第三章 セーデの紅狼(二)
ドレイクの大通りをそれて進むことしばし。昼なお暗い路地裏にその店はあった。
フクロウの店。名前の由来は単純なもので、店先に置いてある止まり木に一羽のフクロウがとまっているのである。店の名前だけではなく『闇商人フクロウ』の名前もここからきていた。
誰が近づいてもぴくりとも動かないこのフクロウ、実はただの剥製で、大きく見開かれた目にはめ込まれているのはガラス球だった。夜に店先を通りかかったら睨まれたとか、路地のネズミを襲っているところを見たとか、何故だか怪談じみた目撃談がたえないのだが、別に呪われた品というわけではない。おそらくそういった噂は、周辺の住民がこの店に対して抱いている心情のあらわれであったろう。
インはその剥製をちらと見やってから店内に入った。
カラン、というかわいた鈴の音が鳴ると、店の隅で何かを袋に詰めていた人物がインを見て声をあげる。
「あ、これはイン様! いらっしゃいませッ!」
元気よく挨拶をしてきたのは、キルとさしてかわらない年頃の少年だった。純真な人柄を示すように声は伸びやかであり、視線はまっすぐインに向けられている。
少年は作業を中断し、ぴょんと跳ねるようにたちあがると、インに向かって丁寧に頭を下げた。その姿はとても闇商人と呼ばれる人物には見えなかったが、それも当然といえば当然の話で、この少年は店の主であるフクロウの使用人なのである。フクロウは取引相手に顔を見せることはなく、店での取引はこの少年を通して行われるのが常であった。
インがフクロウと取引をするようになったのは二年ほど前からなのだが、実のところ、いまだ一度もフクロウの顔を見たことがない。話をするときは簾越しという徹底ぶりであった。
「例の件はどうなっている?」
「あ、はい! 御主人さまから承っております!」
少々お待ちください、と言い置いて少年――マリクが店の奥に姿を消す。
ほどなくして戻ってきたとき、マリクの手には一枚の地図が握られていた。
「こちらです。その、御主人さまが仰るには、ヒルス山脈の南側のふもとに位置する岩と石ばかりの不毛の地だ、とのことです……街道から離れているため交易にも不便で、およそ発展する余地などないだろう、とも仰っていましたが……」
そういうと、マリクは恐る恐るといった風にインを見上げた。こんな土地を紹介したりして、インが怒りださないかと不安になっているのがありありと見てとれる。
しかし、インはマリクの予測に反して怒気を見せず、それどころか満足そうにうなずいた。
「おあつらえ向きだ。高い仲介料を払った甲斐がある」
そういった後、インはマリクに問いかけた。
「シュタールの伯爵が来てから商人は窮屈な思いをしていると聞いているが、よく大金の絡む土地の取引をまとめられたな?」
「あ、それはですね、その土地の管理主はウズ教会なんです。いかにカロッサ伯爵閣下といえど、代々シュタール皇家が信仰するウズ教会の活動に口を挟むことはできませんから」
主人の手腕を誇るようにマリクは笑顔になった。
それを聞いて、インはふむとうなずいた。
土地を所有できるのは国王でなければ教会である。フクロウはカロッサ伯が関与しにくい後者の伝手をつかって、短期間で取引をまとめあげたのだろう。
主神ウズの教会ともなれば仲介役にも相応の格を求めてくるはずだが、そのあたりの審査を簡単にくぐりぬけるあたり、流石というべき辣腕であった。
と、ここで不意にインの顔に怪訝そうな表情が浮かんだ。
一拍の間を置いて、マリクも同じ表情になる。
二人の耳に飛び込んできたのは、遠くから響いてくる喊声だった。耳を澄ませば、剣と剣が打ち交わされる剣戟の音や、誰のものとも知れない悲鳴まで聞こえてくる。
この店からはだいぶ離れているようだが、それでも音の発生源は間違いなくドレイクの中だ。喊声は今なお途切れることなく続いており、騒ぎが一時的なものではないことを告げていた。
マリクが呟くように言う。
「この音はホロッカ区の方から……?」
ドレイクの中心地区の名を口にした少年の顔がさっと青ざめた。
「いけない! 御主人さまが心配なさっていたカロッサ伯による王国派議員の排除がもう始まってしまったのかもしれません! イン様、申し訳ありませんが今日は店じまいにさせていただきますッ」
