第三章 セーデの紅狼(六)
人払いを終え、訓練場にやってきたカイは言った。
幻覚草と呼ばれる植物は古来から栽培されていた。幻覚薬と呼ばれる薬も古来から調合されていた。
耐えきれない痛み、こらえきれない不安、あるいは避けられない死。そういったものを遠ざけるために、時に人は幻覚薬を必要としたからである。
カイ自身、何種類かの幻覚草を栽培しているし、幻覚薬をつくってもいる。先刻、まさにその幻覚薬を用いて重傷を負った兵士から苦痛を取り除いたばかりだ。
幻覚薬の本来の用途はこういったものであった。
だが、幻覚薬がもたらす高揚感や酩酊感は、治療とは異なる用途で用いることもできる。 一時的な快感を得るために使用することもあれば、戦いを有利に運ぶために使用する場合もあった。
苦痛を遠ざけ、恐怖を忘れ、敵への憎悪をかきたてることができれば、新兵の集団もおそるべき精鋭に変貌する。
そういった用いられ方をするうちに、いつかその用途に特化した幻覚薬が生み出されるようになった。
シュシュの秘薬はその中の一つ。理性を侵食されることと引き換えに、常人以上の力を引き出せるようになる悪魔の薬である。
ただし、エンフィル草からつくられるこの薬は扱いが非常に難しく、調整がほぼ不可能とされていた。
それだけ効果が激烈だったということもあるが、別の理由もある。
シュシュの秘薬は製造元も製法も明らかになっておらず、正しい製法のものも、誤った製法のものも、市場に出た瞬間に等しく『シュシュの秘薬』として取引されていた。共通するのは「エンフィル草からつくられた幻覚薬である」という一事のみ。
製法の違いは効果にも及ぶ。当然、その細かな調整などできるはずがない。
ゆえに、この薬に魅入られた者たちは憑りつかれたように正しい製法を捜し求めた。
キルの父ヴォルフラムもそのひとりである。
同時に、ヴォルフラムは現状の薬をより効率的に用いる方法も模索していた。
セーデにおけるエンフィル草の栽培には成功した。本物に近しい効果を持つ幻覚薬をつくることもできた。
しかし、本物に近しい効果があるということは、副作用もまた本物に近しいということ。副作用が起こる時期や、その強さは個人によって大きく異なっていたが、大体の人間は一月、せいぜい二月程度で壊れてしまう。
ヴォルフラムにしてみれば、せっかく目をかけた部下に高価な秘薬を与えても、一月二月で壊れてしまうのでは大損もいいところだ。
もし副作用をおさえる方法が見つかれば、わざわざ手間をかけて新たな製法を見つけ出す必要もなくなる。そう考えたヴォルフラムは、自作のシュシュの秘薬を用いて様々な実験を行った。
その中の一つが――
「己の子を宿した女性にシュシュの秘薬を与えることです」
「――狂ってる」
キルの生い立ちを聞いたアトは、めずらしく吐き捨てるような口調で言った。その顔にはおさえきれない嫌悪の感情が浮かび上がっている。なまじ端整な容貌をしているだけに、今のアトの顔には言い知れない凄みが漂っていた。
何かをこらえるように胸に手をあてたアトは、ためらいがちにカイの顔を見る。
「それじゃあ、キルちゃんの力はやっぱり……?」
「……わかりません。ヴォルフラムは戦士として非常に優れた人物でした。その血を継いだキル君が、人並みはずれた資質を持っていたとしても不思議はありません」
ただ、とカイは静かな声で――感情を抑制した声で続けた。
「キル君は定期的に父親からシュシュの秘薬を与えられていたようです。その影響がまったくないというのは考えにくいでしょう」
カイの眼差しは、インと激しく刃を打ち交わしているキルに向けられている。獣じみた動きと咆哮。見る者によっては狂っているとしか思えないだろう。
同じくインたちに視線を向けたアトは、自分の知っているキルとは似ても似つかない顔を見て、たまらずに視線をそらした。
