第一章 緋色の凶賊(十一)
贅肉に包まれたラーカルトの巨体が、驚くほど素早く踏み込んでくる。
つい先刻までの、己の身体をもてあました鈍い動きとは明らかに異なっている。
実力を隠していたという可能性もあるが、直前のラーカルトの行動を振り返れば、その可能性は低いだろう。
鋭く突きこまれた小剣の一撃をかわしたインは、断定するように言った。
「飲んだな、シュシュの秘薬を」
「おう、飲んだとも!」
ラーカルトは小剣を振り回しながら呵呵と大笑する。
それを見たインはかすかに眉をひそめた。
突然の体力の向上と精神の高揚。ラーカルトの変化はインが知る秘薬のそれと重なっている。
だが、異なる点もあった。インが知るかぎり、シュシュの秘薬にここまでの即効性はなかったはずなのだ。
ラーカルトが常日頃から秘薬を服用していたというなら話は別なのだが、致命的な中毒性があると分かっているものを、あえて飲み続けるほど眼前の評議員は愚かではないだろう。
インの顔によぎった疑問を読み取ったのか、ラーカルトはさも愉快そうに唇を曲げた。
「わしを愚かと笑うか、緋賊? くはは、愚かなのは貴様の方だ。身の程知らずのヴォルフラムめがくたばってから三年。その間、薬の実験に多くの時間を費やしてきたわしが、未だ何の成果もあげておらぬとは思わぬことよ!」
激語と共に振るわれた小剣の一撃を棍棒で受け止める。
と、驚いたことに、小剣の刃が頑丈な棒に易々と食い込んできた。
インの目が見開かれる。
堅いひのきを棒状に削り、獣皮を幾重にもまきつけ、さらに鉄の芯を埋め込んで補強した棍棒だ。
そこらの小剣で切断することなど出来るはずがない。
だが、現実に小剣の刀身は棍棒の柄に深々と食い込み、そのまま両断しようとしている。
異様ともいえる切れ味を訝しんでインは目をこらす。
と、棍棒に食い込んでいる敵の刀身が、水晶のように透けていることに気がついた。鉄や銅といった一般的な金属ではありえない。
さらに目をこらせば、刀身の奥に鮮麗な赤い色彩が見て取れる。あたかも炎を氷で封じ込めたかのような刃。
インはその素材に見覚えがあった。
「……ルチル鉱か」
ぽつりと呟くイン。それを聞いたラーカルトが愉快そうにうなずいた。
「ほう、野盗ごときがよく知っておる。いかにも、かの魔都が滅びた今となっては、誰ひとりとして精錬することができなくなった幻の金属、紅金でつくられた逸品よ! 鉄の盾も、鋼の鎧も、この剣の前では紙きれ同然。手にいれるために金貨が二千枚ほど吹き飛んだが、それだけの価値はあった。幻と謳われた剣の切れ味、存分に味わうがいいッ!」
ぐっと刃を押し込んでくるラーカルト。秘薬で増強された膂力と、恐るべき切れ味を秘めた小剣の力が重なり合う。
仕込んだ鉄芯では防ぎきれない。このままでは棒を両断した刃がそのままインの身体を切り裂くだろう。
「わしを侮ったのが貴様の運のつき! わしはこんなところで死ぬ人間ではないのだッ!!」
ラーカルトの怒声に圧されたように、甲高い音をたてて棍棒が両断される。
小剣はそのままインをも引き裂くべく襲いかかったが、とっさに後ろに下がったことが功を奏し、刃はインの衣服を切り裂くに留まった。
「逃がさぬわ!」
ラーカルトの巨体が突進してくる。
小剣が振るわれる都度、薄暗い地下の空間に紅い軌跡が描き出される。横に薙ぎ、ななめに払い、縦に斬りおろす。どうやらラーカルトは、秘薬の効果とは別に小剣の扱いに習熟していたらしく、その動きは理にかない、付け込む隙を見せない。
インは半分の長さになった棍棒を両手に持ち、かろうじて相手の刃を避け続けた。
しかし、それだけだ。反撃に移る余裕はない。
ラーカルトの目が血と歓喜に濡れて赤々と燃え上がる。
「死ねィッ!!」
次の瞬間、雷光のごとき一閃がインを襲った。
必殺を期した刺突は、しかし、インを捉えることなく宙を穿つ。
ラーカルトは舌打ちして身体を反転させた。そこには巧みな体さばきで立ち位置をいれかえたインの姿がある。
