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僭王記  作者: 玉兎
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第二章 アルセイスの少女(五)


 突如、耳をつんざくような絶叫が響き渡り、クロエは思わず身を竦ませる。

 一度は静まったかに思われた階下の騒動は、その悲鳴を合図としたように再燃した。怒号、悲鳴、絶叫、苦悶。戦いの気配を色濃く宿した喧騒は広大な邸宅を揺り動かすように連続してわきあがり、途切れる気配もない。

 部屋の外からは、慌しく廊下を行き交う足音や、甲冑がこすれあう音、また切羽詰った様子で話している兵士たちの声が聞こえてくる。

 この屋敷が予期せぬ混乱に見舞われていることは、クロエならずとも察することができただろう。



 クロエが咄嗟に考えたのは、逃げ出す好機である、ということだった。しかし、実際に行動に移るまでには少しの時間を必要とした。

 鉄と鉄が打ちかわされる音はおそらく剣戟の響き。硝子が割れる音、扉が蹴破られる音を上書きするように、絶命した者の苦悶の声が聞こえてくる。

 足元の床ひとつを隔てた階下で戦闘が行われているのは明らかであり、この状況でためらいなく行動できるほどクロエは荒事に慣れていなかった。むしろ、かつての記憶が思い出されて、身体ばかりか心まで竦みそうになってしまう。



 それでも、クロエはそんな自分を叱咤するように頬を叩いた。そして、ともすれば震えそうになる膝に力を入れて立ち上がる。何もせずに震えていたところで、救いの手が差し伸べられることはない。そのことは五年前に思い知らされていた。



 扉越しに外の様子をうかがってみると、聞こえてくるのは遠くの騒音ばかりで、すぐ近くに人の気配は感じない。

 そっと扉をあけたクロエは素早く左右を確認し、自分の感覚が間違っていなかったことを知って、ほっと安堵の息を吐いた。

 ただ、問題はむしろここからだ。不用意に廊下を歩いていれば、すぐに誰かしらに見咎められてしまうだろう。

 下で騒ぎを起こしているのが誰かは知りようがないが、仮にも評議員の邸宅で騒動を起こす者たちが真っ当な人間であるはずがない。



 この時、クロエの頭に浮かび上がったのは、つい先日起きたグリーベル邸の襲撃事件だった。

 あの事件では、評議員であるラーカルトをはじめとして多数の人間が殺され、ラーカルトの妻妾は行方不明になったと聞いている。野盗が女子供を攫うとしたら、目的はごくごく限られる。

 もし今、この屋敷を襲った者たちが先日と同じ者たちであるのなら、彼らがクロエをどのように遇するかは考えるまでもない。

 そして、評議員宅に襲撃を仕掛ける人間がそうそういるはずもないことを考えれば、おそらく襲撃してきたのは同じ者たち――緋賊であろう。クロエはそう結論づけた。



 この状況は逃げ出す好機には違いなかったが、それは危険と紙一重のもの。行動したがために、かえって悲惨な目に遭うかもしれない。クロエはそのことを自分に言い聞かせたが、それでも行動を止める気にはならなかった。どのみち、ここで大人しくしていたところで、最終的には叛逆者の一族としてアルセイスに送られてしまうのだから。

 そっと静かな足取りで部屋を出る。

 フレデリクの邸宅は広くはあっても複雑ではない。砦ほどの規模はあっても、砦のように敵の侵入を前提としてつくられたものではないから、詳しい間取りを知らないクロエでも迷うことはなかった。

 戦闘は主に階下で行われているようで、クロエの視界に武器を持った者は映らない。幸運というべきだったが、その分、一階に降りる危険が思いやられた。先ほどは無理だと諦めたが、二階の窓から庭におりる方策を真剣に考えるべきかもしれない。




