第三章 セーデの紅狼(五)
王国派評議員フレデリク・ゲドの死は、身分の高下を問わず、ドレイク市民に強い衝撃を与えた。
先のラーカルト・グリーベルに続く二人目の評議員の死。しかもこの両者は帝国派と王国派、二つの派閥の領袖として自由都市ドレイクを牛耳っていた存在だった。
これで残る派閥はパルジャフ・リンドガル率いる独立派のみ。だが、そのパルジャフはシュタール帝国のカロッサ伯爵によって押さえつけられ、身動きとれない状況に置かれている。
ほんの一月前まで誰も想像できなかった情勢の急変は、当然のようにドレイク各処に多大な影響を及ぼしていた。
特に、フレデリクを死に追いやったのがシュタール正規軍であるという事実は、今後のドレイクの更なる混迷を予感させるのに十分な出来事であった。
内政自治権を有し、評議会によって運営される自由交易都市。
これまでドレイクの根幹をなしてきたその事実に対し、シュタール帝国が明確に否を突きつけたことは誰の目にも明らかであり、このシュタールの動きを見て、同じくドレイクの支配権を望むアルセイス王国が黙っているはずがないこともまた明白であった。
自由都市の支配権をめぐる大陸七覇の激突が起こることは、もはや時間の問題といっていい。
これを危機とみなしてドレイクを離れようとする者がいる一方で、戦乱を立身の好機とみなして積極的に動こうとする者もいた。そのどちらを選ぶこともできず、自分の家に閉じこもって嵐が去るのを待とうとする者は、より以上に多かった。
いずれにせよ、ドレイクの住民は無視できない大乱が近づいていることを悟り、それに備えるために動き始めていたのである。
日没後、インの部屋を訪れたカイは、椅子に座っている部屋の主に向かって沈痛な表情で口を開く。
「イン。君が連れて来たあの兵士、できるだけのことはしたけれど傷が深すぎる。夜は越せないと思う」
「そうか」
予測していたことだったのか、インの表情にこれといった変化は見られない。
その手に握られているのは、いつもの棍棒ではなく、一本の両手剣だった。これまでは部屋の壁に立てかけられていただけの武器。
その柄を握り、重さを確かめるように軽く剣先を動かしたインは、ここでカイを見て短く問いかけた。
「意識も戻らないか?」
「たぶん、ね。ぼくに出来るのは幻覚薬で痛みを取り除くことくらいだよ」
「それで十分だ。手間をかけさせて悪かったな」
インの言葉にカイはかぶりを振る。
「ぼくは薬師だからね、インが謝ることはないよ。ただ、事情は説明してほしいかな。ホロッカ区での騒ぎを聞きつけて、フレデリク卿の屋敷にいるはずのリムカ殿を助けにいった、くらいならわかるんだけど」
「とくに付け足すことはない。それで正解だ」
その返答にカイは思わずという感じで苦笑をこぼす。
「ほんと、気に入った女性が絡むと行動力が増すよね、インは」
「それだけ聞いていると俺はただの女好きだな。別に否定はしないが」
「否定する必要もないよ。そのおかげでリムカ殿たちが助かったのは事実なのだし」
カイは主と仰ぐ人物にそう言った。
実際、今回インがやったのはだだの人助けだ。
インがフレデリク邸に行かなければ、リムカも二人の侍女も紅金騎士に殺されていたに違いない。
深傷を負った兵士は結局助けられそうもないが、恋人に看取られて逝けるのであれば、戦いを生業とする者の死に様としては上等だろう。
したがって、カイはインがとった行動を称えこそすれ、ケチをつけるつもりはなかった。行動をうながした動機が何であれ、である。
ただし、言いたいことがないわけではない。
「ただ、ね。もうすこしイン自身を大切にしてほしいとは思っているよ。インの強さは重々承知しているけど、ろくな準備もなしに多数の騎士が待ち構える戦場に飛び込むのは、さすがに無茶がすぎる」
ホロッカ区の騒ぎを知った後、すぐに騒動の中心に向かうのではなく、一度セーデに戻って誰かしら戦力として連れて行くことはできたはずだ。
