。
アトは一つ深呼吸してから、ゆっくりと口を開いた。
アーデルハイト・フォン・アルトアイゼン。
下級貴族の腹から生まれたシュタール帝国の第一皇女。
半年前、腹違いの妹である皇帝ジークリンデに対する謀反の企みが露見し、刑場の露と消えたはずの叛逆皇女。
自分がそのアーデルハイトである、とアトが告白したとき、返って来た反応は予想に反して淡白なものであった。
ほう、と言いたげに目を細め、短く「そうか」と口にする。ただ、それだけ。
アトとしては肩すかしの感を禁じえなかった。
思わず疑問を口にする。
「ええと、ご存知、だったのですか?」
「いや、初耳だが」
「それにしては、驚いていらっしゃらないような……?」
アトが不思議そうに目を瞬かせると、インはかすかに唇をほころばせた。
「驚いているさ。帝国の皇女がここまで素直な性格をしているとは思わなかったからな。皇家の人間というのはもっと高慢なやつだと思っていた」
それを聞いたアトはどう答えたものかわからず、視線を左右にふらつかせる。誉められたのか、呆れられたのか、微妙なところだった。
「……その、皇家の人間だからといって、誰もが高慢なわけではありません。私の妹もそうです。とても素直で優しい子なんですよ」
「素直で優しい、か。皇帝にはまったく向いていない気がするが、まあそれはいい。それで、板金鎧を着てハルバードを振り回す第一皇女はこれからどうする気だ?」
それを聞いたアトは見るからにしょげてしまう。
「……やっぱり、信用していただけませんか?」
「いや、信用しているぞ。嘘をいうならもう少しマシなことを言うだろうし、面と向かって俺に説教する肝の太さも叛逆皇女なら納得だ」
それを聞いたアトは眉を八の字にした。信用してもらえるのは嬉しいが、理由があんまりだ。
インはけらけらと笑って、そんなアトを見やる。
「一応、誉め言葉なんだがな」
「とてもそうは聞こえないのですけど……」
「それは残念だ。ともあれ、もう一度訊くがこれからどうする気だ? 何の考えもなく素性を明かしたわけでもないだろう」
「考えといいますか、いずれ話さなくてはと思っていたのですが、なかなか踏ん切りがつかず……」
「頭が沸騰した今夜、勢いに任せて言ってみた、というあたりか」
「……はい」
図星をさされ、先ほどとは別の意味で肩を落とすアト。
もちろん、アトはただ勢いだけで事を決したわけではなく、今日の一連の出来事であらためてインを信頼する気持ちを固めたという理由もあるのだが、それを口にしてもインはまともに取り合ってくれないだろう。そう考え、そこに関しては口を噤んだ。
そんなアトを見て、インは結論づけるように言う。
「そういうことなら今夜はもう休め。話は確かに聞いたし、信用もした。お前が俺に従うのにはそれなりの理由も目的もあるんだろうが、それを話すのは頭を冷やしてからの方がいいだろう」
ただでさえ今日は色々あったからな、という言葉にアトは素直にうなずいた。
ふと、その視線がインの膝で眠るキルに向けられる。キルはインたちの長々とした会話などものかは、気持ち良さそうに寝入ったままだ。
その寝顔を見たアトは確かな安堵をこめて唇をほころばせた。
◆◆◆
夜半、インは静かに寝台から身を起こした。
窓の外を見やると夜の闇ばかりが目に映る。それもそのはずで、先ほどアトが部屋を出て行ってからまだ一時間も経っていない。どうしてそれがわかるのかといえば、インが一睡もしていないからだった。
「話をするのは頭を冷やしてから、か」
誰に向けた言葉だったのか、と苦笑する。
先刻からむしょうに血が騒いでやまないのは、久しぶりにフラムベルクを手に取ったせいか、キルとの激闘が中途半端に終わったせいか、アトとの会話でいやおうなしに昔のことを思い出してしまったせいか。
あるいは、それらすべてなのか。
いずれにせよ、眠気さえ寄せ付けない興奮を静める必要があった。
これまでインは、こういう時はルテラト区――歓楽街のクロエのところに足を運んでいたのだが、そのクロエは今この本拠の中にいる。行こうと思えばいつでも行けるのだが、クロエにかぎらず、色事目的で女性の部屋を訪ねることをインは避けていた。
