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僭王記  作者: 玉兎
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第一章 緋色の凶賊(十)


 ラーカルト・グリーベル子爵が自邸前に到着したとき、そこにはかつて見たことのない光景が広がっていた。

 無残にこぼたれた外壁には血しぶきが飛び散り、醜悪なまだら模様を描いている。

 路上には、首を裂かれ、あるいは腹を貫かれた私兵が折り重なるように倒れている。

 立ち込める空気には血と死の臭いが充満し、ラーカルトの薄い眉が不快げにうごめいた。



 すでに襲撃者たちは立ち去っているようで、剣戟の響きはどこからも聞こえてこない。

 開け放たれた門扉をくぐって敷地の中に踏み込んだラーカルトは、そこにも惨憺たる敗北の痕跡を見出して顔を歪めた。

 整備された芝は乱暴に踏み荒らされ、賊徒に討たれた私兵の遺体はそのまま放置されている。邸宅の外観もひどく損なわれており、この分では邸内もひどく荒らされていることだろう。

 火が放たれていないのは幸いというしかなかった。



 激しく舌打ちしたラーカルトは、邸宅の守りを委ねていた責任者を連れて来るように命じる。

 ほどなくして、右腕を負傷した人物がラーカルトの前に姿を現した。ガタガタと全身を震わせているこの男こそ、ラーカルトが自邸の守備を委ねた人物である。

 帝国派の領袖は氷よりもなお冷ややかな眼差しで男を見据え、襲撃の詳細を問うた。



 はじめ、責任者は罰を恐れて平身低頭し、謝罪と釈明の言葉を並べ立てるばかりだったが、ラーカルトに一喝されるや、肩を震わせながら襲撃の一部始終を語りはじめた。

 すべてを聞き終えたラーカルトは、ひとつうなずいて口を開く。



「つまり、襲撃してきた者どもの数は百から二百。留守居の者だけではとても防ぎきれなかった、と。そう言うのだな?」

「は、はい! 仰るとおりでございます、子爵閣下!」

「ふむ、それほどの数が寄せてきたのであれば、邸を守りきれなかったことを咎めることはできぬか」

「まことに申し訳ございません! 死力を尽くしたのですが、数の不利はいかんともしがたく……」

「顔をあげよ。わしも若い時分は戦場を駆けめぐっておった身。二倍、三倍の数の敵と戦う難しさはよう知っておる」



 常は部下や使用人の些細な失敗にも容赦しないラーカルト。そのラーカルトから思わぬ温言をかけられ、責任者は安堵したように口許をほころばせる。

 しかし、それは早計だった。



「恐れ入りま――」

「本当に敵がそれだけの数であったなら、の話だがのう」



 己の言葉を遮られた責任者は、戸惑うように目を瞬かせた。



「……は? 子爵閣下、それはどのような」

「わしとて戦場で戦った経験はある、と言ったであろうが。敵が百も二百も押し寄せたのなら、芝の荒れはこの程度では済まぬし、なにより一介の野盗がそれだけの人数を揃えられるはずがなかろう」



 そういって、ラーカルトはあらためて周囲を見回した。

 額に冷や汗をにじませて這いつくばる責任者の耳に、ラーカルトの冷徹な声が流れ込む。



「寄せた数は、多くても五十が精々であろう。実際はもうすこし少ないやも知れぬが、いずれにせよ、貴様にあずけた手勢で防げない数ではない。わしを欺こうとした罪も含めて、相応の罰をくれてやるゆえ覚悟せよ」