結果だけ見れば、ひとりで向かったインの判断は正しかったことになるが、それは幾つかの幸運に助けられた末のこと。特に、退路を確保せずにフレデリク邸に侵入したあたりは、カイとしても一言物申さずにはいられなかった。
めずらしく声を尖らせるカイを見て、インは両手剣を机の上に置きながらうなずいた。
「今後は気をつけよう。なるべくな」
「うん、それでいいよ。どうせいざとなったら忘れてしまうのだろうけど、日頃から意識していないよりは、意識しておいた方がいいから」
そう言うカイを見て、インはいぶかしげな顔になる。
そして、率直に問いかけた。
「何を怒ってるんだ、お前は?」
「自分の大切な友人が、自分の知らないところで無茶をしてたら心配して当然だろう? 君の無茶に胸を痛める人もいるんだよ、イン」
それを聞いたインが目を瞬かせるのを見て、カイは内心でため息を吐く。
他者から向けられる悪意は、たとえ相手が初対面であっても鋭敏に感じ取るくせに、四年以上行動を共にしているカイが自分を心配していることにはなかなか気づかない。
カイが若干の気恥ずかしさを押し殺して「大切な友人」などと口にするのも、そうしないとインに正確に気持ちを伝えることができないからだ。
カイと出会った頃からインにはこの弊があったが、この点については四年経った今もあまり変化が見えない。
成長がない、というのとは少し違う。インの人格は四年前の時点でほぼ完成されていたのだ、とカイは理解していた。
他人が自分を心配することなど想像もつかない――それがごく当然のこととして心に刻み込まれる環境とは一体どんなものなのか。イン・アストラという人物を四年に渡って見続けてきたカイはおおよその見当をつけている。
だが、その推測を確かめようとしたことは一度もなかった。おそらく訊ねれば教えてくれるだろうが、別段、そこまでして知りたいわけではない。カイが大切に思っているのは、インの「これまで」ではなく、インとの「これから」であった。
それから話は今後に関することに移った。
件の新しい拠点については、ゴズに数名の兵をつけて現地に向かわせている。何も問題がなければ、彼らの帰還を待ってセーデの人員の大半を新拠点に移す。ちなみにゴズを向かわせたのは、いざという時の逃げ足の速さを見込んでのことであった。
一連の手はずを確認した後、カイは新しく拠点となる土地の名を口にした。
「フェルゼン――岩の土地、か。本当に岩と石だらけの土地みたいだね」
「その分、野盗やら山賊やらに目を付けられることもないだろう。まあ、だからといって誰も置かないわけにはいかないから、当面はお前とセッシュウ、それにアトもあちらにやるか。お前とアトがいれば、セッシュウが孫探しに出るときも問題は起こらない」
インの案にカイは小さく首を傾げる。
「その配置だとセーデの守りが薄くなってしまわないかな。今インが言ったみたいに、野盗の標的にされる土地柄ではなさそうだし、フェルゼンの守りは最低限でいいと思う」
予想される障害は賊以外にもある。たとえば近くの街や村の人間と衝突するような事態も起こり得るため、そういった場合にも戦える人間は必要になってくるだろう。
だが、ウズ教会が管理する土地にちょっかいを出す人間がそうそういるとは思えない、というのがカイの意見だった。
むしろカイが心配なのは、今後ウズ教会が多額の税を要求してきた際、インが教会に対して激発することなのだが、そのあたりに備えるのはもう少し先でいいだろう、とこっそり考えていた。
考え込むインに向けて、カイはさらに続ける。
「それに、たぶんアト殿はセーデに残りたがるんじゃないかな? 付け加えると、僕も残りたいのだけど。セッシュウ殿が旅に出るときは、代わりに別の誰かを送り込むという形で対処するのはどうだろう?」
「――ふむ、まあそれでもいいか」