「こちらの用件は済んだ。構わないさ」
頭を下げるマリクにそういうと、インはさっさとフクロウの店を後にする。
店を出たインのすぐ背後で錠を下ろす音がした。やや遅れて、なにやらガタガタと重い物をひきずる音が響いてきたのは、おそらく扉のところにバリケードを築いているのだろう。騒ぎに乗じた略奪騒ぎを警戒しているようだ。
バリケードといっても、マリクの体格では置ける物に限度があるが、主であるフクロウの評判を考えれば、店内に毒だの隠し矢だのの仕掛けがあっても驚くには足りない。
一瞬、件の剥製が周囲を警戒して目を光らせたように見えたが、たぶんこれはインの気のせいだろう。
外に出ると、よりはっきり騒ぎの音を聞き取ることができた。マリクが口にしていたとおり、ホロッカ区の方角からだ。
異変に気づいた周辺の住民が戸外に出て不安げにざわめいている。そのざわめきを縫うように大通りに戻ったインは、そこでも人々が不安そうに立ち騒ぐ姿を目にした。
混乱する大通りを眺めながら何事か考え込む様子を見せていたインは、それからすぐに意を決したように歩きはじめた。ホロッカ区から離れようとする人の波に逆らい、騒動の中心に向かって。
◆◆
「まったく。カロッサ伯め、実直そうに見えて存外に人が悪い。ドルレアク公の腹心として、悪名の衣を他者にかぶせる程度の才覚は備えているということか」
紅金騎士団の象徴ともいえる深紅の重甲冑を身につけたドムスは、赤い鉄兜の下で忌々しげに呟いた。
ドムスはずんぐりとした体格をした壮年の騎士で、周囲に控える部下たちよりも頭一つ分背が低い。そのかわり、がっしりとした筋肉で覆われた身体は頑強そのものであり、手足の太さはあたかも丸太のようであった。
この太い両腕から繰り出される巨大な鎚矛の一撃は、重甲冑の防御さえたやすく打ち砕く。
紅金騎士団千騎長ドムス・エンデ。
ドレイクに入城した紅金騎士団を束ねるこの人物は、現在、カロッサ伯の要請に従ってホロッカ区にある王国派評議員フレデリク・ゲドの邸宅を攻囲しているところであった。
邸内に立てこもっているフレデリクの私兵は数十人。対する紅金騎士団は一千人。勝敗の行方は誰の目にも明らかであり、そして、半ばなぶり殺しに等しい戦闘を紅金騎士団に行わせたカロッサ伯の意図もまた明白であった。少なくとも、ドムスはそう考えていた。
「わしらに邪魔者の始末を押し付ければ、己の部隊に損害は出ぬ。武力を用いたことにドレイク市民の非難が集まれば、責任は紅金騎士団にありと言いぬける。そんなところであろうな」
もともと紅金騎士団の悪名は帝国の内外に鳴り響いている。カロッサ伯は――というよりドルレアク公爵は、ドレイクの支配権を確立するために紅金騎士団を利用しつくす腹なのだろう。
忌々しいことだ、とドムスは思う。
軍制上、紅金騎士団は皇帝直属であり、皇帝が幼年である現在は宰相であるダヤン侯爵の命令で動いている。したがって、ドルレアク公やその配下であるカロッサ伯の指図に従う理由はない。
――そのはずだったのだが、今回はその宰相がドレイクにおける作戦指揮の権限をドルレアク公に与えてしまった。団長であるルドラからも、ドレイクでの作戦行動はすべてカロッサ伯の指示を仰ぐように、との命令が出ている。
紅金騎士にとって団長ルドラ・エンデの命令は絶対だ。それは団長と同じ家名を持つドムスとて例外ではない。どれだけ業腹であろうとも、忠実にカロッサ伯の手足になるより他なかった。
ただ、彼らの手足となるにしても、頭まで凍りつかせる必要はない。
これまでドルレアク公は、内政自治権を持つドレイクを直接統治しようと目論んできた。そして、その公爵を掣肘してきたのは他ならぬダヤン宰相であった。
その宰相が急に方針を転換してドルレアク公に迎合したのは何故なのか。
これが譲歩なのだとすれば、かわりに宰相はドルレアク公から何を引き出そうとしているのか。
ドムスには一つの懸念がある。
繰り返すが、ドルレアク公とカロッサ伯が紅金騎士団を利用してドレイクを統治しようとしていることは明らかだ。ダヤン侯はそんな彼らの思惑を承知した上で、その彼らを餌としてアルセイス王国を引き出そうとしているのではないか。
それがドムスの抱く懸念の内容だった。
この状況でアルセイス王国が出てくれば、ドルレアク公はせっかく手に入れたドレイクを守るために公爵家の総力をあげて防戦するに違いない。