正直なところ、これ以上この話を続けたくはなかったが、シュシュの秘薬について知りたいと望んだのはアト自身である。それに、ここで問いをやめてしまえば、この先キルやインに近づく機会は二度と訪れないだろうという予感があった。
そんなアトの心情を思いやったのか、カイは優しく告げる。
「一度にすべてを詰め込む必要はありませんよ、アト殿。無理をせず、少しずつ。それでもいいと僕は思います」
「……いえ、最後まで聞かせてください」
かぶりを振ったアトは先を促すようにカイを見やる。
それに応じて、カイは再び口を開いた。
「幸いに、とはあまり言いたくありませんが、キル君にはシュシュの秘薬に対する耐性があったようです。それが先天的なものなのか、後天的なものなのかは分かりませんが、キル君の心は秘薬の侵食に耐えぬいた。ヴォルフラムにとっては満足すべき成果に見えたことでしょう。母の胎内にいるうちから秘薬を用いれば、副作用を除くことができるのだと、そんな風に考えたことは想像に難くありません」
そこでカイはめずらしく顔を歪めた。そして、何かを振り払うように頭を左右に振ってから、先を続ける。
「けれど、耐えぬいたのはキル君だけでした。いえ、そのキル君さえ、完全に副作用を免れたわけではなかったのです。アト殿もお気づきでしょうが、今のキル君は戦うことに対して、ほとんど生理的ともいえる欲求を持っています」
それを聞いた瞬間、アトはいやおうなしに思い出してしまった。
インを殺したい――迷いもためらいもなくそう断言したキルの顔を。
「……生理的な、欲求」
「はい。誰かと戦い、これを殺す。戦闘欲とでも言いましょうか、今のキル君はこれが恐ろしいほどに肥大している状態です。生きるために必要な『食べたい』『眠りたい』といった欲求と戦闘欲を同列に置いている」
カイは沈痛な顔で付け加えた。
「おそらく、すべてが秘薬のせいということはないでしょう。ただでさえ調整が困難な薬です。その副作用がたまさかヴォルフラムにとって都合のよいものだった、と考えるのは無理があります。キル君は戦い、殺すことに疑問を抱かない――いえ、抱けないように育てられたのだ、と僕は考えています」
その言葉にアトは息をのむ。
戦いで味わう興奮に魅入られた戦闘狂はどこの国にもいる。傭兵ギルドにでもいけば、別段めずらしいものでもない。
だが、今のカイの言葉はそういったものとは明らかに一線を画していた。
眠ることにためらいを覚える人間はいない。
食べることに疑問を抱く人間もいない。
キルにとって、誰かと戦い、殺すことはそれと等しいとカイは言ったのだ。
そうあるように実の父に育てられたのだ、と。
アトは下を向いた。咽喉の奥からせりあがってくる苦いものを無理やり飲み下し、かすれた声で問いかける。
「キルちゃんが、イン様といつも一緒にいるのは……」
「キル君が知る中で、もっとも戦闘欲を満たしてくれる相手がインなのでしょう」
それを聞いたアトは、とうとう力尽きたようにその場に座り込んでしまった。
これまで二人が行っていた実戦さながらの稽古は、その実、戦闘欲を満たすための本気の戦いであったのか。
インを殺したいのだと気負うことなく告げたキルの声が、アトの頭の中で木霊する。時に風呂や寝台までついていく行動の裏にあったのは信頼でも親愛でもなく、ただ好みの獲物をしとめるための準備に過ぎなかったのか。
アトがそんなことを考えたときだった。
「終わりましたね」
「…………え?」
へたりこんで地面を見つめていたアトは、カイの声に思わず顔をあげる。
その視線の先では、キルが糸の切れた人形のようにこてりと地面に倒れたところだった。
◆◆
「なんだ? カイの奴、そそくさと消えたと思ったらそんなことを言っていたのか?」
声と表情に呆れを滲ませてインが言うと、アトは困惑したように目を瞬かせた。