インとしても、別段、自分の意見に固執するつもりはない。
ただ、気になることはあった。
「シュタールの騎士と戦えば、お前の素性が知られるかもしれないが、それは構わないのか? アトにしても、帝国兵と戦うのはあまり好ましくなさそうだが」
それを聞いたカイはくすりと微笑んだ。どうやらインなりにカイたちのことを気遣っていたらしい、とわかったからである。
「大丈夫。僕はとっくに死んだことにされた身だし、それでなくても北部生まれの僕を知っている人は、このあたりにはまずいない。もちろん、クロエ殿たちのようなことが起こらないとは限らないけれど……」
アルセイス貴族の血を引くクロエ、ノエルの姉妹は、国を出てから五年以上経った状況で身元を突き止められ、騒動に巻き込まれた。
同様に、カールハインツ・フォン・ベルンシュタインの顔と素性を知る何者かがドレイクにおり、カイの正体が露見してしまう可能性は否定できない。
しかし。
「知られてしまっても、それはそれで構わないと思うよ」
カイはあっけらかんと笑った。
「どのみち、インが帝国に踏み出せば、どうしたって僕のことは知られてしまう。早いか遅いかの違いだよ。ただ、アト殿は僕とはまた事情が違うから――」
カイが言葉を濁らせると、インは小さく肩をすくめた。
「そのあたりは直接本人に訊いてみるとしよう。ちょうどこの後に予定もあることだしな」
「予定?」
不思議そうに訊ねてくるカイに、インは昼間の一件を説明する。
シュシュの秘薬について訊きたいといってきたアトの行動を知ったカイは、一度だけ小さくうなずいた。
「そうなんだ。踏ん切りをつける時だと思ったんだろうね」
「さあな、それはどうか知らん」
素っ気ない物言いをするインをみて、カイは罪のない好奇心をのぞかせた。
「前から気になっていたのだけれど」
「なんだ、いきなり?」
怪訝そうに眉をひそめるイン。
そのインの前に、カイは一つの問いを投げかけてみた。
「インはアト殿のことをどう思っているんだい?」
唐突の感をぬぐえない問いかけに対し、インは特に迷うでもなくあっさり応じた。
「戦力としては使える。性格は面倒だが貴重。そんなところか」
そう言うと、インはめずらしく楽しげに笑いだした。思った以上に自分の言葉がツボにはまったらしい。
「そう、貴重だな。俺に面と向かって『殺すな』なんて言える奴は。だからこそ面倒でもあるわけだが」
アトのように己の意見をぶつけてくる相手は嫌いではない、とインは言う。
むろん、意見をぶつけることと押し付けることは似て非なるものだ、とわきまえていることが大前提である。また、アトのようにそのあたりをわきまえた相手に対しても、意見の内容如何によっては怒りをかきたてられることもある。いつぞやのように。
だいたい、現状に満足している者は意見をぶつけてくる必要もないわけで、そのあたりがインをして面倒といわしめた理由だった。
だが、それを理由としてアトを遠ざける気にならないのは、やはりアトの人柄に対して良い感情を抱いているからなのだろう。
「その意味では、嫌いではないというより好みだといった方が正確か」
「ふむふむ。たとえばの話だけど、アト殿がクロエ殿のように敵に捕まってしまったらどうする?」
「それはもちろん、好みの女が捕まったら助けるに決まってるだろうが」
何を当たり前のことを、とインが呆れていると、カイは何を思ったのか、莞爾とした笑みを浮かべてうなずいた。
「ありがとう、イン。色々と参考になったよ」
「それはよかった――で、何の参考にしたんだ?」
一拍置いて半眼で訊ねたインに対し、カイは人差し指を立て、それを唇にあててからにこやかに言った。
「それはもちろん内緒だよ」
なにやら上機嫌な様子の腹心を見て、インは深々とため息を吐いた。なんと悪辣な顔だ、と内心でげんなりしながら。
◆◆
同じ頃、訓練場ではアトとキルの二人が向かい合って刃を交えていた。
