第三章 セーデの紅狼(三)
少し時をさかのぼる。
フレデリク邸の一室で、リムカ・ハーゼは年下の侍女たちに見守られながら縫い物をしていた。
リムカの両親はドレイクで仕立て屋を営んでおり、両親の死後、店はリムカの兄が受け継いだ。幼い頃から家族の手伝いをしていたリムカは、こと針仕事に関してはそれなりに自信を持っている。
ほどなくして精緻な花の刺繍がほどこされた絹地が出来あがり、それを見た侍女たちの口から一斉に嘆声がもれた。
フレデリク邸で侍女をつとめるような少女たちは、皆それぞれに良い家の出なのだが、その彼女たちの目から見てもリムカの技量は素晴らしかったのである。
侍女たちはリムカの助言を受けながら自分たちの縫い物に精を出す。
緋賊の襲撃後から、リムカはこうして侍女――とくに自分より年下の女の子たちに針仕事の手ほどきをしていた。
ふとした拍子にリムカの腕を知った侍女たちから請われ、快く承諾したのだ。リムカとしても何か気を紛らわすことのできるものが欲しかった、という理由もあった。
ただ一人の肉親であった兄を殺され、生まれ育った店はラーカルトに差し押さえられた末に人手に渡ってしまった。
今のリムカに行くあてはない。そして、明確な目的も抱けずにいた。
この邸宅に駆け込んだ当初は兄の仇を討つという望みがあったが、日を経るにしたがってそれは曖昧なものになっていった。
リムカ欲しさに兄を罠にはめたラーカルトはすでに死んだ。その家族に対する復讐の念はもう残っていない。
直接兄を手にかけたインに対するわだかまりはあるが、そのインはリムカにとって命の恩人でもある。当初の激情が去ったリムカに、いつまでもインを仇として付け狙う粘性はなく、むしろ、これ以上あの人物に関わるとロクなことにならない、という確信めいた予感さえ抱いていた。
もちろんこれはリムカから見ての話であり、緋賊にしてみれば自分たちの情報を王国派に売り渡したリムカを見逃す理由はない。彼らはリムカの心情の変化など考慮せず、敵であるリムカの命を狙ってくるだろう――と、そんな風にリムカは考えていたのだが、先日の襲撃の際、インはリムカのことを見つけたにもかかわらず、何の手出しもしてこなかった。
リムカを殺す機会はいくらでもあった。特にインがキルと合流してからは、ブリスに邪魔されることなく命を奪うことができたはずである。
だが、リムカは今もこうして生きている。
それが意味するところは――
「わたしのことは眼中にないってことなんでしょうね」
休憩時間が終わった侍女たちが部屋から出て行った後、リムカはそんな言葉を呟いていた。
緋賊にとってはもうリムカの存在など取るに足らないものなのだろう。
であれば、もう彼らの襲撃をおそれる必要はない。
無為徒食の身であることに引け目を感じていたリムカは、あの襲撃以後、何度かこの邸宅から出て行く旨をブリスに伝えていた。
これに対してブリスは、もう少しドレイクの情勢が落ち着くのを待った方がよろしい、とやんわりと反対を唱え、リムカを邸宅に留めてきた。
リムカにとってはこれまで世話になってきた恩人の言葉であり、ないがしろにはできない。また、フレデリク邸を出ても行くあてがなく、生活費にも事欠く有様であるという散文的な事情もあった。
もっとも、これに関しては解決策がないわけではない。
リムカは腰に差していた小剣を鞘から抜き放ち、顔の前にかざした。視界に映る紅い刀身がルチル鋼という素材で出来たものであることを、今のリムカは知っている。
ブリスから教えてもらったところによれば、今はもう精錬、加工の技術が失われてしまった金属で、この小剣一本で金貨数千枚の価値はあるという。
捨て値で売っても金貨の百枚や二百枚は手にはいるだろう。リムカ一人では一生かかっても使いきれない大金であり、当面の生活費どころか、人手にわたってしまった店を取り戻す資金さえ得ることができる。