場所は再びインの部屋に戻っている。インは椅子ではなく寝台に腰掛けており、キルはそのインの膝を枕がわりにしてくぅくぅと可愛い寝息をたてていた。
先ほどの激しい戦闘は夢であったのかと疑いたくなる平和な光景である。
椅子に座ったアトは、おそるおそる口を開いた。
「あの、何か違う、のでしょうか?」
「違うというか、色々と欠けている。確かにキルの生い立ちにシュシュの秘薬が影を落としたのは事実だろうが、当のキルがそれに振り回されているように見えるか? お前は深刻に考えすぎだ。キルはその戦闘欲とやらと上手に付き合っているよ」
思いもよらない言葉を聞かされ、アトは目を瞠った。
「じょ、上手に付き合っている?」
「ああ。今日なんて実にわかりやすかっただろう?」
昼間の会話でアトの望みを知ったキルは、インと本気でやり合おうと考えた。その姿を見れば、シュシュの秘薬とはどういうものなのか、その一端をアトは我が目で確かめることができる。
もちろん、キル自身も久しぶりにインと全力で戦うことができるわけで、キルとしては一石二鳥のつもりだったろう。
ただ、現在のドレイクの情勢を考えれば、インとキルが精根尽き果てるまで戦うわけにはいかない。二人が負傷してしまえば今後の活動にも支障をきたす。
そこでキルは手ごろな相手をつかまえ、あらかじめ力いっぱい戦っておくことで自分の体力をそぎ落としておこうと考えた。そうすれば、インとの戦いで自然な時間制限ができるからだ。
「昼間、キルが俺ではなくお前にくっついていったのはそういう理由だろうよ」
「……そ、そういえば」
今さらながらに思い当たったアトは昼間のことを思い出す。
確かにアトがヘルミーネの部屋に意思確認に行くときから、キルは後ろについてきていた。
そして、その後の激しい訓練。
インの言葉はこの上ない説得力をもってアトの胸に響き渡る。
「傍から見ているとわかりづらいが、キルはたくさんのことを考えながら生きている。父親に鼻面を引き回されていたのは昔のことだ」
インがそう言い終えたとき、膝のアトがなにやらむずがるように動いた。
それに気づいたインが不器用な手つきで蜂蜜色の髪を梳いてやると、キルは満足したのか、また穏やかな寝息をたてはじめる。
「…………ぁ」
そんなキルを見下ろすインの顔に、アトは束の間、目を奪われてしまう。
それは間違いなく、アトが初めて見るインの表情であった。
「ま、こんなのはカイの奴も知っていることなんだがな」
「……え?」
やや唐突にこの場にいない人物の名前を口にするイン。
その顔にはもういつもの表情が戻っている。そのことを少しだけ残念に思いながら、アトはインに問う眼差しを向けた。
それに答えて、インは言った。
「キルのことも、秘薬のこともそうだが、自分の口で陰惨な面ばかりを語った上で、俺にそれ以外を語らせて、間接的にむごい面を否定させる。するとどうだ、話を聞いた人間はおぞましさを蹴り飛ばした俺に悪い感情は持たないだろう? 中には好意やら頼もしさやらを覚えるやつもいるかもしれん。お前はどうだ、アト?」
「ええと、それは、その……」
問われ、アトは慌てながらも生真面目に自分自身に問いかけてみた。
たしかに、カイから話を聞いたときに感じていた暗く重苦しい感情は薄れている。それがインの言動によるものであることは明らかであり、それはインへの好意的な感情に結びついている、かもしれない。
インはアトの返答を待たずに言った。
「カイがよくやることだ。あいつと話すときは眉につばをつけとけ」
カイは偽りを口にするわけではない。誤った答えに誘導しようとしているわけでもない。実際、先刻カイが話したのはアトが知りたかった事実ばかりだった。
ただ、カイは物事を語る際に少しばかり順番を工夫しているだけだ。それだけで、インに人心を収斂させてしまう話術の妙。