 ラーカルトが指をならすと、心得た部下たちが責任者の男を乱暴に引き据えた。



「お、お待ちください、閣下! わたくしめの話を――」



 男はなおも何事か口にしようとしていたが、その声はラーカルトの意識の端にも引っかからなかった。

 その後、邸内に入ったラーカルトのもとに側近が駆け寄ってくる。

 そこで被害状況の報告を受けたラーカルトは、忌々しげに鼻で息を吐き出した。

 ある程度の被害は覚悟していたが、座視できなかったのは自室の金庫が破られていたことである。



 一口に金庫といっても、ラーカルトのそれは小部屋ほどもある大きさのもの。

 それが破られていたと聞き、何度目のことか、ラーカルトの口から激しい舌打ちの音がこぼれた。



「あれは盗賊ギルドにつくらせた特注品だぞ。賊はどうやって破りおったのだ?」

「それが、金庫の扉はほとんど叩き割られているような有様で……何か巨大な剣のようなもので断ち割ったとしか……」

「馬鹿を申せ。あの金庫を叩き割るような剣など、たとえあったところで振るえるものではないわ!」



 ラーカルトは吐き捨てたが、方法がどうあれ金庫が破られた事実にかわりはない。

 苛立たしげに床を蹴りつけてから話を進めた。



「証文の類も駄目か?」



 財貨と共に入れておいた種々の証文に言及すると、側近は顔を蒼白にしてうなずいた。



「は、残念ながら。金庫の中身はすべて賊の手に渡ったと思われます」

「ふん、ぬかりはない、といったところか。大方、証文のたぐいは燃やして貧乏人どもの人気取りをするつもりに相違ない。賢しらな賊どもめ!」



 ラーカルトが力まかせにテーブルに右手を叩きつける。

 眉間には太いしわができ、荒い呼吸音が内心の動揺を伝えていた。

 実のところ、今回の襲撃で受けた被害はラーカルトにとって致命的なものではない。痛手には違いないが、日常的に数十万枚の金貨を動かすラーカルトにとって、今回の被害は十分に取り返しのつくものであった。

 ただし、それはあくまで金銭面に限れば、の話である。



 問題なのは金銭以外の面、つまり名誉や外聞である。

 これこそ先刻からラーカルトが苛立ちをおさえきれない原因であった。



 なにしろ帝国派評議員の領袖たる身が、賊に自邸を襲撃された挙句、おめおめと逃げられたのだ。妻子の姿もなく、緋賊にかどわかされたことは疑いない。この不名誉は覆しようがなかった。