兄の形見だといって渡された小剣だが、兄の愛用の品というわけではなく、兄がラーカルトから奪った物なので愛着も何もない。むしろさっさと手放してしまいたいくらいだったが、ブリスから引き取ろうかと申し出られたとき、リムカは首を横に振っていた。
なんというか、この剣をお金に換えてしまうことは、誰かの思惑どおりに動くようで嫌だったのである。
これを売るくらいなら、世話になった礼としてブリスなりフレデリクなりに譲ってしまう方がずっといい。リムカはそう思い、実際にブリスにもそう言ったのだが、ブリスはブリスで、こんな逸品を無料で譲り受けるわけにはいきません、と生真面目に応じてきた。
結果、小剣は今もリムカの手許に残っている。
こんなことなら、あの時、あの場所に置いてくるべきだった、とリムカは少しばかり後悔していた。
「もういっそ、ここを出たらその足で返しにいこうかしらね」
ふと口をついて出た言葉は、思っていた以上にリムカの心を動かした。どのみち、いつまでもこのままというわけにはいかない。小剣を返して、助けてもらったことにもきちんと礼を言って、それからあらためて先のことを考えよう。リムカはそう結論づけた。
これからどんな生き方をしていくにせよ、それはリムカ自身が己に胸を張って誇れる形でなければ意味がないのだから。
シュタール軍の攻撃が始まったのは、それから間もなくのことであった。
◆◆
息をきらせて邸宅から走り出たリムカは、白百合の花が咲き乱れる花壇の陰に身をひそめた。リムカの傍らには顔見知りの侍女が二人いる。どちらもリムカより年下で、まだ十四、五歳というところだろう。
二人の顔は死人のように青ざめており、邸内から悲鳴や怒号が聞こえてくるたびにヒッと小さな悲鳴をあげ、カタカタと身体を震わせている。戦いとは無縁の少女たちにとって、突然に始まったシュタール軍の攻撃は悪夢としか思えないに違いない。
それは仕方ない、とリムカは思う。そもそもリムカだって平静なわけではない。たぶん、傍から見ればリムカも二人の侍女も似たり寄ったりの様相だろう。それでも、少なくとも侍女たちよりはリムカの方が落ち着きを保っていた。
「年の功ってやつかしらね」
他人が口にすれば許さなかっただろうが、自分に対してならそんな軽口を叩くこともできる。
リムカは周囲に視線を配った。
これがただの悪夢であれば目が覚めるのを待っていれば済む。しかし、あいにくこれは悪夢のような現実であり、黙ってじっとしていれば危難の方から去ってくれると考えるのは危険だった。
紅い甲冑をまとった襲撃者たちは、女子供であろうと容赦しないという意思を行動で示している。助かりたければ、自分の足で逃げ出すしかない。
だが――
「リ、リムカさん……外に出るなら、向こうに行かない、と……」
侍女の一人が震える声で裏門がある方向を指す。さすがにこの状況で正門から出て行くのは無謀だということは理解しているらしい。
ただ、リムカはこの言葉にうなずかなかった。女子供も皆殺し。そんな手段に出てくる敵が外に通じる門をおさえていないはずがない。
――それに、あの紅い鎧が紅金騎士団だとしたら……
リムカはそれを思って表情を暗くする。仕立て屋の娘であるリムカは軍事に興味を持ったことなど一度もないが、ラーカルトの傍にいた折、あの子爵がしたり顔で帝国軍について話していたことは覚えていた。
その際、帝国宰相の子飼いである紅い騎士団の話についても耳にしている。ラーカルトにしてみれば、宰相ほどの大物とつながっている自分自身を誇りたい気持ちがあったのだろう。
猟犬と仇名される紅金騎士団の残虐な振る舞いについても、この時に聞いていた。
むざむざ門から出て行けば、待ち構えていた騎士団によって殺されてしまうだろう。
かといって、このままここに留まっていてもいずれ見つかってしまう。邸内の掃討を終えた騎士団は、順序として次にリムカたちが隠れ潜む庭に目を向けるだろうから。
どうする、とリムカは額に汗をにじませた。
「ブルタニアス様は、どちらにいらっしゃるのでしょうか……? あの方ならきっと何とかしてくださると思うのですけど……」
もう一人の侍女がブリスのことを口にする。
