第三章 セーデの紅狼(四)
ガギンッと。
つい先ほどと似たような異音がフレデリク邸の庭に響く。紅金騎士の一人を地面に這わせたインが、もう一人、縁石をぶつけた方の騎士をなぎ倒した音だった。
もともと投石の影響でふらついていたその騎士は、棍棒による一撃を側頭部にくらって声もなく崩れ落ちる。
二人の紅金騎士を見下ろしたインは、棍棒を肩に担ぎながら呟いた。
「頑丈だな。一人二人ならなんとでもなるが、数が増えると棒では面倒そうだ」
重甲冑相手に棍棒だけでは限界がある。インは左手に鉄鎖を、靴には短剣を忍ばせているが、いずれも重装備の騎士、それも多数が相手では効果的とは言いがたい武器だ。
そのことを確認したインは視線を転じ、なにやら呆然としているリムカを見やる。
焦点のあわない目でぽかんと口を開けている相手の頬を無言ではたくと、パチンと小気味良い音が響いた。もちろん、叩かれた当人は小気味良いなどとは思わなかったが。
頬をおさえたリムカの瞳に、徐々に光が戻り始める。
「ちょ……な、え……? な、なんであんたがここに……?」
「端的にいえば、お前を助けに来た」
「…………は? なんでわたしがあんたに助けられなきゃ……そ、そもそも、あんたにわたしを助ける理由なんてないでしょう?」
「理由なら二つばかりあるが、まあそのあたりはここを出てからでいいだろう。正直、間に合ったのはただの偶然だ。ぐずぐずしていると面倒なことになる」
フクロウの店でシュタール軍による王国派議員襲撃の可能性を知ったインは、真っ先に標的にされるのがフレデリク邸であろうと推察してここまでやってきた。
騎士団に攻囲されている最中とはいえ、一度は訪れたことのある場所だ、侵入することは難しくなかったが、さすがに誰がどこにいるかまでは分からない。
そこに先刻の侍女の叫び声が聞こえてきて――そうして今にいたる。
ここまで来たことが無駄骨にならなかったのは重畳だが、のんびり話しこんでいる暇はない。
そのインの言葉にリムカは無愛想にうなずいた。
冷静になって考えれば、状況が依然厳しいままであることはわかる。ここでしつこく騒ぎ立てるほどリムカは子供ではないが、かといってこれまでの経緯を一瞬で忘却する器用さも持ち合わせておらず、その上で自分がまた助けてもらったという事実を認識してもいた。
その結果が今の表情に結びついている。恩知らずな振る舞いをしていることはわかっていたが、どうしても感情が理性の制御を受け付けない。
――結局、子供ってことなのかしらね。
ままならない己の感情をもてあましたリムカは小さくため息を吐いた。
ふと気がつけば手も足も自由に動く。紅金騎士を前にして感じていた恐怖は、唐突すぎるインの登場によって吹き飛ばされてしまったようであった。
◆◆
フレデリク・ゲドの邸宅から火の手があがるのを見たドムスは眉間に深い縦皺を刻んだ。その表情は兜に隠れて配下の目に映らなかったが、発した声の不機嫌さは隠しようがない。
「馬鹿者が。火を放つのは敵の首級を確認してからだ、と命じておいたであろう」
ドムスは自分の得物である鎚矛の石突部分をドン、と勢いよく地面に打ち付けた。
それを見た配下のひとりが意見を口にする。
「屋敷の人間が最早これまでと判断し、みずから火を放ったのではありますまいか?」
「評議員などといえば聞こえはいいが、しょせん利にさとい商人の輩だろう。彼奴らがいさぎよく敗北を認めるとは思えん。仮に火を放ったのがフレデリクであったとしたら、それは死ぬための行いではなく、生き延びたことを隠すためのものであろうよ」
邸宅が焼け落ちてしまえば死者の確認は難しくなる。その上で地下水路にでも逃げ込んでしまえばフレデリク・ゲドは死んだということになり、シュタール軍の追及を阻むことができるだろう。
もっとも、ドムスはカロッサ伯を通じて地下水路に関する情報を得ており、そちらにも兵を配している。したがって、仮にフレデリクが地下水路に逃げ込んだとしても目的を果たすことは不可能だった。
フレデリクが独自につくった抜け道、などというものがあれば話はかわってくるのだが――
「あるかないかも分からないものを案じていても仕方ない。ただちに火を消しとめるよう、中の部隊に伝えよ。水路の部隊にも伝令を送れ。標的が脱出する恐れがある、これまで以上に警戒せよ、とな」
「かしこまりました!」
走り去る配下と入れ替わるように別の配下が姿を見せた。粗末な身なりをしたその男は紅金騎士ではなく、ドムスが放っていた密偵のひとりである。
