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僭王記  作者: 玉兎
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第二章 アルセイスの少女(四)


『どうかこの邸宅を我が家と思ってくつろいでいただきたい』



 そんな台詞を残してフレデリク・ゲドが部屋を出ていく。

 その背を見送ったクロエは小さくため息を吐いた。ひとりになった室内に、その吐息はことのほか大きく響く。

 客室とおぼしき部屋を見渡せば、磨き上げられた調度が並べられ、窓辺には白百合の花が涼しげに飾られている。掃除も行き届いているようで、床には埃ひとつ落ちてなさそうだ。



 クロエの好みからすれば白が強調され過ぎているきらいがあるが、それでもこの部屋が賓客用の上等な部屋であることは疑いない。少なくとも、一介の妓女にあてがわれる部屋ではないだろう。

 クロエはそっと目を伏せた。



「オリオール伯爵令嬢、ね」



 それは先ほどフレデリクの口から出た言葉だ。

 妓館に踏み込んできた評議会の兵士の目的が自分だと知ったときから、予測もし、覚悟もしていたことである。しかし、それでも実際にその名を呼ばれてみると、胸奥からわきあがる苦い気分をおさえられない。

 香水の匂いを漂わせるあの評議員は、滅びた伯爵家の血に何を見ているのだろうか。



 クロエにとって唯一の救いは、妹のノエルが無事に逃げ延びたらしいことである。兵士が踏み込んできた際とっさに逃げるように言ったものの、詳しい指図をする時間はなく、逃げる先はノエルの才覚に委ねるしかなかった。

 もっとも、仮に時間があったとしても、この状況で頼りにできる相手の心当たりはまるでなかったのだが。



 相手は事実上のドレイクの支配者であり、逃げるあてのないノエルがいつまで追っ手から身を隠せるか分からない。

 相手の目的が伯爵家の血にある以上、仮に妹が捕まったとしてもひどい目に遭わされることはないだろうが、それはあくまで今だけのこと。アルセイス王国に送られれば、叛逆者の一族として処断される運命が待っている。



 それだけはなんとしても避けなければ、とクロエは静かに決意する。

 十二の時にアルセイス王国から逃げ出して、もうじき五年。身を売ってまで命を繋いできたのは、こんなところで果てるためではない。

 だが、そう思う一方で、この状況から抜け出す術がないことをクロエは自覚してもいた。

 無意識のうちに握り締めた両手が小さく震える。自らのあずかり知らないところで自らの運命が決められる理不尽が、否応なしに過去を想起させる。



 と、クロエはぶんぶんと大きくかぶりを振って、蘇りかけた過去の光景を振り払った。

 故郷を失った悲しみに耽ることは簡単だが、それでは何も変わらないし、変えられない――この五年間でクロエが学んだことの一つである。



 あふれかけた涙を気丈に拭った後、クロエは窓辺に歩み寄る。

 この部屋はフレデリク邸の二階に位置しており、窓からは庭園が一望できた。庭師とおぼしき初老の男性がゆっくりとした歩みで手入れを行っているほかは、見張りらしき人影はない。



「これを繋ぎ合わせれば、ここから降りられるかしら」



 窓のカーテンに手を置きながら、クロエはいつか妹が読んでいた物語の一場面を思い出していた。あの話では、たしか古城に幽閉されたお姫さまが、カーテンを繋ぎ合わせて窓から脱出していたはずだ。

 同じことが自分に出来るか、と自問してみる。

 答えはすぐに返って来た。



「……無理ね」



 アルセイスにいた頃、舞踏や馬術をたしなんでいたクロエは決して運動が苦手ではなく、むしろ身体を動かすのを好んでいたが、それはあくまで習い事のレベル。格別運動能力に秀でていたわけではない。まして妓館で数年を過ごした今の自分に、物語の登場人物のような振る舞いができるはずもなかった。



 無謀な行動に出て失敗した挙句、相手の警戒をかきたてては何にもならない。今のところは寛大に振る舞っているフレデリクが態度を変えるかもしれず、最悪の場合、その影響はノエルにまで及んでしまう。