その声にはブリスへの憧れと信頼が感じられたが、リムカはこれにも答えなかった。
先刻からブリスの姿はどこにも見えない。リムカたちはここに来るまでに何人かの侍女や兵士を見かけたが、その時にもブリスの長身はどこにも見当たらなかった。
見当たらないのはブリスだけでなく、当主であるフレデリクも、である。
今まさに邸宅が攻められているという時に、当主とその側近の姿が見当たらないとなれば、すでに逃げ出したと考えるのが妥当だろう。
リムカはあの二人に恩を感じているが、神聖視しているわけではなかったから、すでにその結論に思い至っている。今、彼らを頼りにすべきではないとリムカは考えていた。
その時、一際激しい剣戟の音がリムカたちの耳朶を打った。
慌ててそちらを見れば、フレデリクの私兵の一人が、二人の紅金騎士を相手どりながら邸外にまろび出てくるところだった。相手どるというよりは、一方的に追い立てられて、といった方が正確かもしれない。私兵の顔は苦痛で歪んでおり、その目には絶望の影がちらついている。
と、その私兵の顔を見た侍女のひとりが小さく悲鳴をあげた。
そのまま立ち上がって相手の名を叫ぶ。リムカが止める暇もない、一瞬の出来事だった。
時ならぬ呼びかけを受け、私兵は思わずという感じでリムカたちの方を振り向いた。
その顔に驚きが、次いで喜びが浮かびあがる。どうやら二人は知り合い――というより恋人であったらしい。
そして、それらの感情は一瞬後に絶望に塗りつぶされた。
紅金騎士に追い詰められている自分。紅金騎士に見つかってしまった恋人。その現実に思い至ったのであろう。
私兵の口が大きく開きかける。おそらく逃げろと叫ぼうとしたのだろうが、その声が実際に発されることはなかった。
紅金騎士の一人が無言で剣を振り下ろし、振るわれた刃は狙い違わず私兵の身体を斜めに切り裂いた。一瞬の間をおいて、肩から背中にかけて刻まれた傷口から血が噴きだす。
その光景を目の当たりにしてしまった侍女が悲痛な叫びをあげた。
「い……いやッ! いやああああああッ!?」
激情にまかせて恋人に駆け寄ろうとする侍女を、リムカたちは慌てて押さえ込もうとした。このまま駆け寄っても騎士たちに斬り殺されるだけ。そのことは火を見るより明らかであったからだ。
しかし、目の前で恋人を斬り倒された少女に理性的な判断が望めるはずもなく、その侍女は泣き叫びながらリムカたちに抗った。小さな身体のどこにそんな力があるのか、二人がかりの拘束さえはねのけてしまいそうな勢いだった。
「落ち着き、なさい……ッ」
リムカは必死に相手の身体を押さえつけながら呼びかけたが、その言葉が通じないことを理解してもいた。
と、不意に侍女の抵抗がやみ、力の抜けた身体がガクリと崩れ落ちた。リムカが驚いて倒れた侍女の顔を覗き込むと、侍女はきつく目を閉じた姿で、小さなうめきをあげている。狂乱の果てに気を失ったのだろう。
そうこうしている間にも、二人の紅金騎士は無言でリムカたちに迫って来ている。彼らの鎧には元の色とは異なる赤の色彩がへばりついており、それに気づいたリムカは咽喉が干上がるような感覚を覚えた。
もう一人の侍女も騎士たちの接近に気づいたらしく、短い悲鳴があがる。
その悲鳴を聞いたリムカは咄嗟に決断した。
「あなたは、早く逃げなさい!」
いいながら、件の小剣を抜き放つ。
このままでは三人とも殺される。かといって、気を失った年下の女の子を見捨てて逃げるなんて出来はしない。そんな思考の末に導き出された結論だった。
「……で、ですが……」
「早く!」
リムカの声に込められた叱咤の響きに打たれたように、侍女はその場から駆け出した。
近づいてくる騎士たちに小剣を向けるリムカ。
その切っ先は細かく震えていた。
リムカは家族や友人から勝ち気だ負けず嫌いだといわれて育ってきた。リムカ当人も、自分がそういった性格であることは否定しない。