密偵がもたらした新たな報告は眼前のフレデリク邸に関するものではなく、ホロッカ区の西方にある貧民窟に関するものであった。
「セーデの賊どもは動いていないか」
「は! こちらの騒ぎは伝わっているようで、多少住民に混乱が見られるとのことですが、それ以外は常のごとく変わりなし、と」
「ふむ」
報告を聞いたドムスは何やら考え込む。
それを見た騎士のひとりが怪訝そうな声をあげた。
「閣下、なにゆえスラムの犯罪者ごときをそこまで気にかけるのですか?」
紅金騎士団の総数は二万人。団長であるルドラの下には二名の将軍と二十人の千騎長が配されており、ドムスら千騎長は将軍に準じる扱いを受けていた。今回のドムスのように、将軍と同等の権限を与えられて任務に赴くこともある。名にしおう五鋼騎士団の千騎長ともなれば、その影響力はそこらの貴族、将官の比ではない。
その千騎長であるところのドムスが、ドレイクに到着してからというもの、妙にセーデ区のことを気にかけている。配下の騎士はそのことを訝しく思っていたのである。
その騎士はさらに続けた。
「確かにスラムの賊どもはラーカルト卿の死に責任ありということになっておりますが、たかだか数十人の野盗に帝国貴族が討たれるはずもなし、おそらくはラーカルト卿に敵対する評議員の工作で罪をなすりつけられただけでありましょう。仮に彼奴らにかけられた疑いが事実であったとしても、中隊の一つも差し向ければ済む相手ではありませんか」
そうすれば、一刻もかからずにスラムごと掃討することもできる。そんな相手の動向をいちいち注視する必要はあるまい。
その配下の進言は、おおむね他の騎士たちの疑問を代弁するものであった。
それに対し、ドムスはギロリと配下を睨んだ。兜の下からのぞく勁烈な眼光をまともに浴びて、進言した騎士は身体をかたくする。
「猟犬は常に目を見開き、耳を澄まし、鼻を働かせていなければならぬ。それをせずに獲物を選り好みする猟犬など、役立たずとして処分されても文句はいえまい?」
紅金騎士団といえば、シュタール帝国では誰知らぬ者とてない戦闘集団であるが、実態はといえば、帝国宰相ダヤン侯爵に全権を掌握された掃除屋に過ぎない。極端な話、百の戦に勝とうとも、宰相の機嫌を一つ損ねるだけで団長以下の指揮官たちは更迭されてしまう。
緋賊が取るに足らない相手であっても――いや、取るに足らない相手であるからこそ、そんな連中相手の失態は宰相の不興を招くことになるだろう。
「古来より、相手を侮って良い結果を得たためしは一つもない。密偵のひとりふたりを放つのが何ほどの手間だというのだ」
ドムスの言わんとすることを正確に理解した配下の騎士は慌てて頭を垂れた。急な動きに甲冑が軋むような音をたてる。
「申しわけございません! 浅慮でございましたッ」
「わかればよい」
かしこまる配下に対し、ドムスはそれ以上言葉を重ねようとはしなかった。
それを見た周囲の騎士たちは内心安堵したのだが、実のところ、このときのドムスは少しばかり不正直であった。
配下の言動に驕りを感じ、これをたしなめようとしたことは事実である。緋賊の動向を気にかけているのも嘘ではない。
だが、それは緋賊を一個の敵手として認めてのことではなく、緋賊に捕らわれたと思われる知己を案じてのことだった。
――ヘルミーネと、その子供が生きているとすれば、おそらくセーデにいるであろう。
ドムスの脳裏に浮かぶのは、十二、三歳の、いかにも大人しやかな少女の姿だった。最後にその姿を見たのはもう八年近く前のこと。二十歳を越えた今ではもっと大人びているに違いないが、ドムスは今のヘルミーネの姿を知らない。
このことからもわかるように、ドムスとヘルミーネ――ラーカルトの妻であったヘルミーネ・グリーベルとのつながりはきわめて薄い。ドムスと交友関係にあったのはヘルミーネの父親である先代のグリーベル子爵であった。
ドムスは先代グリーベル子爵と戦場で轡を並べたことがあり、互いの家をおとずれては酒を酌み交わす仲であった。そのおり、ヘルミーネと言葉を交わしたこともある。
ただ、その関係はドムスが紅金騎士団に入った頃から途絶えがちになり、先代の死去と共に完全に断たれてしまった。おそらくヘルミーネはドムスのことを覚えていないだろう。
ただ、ドムスの方は先代が亡くなってからというもの、友の忘れ形見を何かと気にかけてきた。
ヘルミーネの夫であるラーカルトは何かと黒い噂が絶えない男だったが、ドムスは「あの子爵が選んだ婿なのだから」とその噂を笑い飛ばし、ヘルミーネの懐妊と出産を知ったときは「これで先代も安堵できよう」と我が事のように喜んだ。