いかにドルレアク家がシュタール屈指の大貴族といえど、大陸七覇の一角であるアルセイス王国相手では分が悪い。ダヤン侯は労せずして政敵の力をそぎ落とすことができるわけだ。
ドルレアク公が敗れれば、ドレイクはアルセイス王国に奪われることになる。しかし、ダヤン侯としては別にそうなってもかまわないという腹なのだろう。アルシャート要塞をかためておけば帝国本土への侵入を阻止することはできるし、ドレイク陥落の責任を追及することで、ドルレアク公の領地や権勢を削ることができるからだ。
シュタール帝国はドレイクを失うが、ダヤン侯の所領と権勢はかえって増大する。
反対に、ドルレアク公がドレイクを守りきったとしても問題はない。たとえ勝っても、アルセイス軍相手に戦えばドルレアク公も無傷ではすまない。その上、今後も自由都市の存在はドルレアク公爵とアルセイス王国が衝突する火種になりつづける。
時に、持たざることは持つことに優る場合があるが、ドルレアク公にとってドレイクはまさにそういった類のものであった。いや、もっと正確にいえば、ダヤン侯がそうなるように仕向けたのだろう。
もしかすると、すでにアルセイスの方にも何らかの手を打っているやも知れぬ……
「申し上げます! 正門の破壊に成功いたしました!」
あらぬ方向にそれかけたドムスの思考を断ち切ったのはその報告だった。
即座に我に返ったドムスは、予定していた作戦を口にする。
「よし、第一、第二中隊はそのまま邸内の制圧にあたれ。第三中隊はこれを援護。他の部隊は引き続き包囲を続行する。邸内にいる者たちは降伏勧告を拒絶した。死をもって主への忠義を貫かんとする者どもに敬意を表し、彼奴らの望みどおり冥府へ送ってやれ。女子供といえど容赦する必要はない!」
「は、かしこまりましたッ!」
紅金騎士団にとって殲滅戦はいつものことだった。情け容赦のない戦いぶりから猟犬の異名をとる深紅の騎士たちは、相手が敵であれば、それが兵士か否かなど気にかけない。ただ命令のままに踏み潰すのみである。
――だからこの時も、いつ誰が降伏勧告の使者にたったのか、などと口にする者はいなかった。
同型の赤い鉄兜で顔を覆った紅金騎士たちは、酷烈な命令に抗議の声一つあげることなく黙々と動き出す。
その様は猟犬というよりも、生ける鎧――神話に登場する、死した騎士たちの怨念を宿した亡者のように見えた。
◆◆
同じ頃、フレデリク・ゲドは表情を険しくして側近であるブリス・ブルタニアスを睨んでいた。
先の緋賊との抗争において無断で評議会の兵を動かし、なおかつセーデの制圧に失敗したフレデリクの声望は評議会内部で急速に失墜しており、さらにオリオールの姉妹を緋賊に奪い取られたことでアルセイス王国からの支持も失いつつあった。
そんなフレデリクに見切りをつけて邸宅を去る者も多く、残っている者たちの士気も高いとはいえない。
紅金騎士団の襲撃はそんな状況で行われたのだ。シュタール兵は虎が卵の殻を踏み砕くにも似た容易さで邸宅の守りを突破し、邸内に突入してきた。
フレデリクは声を震わせてブリスを叱責する。
「ブリス君、いったいどうなっているのかね!? 私が表に出られない間、邸宅の外のことは君に任せるといっておいたはずだよ。シュタール軍が動くことに気づかなかったというのであれば、大いなる手落ちといわざるをえないッ」
戦いの喧騒はすでにフレデリクの部屋まで届いている。ときおり聞こえてくる絹を裂くような悲鳴は、敵兵の手にかかった侍女たちの断末魔であろう。
その声に焦燥をかきたてられながら、フレデリクは声高にブリスを詰問した。その身体から鼻をつまみたくなる異臭が漂ってくるのは、先日の緋賊襲撃の名残である。
主人の叱責を受けたブリスは長身を折るように頭を下げた。柔らかい金色の髪がフレデリクの視界で揺れる。
その仕草はこれまでどおり恭しいものだったが、口をついて出た言葉はあまり恭しくはなかった。
「閣下、こたびのことは手落ちではございません。シュタール軍が動くことはあらかじめ分かっておりました」
「……なんと? それはどういう意味だ、ブリス君!?」
「そのままの意味である、とお考えください。あわせて、この身は本日限りをもって閣下のもとを辞させていただくことをお伝えしておきます」