だから、もしここで騎士たちが嘲笑の一つでも発してくれれば、なにくそという気持ちを奮い立たせることもできただろう。リムカにとっては思い出したくもない記憶だが、いっそラーカルトのように欲望をあらわにして襲いかかってくれれば、まだ動きようもあった。恐れよりも怒りをかきたてて、せめて一矢なりと報いてやると考えることもできたかもしれない。
しかし、リムカたちの一連の行動を鉄兜の下からじっと見ていた紅金騎士たちは、まったく感情を動かした様子がない。
彼らに慈悲はなく、嗜虐もなく、もしかしたら殺意さえないのかもしれない。そんな風にも思う。庭に生えた雑草を刈り取るとき、鎌に殺意を込める人間がいないように。
つまり、リムカたちは彼らにとって雑草だ。ただ生きているだけで、邪魔と判断されて刈り倒される。
頭に来る。なんて理不尽。
けれど、実際にそんな相手と向かい合ってみれば、感情の大半を占めるのは怒りではなく恐れだった。
紅金騎士にとって感情を排した冷静さは訓練と実戦経験の賜物であるが、戦場を知らないリムカにその機微は理解できない。兜で顔を隠した紅金騎士たちは、冷静に、機械的に、ただ人を殺すためだけに存在する鎧人形、そういったものにしか見えなかった。
理解できない物は、ただそれだけで恐怖をかきたてる。まして向こうの目的が自分の命にあると分かっていれば尚のこと恐ろしい。
リムカ・ハーゼにとって今の状況は明らかに手に余るものだった。
リムカは思う。あの時、感情のおもむくままにフレデリク邸に駆け込んでしまった結果が今日の事態なのだとしたら、きっとあの行動は間違っていたのだろう。
しかし。
なら、あの時にどう行動すれば正解だったのだろう?
白百合の花が咲き乱れる花壇に、キン、と澄んだ音が響き渡る。
紅金騎士が剣を一閃させ、リムカの手から小剣を叩き落した音だ。一矢報いる可能性すら奪いとった上で、騎士は再度剣を振りかざし、リムカの頸部めがけて強烈な斬撃を送り込んだ。女性の細首など一撃で叩き落とせる威力を秘めた攻撃に、リムカはろくに反応すらできない。
見開いたリムカの目に映ったのは、紅金騎士ののっぺりとした兜と、その隙間から此方をのぞく細い両眼だけ。
その光景を見た瞬間、リムカの脳裏に浮かんだのはグリーベル邸での出来事だった。理性を失った兄に襲われた時の光景が、何故か目の前のそれに重なって見える。
ああ、自分は死ぬのだな、と。
迫り来る剣閃を前にして、リムカは一瞬後の自分の運命を受け容れていた。
それは突然の出来事だった。
ガゴンッと。
思わず首をすくめてしまいそうな重々しい異音が鳴り響き、今まさにリムカの首を斬りおとそうとしていた紅金騎士の兜が、わりとシャレにならない勢いで大きく揺れた。
その拍子に剣の軌道が乱れ、リムカの首筋に薄皮一枚分の切り傷が付けられる。
「……ぐ、ぁッ!?」
突然、頭部に重い衝撃を受けた紅金騎士がたまらずに膝をついた。
見れば、その騎士の足元には子供の頭ほどもある石が転がっている。おそらくは花壇の縁石に使われていたものだろうが、今しがた響いた異音は、この石が騎士の兜に直撃した音のようだった。
紅金騎士の兜はそれと分かるくらい大きくへこんでおり、衝撃の強さを物語っている。この石を投じた者は手加減なしの全力だったに違いない。
リムカはゆっくりと振り向いた。死神の吐息を間近に感じたばかりで、うまく身体が動かず、意識もどこかぼんやりしている。自分がまだ生きている、という実感がまったく湧かない。
そんなリムカの視線の先に立っていたのは、見覚えのある黒髪の青年だった。状況としてはいつかの地下牢とまったく同じ。強いて違いをあげるなら、今日は青年の眉が赤く染まっていないことくらいだろう。
「ぎりぎり間に合った、といったところか」
誰にともなくそう呟いた後、インは棍棒を手に力強く地面を蹴る。
その先には、剣を抜いたもう一人の紅金騎士の姿がある。リムカにとっては恐怖と理不尽の象徴でしかなかった紅い甲冑、それがインとぶつかった瞬間、鞠か何かのように宙を飛ぶ。
リムカはわけもわからず、ただ眼前の光景を見つめることしかできなかった。