アトは何かに思い当たったように目を瞠った。
「あ……カイさんが他の人たちの様子を見に行ったのは、もしかして?」
「自分がいない方が効果が出るとでも思ったんだろ。ま、俺とキルが派手にやりあったから、その音で子供たちが怯えているんじゃないかと心配したのも事実だろうがな」
「む、無駄がないですね」
「まったくだ」
インは同感だというようにうなずく。
この時、インは口にしなかったが、カイは何故だかインとアトの関係に心を砕いている節があった。今回の件も後の布石という一面があるのかもしれない。
カイは決してインを思い通りに動かそうとしているのではない。インが右に行こうが、左に進もうが、それが最善手になるようにあらゆる布石を打ち続けているだけだ。
インはそれがわかっており、だからこそ普段はカイの策動をわざわざ口に出したりはしないのだが、アトに対しては「妙に買いかぶられては困る」という意識が働いたため、こうして指摘することにしたのである。
というのも――
「一つ訊くが、キルが戦闘欲を満たすためだけに俺に付きまとっているとして、どうして俺がそれに付き合っていると考えた? 俺が敵に容赦をしないことはお前も知っているだろう」
「それは、キルちゃんのため、ではないかと……」
シュシュの秘薬のせいで、キルはおさえきれない戦闘欲をもてあますようになってしまった。その標的となったインは、キルのために命をかけて欲求に付き合ってやっている。キルが他者を襲わないように。そしていつか、キルが秘薬の影響から完全に抜け出せるように。
それが少し前のアトの考えだった。
それを聞いたインは本気で嫌そうに顔をしかめた。アトの返答があまりにも予想どおりだったからである。
「……お前、俺を聖人か何かだと思っていないか?」
「いえ、さすがにそうは思っていません」
そこばかりは間髪いれずに否定したアトは、自分の考えをまとめるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ですが、イン様は好意を持たれた方に対してはとてもお優しいですから。クロエさんとノエルちゃん、リムカさん、ヘルミーネさん」
それに、たぶんリッカちゃんも、と。
最後の人名だけは胸中でとどめ、アトは先を続けた。
「出会ったばかりのカイさんを公爵家から半年以上も守り通した話もうかがいました。だから、キルちゃんのためにもと、そう思ったのです」
「ふん、カイと同じようなことをいう。気に入ったという理由だけで、他人のためにそれだけ尽くしてやれたなら、それはもう立派な聖人だと思うがな」
そう応じたインは、さてどうしたものかと内心で呟く。
インは自分が優しいなどとは微塵も思っていない。クロエやリムカを助けたのは下心あってのことだし、ヘルミーネを帝国に帰らせようとしたのは半分以上厄介払いのためだ。キルのことにしても、本当に優しい人間なら戦場に連れ出したりはしないだろう。
アトは明らかに自分の性根を見誤っているとインは考えているが、だからといって、ここでくどくどしく「俺は優しくない」と自分語りをするのも面倒だ。
結局、インはこの件に関してはこれ以上何も口にしないことに決めた。
後々、アトがインに失望するような事態になったとしても、それは互いに見る目がなかっただけのことだと割り切ることにする。
「まあいい。自分で訊ねておいてなんだが、そろそろ本題に戻ろう。シュシュの秘薬の話はだいたいカイから聞いたようだから、次に聞きたいのは俺とあの薬との関係か?」
昼間のアトの願いを思い出しながらインが言うと、アトは表情をあらため、真剣な顔でうなずいた。
「お願いできますでしょうか?」
「ああ、別に隠す必要もない。そう大した話でもないしな」
インはそう言うと、何かを思い出すように目を閉じた。