連絡をとらなかったのは、悪名高い紅金騎士と関わりがあると知られたら先方の迷惑になる、と遠慮したためである。
そんな折、ラーカルト死去の報が届けられた。それも病死や事故死ではなく、賊徒に自邸を襲われた末の戦死であり、妻子の行方も知れないという。
今回のドレイク出陣に際し、ドムスが指揮官に選ばれたのは団長であるルドラの決断であったが、そこにドムス自身の希望がなかったわけではない。
緋賊の公開処刑からラーカルト襲撃の流れを見れば、一連の襲撃の犯人は噂どおり緋賊である可能性が高い。となれば、ヘルミーネらが連れ去られたのは彼らの本拠であるセーデということになる。
しかし、緋賊に関する情報は不確かなものが多く、セーデが彼らの拠点であるという話も明確な証拠があがっているわけではない。
従って、ドムスはこの事実を側近の騎士以外にはもらしていなかった。へたにカロッサ伯あたりの耳に入れば、即日セーデに兵を向けかねないという危惧もある。
今のドムスは伯爵から不審に思われない程度に情報をかき集めている最中だった。セーデに対する目配りもこの一環であり、フレデリク邸への放火を控えるよう命じたのも、この邸宅で緋賊やセーデに関する情報を得ることができるのではないか、という期待があったからである。
「……ヘルミーネはれっきとした帝国貴族の妻。その子は子爵家の正当な後継者。利用しようと思えばいくらでも利用できる身だ。連れ去ったのが誰であれ、あの母子を虐待するようなまねは、よもするまい」
危険を承知でシュタール貴族を襲うほどの人物なのだ、目先の欲につられて寄る辺なき母子をなぶるような真似はするまい。そんな、ある種の期待を込めてドムスは呟いたが、その顔はすぐに苦いもので覆われた。
今まさにフレデリク邸を血の海で染めている自分が何を都合のよいことを。そう自嘲したのである。
この時、ドムスが都合の良い期待をかけた人物は、炎上するフレデリク邸の中を闊歩しているところであったのだが、外から眺めているドムスにそれを知る術はない。
自身の懊悩に終止符を打つように、ドムスは再度、鎚矛を地面に突き立てた。
◆◆
「……一つ訊いていいかしら?」
リムカの押し殺した問いかけに、インは短くうなずいた。
「手短にな」
「……どうしてわたしたちは、わざわざ火をつけた屋敷に入り込んでいるの?」
そのリムカの言葉どおり、インたちは今、フレデリク邸の中にいた。
広い邸宅なので一瞬で炎に包まれることはないが、立ちこめた黒煙は天井を舐めるように屋敷中に広がりつつある。すでに火災の発生は邸宅内の全員が知るところであろう。
物陰に隠れたリムカは、こんなときでも騒ぎ立てることのない紅金騎士たちの様子を不気味そうに見やりながら、小声でインに問いかける。
答えはあっさりと返って来た。
「もちろん、ここから抜け出すためだ」
「……どう見たって、進んで追い詰められているようにしか見えないんだけど。火事の騒ぎにまぎれて逃げ出すのではなかったの?」
「俺とお前だけならそれでもいいんだがな。さすがに三人も四人も連れてシュタール軍の包囲を切り抜けるのは無理だ」
インはそう言って肩に担いだ人間を背負い直すと、ちらと後ろをかえりみた。
そこには顔を青くしているリムカと、同じく顔を青くしている二人の侍女がいる。インが背負っているのは、紅金騎士に斬り倒されたフレデリクの私兵だった。
まだ息はある。が、長くはないとインは判断していた。もとより助ける義理などない相手であり、置き捨てていったところで胸が痛むことはない。
それでもインがこうして私兵を運んでいるのは、そうしないと私兵の恋人であるらしい侍女が、ひいては他の二人がすぐに動こうとしなかったからであった。
要するにインは「お前たち全員を助けるために仕方なくやっていることだ」と言っているのである。
それがわかるリムカはわずかに口ごもった。
「それは、そうなんでしょうけど……でも、ここからどうやって逃げるのよ?」
「この手の屋敷には秘密の抜け道があるものだろう」
それを聞いたリムカは思わず傍らの二人の顔を見たが、侍女たちは声もなく首を横に振るばかり。
思わず声が低くなった。
「…………ない、みたいだけど?」
「他人が知っていたら秘密にならん。知っているのは主人と、せいぜい側近までだ」
インは勝手知ったる他人の家とばかりに、巧妙に紅金騎士を避けながら屋敷の主の部屋を目指している。リムカや侍女に道を訊かずにこれだけのことができるのは、先日の一件で邸宅のおおよその造りを把握したからであろう。