この時点で階段とラーカルトの間を阻む物はなくなった。したがって、逃げようと思えば逃げられたであろうが、奥の手を出したラーカルトには逃走を選ぶ理由がなくなっている。
もはや言葉もなく、ラーカルトは再びインに襲いかかった。
斬りかかる帝国貴族、避ける緋賊。繰り返される光景はつい今しがたの攻防の焼き直し。
むろん、ラーカルトは丁寧に同じ攻撃をなぞったわけではない。フェイントを混ぜ、技巧を絡め、時には意表をつくために足払いを仕掛けるなど、インを切り裂くために持っているすべての技能を駆使した。
秘薬で強化された身体は完璧にラーカルトの制御下におかれ、脳裏で描いたとおりの連続攻撃を可能とする。
これを避け得る者はこの世に存在しない――シュシュの秘薬がつくりだした全能感に浸りながら、ラーカルトはそう確信していた。
ところが。
ラーカルトはその後もインを捉えることができなかった。
衣服には届いている。あと一歩、否、半歩で賊徒の身体を引き裂くことができるのに。
今度こそとの決意を込めた一撃は、しかし、またしても届かない。
最初から変わらず、イン・アストラはラーカルト・グリーベルの前に立ち続けていた。
ポタポタと頬を伝って汗が流れ落ちていく。
いつまで経っても倒れない緋賊を前に、ラーカルトはようやく何かがおかしいことに気づき始めていた。
あと半歩で届く。ラーカルトがそう感じていた攻撃は、その実、半歩の差で敵に見切られていたのではないか。
相手を翻弄していたつもりで、実は翻弄されていたのは自分の側だったのではないか。
そんな疑念を抱えて動きを止めたラーカルトを見て、インがわずかに首を傾げた。
「どうした? もう終わりか?」
「貴様、いったい何を企んでおる……?」
「さてな。敵に訊く前に自分で考えてみたらどうだ、子爵どの。賊ごときの浅知恵を見抜けずして、帝国派筆頭を名乗るのはおこがましいだろう?」
「ほざけ!」
憤慨したラーカルトは二度、三度と続けざまに斬りかかったが、やはりインには届かない。
歯軋りする相手に対し、インは両手に持った棒を床に放り捨てながら口を開いた。
「隠しておいた実力もこの程度か? 道化の舞いに付き合うのも一興だと思っていたが、これでは暇つぶしにもならない。他にも奥の手があるなら、さっさと使え。もう手が残っていないというのなら――そろそろ殺すぞ?」
黒の双眸に凍るような殺意を乗せて、イン・アストラは言い放つ。
その瞬間、ラーカルトの全身の毛という毛が一斉に逆立った。総毛だった。背に氷塊が滑り落ち、額に、腋に、溢れるように冷や汗がにじみ出る。
違う。この相手は何か違う。自分は何か、何かおかしなモノの前に立っている。一秒でも早くこの場から逃げ出さないと、取り返しのつかないことになる。ラーカルトはそんな直感に背を蹴飛ばされた。
「ぬんッ!!」
大金を投じて手に入れたルチル鉱の小剣をインめがけて投じる。
そして、ラーカルトは小剣がインに届く前に踵を返し、脱兎のごとく階段に向けて走り出した。
地上には多くの配下が残っている。
そこまで逃げれば何とかなる――そう己に言い聞かせるラーカルトは知らない。自身が投じた小剣が、インによって空中でむんずと掴み取られたことを。
のみならず、奪った小剣を手の中で器用に回転させたインが、そのままラーカルトの背中めがけて投じたことを。
とすん、と。
投擲された小剣はあっさりラーカルトの背に突き立った。
今まさに階段を駆け上がろうとしていたラーカルトの足がもつれる。
それでもラーカルトは何とか体勢を立て直し、一段、二段と階段を登ったが――それが限界だった。
ドレイク評議員の大きな身体がぐらりと揺れると、そのまま前のめりに倒れた。
階段に這いつくばったラーカルトは、煮えたぎるような眼差しで後方を振り返る。
口から吐き出そうとしたのは敵手への罵倒か、助命の嘆願かわからない。
実際にラーカルトが吐き出したのは、言葉ではなく大量の血であった。
「ぐが!? が、がはァッ!!」
背中に突き立った小剣は、その切れ味を証明するように根元近くまでラーカルトの身体に突き刺さっている。
