第二章 アルセイスの少女(八)
「――ふむ、リッカがそのようなことを、のう」
セッシュウが眉間にしわを寄せて腕を組む。
インとクロエの会話とほぼ同じ時刻、セッシュウは義理の娘にあたるスズハ・カクラと言葉を交わしていた。
話の内容は孫のリッカについて。セッシュウが気にかけたのは、リッカが頭目であるインに対して何やら思うところがある様子だったことだ。
この席でセッシュウはスズハの口を通し、先日リッカとアトとの間で交わされた会話を知るにいたる。
セッシュウは嘆ずるように言った。
「リッカはよくできた子であるが、それに少々甘えておったかな」
「……そうかもしれません。私や、ツキノの前では無理をして気丈に振る舞っていたようです」
スズハがそっとうつむくと、伸びた前髪が整った眉目を覆い隠した。
十五の時にカクラ家に嫁いできたスズハは、三児の母でありながら年齢はいまだ三十に達していない。穏やかで控えめな性格で、常に夫を立てることを忘れず、義父であるセッシュウにも孝養を尽くしてきた。
カクラ家の財政における奥方の化粧料や服飾費は、同格他家に比べると十分の一にも達しない。もしかすると百分の一にも達しなかったかもしれない。そういう女性であった。
賢婦人といってよいスズハであるが、それは家族を愛し、子供たちのすこやかな成長を望むゆえの賢明さであって、戦いだの謀略だのといった方面にはまったく通じていない。
庶民であったスズハはセッシュウの息子に見初められてカクラ家に入った。いってしまえば、ごくごく普通の女性、普通の母親だ。
そんなスズハであるから、セーデでの多事多端な生活は気の休まる暇がなかった。そちらに懸命になるばかりで、娘の無理に気づいてやれなかった自分を、スズハは責めずにはいられなかった。
そんなスズハにセッシュウは穏やかに語りかける。
「そう自分を責めるものではない。リッカの無理に気づいてやれなかったのはわしも同じゆえ。それに、無理というならスズハこそ無理をしておらぬか?」
セッシュウは心配そうにスズハを見る。
カクラ家に嫁いだゆえに戦で夫を殺され、故国を滅ぼされ、自分と娘たちは奴隷として異国へと連れ去られ、ついには貧民窟で野盗に混じって生活を送ることを余儀なくされている義理の娘。
知らず、セッシュウはため息をついていた。
無理をしていないか、というのは愚問だった。
無理をしていないはずがないのだから。
――しかし。
そんなセッシュウに対し、スズハは柔らかく微笑みかける。
「私は大丈夫です、お義父さま。お義父さまこそご無理をなさらないでくださいね。私も娘たちも、行方が知れないサクヤのことを心から案じています。そして、サクヤと同じくらいお義父さまのことを案じてもいます。そのこと、どうか忘れないでくださいませ」
どれだけ若く見えようと、セッシュウはすでに五十の坂を越えている。その年齢で、どこにいるかもわからないサクヤを捜して大陸各地を駆けまわっているのだ。セッシュウに向けた、どうかご自愛を、という言葉はほとんどスズハの口癖となっていた。
それを聞いたセッシュウは大声で笑おうとして、慌てて口をおさえた。孫二人が寝ていることを思い出したのだ。
「――うぉっほん。なに、心配せんでよい。まだ老人扱いされるほど衰えてはおらんよ。それはさておき、リッカのことをいかがするべきか。緋賊を抜けたいと申せば、主殿は認めてくださろうが……」
インは去る者を追う性格ではない。セッシュウたちが抜けたいといえば、応じてくれるだろう。
だがその場合、当然この本拠からは出て行かねばならない。ツキノに対する治療も打ち切られるだろう。インは慈善活動をしているわけではないのだから。
むろん、セッシュウがいれば、セーデから出てもスズハたちを養っていくことはできるが、カイのように親身で、かつ幅広い知識を持つ薬師はそうそういるものではない。くわえて、サクヤを捜すために遠出することも難しくなってくる。
一度、スズハたちを故郷に連れて帰るという手もある。
しかし、今のツキノに旅をする体力はない。仮に帰れたところで故国はすでに滅びて久しく、カクラ家の家屋敷もとうに他人の手に渡っている。
となると、まず安心して暮らせる場所を探すことからはじめねばならない。その後でまた中央地域に戻って、となると何年かかることか。
やはり今、緋賊を抜けるのは得策とは言いがたい。せめてツキノが回復するまではここを離れるべきではなかった。
そこまで考えたセッシュウは、ぴしゃりと自分の額を叩く。
我ながらあまりに打算的な考えだ、と思ったのだ。孫をほぼ無償で治療してもらい、それが終わればさようなら――インから見れば忘恩の徒にしか見えないだろう。