 王国派のフレデリクなどはここぞとばかりに付けこんで来るに違いなく、それは善人面しているパルジャフも同様であろう――ラーカルトはそう考えてほぞを噛む。



 それだけではない。ラーカルトと同じ帝国派評議員の中でも妙な動きが起きる可能性があった。

 ラーカルトは人望で彼らの上に立っているわけではなく、その権力のよってきたるところは一に人脈、二に金銭だ。

 ことにシュタール帝国宰相ダヤン侯爵との繋がりは、ラーカルトの権勢が他者の追随をよせつけない大きな要因になっている。



 逆にいえば、この繋がりを断ち切ることができれば、ラーカルトを失脚させることは可能であるということだ。

 評議員の中に目端のきく者がいれば、帝国貴族にあるまじきラーカルトの失態をダヤン侯に知らせ、侯爵とラーカルトの縁を断ち切ろうとするだろう。



 自分であれば必ずそうする、とラーカルトは思う。

 そんな事態を防ぐためにも、今回の一件は素早く片付ける必要があった。

 なにより、ラーカルト自身が与えられた屈辱に耐えかねている。両眼を光らせながら、必ず襲撃者たちに思い知らせてやる、と報復の念を燃やす。



 その後、煮えたぎる感情をどうにかなだめたラーカルトは次の確認に移った。

 地下がどうなっているか、である。



「囚人どもはどうなっておる?」

「は。どうやら侵入者は地下への階段を発見したようで、扉は開かれておりました。下の詳しい状況はただいま調べさせております」

「おおかた妾どもが余計なことを言ったのであろう。確認を急がせろ」

「は!」



 続けてラーカルトは幾つかの指示を出した。

 まず議長であるパルジャフに使いを出し、ドレイクの正規兵を動かして市街を捜索させる。

 都市外とは異なり、市街には必ずどこかに人の目がある。神出鬼没の緋賊の尻尾を掴むことができるかもしれない。

 さらに、襲撃者に関する情報を提供した者には報奨金を出すように伝えさせた。むろん、ドレイクの予算で、である。



 ラーカルト自身も私兵を動かしたが、その目的は緋賊の追跡ではなく、屋敷から逃げ出した者たち、とくにかき集めた女たちの奪還だった。

 彼女らの住居や家族の居場所は把握しているので、そこに私兵を向かわせ、力ずくで屋敷に連れ戻す。

 それらの手を打ち終えたラーカルトは、荒らされた自室ではなく、比較的被害の少なかった客間に腰を落ち着けた。




 ややあって部下が食事を運んできた。

 良質の小麦でつくられた柔らかい白パンに、鹿の肩肉に甘辛いソースをかけたもの、さらにふんだんに香辛料を用いた魚貝のスープ。

 庶民の食事に比すれば贅沢きわまりなく、普段の食事に比べれば貧相きわまりないそれらを、ラーカルトは不満げに胃袋に収めていく。



 そうして食事をとりながらも、ラーカルトは精力的に働き続けた。

 指示の内容は的確であり、ラーカルトという人物が決して無能ではないことがうかがい知れる。

 そうこうしているうちに、ふとあることに気づいてラーカルトが側近の方へ顔を向けた。地下牢の状況がいっかなもたらされないことに気づいたのである。



「地下の様子はどうなっておる? 同じ屋敷の地下を調べるだけの仕事に何時間かけるつもりじゃ?」

「は、はい。申し訳ございません」



 その側近も確認に向かった者が戻ってこないことに気がついていたらしく、眉目に困惑を漂わせている。

 主の気性を良く知る側近は、これ以上時間をかければラーカルトの機嫌が急角度で傾くことを承知していた。であれば、いたずらに他人を差し向けるよりは自分の目で確認した方が得策だ、と判断する。



「私自身の目で確認してまいります。今しばらくお待ちくださいませ」

「うむ、急げよ。こうしている間にも、都市の外へ逃れ出ようとする不届き物がいるかもしれんのだ」

「はは!」



 深々とうなずいた側近は急ぎ足でその場を離れた。

 ――そして、その側近も、いつまで経っても戻ってこなかった。



◆◆◆




 ラーカルトは私兵の中でも特に屈強な者十名を選んで地下へ差し向けた。

 地下牢に向かった者たちが戻ってこないのは、去ったと思われていた賊が地下に潜んでいるからではないか、と疑ったのである。

 あるいは、ラーカルトにいたぶられていた者たちが、篭城気取りで立てこもっているのかもしれぬ。

 いずれにせよ、部下をひとりひとり送り込んでいては、そのつど倒されてしまうだけだ。

 十人を一度に送り込めば、少なくともすぐに始末されるということはないだろう。最低でも何が起きているのかを確かめることはできる。ラーカルトはそのように考えた。



 しかし、案に相違して、地下に潜った私兵が何者かに襲われることはなかった。

 彼らの報告で自らも地下に下りたラーカルトは眉をしかめる。

 血臭と腐臭が漂ってくるのはいつものこと。すべての牢は開け放たれ、捕らえていた囚人たちは皆逃げ散っているが、これも予想の範囲内である。

 問題は、先に地下におりた者たちの姿がどこにもないことだった。 



「……どういうことか、いったい」



 ラーカルトは苛立たしげに周囲を見回す。

 壁にかけられた松明がおぼろに照らし出す地下牢。澱のようによどんだ静寂が満ちるこの空間に、ラーカルトが求める答えは見当たらない。

 しかし、何もないはずはなかった。



 松明の明かりが届かない隅に誰かが潜んでいるのやも知れぬ。

 そう考えたラーカルトは、八人の私兵に牢内を詳しく調べるように命じると、自らは残り二人を引き連れて最も奥まった位置にある牢屋に向かった。



 その牢には、ラーカルトのお気に入りであるリムカの兄が入れられていた。

 女に言うことを聞かせるための人質。

 はじめのころはラーカルトが姿を見せるたび、妹と自分、さらに地下牢に捕らえられている者たちを解放するように言い立ててきたものだが、とある薬の実験台にして以降、その様子は一変した。死んだように押し黙るか、狂ったように暴れまわるかの二つに一つ。