小剣は厚い脂肪を貫いて臓器まで達していた。秘薬の効果で痛みは軽減されていたが、たえず血が喉を逆流していく不快感は拭いようがない。
インはそんなラーカルトに冷めた声をかけた。
「トドメを刺してやる義理はない。死ぬまでそこで転がってろ」
「き、きさ……がはッ!? ぐぼぉァ!?」
ガクガクと全身を震わせたラーカルトが新たな血だまりをつくっていく。
ややあって、かろうじて顔だけをあげた評議員は震える声で言った。
「く、ぐ、お、おの……れ。この、まま、わしが、死ねば……ひ、秘薬の情報も途絶える、ぞ……? いい、のか?」
「願ったりだ。シュシュの秘薬は燃やす、用いる者は殺す。これまでも、これからも、かわらない」
冷然とした返答、それがインがラーカルトと交わした最後の言葉となる。
正確にいえば、その後もラーカルトは何やら騒ぎ立てていたのだが、インがそのすべてを聞き流したため、両者の間に会話が成立することはなかったのである。
結局、ラーカルトが事切れるまで、それからさらに半刻(一時間)の時間が必要になった。長引いた苦しみは、間違いなく秘薬の影響であったろう。
その事実に皮肉なものを感じつつ、インは評議員の死体からルチル鋼の小剣を抜き取り、さらに死体を目立つ場所に置いておいた。
こうしておけば、地下の様子を見にきたラーカルトの部下は真っ先に主人のもとへ駆け寄るだろう。そんな彼らの機先を制することはたやすいに違いなかった……
◆◆◆
明けて翌日。
帝国派の領袖ラーカルト・グリーベル子爵の死は瞬く間にドレイク中に広まり、人々を驚愕させた。
焼け落ちたグリーベル邸には物見高い市民が大挙して押し寄せ、かわりはてた評議員宅を見ながら口々に騒ぎ立てる。
評議員として、あるいはドレイク最大の商会の長として、ラーカルトの影響力は議長であるパルジャフをすらしのぐものがあった。
その突然の死がドレイクにもたらした影響は計り知れない。
とはいえ、ラーカルト個人の死を惜しみ、悲しむ者はごくわずかであったろう。見物人の中にはあからさまに笑顔を見せている者もいたほどだ。
ラーカルトの横暴に苦しめられてきた者は多い。妻や娘、恋人を奪われた者にしてみれば、ラーカルトが殺された一件は笑って手を叩きたいくらいの痛快事であった。
他にもラーカルトに借金をしていた者たちなど、喜色を浮かべている者は大勢いる。大半の市民にとって、ラーカルトの死は驚くことではあっても嘆くことではなかったのだ。
また、政治や商いでラーカルトに屈服してきた者たちにとって、ラーカルト死後の混乱は願ってもない再起の機会であり、知らせを聞いた彼らは夜が明けるのも待たずに四方を駆けまわっていた。
こういった動きが余計に混乱を助長していく中、二度にわたってグリーベル邸を襲撃した者たちの正体が取りざたされるのは当然のことであったろう。
おりしも緋賊の公開処刑がとり行われた当日に起きた出来事である。昼と夜、二度の襲撃はいずれも緋賊の仕業であろうと推測する者は多かった。
ただ、どうして緋賊が二度にわたって襲撃を仕掛けたのか、その点を明確に説明できる者はいなかった。
特に二度目の襲撃では、当然のようにグリーベル邸の警戒は強化されていた。襲撃の危険度でいえば一度目の比ではなかったはずだ。
それでもなお二度目の襲撃は実行された。
このことから、夜間の襲撃については、緋賊襲撃後の混乱を利用した別人の手によるものではないか、との見方も有力視されていた。
前述したように、ラーカルトに敵が多いのは周知の事実であったから、緋賊の仕業に見せかけた第三者がラーカルトを殺害したのでは、という推測は十分な説得力を有していたのである。
この日、ドレイク市街の話題はグリーベル邸襲撃一色に染め上げられた。
一方、ドレイク評議会議長であるパルジャフ・リンドガルは、市井の喧騒を横目に黙々とみずからの責務を果たしていた。
探偵の真似事をしている時間などない。パルジャフはドレイク評議会の議長として、ラーカルト死後の混乱を最小限におさえる責務があり、そのために精力的に動かねばならなかったのである、