 となれば、しばらくは大人しく相手に従い、従順さを印象づけておくべきだろう。逃げるとすれば、ドレイクからアルセイスへ向かう道中。都市の外であれば予期せぬ出来事も起こりえる。逃げ出す機会が訪れる可能性はゼロではないのだから。




 ひとまずそう心を決したクロエは知る由もなかった。

 待つまでもなく、機会がすぐそこまでやってきていることを。




 不意に階下が騒がしくなり、クロエは訝しげに眉をひそめた。見れば、それまで静かだった庭園を、剣と槍で武装した守兵が急ぎ足で通り過ぎている。

 もしかして妹が捕まったのか、と思ったクロエだったが、それにしては人々の動きがやけに慌しく、物々しいように感じられた。

 まるで突然の襲撃を受けたかのようだ、とクロエが思ったのは、五年前と今日と、自分の身を襲った出来事を思い返してのことだった。



 このクロエの感覚は半ばあたり、半ば外れている。

 このとき、フレデリク邸は襲撃を受けたわけではなかった。兵士の血が流れた事実もない。

 ただ、襲撃を受けたに等しい衝撃が家人を襲ったのは事実であった。

 セーデの貧民窟を束ねる人物が、ひとりの少女を連れて邸宅の門を叩いたのである。




◆◆




 フレデリクに仕える者、とくに兵士たちはすでにセーデ区が緋賊の拠点であることを知らされている。

 街道を往く隊商やその護衛のみならず、傭兵団や正規兵まで襲う赤い凶賊。つい先日は、ついに都市の中にまであらわれて評議会の重鎮を葬りさった。

 王国派の人間にしてみれば、ラーカルトの死自体は喜ぶべきことだったが、緋賊の跳梁は座視できない。今度は自分たちが標的にされるかもしれないのである。



 それゆえ、ブリス・ブルタニアスがたてた今回の作戦ではセーデ区の制圧に多くの精兵が割かれていた。

 むろん、ラーカルトの轍を踏まないために邸宅の守備も固めてはいたが、それでも普段ほどの防備は望めない。

 そこに緋賊の頭目が姿を見せたとなれば――それも堂々と正門からあらわれたなら、これを警戒しない理由がなかった。



 とはいえ相手はたった一人。数にまかせて、あるいは弓なり弩なり飛び道具でこれを討つことは可能であったろう。

 しかし、これは報告を聞いたフレデリクの厳命で許可されなかった。

 頭目に同道している少女の正体が知れなかったからである。赤いケープをまとった少女は深くフードをかぶっており、顔はおろか髪の色さえわからない。



 状況を考えれば、少女はクロエの妹であるノエルの可能性が高かった。

 だとすれば、ヘタに頭目を攻撃すればノエルを巻き添えにしてしまう。

 また、緋賊がノエルの身柄を差し出しに来た可能性もないわけではない。

 いずれにせよ、フレデリクの側から仕掛けるのは時期尚早というべきであった。






 インが邸内に招じ入れられた途端、門扉が重い軋みをあげて閉ざされる。

 退路を塞がれた形であったが、今さらインは気にしない。むやみに白百合の花が目立つ庭園を横目に見ながら、フレデリクの邸宅に足を踏み入れた。

 グリーベル邸と同様に小規模な砦くらいの規模はありそうな巨大な邸宅に一歩はいると、そこには広々とした空間が広がっており、見上げるような長身の人物がインたちを出迎えた。



 ブリスと名乗った青年は物腰こそ丁寧だったが、インを見据える眼光は鋭く、立ち姿にも隙がない。鞘に収まった長剣を思わせる人物だ。

 インに向けて鋭く観察の視線を走らせた後、ブリスは穏やかな声でインたちについてくるよう促した。

 そうして案内された先には、フレデリク邸でもっとも大きく、もっとも豪奢な部屋が待っていた。いうまでもなくフレデリク・ゲドの私室である。

 そこでインはドレイク評議会王国派の筆頭と対面を果たした。



「本来であれば、この部屋は私が信頼する者しか入れないことにしているのだがね」



 部屋に入ったインに対し、部屋の主は開口一番、そんなことを言ってきた。



「賊徒の身で正面から我が邸宅を訪れた君の勇気と覚悟に免じて、特別に招待することにした。感謝してくれ、とは言わない。しかし、私が君に最大限の厚意を示したことは理解してもらいたいと思っているよ」