 最近ではそれさえもなくなり、終始ぶきみな唸り声をあげるばかりとなっていた。



 すでにラーカルトはリムカの兄への興味を失っている。

 人質に対する配慮などはじめから存在しない。実験台としても役に立たないとなれば、もはや生かしておく価値もなかった。

 過日、ラーカルトはリムカの兄を鎖でがんじがらめに縛り上げ、さらに両の手足に太釘を打ち込んで壁面に縫い付けた。あたかも昆虫の標本のように。

 水も食べ物も与えず、どれだけ生き長らえることができるのか――シュシュの秘薬で引き上げられた生命力の上限を確かめるという名目の実験は、実質的な処刑であった。




 目的の牢屋の前にたどり着いたラーカルトは、鋭い視線で牢内を睨む。

 異変は明瞭で、リムカの兄の姿がなくなっていた。

 かわりに牢内は床といわず、壁といわず、大量の血が飛び散っている。血の乾き具合からしてごく最近のもの。

 壁際に放置されている鎖と釘はリムカの兄を拘束していた道具だろう。何者かが囚人を解放したことは疑いないが、であればこの大量の血痕は何を意味しているのか。



「あのような狂人を賊が連れ出す理由はない。となれば、あやつを助けたのはリムカであろうが、女の細腕で兄を運び出せたとは思えぬ。とすると……ふむ、リムカめ、兄を助けるために緋賊に助力を乞うたのだな。義賊を自認する者どもであれば、女の頼みは断れまいて」



 ラーカルトは唇を曲げて嘲笑を発した。



「くく、久方ぶりの兄妹の再会、さぞ感動的なものとなったであろうなあ! その場を見られなんだは悔やまれるわい。こんなことなら、もっとはやくに二人を会わせてやるべきであった」



 そう言ってひとしきり笑った後、ラーカルトはねばつく舌で唇をなめまわした。



「まあよい。リムカも賊のもとにいるとわかれば、かえって話が早いわい。妻子を取り戻すついでにリムカも奪い返して、またとっくりと可愛がってくれよう。下賎な犯罪者どもめ、このラーカルト・グリーベルを本気にさせたこと、後悔させてやろうぞ」



 言い終えたラーカルトは、たるんだ腹を震わせて再び哄笑しようとした。

 だが、その笑いは未発に終わる。



「なッ!? 誰だ、貴様は!?」



 突如あがる誰何すいかの声。

 振り返ったラーカルトの視界に映ったのは、階段の入り口を塞ぐように立っている一人の青年の姿だった。

 鎧や兜といった防具は身につけておらず、武器といえば右手に持っている棍棒のみ。

 むろん、ラーカルトが地下に連れてきた私兵ではない。



 はじめに「それ」に気づいたのは誰何の声をあげた私兵だった。

 松明の明かりが届かない天井の暗がりから音もなく床に降り立った青年。その眉が赤く染められている。

 その一事が、万言に勝る雄弁さで青年の正体を物語っていた。



「貴様、緋賊だなッ!?」



 私兵の言葉に答えは返って来なかった。

 青年――インは言葉ではなく行動で相手に応じたのだ。



 インと対峙していた私兵は決して油断していたわけではなかった。ただ、数の有利を計算にいれていたことは否定できない。

 たった一人で十人を敵にまわすような決断を下すはずがない。戦うにしても、その前になんらかの駆け引きをしてくるだろう――そんな風に考えていた。



 そこに、後先をまったく考えていないとしか思えない先制攻撃である。

 はっきりと出遅れた。

 そして、イン相手にその遅れは致命的であった。



 次の瞬間、インが振るった棍棒で側頭部を強打された私兵はもんどりうって床に倒れ、そのままぴくりとも動かなくなる。

 インはそれを確かめもせずに次の敵に打ちかかった。

 狙われた私兵はなんとか剣を構えることこそ出来たものの、蛇のように喉もとに向かって鋭く伸びてくる棍棒の先端を避けることができない。痛烈な刺突を喉に受け、濁った悲鳴をあげて突き飛ばされた。