領袖を失った帝国派の動向を見極め、直接の政敵を失った王国派の蠢動を防ぎ、グリーベル邸を襲撃した犯人たちを突き止めて、彼らを罪に服せしめる。
これだけでも大変だったが、問題はドレイクの内にだけあるのではない。むしろ、パルジャフは都市の外に、より大きな懸念を抱いていた。
今回の件をうけてシュタール帝国が動く恐れがあったからだ。
ドレイクはシュタール帝国から自治権を与えられていたが、帝国内にはドレイクを直接統治すべし、と考える貴族や官僚が少なくない。ドレイクに対するアルセイス王国の介入が本格化してからというもの、そう考える者たちは増え続ける一方であった。
これまで、そういった動きは帝国宰相であるダヤン侯によって押さえられていたが、まがりなりにも帝国貴族のひとりであったラーカルトの死は、シュタール帝国内の強硬派の動きを加速させる可能性があった。
帝国側が「今回の事態はこれすべて帝国の影響力を排除せんとするドレイク評議会の陰謀である」と決め付けて、兵を動かす事態さえありえる。
そういった危難の芽を摘む意味でも、襲撃犯の確保は喫緊のこと。
時が経つにつれて、パルジャフの下に多くの情報が集まってきた。
パルジャフが眉をひそめたのは、亡きラーカルトが地下に拷問室まがいの施設をつくり、そこに多くの人間を押し込めていたという事実である。
奇妙なことに、この情報はすでに巷間に広がっているらしい。
結果として、襲撃者たちは罪なく捕まっていた人々を救出したことになる。もしかしたら、意図の不明な二度目の襲撃は、彼らを助け出すために行われたのではないか――そんなうがった意見を口にする者もいた。
義賊の名を高からしめる情報の流布。噂と呼ぶには内容があまりに具体的でありすぎる。
そこに人為的なものを感じたパルジャフは、小さく息を吐き出して眉間をもみほぐす。
部下が用意してくれた茶をすすりながら、ドレイク評議会の長は誰にも聞こえないように内心で呟いた。
――もしかすると緋賊とは、シュタールとアルセイス、この二国と同じか、あるいはそれ以上に厄介な相手なのかもしれない、と。
◆◆
グリーベル邸襲撃に端を発するドレイクの騒動は、セーデのみを例外とはしなかった。
ただ、セーデで起きた騒動は市街のそれとは少し意味合いが異なっている。
スラムの住民たちにとっては評議員など違う世界の住人、その生死に興味などない。ゆえにセーデにおける騒ぎの発生源は街区ではなく、緋賊の本拠に限定されていた。
女性の悲鳴と金切り声、何かが割れる音、倒れる音、赤ん坊の甲高い泣き声、それらが混ざりあって響き渡り、緋賊の本拠はたちまち不穏な空気に包まれていった。
インが騒ぎの中心である部屋に入ったとき、真っ先に視界に映ったのは、血で濡れた短剣を振りかざして暴れる女性の姿だった。
リムカという名の女性は、長い髪を振り乱して金切り声をあげている。
血走った目が向けられた先には、赤子を抱えながらガタガタと震えている若い女性の姿があった。
ヘルミーネ・グリーベル、先夜インが討ったラーカルトの妻にあたる女性である。
ヘルミーネの顔立ちは美しかったが、どこか生気が欠けて見えるのは、彼女の境遇を考えれば当然のことであったろう。
一歳の息子と共にセーデに連れ込まれてから、ずっと言葉すくなに座り込んでいるだけだったヘルミーネ。
リムカはそんなヘルミーネに襲いかかろうとしていた。
同席していたアトが背後からリムカを抱きとめて必死に制止するが、リムカは手負いの獣のように暴れるばかりで、振りかざした刃を収めようとはしなかった。
「離して、離して! この人の、この人たちのせいで、兄さんはッ!!」
リムカの口から悲痛な叫びが発せられる。その視線はただひたすらヘルミーネと赤ん坊に注がれていた。
部屋に入ってきたインには見向きもしない。というより、そもそもインが部屋に入ってきたことに気がついていないのかもしれない。
そんなリムカを、アトはなんとか止めようとしている。
体格、膂力、いずれもリムカに優るアトであるが、それでも相手を押さえ込むことができない。