 部屋の中央に立つ主人は、ブリスほどではないが長身で引き締まった身体つきをしていた。撫で付けられた髪が濡れた輝きを放っているのは、香油か何かを使っているためだろう。

 今のインは武器らしい武器を手にしていないが、懐中に短剣の一本や二本、しまっておくことはできる。そのことを承知しているであろうに、武器を改めさせることもせず、インの前に身を晒して悠然と口ヒゲをしごくフレデリクの姿は、なるほど、タダ者ではありえなかった。



「さて、すでに知っているとは思うが、念のために名乗っておこう。私は自由都市ドレイクの行政を司る評議員の一人、フレデリク・ゲド。巷では王国派などと呼ばれているようだね。紅い凶賊の長よ、貴殿の名をうかがいたい」

「イン・アストラ」



 インの名を聞いたフレデリクはわずかに目を細めると、何かを思い出すようにあごに手をあてた。



「イン・アストラ……ふむ、アストラとは、主神ウズが大陸を滅ぼすために引き起こす『波』の先駆けとなる悪神の名前。一説では闘神バーレイグの弟だとも言われているね。もっとも、私は神学上の観点からこの説には同意できないのだが――」



 フレデリクは両手を広げ、嘆ずるように続けた。



「不吉な名だ。だが、それゆえに猛々しくもある。君がその名を名乗るのは、みずからが現在の大陸を滅ぼす尖兵たらんという意志のあらわれかね? だとすれば、憎らしくも懐かしき我が朋輩ラーカルトは、君という邪悪が起こす波に呑まれたはじめの一人ということになる。私はこの都市の評議員として、また女神ソフィアの信徒として、君を討たねばならないわけだが」



 そこで言葉を切ったフレデリクは、あらためてインの顔をじっと見つめた。



「それを避ける手段がないわけではない。私たちは獣ではないのだ。言葉を駆使することで破局を避けるのもまた勇気。どうかね、イン君。ノエル嬢を引き渡してくれないか。おそらく君ももう知っているだろうが、あの姉妹は叛逆者の一族だ。しかし、それは彼女たちの父親が犯した罪であって、彼女たちに責はない」



 君は勘違いしているかもしれないが、とフレデリクは続けた。



「私はクロエ嬢とノエル嬢を処刑台に送るために身柄を欲しているのではないのだ。むしろその逆。伯爵令嬢でありながら、妓女に身を落とし、困窮の中で喘ぐ姉妹を私の手ですくってやりたいと考えているのだよ」



 フレデリクが口を閉ざし、返答を求めるようにインを見やる。

 それに対してインは感銘を受けた様子もなく、淡々と応じた。



「ノエルを引き渡すつもりはない」

「……話し合いの余地はない、ということかな?」

「それ以外のことを言っているように聞こえたか?」



 つまらなそうにインが応じる。

 と、フレデリクは心底残念そうにかぶりを振った。



「残念だよ。本当に」



 その言葉を合図として、フレデリクはインから距離を置くようにすっと後ろに下がる。すかさずブリスが動き、主を守る壁となってインの前に立ちはだかった。

 ブリスに守られたフレデリクが卓上の鈴をとり、大きく二度鳴らす。すると、それを聞きつけた兵たちが次々に扉の向こうから姿を現した。

 一瞬にして包囲されたインに向かって、フレデリクが悲しげに言う。



「かりそめにも神の名を持つ若者よ。どうか見苦しい振る舞いをせず、おとなしく縛についてくれたまえ」



 フレデリクとしては、これがトドメというつもりだったのだろう。

 しかし、インはまったく意に介した様子を見せない。

 フレデリクに反応したのはインではなく、それまで黙って佇んでいた少女の方だった。少女が邪魔そうに顔を覆うフードを払うと、その下に隠れていた蜂蜜色の髪と湖水の瞳があらわになった

 そして少女――キルは恐れ気もなくインに問いかける。



「――――イン、もうやっていい?」

「ああ」



 キルの確認の声に、インがうなずきで応じる。

 それが戦闘開始の合図となった。


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