 と、その時だった。

 クロエが通り過ぎたばかりの部屋の扉がいきなり開かれ、中からクロエと同じ年頃の女性が顔をのぞかせた。

 クロエは知る由もなかったが、その女性はリムカだった。リムカもまた終わる気配の見えない混乱に耐えかねて、外の様子を確認しようとしたところであった。

 ぶつかりあう二つの視線。どちらがより驚いたのかは甲乙つけがたかったが、事情を察したのはリムカの方が早かった。クロエの顔は知らなかったが、一週間近くフレデリクの屋敷で起居しているリムカがはじめて見る女性、しかも格好からして使用人ではありえない。ここまで条件が揃えば、ブリスから事態の推移を聞いているリムカにとって、クロエの正体を察するのは難しいことではなかった。




「こっちに」

 部屋を出たリムカは、みずから先に立ってクロエを差し招く。

 階下へ降りる方法は幾つかあり、わざわざ騒ぎの中心に向かわずとも、侍女や使用人が利用する隅の階段を利用すればいい。そうした方が危険を避けることができるだろう。

 リムカとクロエはまったくの初対面であり、二人の間には恩も義理も存在しない。ここでクロエを逃がすということは、リムカをかくまい、緋賊を討とうとしてくれているフレデリクやブリスに対する背信であると見なされかねない。

 反面、襲撃してきた相手が緋賊なのであれば、目的のひとつはクロエに違いなく、クロエを逃がすことは緋賊の狙いを妨げることに繋がる。



 実のところ、リムカ自身、自分の行動の理由を掴みきれていない。

 単純に、リムカの行動ゆえに捕らえられてしまったクロエを、少しでも危険から遠ざけてあげたかったのかもしれないが、たぶん、衝動的に、という理由が一番正解に近かっただろう。

 いずれにせよ、クロエはリムカの先導にしたがって一階へ降りることができた。屋敷の使用人はすでにどこかへ避難したのか影さえ見えない。兵もほとんどは屋敷の奥に集まっているようで、襲撃者らしき姿も見当たらない。

 これならば案外簡単に外へ出られるかも、とリムカが考えた時だった。




「――リムカ嬢?」

 背後からかけられた聞きおぼえのある声に、思わずリムカは息をのむ。振り返ったリムカは、そこに予想たがわずブリス・ブルタニアスの顔を見出し、わずかに狼狽した。

 一方のブリスは、この場にリムカがいたことに驚いていたが、その背後にクロエの姿を認め、さらに慌てた様子のリムカを見て、おおよその事情を把握したようであった。その口からかすかなため息がこぼれたが、リムカに向けられた声は穏やかなものであった。



「クロエ様を賊の危険から遠ざけようとしてくださったか。本来はこちらで気を配らねばならないことです、申し訳ない」

「あ、いえ……」

 戸惑ったように目を伏せたリムカは、話をかえるため、そして状況を確かめるため、駆け寄ってきた長身の青年に問いを向けた。

「いま賊と聞こえましたが、やはり?」

「はい、緋賊です。しかし、ご安心ください。敵は少数、間もなく制圧することができるでしょう。ただ、賊の一人に包囲を抜けられてしまいまして、その行方を捜していたのです。広間の階段を守っていた者は無事でしたので、二階は安全でしょう。どうかお戻りを」

 やわらかく、それでいて拒否を許さない、重い口調だった。

 リムカに抗する術はなく、それはクロエもかわらない。ここで逃げ出したところで、すぐに追いつかれておしまいだろう。ブリスの言葉から、襲撃してきた相手が緋賊であることも確実となった。逃げた先で緋賊に捕まりでもすれば目もあてられない。




 少女たちがそれぞれの理由で逃走をあきらめかけたときだった。

 廊下の角から武装した兵士が姿を見せる。白で統一された武具はフレデリクの私兵であることの証。その兵士はすでに剣を抜き放っており、ブリスたちからは見えない位置に立つ敵と刃を交えているようだった。

 ブリスの姿に気がついた兵士が、焦燥もあらわにブリスを見る。

「ブリス様ッ! どうか助勢、を――ッ!?」

 途端、兵士の首に鈍色の紐のようなものが巻きつき、頸部を強く締め上げた。と、思う間もなく、その兵士はブリスたちの視界から消えた。敵の手で力任せに引き寄せられたのだろう。