しかし、娘や孫たちのことを考えるとこういう答えを出さざるを得ない。
であれば、自分は死に物狂いでインのために刀を振るわねばならぬ、とセッシュウは覚悟をあらたにした。
緋賊を離れるその日まで、インの求める二倍、否、三倍の働きをしてみせよう。そうしなければ、カクラの一族は恩義に報いる道さえ知らぬ、と生涯後ろ指を指されることになってしまう。
「問題は、その日までリッカに我慢を強いてしまうことか。リッカだけセーデの外に置く手もないではないが、やはりここは一度、きちんと話し合っておくべきであろうな」
セッシュウはそう言うと、スズハの方を見た。
こういう時、スズハは自分の考えを主張することなく家長の言葉に従容として従う。ただ、その顔を見ればおおよその考えはわかる。今回の場合、スズハの意見はセッシュウのそれとほぼ等しいようであった。
◆◆◆
明けて翌日、まだ東の空から日が昇りきっていない時刻。
早々に眠りからさめたインは、昨夜クロエと話した場所に立ち、眼下に広がるセーデの街並みを眺めていた。
早朝とはいえ、すでに起き出している住人もいるようだ。インの目に映るのは、今にも崩れそうな粗末な家々、みすぼらしい格好をした住人、汚物の浮かんだ小川、何のものとも知れない染みがこびりついた街路といった具合で、心が洗われる光景はどこにも見当たらない。
カイたちの手によって道の両脇に植えられた涼しげな草花が、見事なくらい街並みから浮き上がって見えた。
インから少し離れたところでは、こちらも早くに目を覚ましたキルが、両手でバランスを取りながら欄干の上に立っていた。
いかにキルが身軽とはいえ、足を滑らせて階下に落ちれば無傷では済まない高さなのだが、キルの顔には恐れも怯えもまったくない。かといって危険を楽しんでいるわけでもないようで、その表情はいつものようにとらえ所のないものだった。
ときおり吹き付けてくる強い風と戯れるように、ひょいひょいと欄干の上で足を動かす少女の姿は、気の弱い人間であれば正視することができないだろう。
セーデを見下ろし、キルを眺め、最後に雲ひとつない空を見上げる。
そうして、インは何事かを決意したように一つうなずくと踵を返した。
しばし後、主だった面子を自室に呼び集めたインは、開口一番言った。
土地を買う、と。
はじめに反応したのはいつもどおりカイだった。いきなりだね、というように苦笑していたが、アイデア自体は賛成らしく、小さくうなずきながら口を開く。
「良い考えだと思います。ドレイクの外に拠点があれば、そのぶん色々と動きやすくなりますから」
「ああ。後でフクロウのところに行ってくる」
インが口にしたのは、とある商人の通り名だった。正確を期するなら、商人という言葉の上に闇の一文字をつけた方がいいかもしれない。これまで緋賊が襲撃で得た戦利品は、主にこの人物を通して処分されていた。
むろん、商人が直接に土地を売買しているわけではない。仲介役を頼む、とインは言っているのである。
フクロウのことをよく知るゴズがしかめっ面になった。
「土地の代金より仲介料の方が高くなりかねませんぞ」
「かまわんさ。その分、売り物は吟味してくれるからな、あいつは。ま、今回にかぎっていえば、売り物があれば僥倖というところだが」
土地を買うとは、要するにその土地を開拓する権利を買うという意味であるが、開拓した土地が自分のものになるわけではない。基本的に土地を所有できるのはその国の王でなければ教会だけであり、自分が開拓した土地であっても税はとられる。騎士や貴族であれば、与えられた土地に不輸権(徴税拒否権)がついていることもあるが、そんな土地が民間で売買されることはありえないだろう。
しかも、すこし手をいれれば作物が実るような土地は大抵領主によって開拓が進められているため、金銭で購うことのできる土地の大半は作物が実らない痩せた土地か、あるいは敵国のすぐ近くか、いずれにせよ、土地の主が「開発する価値がない」と判断したところばかりだった。
そんな辺鄙な土地であっても、土地は土地。購入費用は非常に高く、買った後の開拓費用も別途必要になる。
これまでにもドレイクの外に拠点を設ける構想はあったのだが、それだけの資金がなかったために見送られてきた。
その構想をここでインが復活させた理由は、先日のグリーベル邸襲撃である。あの時に得た財貨を土地費用にあてよう、というのがインの考えだった。
「セーデが緋賊の拠点だと知られた今、事が起きるたびに女子供を避難させるのも手間だ。評議会に水路が塞がれる前に手を打っておく」