二人の得物であるハルバードと大剣が激突する都度、宙空に小さな火花が咲き、アトの手に強い痺れが伝わってくる。
今のアトは板金鎧を身につけておらず、もっぱらキルの攻撃を受け止めることに注力しているのだが、それだけでもみるみる体力が削られていくのがわかってしまう。
強い、と。
紅狼と呼ばれる少女を前にして、アトは今さらながらにそう思った。
鋭い擦過音が立て続けに鳴り響き、宙に火花が咲き乱れる。
夜の訓練場は松明の明かりで照らされているが、照明として十分とは言いがたい。
その薄闇の中、キルの湖水色の瞳は対峙するアトを見据えて微動だにしていなかった。わずかな隙も見逃すまいと爛々と輝く眼光は、獲物を前にした肉食獣のようである。
アトとしては、自分が買って出たのは稽古の相手であって決闘の相手ではなかったはず、との思いを禁じえないのだが、どうやら昼間インにしてやられた記憶をひきずっているらしいキルは、いつもより戦意過多の状態であるようだった。
こんな状態で稽古を続けるのは危険である。
これが並の相手であれば一声かけて落ち着かせるところなのだが、キル相手にそれをやっても効果はあまり望めそうもない。ヘタをすると、アトが口を開いた途端、それを隙と見て取って突進してくるかもしれない。
そう考えたアトはハルバードを握る両手に力を込めた。
今のキルを落ち着かせるには、たぶん全力で相手をするのが一番の近道だろう。そう考えたのである。
――それからしばし後。
アトとキルの二人は訓練場の片隅で並んで座り込んでいた。ぜいはあと荒い息をつくアトの額には玉のような汗が浮き上がっており、汗は頬を伝ってあごに流れ、そこから滴となって地面にこぼれて訓練場の土を湿らせていた。
誰がどう見ても疲れきっているアトの隣では、キルがこちらも似たような状態になっていたが、アトと違うのはそこはかとない満足感を漂わせていることだ。
この点、キルを落ち着かせるという目的を果たすことはできたようである――アトはそう考え、ほっと安堵の息を吐こうとして、げほげほと咳き込んだ。目的を果たせたのは喜ばしいが、代償として自分の体力を根こそぎ奪われたのは計算外だった。
「……え、えっと、キルちゃん。この後、イン様と戦うんだよね? 大丈夫?」
「ん、問題ない」
水がなみなみと満ちた木の杯――訓練を見ていた兵の一人に頼んで持ってきてもらった――をおいしそうに飲み干しながら、キルはそう答える。
無理をしている様子はまったくなく、この場にインが現れれば、すぐにでも大剣を持って立ち上がりそうな雰囲気である。
そんなキルを見るアトの表情に影が差した。
「キルちゃんは、その……」
ためらいを振り払い、アトは問いを続ける。
「何のために、戦っているの?」
「何の、ため?」
不思議そうにこてんと首を傾けたキルを見て、アトはもう少し噛み砕いて訊ねることにした。
「えっと、何か欲しいものとか、したいこととか、あるのかなって思って」
「インを殺したい」
アトの問いに対し、キルは悩む素振りも見せずに答えを返してくる。
その返答の早さにひやりとしたものを感じたアトは、キルの望みの底にあるものを確認すべく、もう一歩踏み込んでみることにした。
「その……それは、お父様の仇だから?」
再度の問いかけに、キルはふるふるとかぶりを振る。
「殺したいから殺す。それだけ」
キルの口調はごくごく自然なものだった。
今のキルを見ていると、食べたいから食べる、眠りたいから眠る、そんな当たり前のことを話していると錯覚しそうになる。
その自然さに、アトは薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
眼前の少女に向けた感情ではない。アトが感じたおぞましさは、この少女の人格を形作った境遇に向けられている。もっといえば、キルにその境遇を与えた誰かに。