 そのまま、ごろごろと床を転がる私兵には目もくれず、インは次なる標的と向かい合う。

 その敵はすでに最初の驚愕から脱しており、腰の剣を抜き放っていた。

 インはその相手に真正面から棍棒を叩きつける。力任せの一撃を剣で受け止めた私兵の腕に重たい衝撃が伝わってきた。

 棍棒の圧力に押されて顔を歪める敵に対し、インは続けざまに攻撃を叩き込み、たちまち相手を防戦一方に追い込んでいく。



 その私兵は何とか反撃に移ろうとするも、インの激しい攻勢に晒されて反撃の機がつかめない。

 それが焦りとなったのか、次の瞬間、インがわざと見せた隙に私兵は引っかかった。剣撃はあっさりとかわされ、お返しとばかりに繰り出された棍棒が、兵士の鼻と口の間、鍛えようもない人体の急所に打ち込まれる。



 苦悶の悲鳴をあげて二歩、三歩とよろめいた私兵のあごを、下から上へ、すくいあげるように棍棒が一閃する。

 鎧をまとった身体が瞬間的に浮き上がるほどの強烈な打撃をうけ、私兵は白目をむいて気絶した。



 たちまちのうちに三人の敵を無力化したインであったが、敵は十人。数の上での不利はいまだ継続している。

 だが、このときインは戦う場所を選んでいた。

 階段を背に立っていれば、背後から攻撃を受ける恐れはない。地上の邸宅から増援が来れば話は別だが、その時は階段を駆け下りてくる音で察知することができるだろう。



 インの棍棒が振るわれる都度、薄暗い地下に私兵の悲鳴が響きわたる。

 今もまた、力任せに横なぎに振るったインの攻撃を兜に受けた敵がもんどりうって倒れこむところだった。



「か!? が……ッ」



 おかしな角度で首をまげた私兵の口から泡が溢れ出る。

 インの身体が猛禽のように宙を舞い、倒れた兵の頭部を蹴り砕く。その容赦のない戦いぶりに、生き残っている私兵たちは怒りと嫌悪が入り交ざった声をあげた。



 虎の子であるはずの私兵をたちまち半数近くまで討ち減らされたラーカルトは、なんとか地下を脱して地上に戻ろうと試みたが、インはラーカルトの部下と激しい戦いを交えながらも、常に己の位置を階段の正面に据えていた。

 あれでは階段を駆け上ることができない。いっそここから大声をあげて、地上にいる部下を呼び寄せるという手もあったが、この地下牢は音が響かない造りになっており、どれだけ声を高めても地上の者が気づく可能性は低い。

 捕らえた者たちの声が地上に届くことのないように、とその構造にしたのは他の誰でもないラーカルトである。誰を恨みようもなかった。



 結論として、ラーカルトが地下から脱出するためには、階段の前に陣取る緋賊を倒す必要がある。

 しかし、頼みの私兵たちは一人、また一人とインによって倒されていく。床に倒れ伏す私兵の数はすでに片手の指では数えられない。

 気がつけば、残っているのはラーカルトを除けば二名のみとなっていた。



 そのうち一人は鋭く振るわれた棒で足を払われ、立ち上がる暇もなく脳天を強打されて意識を失った。

 もう一人は、インが攻撃している隙を見計らって剣で斬りつけたものの、その攻撃はインの左腕によって弾かれてしまう。

 これはインが左腕に巻きつけている鎖を利用した防御であったが、相手はそんなこととは知らない。篭手すらつけていない腕で刃を防がれ、動揺したところに棍棒の一撃を脳天にくらってしまう。