しかし、だからといって抜け道の類まで見つけられるものだろうか、とリムカは疑問に思った。リムカはともかく、何年も屋敷に勤めてきた侍女たちが知らない抜け道が、そう簡単に見つかるとは思えない。そして、抜け道が見つからなければ、リムカたちは火と煙にまかれて一巻の終わりなのである。
そんな疑念を感じ取ったのかどうか、インはさらに言葉を続けた。
「心配するな。少なくとも兵を伏せておくための隠し部屋はあった。隠し兵が主人の部屋の扉を使って出入りするわけがないから、兵士専用の出入り口は別に設けてあるはずだ。なにより、その手の細工が好きな奴なら抜け道もつくっているだろうさ」
シュタールの襲撃を受けてから、フレデリクやブリスの姿が見えないことも、それで説明がつく、とインは言う。
それを聞いたリムカは内心で驚いた。
どうやらインはあてずっぽうで行動しているわけではなく、自らの経験とリムカたちから聞いた話を総合した上で抜け道の存在を確信しているらしい。
そうと悟ったリムカは、そこから先は口を噤むことにした。インの言葉には確かな説得力があったし、リムカに脱出の妙案があるわけでもない。これ以上の確認は邪魔になるだけだと、そう考えた。
邸内に侵入した紅金騎士の大半は消火に当たっているらしく、フレデリクの部屋がある一画に紅い甲冑の姿はなかった。ただ、かわりに私兵とおぼしき亡骸がいくつか転がっていた。それが意味するところは、すでにこの一画も紅金騎士の襲撃を受けたということである。
私兵の亡骸を踏み越えてフレデリクの部屋に入ったインは、そこで予想どおりの光景を認め、目をすがめた。
インの視線の先には血だまりに倒れ伏している邸宅の主がいた。もう少し正確にいえば、邸宅の主と思われる死体があった。
どうして断言できないのかといえば、答えは簡単で、その亡骸は首から上がなかったのだ。
ただ、首はなくとも、この亡骸がフレデリクのものだと推測できる理由があった。
死体から漂ってくる悪臭がそれである。その臭いはカイが調合し、キルがフレデリクにぶっかけた例の香水であった。
「この臭い、確かにフレデリクか」
インはぐるりと室内を見渡す。
棚に置かれたままの調度品や、首から下の衣服を見るかぎり、フレデリクが激しく抵抗した様子はない。
護衛の私兵を残らず討ち取られ、もはやこれまでと観念して素直に帝国兵に首を差し出したのか。
そう考えて、インは首をかしげた。
いつかのフレデリクの言動を思い起こす。役者じみた振る舞いが妙に板についていたあの評議員が、せめて最後を潔くしよう、などと殊勝なことを考えるものだろうか。たしかに滅びの美学云々と言い出しても不思議ではない奇矯さを持った人物ではあったが。
そんなことを考えながら、インはこの部屋に招かれた際、兵士が飛び出してきた棚の前に立った。おそらく何らかの仕掛けが施してあるのだろうが、それを探っている暇はない。飾られていた調度品を棍棒の一振りで払い落とすと、無言で棍棒を棚と、その背後の壁に叩き付けた。
凍りついたように首なしの亡骸を凝視していたリムカらは、時ならぬ騒音を耳にしてびくりと肩を震わせると、慌ててインの方を見た。
彼女らが見たのは無残に壊れた棚と、手のひらほどの穴が穿たれた壁面だった。
インはさらに二度、三度と棍棒を壁に叩き付けて穴を拡げると、最後にとどめとばかりに前蹴りを放った。
鉄靴によって壁の穴は更に拡がり、人間ひとりが通りぬけられるほどの大きさとなった。見れば、穴の向こうにはかすかな明かりがともっている。松明なりランプなりが常備されているあたり、この部屋が日常的に使われていたことがうかがえる。
となれば、ますます別の出入り口がある可能性が高い。
それが外に繋がっていれば言うことはないし、邸内に繋がっていたとしても、身を潜めておく場所として使うことはできるだろう。
「いくぞ」
リムカたちに向けてそう言ったインは、返事も待たずに壁の向こうへ消えてしまう。
すぐにその後を追ったのは私兵の恋人だった侍女だ。迷いのない動きだったが、覚悟を決めたというわけではなく、インが背負った恋人の背をただ追いかけただけに過ぎないだろう。
リムカともうひとりの侍女は顔を見合わせた後、ややおっかなびっくりの体でインたちの後を追った。
はじめに侍女が、次いでリムカが隠し部屋に入っていく。
その途中、リムカは一度だけ背後を振り返ると、首のない死体に向けて深々と頭を下げた。
精一杯の感謝と弔意を込めた動作であった。
 