フレデリクと袂を分かつ、とこれ以上ないほど明快に告げるブリス。
アルセイス王国から遣わされて来たブリスがフレデリクのもとを離れるというのであれば、その意味するところは一つしかない。
フレデリクは栗色の口ヒゲをしごきながら口を開く。いつもどおりの仕草であったが、ヒゲに伸びた指先はかすかに震えていた。
「アルセイスは……いや、テオドール将軍は私を見限った、ということかね? ただ一度の失敗をもって、これまでの貢献すべてを忘れると?」
「いいえ、閣下。テオドール将軍はただ一度の失敗をもって他者を切り捨てる方ではございません」
以前、ブリスの前でテオドールは笑いながら言っていた。
失敗するのは仕方ない。人の身であれば百戦百勝とはいかないものだ。俺とて平民から成り上がるまでには失敗も誤断もあった、と。
そう、失敗するのは仕方ない。
だからテオドールが重視するのは、失敗した後にその人物がどう行動するか、その点である。
失敗を糧として進むことができる人物か否か。
アルセイス王国第三将軍テオドール・フルーリーは、他者の器量をはかる際にそれを物差しの一つとしていた。
ブリスは言う。
「我らが緋賊にしてやられたことは事実ですが、彼らの拠点は明らかなのですから、報復の手段はいくらでもありました。そのことは幾度も申し上げたはずです。しかし、閣下は私の進言を容れようとはなさらず、それどころか、この重要な時期に悪臭を理由として自邸に閉じこもってしまわれた。そのような人物と共に大事を謀ることはできぬ、とテオドール将軍はお考えです」
「……私は用済みということか。帝国の動静を隠していたのは、彼らの手で私を葬るため。だとすれば、かのラーカルトの死が帝国軍を引き出す名分となったように、私の死をもってアルセイス軍出陣の名分とする気だね? そして、その策の成功をもって、私と共に緋賊にしてやられた君の汚名返上は成る。そんなところだろう?」
「……お察しのとおりです」
ブリスはごまかすことなく頷いた。
その顔に動揺がないわけではない。今日までフレデリクを盛り立ててきた身として、ブリスも今の状況に思うところはあるのだ。
それでも私情をもってテオドールの策をかき乱すことはできなかった。
テオドールの寛大さは無尽蔵のものではない。一度の失敗で部下を見捨てることはしないが、二度続けて失敗した無能者には相応の罰が下される。
今が瀬戸際であるという意味では、ブリスもフレデリクと同じ立場に立っているのである。
何度目のことか、侍女の悲鳴が室内に響き、すぐにぶつりと途切れた。
紅金騎士は邸内にいる者たちに対し、等しく同じ行動をとっている。剣で斬り倒し、槍で突き伏せ、メイスで殴り飛ばす。それが兵であれ、侍女であれ、彼らの行動はいささかもかわらない。
むごいといえばむごいが、余計な責め苦を味あわせない分、情けをかけているといえないこともないだろう。むろん、わけもわからずに殺されていく侍女たちにとっては、何の救いにもならない情けであるが。
フレデリクは眉根を寄せた。
「……侍女の中にはアルセイス出身の者も多い。君が面倒を見ていたリムカ嬢もいる。彼女たちも名分を得るための犠牲とする気かね?」
「帝国領で無辜の同胞の血が流された――その事実はアルセイス兵の士気をおおいに高めるでしょう。また、ドレイク市民であるリムカ嬢の死は、シュタール軍の残忍さをより強く市民の心に刻みつけることになります」
シュタール帝国に対する反感は、アルセイス王国への支持に結びつく。紅金騎士団の容赦ない戦いぶりが際立つほど、テオドールにとってはやりやすくなるのだ。
それを聞いたフレデリクは、厭わしそうにかぶりを振ってブリスを睨みつけた。
「計算ずくで女性を死に追いやるか。ブリス君、私は君のことを高く評価していたのだが、どうやら買いかぶりであったようだね。今の君からは一片の優雅さも高貴さも感じられない。偉大なるアルセイスの騎士として恥じるべきだ」
「……お言葉、肝に銘じておきましょう」
ここでもブリスは相手の非難に言葉を返そうとせず、静かにうなずくだけだった。今さらフレデリクに反論する必要はないと割り切っているのか、それとも反論の余地がなかっただけなのか。
かつての主人と側近は立場をかえて対峙する。
紅金騎士団の足音はすぐそこまで迫っていた。