インは自身の独占欲の深さを十分に自覚している。どういう形であれ、一度でも同衾した相手は「俺の女」として見るようになる自分を知っている。
これまでクロエとは金銭を介した関係だったから、あくまで妓館の中だけのこととして割り切っていたが、今クロエの部屋に行ってしまえばそれもできない。最終的には、先日クロエに言った言葉をすべて反故にしても、あの美少女を傍に置きたくなるだろう。いや、間違いなく置こうとする。
そういう自分が、インは悲しいくらいはっきりと予測できるのである。
そんなわけでインはクロエの部屋にはいかず、かといって歓楽街に赴く気にもならず、寝台に寝転びながらどうしたものかと考えこんだ。
いっそ訓練場にいってひたすら剣でも振っていようか。体力の限界まで身体をいじめれば、いやでも興奮は静まるだろう。緋賊の頭目がそんなことを考え、実行に移そうとした時だった。
「…………ぎ、あッ」
不意に、傍らで寝ていたキルの口から歯軋りまじりの濁音がこぼれおちた。それまで穏やかに寝入っていたのが嘘のように、キルの顔が苦しげに歪んでいる。
そこから先は瞬きの間の出来事だった。
苦しげなキルを見やるインの目がすっと細くなる。と、その視線の先でいきなりキルの目がバチリと開かれた。
見開かれた瞳は濁っており、キルの意識がいまだ夢の中をさまよっていることを示している。
キルのうつろな視線が傍らのインを捉えた――そう見えた途端、いきなりキルの身体がはねあがり、寝ていたインに覆いかぶさってきた。そのまま馬乗りになり、インの首めがけて細い腕を伸ばしてくる。
細いといっても、それはたやすく頸骨を握りつぶす凶器である。インの両腕が閃くように動き、キルの両手首をがしりと掴む。
なおも諦めずにインの首をへし折ろうとするキル。それをおさえこむインの腕にも、小さな手首を砕きかねない力が込められていく。
――唐突に始まった命を賭した力比べは、終わるのも唐突だった。
手首を握りしめる剛力から逃れようと暴れるキルの目に光が戻る。ぴたり、と動きが止まった。
「…………イン?」
「目が覚めたか、ねぼすけ」
苦笑まじりのインの言葉でキルは状況を把握したらしい。
キルが眉間にしわを寄せると、汗で張り付いていた蜂蜜色の髪が数本、はらりと額からこぼれる。その髪を払いもせず、馬乗りの格好のまま、キルはぺこりと頭を下げた。
「謝罪する。キルは寝ぼけてた」
そういってインの上から身体をどけたキルは、先ほどまで自分が寝ていたあたりにぺたりと座り込んだ。
「昔の夢でも見ていたか?」
ヘタをしたら殺されかけていたインであるが、キルに話しかける声には驚きも恐れもない。今のようにキルが「寝ぼける」のは今日が初めてというわけではなかったからだ。
とはいえ、ここ一年ほどはほとんどなかったことでもあり、今夜のことは多少意外ではあった。
イン自身がそうであるように、キルもまた今日の出来事で血が滾っていたのかもしれない。
眠たげに目をこすりながら、キルが言った。
「インと……」
「ん?」
「インとはじめて会ったときの夢を見てた」
「それはまた懐かしいな」
インが言うと、キルがこくりとうなずく。
「ん。いっぱいぶたれて、いっぱい蹴飛ばされた」
他人が聞けば間違いなく眉をひそめるか、吊り上げるかする物言いに、インは寝転がったまま器用に肩をすくめた。
キルのいうことは間違っていないが、そうなったそもそもの原因はキルがインを殺しに来たことにある。インはそれに反撃しただけだ。
もっとも、さらにさかのぼれば、当時セーデを支配していたヴォルフラム一党にインが戦いをふっかけたことが原因なので、どちらにより責任があるのかは判断しづらいことであったが。
キルは別にインを非難するつもりはなかったようで、そのまま寝台に倒れこむと、再びインに身体を寄せてきた。
インもインでそれを拒むことはせず、天井の暗がりに視線を向ける。
――これまでであれば、キルはすぐにまた寝入ってしまうのが常であったが、今日に関してはいささか異なった。
頬に視線を感じたインがそちらを見やると、暗がりの中、キルがじっとインを見つめている。