もともと、アトはキルのような幼い少女が戦いを生業としていること――生業にできるだけの力量が備わっていることに疑問を覚えていた。これはアトだけの疑問ではなく、緋賊に加わっている者のほとんどが同じ疑問を抱えていることだろう。
これまでアトがその疑問に触れようとしなかったのは、それがきわめて繊細な問題であることが明白だったからである。他人が軽い気持ちで訊ねていいことではない、と考えていたのだ。
シュシュの秘薬について断片的な知識を得てから、その考えはより強固なものになっていた。
シュシュの秘薬は人を人ならざるものにかえる、とカイは言っていた。
脳裏によみがえるのはラーカルト邸の地下で見たリムカの兄の姿。妹であるリムカを襲い、その血肉を貪ろうとした狂態だ。
その狂態の原因であるシュシュの秘薬が、以前セーデでつくられていた、と口にしたのは他ならぬキルである。
本来、ありえるはずのないキルの身体能力。インに殺されたというキルの父ヴォルフラム。父を殺されながら、インと行動を共にするキル。シュシュの秘薬を目の敵にするインとカイ。
そして、今しがたのキルの言動。
――考えれば考えるほどに、アトの背筋を得体のしれない寒気が這いまわる。おぞましい、どろりとしたものを感じずにはいられない。そこにあるのはおそらく、目を閉じ、耳を塞ぎ、鼻をつまみたくなる『何か』だった。
「アト」
「……な、なに、キルちゃん?」
最小限の短い呼びかけで考えを中断させられたアトは慌ててキルに応じる。
そのアトの顔に何を見たのか、キルはすっくと立ち上がると、やはり最小限の言葉で意思を伝えてきた。
「いこ」
「え、あ、キルちゃん、どこへ?」
キルは少しの間を置いてから、後ろに続くアトに答えた。
「インのとこ」
二人がインの部屋に招じ入れられたとき、室内にはインの他にカイの姿もあった。おそらく今後のことについて話し合っていたのだろう。
「イン、そろそろいい?」
キルが昼間の再戦を望むと、インはちらとカイに視線を向けた。カイは小さくうなずき、これ以上重要な話がないことを伝える。
「ああ、待たせたな」
それを確認したインは椅子から立ち上がり、いつもの棍棒に手を伸ばした。
しかし。
「――イン。そっちがいい」
そういってキルが指差した先には、アトにとっては見慣れない剣が置かれていた。キルの大剣に比べれば細身であるが、長さにおいては凌いでいる重量級の両手剣だ。
キルの言葉を聞いたインの黒い瞳に鋭い光がよぎり、カイは驚いたように青い双眸を見開いている。アトは二人の反応の意味をはかりかね、目を瞬かせた。
インは自分を見上げるキルと、その後ろで戸惑っているアトを交互に見やった後、何か感じるところがあったのか、反問することなくうなずいた。
「そうか。まあ、ちょうどいいと言えばちょうどいい。手に慣らしておこうと思っていたところだ」
そう言うと、インは棍棒ではなく両手剣の柄を握った。
そして、長大なその剣をいかにも慣れた仕草で肩に担ぐ。剣を手に慣らしたいと口にしていたが、見る者が見ればその必要がないことはすぐにわかるだろう。
インは明らかにこの剣の扱いに習熟していた。愛用している棍棒とおなじか、あるいはそれ以上に。
「カイ」
「うん、訓練場には近づかないように、だね。皆に伝えてくるよ」
「頼む」
インがうなずくと、カイはアトたちに軽く会釈をしてから足早に部屋を出て行った。
相変わらず状況が掴めないアトは、困惑顔でインに話しかける。
「あの、イン様。人払いをするなら、私も……?」
「いや、お前はかまわない。今さら何を見たところで、浮き足だったりはしないだろうからな」
それはつまり、アト以外の人間が見れば浮き足だつようなことをする、ということである。
戸惑うアトをよそに、キルは早く行こうとせがむようにインの服の裾を掴んだ。
◆◆
そうして、アトとキルは、インを連れて再び訓練場へと戻ってきた。