それだけリムカの感情の発露が激しいということなのだろう。首の怪我も決して軽傷ではないはずだが、強い感情が傷みを忘れさせているらしい。
インはひとつ息を吐き出すと、リムカとヘルミーネの間に立った。
突然、視界を塞がれたリムカは、険しい視線を闖入者に向ける。それがインであることに気づいたとき、リムカの顔に浮かび上がったのは強い警戒の念であった。
リムカはすでに自分が置かれた状況について、おおよそのところは説明を受けている。ゆえに、自分がグリーベル邸を出られたのがインのおかげであることは承知していたが、相手は血生臭いことで知られる野盗だ。簡単に信用することはできなかった。
「――どいて」
アトの手を振り払ったリムカは、そういってインに短剣の切っ先を向ける。
返答は言葉ではなく行動によってもたらされた。
インは無雑作にリムカに近づくと、短剣を握った手をひねりあげたのだ。とっさにあらがおうとしたリムカだったが、インを相手にしては無駄な抵抗にしかならなかった。
手をひねられたリムカの口から苦痛の声がこぼれる。
それを見たアトが慌てたように口を挟んできた。
「イ、イン様、手荒な真似は……リムカさんも怪我をしています」
「穏便に片付けることができるなら、そうするが」
そう言うと、インはリムカの手から短剣を取り上げた。血に濡れた刃を見てから、壁際に座り込んでいるヘルミーネに視線を移す。
ヘルミーネの右袖は鋭い刃物で切り裂かれており、赤い血が小さな蛇のように白い肌を伝って垂れ落ちていた。
このとき、インがわずかに顔をしかめたのは、ますます赤ん坊の泣き声が高くなったからである。
インは小さくかぶりを振ると、リムカの腕を掴んで引きずるように部屋の外に向かった。
「あちらは頼む」
「は、はい、承知いたしました」
アトはうなずいてヘルミーネに駆け寄ると、力づけるように声をかけ、おっかなびっくりといった様子で赤子の顔をのぞきこむ。
そんなアトの様子を最後まで見ることなく、インはリムカを連れて部屋を出た。リムカは何度も抗おうとしたが、インの手がびくともしないことを悟り、やがて諦めたように大人しくなった。
何事かと集まってきた者たちに仕事に戻るよう伝えたインは、そのままリムカを連れて本拠を出た。向かう先は墓地。そのあたりが一番静かだったからである。
墓地の入り口に着いた途端、リムカはたまりかねたようにインの手を振り払った。
「……邪魔を、しないで。私には、あなたたちに従うつもりなんてない」
警戒するように後ずさりながら、リムカが強い視線でインを射抜く。その顔には、さきほどのヘルミーネとは違った種類の恐怖がちらついていた。
ラーカルトと同じ「男」であるインに対する恐れが拭えないのだろう。
人気のない場所。インがその気になればリムカの細腕では抗いようがない。
もちろんというべきか、インにその気はなかったが、それを伝えて警戒する少女を安心させるという心遣いもなかった。
どのみち、自分が何をいってもリムカが警戒を解くことはないだろう――そんな確信があったから、インは無駄なことをせず、淡々と問いを放った。
「兄の仇を討ちたいのか?」
「当たり前よ。あの男がいなければ、兄さんも私も――」
と、ここでリムカの表情がかわった。
インの言葉に含まれた意味に気づいたのである。
「……今、仇と言ったの?」
「ああ、言った。お前の兄は死んだ。殺したのは俺だ。仇討ちを望むなら、あの妻子より先に俺を始末するべきだろうよ」
「…………どうして」
「お前の兄は狂っていた。もう助からなかった。だから、命を絶った。それだけだ」
数瞬の空白。
インの言葉を理解したリムカの顔が激しく歪んだ。
「あんたはッ! あんたが、兄さんを!」
「そうだ」
「医者でもない人間が、勝手に人の命を判断したのッ!?」
「そうだ」
「…………この、人殺しッ!!」
「それもそのとおり。その上で訊くが、これからどうする? ここに留まるかぎり、身の安全は保証してやるが」
この場にカイがいれば、片手で顔を覆ったであろうインの問いかけだった。
返答は当然のごとく拒絶。
顔にも声にも怒りと憎しみをあらわにして、リムカは激しくかぶりを振る。