インの言葉に周囲は一斉にうなずいた。
このとき、もっとも熱心な様子を見せたのがセッシュウである。緋賊がセーデの外に拠点を構えるのなら、そちらにリッカを置けば、孫は血生臭い日常と距離を置くことができるかもしれない。
セッシュウが真剣な顔で訊ねた。
「主殿、セーデはどうなさる?」
「兵だけ残す。女子供は外、ゴズたちも開拓の人手として外だな。土地の場所によっては兵も必要になるだろうが、その場合でもセーデは捨てない」
インの脳裏に先ほど見たセーデの光景が浮かび上がる。
愛着など持ちようもない汚らしい街並みだ。先の支配者から奪っただけで、正式にインの土地になったわけでもない。
それでも、自分にとっての始まりはここセーデなのだと、そうイン自身が感じていた。離れる気にも、捨てる気にもなれない。
「ここに住んでいる連中にとっては迷惑な話だろうがな」
皮肉っぽく笑うインに対し、カイがかぶりを振った。
「そんなことはないと思いますよ。インに感謝している人もたくさんいますから。特に三年以上前からここで暮らしている人の中には、ですね」
「疎ましく思っている奴らも同じくらいいそうだが?」
「うん、それも否定しません」
しれっとした表情でうなずくカイを見て、ふん、とインは鼻で息を吐いた。
「半分が付いたのなら大したものか。まあいい。この話、今日明日で決まることではないが、途中で取りやめるつもりもない。皆には今のうちから準備させておけ」
一同は再びうなずいた。
リッカにとってこれ以上ない朗報だと感じたセッシュウとアトは喜色をのぞかせている。
インは二人の様子に気づいていたが、特に気にすることなく話を続けた。
「評議会の連中はセーデが緋賊の拠点であることを知った。パルジャフの動きに備えて警戒を厳重にする。特に水路だ」
ここでセッシュウが再び口を開いた。
「議長はオリオールの姉妹がここにいることを知っておるはずだが、それでも動く御仁かのう? 話を聞いたかぎり、あの姉妹に万一のことがあれば、アルセイスが黙っておらぬと思うが」
ドレイクを離れることが多いセッシュウは、評議会の面々に関する知識が十分ではないが、それでも聞き知っているところはある。そのセッシュウの目から見ると、パルジャフ・リンドガルは石橋を叩いて渡る人物だと映る。クロエたち姉妹の身命を危うくする挙に出るだろうか。
セッシュウの疑問にインは迷うことなく答えた。
「評議会にしてみれば、何をするかわからん賊にクロエたちの身柄を握られているよりは、自分たちの手で状況を動かした方がずっと対処しやすいだろう」
「ふむ。どういう形であれ、主導権を相手に握られるとやりにくい。それならばいっそ、ということですかな」
「そういうことだ。ま、実際に評議会が動くかどうかはわからないが、選択肢の一つとしてそれを考慮しない奴ではない。パルジャフに比べれば、ラーカルトやフレデリクはくみしやすい相手だ」
パルジャフは優れた行政処理能力を有し、交渉にも力を発揮する政治家だが、それだけの人物ではない。かつてドレイクを席巻しようとしたヴォルフラムに対し、パルジャフが真っ向から対抗しようとした事実をインは忘れていなかった。
「ふむふむ。リンドドレイク王国の末裔はなかなかに厄介な御仁のようじゃな」
セッシュウが締めくくるように言うと、カイが悪戯っぽく微笑んだ。
「パルジャフ議長がこの場にいたら、お前たちに厄介などと言われたくない、と眉を吊り上げることでしょうね」
その言葉を聞いた一同は、それぞれの性格にそった笑い声をあげた。
セッシュウが表情をあらためて口を開いたのは、それから少し経ってからのことである。
「さて、主殿。みなが会したこの場で一つ報告しておきたいことがありまする」
「なんだ?」
インが訊ねると、セッシュウは年齢に見合わない若々しい顔に気難しげな表情を浮かべて話を続けた。
「少々、帝国方面がきな臭くなっておるようなのです」
セッシュウが本来予定していた日に帰ってこられなかったことも、それに関わりがあるという。
インの目に興味の光が煌いた。
「皆も承知しておるとおり、わしは北のヒルス山脈をこえて帝国本土に行っておりました。あいにく孫の情報は空振りだったので、いつもどおり、あの山脈を穿つ唯一の道である『琥珀街道』をとおってドレイクに戻ってこようとしたのですが――」
ここでセッシュウは言葉を切り、琥珀街道を守るシュタール帝国最大級の軍事要塞の名前を口にする。