「なんだ?」
「……インはどうしてキルと一緒にいる? キルは危険」
唐突な問いかけに少しばかり驚きながらも、インは率直に応じた。
「気に入ったから、だな。それとあいにくだが、お前を危険だと思ったことはないぞ」
後半はからかうような響きを帯びていた。
む、とキルは顔をしかめる。ばかにされた、と思ったのかもしれない。
「さっきは惜しかったはず。もう半歩で届いてた」
さっきというのは今しがたの寝ぼけた格闘ではなく、訓練場で本気でやりあった時のことだろう。
だが、これはキルの勘違いであった。
「逆だな。あの状態のときはいつもより先を読みやすいから、いつもより踏み込ませていただけだ。殺気だの狂気だのに慣れてしまえば、動きが単純な分、戦いやすいんだよ」
むむ、とキルは唇をとがらせた。
「キルはよく寝ぼける。とても危険」
「ここ一年くらいはほとんど寝ぼけてなかったろうが」
「キルはインを殺したい。きわめて危険」
「殺せる実力をつけてから言ってくれ」
むむむ、とキルは目を三角にした。
しかし、それ以上は言葉が続かなかったらしい。もともとお世辞にも口がうまいとはいえないキルのこと、もどかしげに口を動かしはするものの肝心の言葉が出てこない。
ついにはむすっとした顔で寝返りをうち、インに背を向けてしまった。
それを見たインはくっと咽喉の奥で笑う。
別に嘲ったわけではなく、いかにも子供っぽいキルの行動に思わず笑いがこみあげてしまっただけなのだが、キルにしてみればとどめを刺されたようなものだったのだろう。暗がりの中、精一杯に肩を怒らせ、インが声をかけても意地でも振り向こうとしない。
こんなキルの一面を知っていれば、アトもあそこまで深刻に考えることはなかっただろうに、とインは思う。
むろん、インもアトと同様にキルの生い立ちに思うところはある。
しかし、キルの戦闘欲を危惧し、それを取り除くべきとは考えていなかった。キル自身が己の性情に悩み、克服することを望むなら協力は惜しまないつもりだが、そうでないかぎり自分からあれこれ動くつもりはない。
何故なら、インは根本的にこう考えているからだ。
食欲並みに肥大した戦闘欲? それがどうした、と。
別に戦闘欲に限った話ではない。
色欲、物欲、権勢欲。そういった欲求を食欲並みに肥大させた人間なぞ世の中には掃いて捨てるほどいる。しかも彼らは、キルのように望まずして欲求を引きずり出され、増大させられたわけではない。
危険というなら、そういう連中の方がよほど危険だろう。
おぞましいというなら、そういう連中の方がよほどおぞましい。
そして、誰の下にもつかないとうそぶいて、四方八方で争いを引き起こしているイン・アストラは、そんな彼らの筆頭を飾れる人間だ。
その自分がキルを案じるのは滑稽以外の何物でもない。そう思ってインは笑い声をあげる。
――それがよくなかった。
「むがあ!」
それまでインに背を向けていたキルが、いきなり奇声をあげてインに飛びかかってきた。どうやら今のインの笑い声で、完全に自分がばかにされたと思い込んでしまったらしい。
眦を吊り上げて犬歯をむき出しにし、爪で引っかいてくるキルに対し、インは完全に意表をつかれた。
「ちょ、まて、今のはお前を笑ったわけじゃ――」
「しゃあッ!!」
先ほどのように殺意を持って襲いかかられたならまだ対処もしやすいのだが、毛を逆立てた猫のように、ただ怒りにまかせて暴れられては押さえ込むことも難しい。キルの力が並外れているだけに力ずくというのも難儀なのだ。
もちろん、やってやれないことはない。
しかし、癇癪を起こした子供相手に本気を出すというのはいかにも大人気ない上、インがその気になると、キルの方もそれに感応して本格的な殺し合いに発展してしまうかもしれない。
先刻の訓練場の続きをこんなところでやった日には、寝台はもちろん部屋の調度という調度がガラクタに変じてしまう。
「ああ、もう、落ち着け!」
「がぅあッ!!」
ついには噛み付きまで併用しはじめたキルに、インはいよいよ往生する。
この夜、インの部屋を発生源とするドタンバタンという騒音は、結局、夜明け近くまで続くことになった。