 聞こえて来た制止の声は悲鳴のようで、ブリスは咄嗟に駆け出そうとする。

 だが、それが遅きに失したことは、兵士の声が唐突に途切れたことからも明らかであった。

 何かを刺し貫く鈍い音。わずかに遅れて、兵士が消えた角に敷かれた白のカーペットが、赤黒い何かによって染めかえられていく。

 やがて姿をあらわした相手を、ブリスは強い怒りを込めて睨みすえた。



「イン・アストラ。あのような少女に戦わせておいて、みずからはこんなところに逃げていたか。賊の名に相応しい下衆な振る舞いだ」

 嫌悪を込めて放たれた言葉に、インは薄笑いで応じた。

「賊を討つ口実欲しさに、年端もいかない子供を剣でセーデに追い立てた奴らが何をほざく。自らをかえりみて物を言え、フレデリクの飼い犬が」

 インの視線がブリスに向けられ、その後ろにいたリムカとクロエの姿を捉える。クロエは驚いたように大きく目を見開き、リムカは憎々しげに――それでいて奇妙に臆した様子で、視線をインの顔と床の間で往復させている。



「ふん、そういうことか」

 その様子を見たインは、事の顛末をおおよそ悟った。

 今のインは右手に兵士から奪った剣を持ち、左手から鉄鎖を垂らしている。いずれもすでに人血で赤く染まっており、そんな人物に見据えられたリムカは我知らず後ずさってしまう。

 そのリムカをかばうようにブリスが前に進み出た。

 ブリスの右手にはアルセイス王国で発明、発展したとされる細身の剣――レイピアが握られており、左手には回避を主な目的とした短剣が握られている。得物こそ違うが、互いに両手に武器を備えている格好であった。





 開始の合図はなかった。

 するすると進み出たインが無雑作に左腕を振るう。と、まるで生き物のように鎖がしなり、ブリスの頸部を襲った。

 これを断ち切るべく、ブリスは右手のレイピアを下から上へ、跳ね上げるように振るったが、寸前、インは左腕を繰って鎖を引き戻す。虚しく空を断つレイピア。その隙をついて踏み込んだインの勁烈な斬撃がブリスにたたきつけられる。

 瞬間、あたりに響いたのは奇妙に澄んだ擦過音であった。



 相手の斬撃にかぶせるように振るわれたブリスの短剣が、インの攻撃の軌道を巧妙に塗り替える。

 インの剣は何もない空間を切り裂き、そこにお返しとばかりにブリスの強烈な刺突が繰り出された。鎧をつけていないインの胸部を穿たんと迫りくるレイピアの切っ先を、インは左手で跳ね上げた。手首につけられた鉄の枷が防御の役割を果たし、切っ先は危ういところでインから逸れていく。

 インとブリスは、ほぼ同時に飛びすさって相手と距離を置いた。





 戦いなれない者の目には一瞬の交錯としか映らなかったであろう一連の攻防。

 クロエにせよ、リムカにせよ、戦いとは縁遠い少女たちであり、連続する剣戟の音に身を竦ませながら、ただただ見つめることしかできない。

 リムカは逃げ出すという判断を下すことができず、クロエにいたっては、どうしてインがこの場にいるのか、それさえ理解しておらず、立ち尽くすばかりだった。



 一方、剣を交えた者たちは相手の力量をはっきりと感じ取っていた。インは楽しげに口を開く。

「右手で刺突、左手で回避。重装、大剣が主流のシュタールでは見ない型だな。アルセイス貴族の戦闘術、しかもかなりの腕前だ。我流、というわけでもない」

 そう言うや、インは一歩、また一歩とブリスに近づいていく。一片のためらいも見せず、むしろ早く続きをやりたいと言わんばかりの態度であった。

「どうやら飼い犬は飼い犬でも、飼い主はアルセイスの宮廷にいるようだな? 察するに、クロエたちの素性を見抜いたのはお前か」

「――だとしたら、どうするというのだ、緋賊」

「もちろん、邪魔者は消すだけだ。後ろにいる奴への警告も含めてな」



 再び剣先が煌き、刀身が激しくぶつかりあう。

 斬る、突く、払う、薙ぐ、あらゆる攻撃が瞬きのうちに繰り出され、弾き返され、また繰り出され。そのたびに飛び散る火花はインとブリスの両眼を赤く浮き上がらせ、見つめる少女たちの視界を激しく焦がす。