 その私兵は糸が切れた人形のようにばったりと床に崩れ落ちた。




 かくて、緋賊の頭目は帝国派の領袖りょうしゅうと正面から対峙する。

 進退きわまった帝国貴族はとっさに両手を前に突き出し、武器を持っていないことをアピールした。



「ま、待て、待て、待つのだ! ここでわしを殺さば、貴様はすべてを敵にまわすことになるぞ! ドレイク評議会だけではない、シュタール帝国もそなたを許さぬだろう。帝国を敵にまわして生き延びられると思うほど阿呆ではあるまい!? そ、そもそも何故に緋賊がわしを狙う!? 貴様らが付け狙うべきは議長のパルジャフであろうが!?」



 全身の贅肉を震わせながらラーカルトは言い募る。

 両手の指にはめられた宝石や、頭部につけた金色の額冠が壁の明かりを反射して、まるで幻惑するようにインの視界の中で瞬いた。



「それとも、女どもや囚人から何か聞きおったか!? 所詮やつらは負け犬、わしに従わされた腹いせにあることないこと言い募っただけよ。その頼みを聞きうけて義賊を気取ったところで、銅貨一枚の得にもなりはせん! おとなしゅうわしにつけ! 金でも地位でも好きなだけ与えてやるぞ。それとも女が欲しいか? よかろう、金で弱みを握り、力で押し倒して小生意気な女を屈服させる楽しみを味わわせてやろうではないか! まさか野盗の身で、それがけしからぬと言うつもりはあるまいてッ」



 息もつかせぬ言葉の濁流に晒されながら、インは黙然とラーカルトの狂態を眺めていた。今も視界をちらつく装飾品の輝き、それを気にする素振りも見せない。

 物欲のかけらも見せないインの様子を見て、一瞬、ラーカルトの目に粘つくような光が浮かび上がる。が、その光はすぐに掻き消え、ラーカルトはいかにも腹立たしいと言わんばかりの態度でインを怒鳴りつけた。



「何がおかしいのだ!? いや、わしがやってきたことの、何が悪いというのだ!? こんなものはどこの国の王も、貴族も、いくらでもやっていることではないかッ!!」



 だから自分ひとりが責められる筋合いはない、と豪語するラーカルト。

 それに対し、インは――



「お前が誰を抱こうと知ったことか。抱きたければ好きなだけ抱けばいい」



 特に構える様子もなく相手の怒声に応じた。

 ラーカルトは意外そうに大きな両眼を瞬かせる。



「ほう? では――」

「俺がお前を殺すのは、お前がシュシュの秘薬を使ったからだ。それ以外の理由はない。ヴォルフラムを討ってから三年、ようやくあいつの痕跡を消し去ることができる」



 そう言うと、インは凍えるような眼差しでラーカルトを睨みすえた。

 子爵の位を有する帝国貴族は、額に玉のような汗を浮かべ、なおも抗弁する。



「な、なんのことだ? シュシュの秘薬? そのような薬、わしは知らぬぞ! ヴォルフラムとは誰だ? そのような男、わしは知らぬぞッ!」



 言い募るラーカルトだったが、インは相手の主張を一顧だにせず、一歩、また一歩と近づいていく。

 それを見たラーカルトは震える声で最後の問いかけを行った。



「……どうあっても、わしを殺す気か?」

「ああ」

「そうか。であれば――」



 言うや、ラーカルトは素早く懐に手を突っ込んだ。

 取り出したのは一本の小瓶。素早く蓋を開けたラーカルトが、一息で中身を飲み干す。

 ぜえぜえと荒い息を吐き出すラーカルトと、そんなラーカルトを無言で見据えるイン。



 やがてラーカルトの様子に変化があらわれた。

 今の今まで細かく震えていた身体から、ゆっくりと怯えが拭われていく。

 不安げな表情は掻き消え、かわりに他者を見下す傲然とした笑みが顔を覆っていく。

 一拍の間を置いて、ラーカルトの口から痛烈な激語がほとばしった。



「殺される前に殺すだけよ、愚か者!」



 豹変したラーカルトがインめがけて躍りかかる。

 敵意と戦意で爛々と輝く双眸は、血に濡れたように赤く赤く光っていた。



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