「誰が兄さんを殺した奴の世話になどなるものかッ!」
「では、去れ。兄の形見をもって」
そう言うと、インは腰に差していた小剣を鞘ごとリムカの前に放った。
リムカはそれを見て怪訝そうな顔をする。兄の持ち物にしては見た覚えがない。もはやインとは一言たりとも口をききたくなかったが、兄の形見と聞いては黙っているわけにはいかなかった。
「……これはなに? 兄さんの持ち物にこんなものはなかったはずよ」
「お前の兄が懐に隠していた物だ。由来は知らん」
それはラーカルトが二千枚の金貨で手に入れたという宝剣だったが、リムカはそれを知らず、インは説明をしなかった。
説明しないままインは踵を返す。
その背にリムカの声はかからなかった。
……インが立ち去った後、なおしばらくリムカはその場にとどまり、地面に置かれた小剣を睨みつけていた。
やがて、意を決したように小剣を拾い上げる。小剣は驚くほど軽く、非力なリムカが持ち歩いても何の問題もなさそうだ。
そっと小剣を鞘から抜いてみる。
紅い輝きを封じ込めた澄んだ刃が、陽光を反射して眩しくきらめいた。
◆◆
同じ頃、アトはヘルミーネにあてがわれた部屋にいた。
ヘルミーネの腕の傷はカイが調合した薬を塗りつけて、清潔な布で巻いてある。散々泣き叫んだことで疲れたのか、赤ん坊は寝台で寝入っており、ヘルミーネはそんな息子の寝顔を見ながら、ぽつりぽつりとグリーベル邸での生活をアトに語った。
別段、アトの方から事情を訊ねたわけではない。おそらく、ヘルミーネは誰かに聞いてもらいたかったのだろう。
そんな相手の心情を察したアトは、ときおり相槌を打ちながら、いつ終わるとも知れないヘルミーネの述懐に真摯に耳を傾ける。
ヘルミーネはリムカを恨んではいない、といった。斬りかかられても仕方ない、とも。
幸せとも満ち足りているとも言いがたい生活であったが、それでもヘルミーネと息子はラーカルトの庇護下で金銭的に不自由なく暮らしてきた。その金銭はラーカルトが人々を食い物にして得ていたものである。
家族に罪がないはずはない――先刻、リムカが放った弾劾をヘルミーネは否定できない。ラーカルトがリムカにしてきたことを、多少なりとも目にしていたから、なおさらに。
「……私たちは、殺されるのですか?」
しばしの沈黙の後、ヘルミーネはどこか疲れたような声で訊ねた。
ラーカルトを殺害した緋賊が、ラーカルトの家族をどのように扱うのかを考えたとき、真っ先に出てきた可能性がそれだったのだろう。
しかし、問われたアトは、はっきりとかぶりを振って否定する。ただの慰めや希望的観測ではない。アトは確かな根拠をもって、インがヘルミーネとその子を殺さないと確信していた。
なんの力も持っていない女性と幼子を、敵の家族だからという理由だけで殺すような人ではない――信頼をこめてそう断言できればよかったが、それはまだ無理だった。
だから、アトが口にしたのはそれとは異なる理由である。
「殺すつもりなら、わざわざここに連れて来たりはしません」
ラーカルトの妻子を手にかけるつもりがあるのなら、最初の襲撃で実行に移したはずだ。手間をかけてさらって来た以上、何かしらの思惑があるのだろう。
アトが考えたのは、インがヘルミーネとその子供をラーカルト死後の混乱からかばおうとしたのではないか、というものだった。
ラーカルトの死を知った人の中には、先刻のリムカのように故人への恨みを家族に向ける者も多いことだろう。
莫大な財産をめぐる争いが起こることも考えられる。というより、間違いなく起こる。
確かな決意と才覚をもって、それらの混乱に立ち向かえる烈婦であればいざ知らず、ヘルミーネのような女性では、怨恨と欲得の大波に抗し得ないのは火を見るより明らかである。
セーデにいれば、そんな不快な騒動から逃れることができる。だからこそ、インは二人をここまで連れてきたのではないか――そこまで考えたアトは、不意に困ったように微笑んだ。自分が推測と願望を混同していることに気づいたのだ。
だが、不思議と考えをあらためようとは思わなかった。