 軋むような剣戟の連なりは終わりを見せず、勝敗の行方を見定めることは困難を極めるように思われた。



 ただ、この時点でブリスは半ば勝ちを確信していた。たしかに眼前の賊徒は手強い――ブリスの予想を越えて手強かったが、何もブリスひとりでこの相手をしとめる必要はない。ここはフレデリクの邸宅であり、私兵の数は十や二十ではないのだ。ここまで激しい戦いの音が誰の耳にも届かないことはありえず、すぐに兵士たちがやってくるだろう。そうなれば勝負は決まったも同然である。



 先刻、フレデリクの私室では、少女を囮としたインの奸策にはまって逃げられてしまったが、同じ手は二度と使わせない。

 一つ気がかりがあるとすれば、いまだ囮となった少女を捕らえたという報告が為されないことであった。インを追った後も戦いの騒音が消えることはなく、むしろ激しさを増している。

 まさか、十を幾つも越えていないような少女に、ブリスが手ずから鍛えた者たちが遅れをとるとは思えない。もしかすると、インとあの少女以外に別働隊がいるのかもしれない。ブリスはそんな推測さえ働かせていたのだが――




「……いた」

 そんな声と共に、インが現れた方向から件の少女が姿を見せた。

 その姿を見た瞬間、ブリスは思わず息をのんでしまう。少女の髪も服も、先にブリスが見た時とはまったく異なっていた。蜂蜜色の髪も、赤いケープも、別の色――鮮血の色に覆われている。いや、ケープの赤は同じといえないこともないが、ブリスが見たときはここまで毒々しい色合いはしていなかったはずだ。



 そんなブリスの驚愕などどこ吹く風とばかりに、キルは言葉を続けた。

「イン、苦戦中?」

「手強い敵であるのは間違いないな」

「なら、キルもやってみたい」

「いいぞ、と言いたいところだが、あまりのんびりとしてもいられない。目的の相手は見つけたから、やりあうのはまた今度だ」

「む、残念」

 すべて世は事もなし、といわんばかりのやり取りだった。全身を染め上げる量の血を浴びた少女が、厭うでもなく、猛るでもなく、狂うでもなく、ごく普通にインに話しかけ、インは平然とそれに応じている。

 その事実こそがもっとも恐ろしい、とブリスは思った。





 この少女を追っているはずの兵士が一向に姿を見せないのは、まさか全員が討たれたからではあるまいか。そんなことはありえないと思っても、血で染まった少女を見ていると、不吉な疑念は膨れ上がるばかりだった。

 今もポタポタと血を滴らせる髪の毛は、まるで血の色をしたずきんのようだ――と、みずから思い浮かべた言葉が、ブリスの記憶の一部を強烈に刺激した。



 かつてセーデ区を支配していた『紅狼』にはひとりの娘がいた。

 父と似た容姿を持ち、父と似た気性をした、父と似た戦闘狂。紅狼の名は、戦い終わって血に染まる姿から名づけられた名であったが、娘もまた同じ理由からその名で呼ばれることもあった。



「ヴォルフラムの娘。生きていたか」

 知らずそう呟いたブリスは、次の瞬間、咄嗟に剣を構えていた。インとキルの二人が同時に床を蹴り、ブリスに向かって殺到してきたからだ。

 インひとりの相手で手一杯の状況で、キルの相手ができるはずもない。

 ブリスは死を覚悟した。


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