もともと時間が時間だっただけに、アトたち以外に利用していた者は少数しかおらず、その彼らもすでに姿を消している。
閑散とした空間を照らす松明の光は先ほどよりも弱まっているが、もうしばらくはもちそうだ。松明一本でも貴重な物資であることにかわりはなく、無駄遣いは慎まなければならない。
なにより、これから剣を交える二人はどちらも暗闇を苦にしない人間だった。
訓練場の中央で向かい合う二人を、アトは当惑をぬぐいきれない目で見つめていた。
キルは愛用の大剣を、インは長大な両手剣を、それぞれ構えている。松明に照らされた大剣の剣身は無骨な鋼鉄の輝きを放ち、対する両手剣の剣身は水晶のような鋭利な光を発していた。
キルのそれはすでに見慣れていたが、インが両手剣を扱うのを見るのははじめてのこと。自然、アトの注意はそちらに向けられた。
業物であることは一目瞭然だった。
アトは名剣と呼ばれる武器を何度か見たことがあったが、これほど澄んだ輝きを目にしたことはほとんどない。鉄を鍛えたというより、宝石を磨いてつくられたかのようだ。さらに目をこらせば、剣身が燃えさかる炎のように波打っていることがわかる。
アトはこの形状を持つ剣の名前を知っていた。
フラムベルク――炎を冠する両手剣である。
通常、精緻な細工が施された武器は実戦には不向きであり、儀礼用、装飾用に用いられることが多いが、キルが使用を望み、インが用いることを決めた武器が実戦に不向きであるはずがない。
波状の刃は肉を抉り、傷を拡げ、治療を困難にする。血泥にまみれた剣によって切り裂かれることで病魔が入り込むことも多く、死よりなお甚だしき苦痛を与える武器としてフラムベルクを忌避する者も多い。
キルはどうしてそんな剣を訓練に持ち出してほしいと言い出したのか。アトの胸中にそんな疑念が湧き上がったときだった。
「…………ぁぁァァァ」
小さなうなり声がアトの耳朶を揺らした。
低く、重く、薄闇の空間に不気味に響き渡る音の連なり。強いて近しい響きをあげるなら、猛獣の威嚇だろうか。
それはゆっくりと、それでいて確実に大きくなっていき、五つ数える頃にはアトにも声の主が判別できた。
キルである。
キルの口許には笑みが浮かんでいた。
にたり、と。三日月の形に口を捻じ曲げて、キルは笑っていた。
何かに興じるでもなく、誰かを嘲るでもなく、ただ滴り落ちる殺意だけを宿した壊れた笑み。
「ああ、あああぁアアア、ア、アア……」
笑みの形に曲がった口から、なおもキルはしゃがれた声を発し続ける。
意図してのことか、あるいは勝手に口から漏れ出しているだけなのか分からないが、いずれにせよ、キルの声は他者の心胆を寒からしめるおぞましい響きを帯びていた。
「キ、キルちゃん……ッ!?」
豹変した――豹変したとしか思われないキルの変化を目の当たりにして、アトは思わず声を高める。
そんなアトの声をかき消すように。
「ああああァアアァァアアアアアアアアアアアッ!!」
キルの口から咆哮が轟いた。
と、同時にその身体が跳ねるように後方に跳んだ。
疾走を前にした四足の猛獣のように、ほとんど四つんばいになって地面に伏せるキル。唯一、大剣を握る右手だけは地面から離れており、強く握り締められた大剣の柄からはミシミシと悲鳴のような異音がこぼれている。
キルが顔をあげた。
湖水色の瞳は鈍い光に覆われ、惑乱したように瞬いている。
三日月の形を保っていた口許は今や大きく開かれ、両端からはヨダレが垂れている。
それはもう、アトの知るキルではなかった。
アトの知らなかったキルの素顔だった。
セーデの紅狼ヴォルフラムの子。
うまれ落ちたその瞬間から――否、うまれ落ちる前からシュシュの秘薬に浸され続けた、毒の娘。
その身体が弾けるように前方に飛び出した。動きとしては昼間の訓練の時とかわらない。だが、奔流のごとき殺意の量は比較のしようがない。
緋賊の本拠が大きく揺れた。