「アルシャート要塞で足止めされてしまいましてな。あの要塞は軍事拠点であると同時に、帝国本土から大陸南部へ抜ける南の玄関口でもある。旅人や商人が通り抜けるのはいつものことであるはずなのだが、いささか奇妙なほどに警戒が厳しくなっておったのです。足止めされたのはわしばかりでなく、護身用の武器を持つ者すべて――つまりはほぼ全員ですな。いまどき、護身の武器を持たぬまま街道を往来する者などおりませぬゆえ」
もともとアルシャートの帝国兵は愛想を母親の腹の中に置き忘れたような者ばかりなのだが、セッシュウが通ろうとした時はいつも以上にピリピリと殺気だっていたという。
シュタール帝国の南の要衝が緊張に包まれているのなら、その理由は軍事作戦が近いから――それ以外にありえない。
アルシャートに兵を差し向けることができる勢力はアルセイス王国ぐらいしか存在しないが、アルセイスが軍を動かしているなら、ドレイクに噂のひとつも届いているはずだ。
となれば事態は逆。
帝国は守るためではなく、攻めるためにアルシャートに兵を集めているのではないか。
標的はドレイク。名分は帝国貴族であったラーカルトが殺されたため――そういう風に考えることもできるが、しかし、これだと辻褄があわない部分が出てきてしまう。
インがその点を口にした。
「セッシュウが足止めを食らったのは公開処刑の前。まだラーカルトが生きていた頃だな」
そのとおり、とセッシュウはうなずいた。
「いかにも。あの時点で兵備を整えていたとすれば、帝国の狙いはドレイクの他にあったことになりまするが、それがどこかは残念ながら探り出せませなんだ。が、どういう形であれ、帝国の動きがわしらに関わってくるのは必定。そう思うたゆえ、この場で報告させてもらった次第」
セッシュウの話を聞き終えたインはあごに手をあて、問う眼差しをカイに向けた。
心得たカイが自分の推測を述べる。
「シュタール帝国では、今上帝の姉君にあたるアーデルハイト殿下が半年前に謀反の罪で処刑されました。その影響が各地に残っていて、帝国本土で兵を動かす事態が発生した可能性はあるでしょう。帝国で内戦が起これば、その隙をついてアルセイスが兵を動かす恐れがあります。それに備えて琥珀街道の監視を強め、アルシャートの守備兵を増員するのは帝国として当然の一手。セッシュウ殿は折悪しくそれに巻き込まれてしまったのかもしれません」
そういうと、カイは懸念を込めて続きを口にする。
「問題は、グリーベル子爵の横死を聞いた帝国軍がアルシャートの兵力の一部をドレイクに差し向けてくる恐れがあることですね」
ドレイクはシュタール帝国に属する自治都市であるが、実質的に独立した都市運営を行っている。近年ではフレデリクに代表される王国派、すなわちアルセイス王国の影響力も如実に強まってきている。
グリーベル子爵の事件を契機として、ドレイクにおける帝国の影響力をこれまで以上に強化する、あるいはいっそドレイクを直接統治下に置く。そんなことを企む者が出てきてもおかしくない。
いや、おかしくないどころか――
「俺なら間違いなくラーカルトの死をパルジャフの謀略と決め付け、兵を動かすだろうな」
インがいうと、カイはおとがいに手をあてて応じた。
「子爵の死からもうじき十日。インと同じことを考える人が帝国の上層部にいたとしたら、とっくに行動を起こしているでしょうね」
「帝国軍が乗り込んできて、評議会のかわりにセーデに攻めて来る、という展開もありえるわけか。それをアルセイスが黙ってみているはずもない。もしかすると本格的な戦いになるかもしれないな」
ドレイクの兵力は六千。これにシュタール軍が合流すると考えると、アルセイスとしても数万規模の動員は不可欠だろう。
先の襲撃で戦闘員の数が四十人を割った緋賊では介入のしようがない大戦だ。
そこまでいったインは、ここで小さく肩をすくめた。自分が先走ったことを口にしている自覚はあったのだ。
「ま、今そこまで考える必要もない。そういう可能性がある以上、パルジャフは俺たちどころではない、と考えることもできるしな。こちらはこちらで必要なことを済ませておこう」
具体的には引越しの準備である。
話はここまで、というようにインが立ち上がると、他の者たちも一斉に動き始めた。
インたちは知る由もなかったが、ちょうど同じ時刻、ドレイクの中心に位置する白亜の評議会館に足を踏み入れた一人の帝国貴族がいた。
カロッサ伯ウィルフリート。
シュタール帝国屈指の大貴族であるドルレアク公爵、その腹心をつとめる彼は、ラーカルト・グリーベル子爵の死の責任を追及するためにドレイクを訪れたところであった。
このカロッサ伯の登場により、ドレイクの情勢は大きく変化していく。それにともない、インたち緋賊を取り巻く状況もまた大きくかわっていくことになるのである。




