テーマ『無人駅』
随分と間が開いてしまいました、お久しぶりです。
生存報告も兼ねての投稿、なお文字数との戦いの結果超展開になった模様
これはある日の、夏の思い出だった。
目覚めた自分はまだ眠っているような気分だった。
目を瞬かせるが、黒一色の視界に変化はない。
「それはそうだ。君に開く目はないんだから」
声が聞こえた。淡白で、調子がつかめない中性的な声である。
「初めまして、こんにちは。いや、こんばんはかな?」
自分に聞かないでくれ。
そう言おうとしたが、失敗した。声を出そうとしたら単純に出なかったからだ。寝ぼけているみたいに、自分の体の輪郭がつかめない。
「くつくつ。それでいい。ここには、いわゆる時空間の概念が存在しない。だから、こんにちはでもこんばんはでもあるし、そうでもない。答えがないから、答えなくていい。君の存在もあやふやで、目が、口があるかもわからない」
言葉の意味が分からず、またやはり声も出せないから無視しておく。そんな自分に聞こえてきたのは、苦笑かそれとも冷笑か。
「まあ話を始めようか。生憎と尺もない、手早く進めよう。……君がここに来た理由と、この場所についてまで」
一拍。
「ここはいわゆる交差点。今は交わる軸も、向きも、数も定まっていない不確か極まるものだが……君の抱く意志に基づき、その要素が決定される」
立て板の上の水のような、流暢に紡がれた言葉に思考が追いつかない。自分をおいてけぼりのままにして、それは言った。
「ここを支配するのは物理法則じゃない。意識、心、そして想いだ。さあ思い出すといい。君の中に答えはある」
その言葉を聞いて、自分の中で息吹を始めたものを感じた。
弾けるのは記憶だ。白皙の少女に似た、妙に澄んだ情景の数々。
夏の日。輝く川面。空に軌跡を残す水玉。
プリズムの中にいるような、陽光が残す目映い残像。
轟音と閃光と、夜闇に浮かび上がる強い色彩。
陽炎にぼやけるアスファルトの黒。
そして、そうだ。青空の下で踊る白い花。
僕が見た景色の全てに、君がいた。
胸に強い痛みが走る。
裂傷とも打撲とも取れないその傷から、暖かい感触が抜け出ていく。出血する感覚に似ていた。
「へえ。……それが君の傷かぁ」
「ッ!」
僕が息を呑む音が聞こえてきた。
いつの間にか、僕の視界に色が戻っている。
『無人駅』だ。昼下がりの空模様と、人影のない駅舎の中に僕はいる。
同時に、聞こえていた声の主が形をもって僕の前にいた。
見覚えがあった。この光景にも、コイツにも。
「コイツなんて失礼だねー、私は君の、愛した人だよ?」
健康的な日焼けと真っ白なワンピースが対照的。僕はそんな彼女の、猫に似た笑顔を飽きる程見てきた。
だからその顔を邪悪に歪めるコイツが許せなかった。
「別に許されたいとも思ってないよ」
彼女の細い指が僕の胸をなぞる。息が詰まる程の激痛に悶える僕を見て、彼女の唇の端がさらに持ち上がっていく。
「話の続きをしよっか。ここに来る人はね、必ず傷を持ってるの。物理的なものじゃなくて心理的な、いわゆるトラウマをね。そしてここは、その傷に関係する光景を映し出す……。君はこの子に関して傷を負っているみたいね。だから」
ずぐちゅ、と自分の胸元で水音がした。
「それを治療して……あ、げ、る」
絶叫を上げる僕の胸に、患部を開くメスのような冷たい感触が滑り込む。自分の脳内が土足で踏み荒らされていく感覚に、怒りの前に悲しみがこみ上げてきた。
「へえ、楽しそうだね。うんうん、実に妬ましい」
ぐちゃ、ぐちょ。
彼女は笑い、片手間に僕の中をかき混ぜながら言葉を続ける。
「そうだ、この場所についての話だったよね。ここはあなたの現実世界と、幾何学的に同質なものなの。無造作かつ無防備かつ無数に感情がすれ違う駅、そして電車という環境は強い感情のエネルギーを生む。それは流れる時の中で歪み、それを模倣した一つの世界を創り出した。そして私はその案内人。あなたみたいな、傷ついた子羊のね」
歯を食いしばる僕に満足したか、鴉のような哄笑が響く。
「辛い? 苦しい? それじゃあ、その原因を貴方の前に引き摺り出してあげる」
僕の体の中で蠢く指が、何かを捉えたように握られる。同時に僕の体が怖気で満たされた。
どうやら心の奥底にしまいこんで、目を逸らしていた記憶があるらしい。
そして僕自身が、それを思い出すことを拒否している。
僕は声にならない悲鳴をあげて、身を捩り、痛みに息を切らした。
君は一体何なんだ。
無理矢理吐き出した僕の問いに、彼女は紅潮させた顔をさらに歪めた。
「私? 私は感情から生まれた存在。それも呪われた電車が連れてきた、深い汚泥のような恨み辛みのそれからのね。だから貴方が楽しそうなのは妬ましいし、貴方の苦しそうな顔を見るのは好きなの」
息もかかるような距離で、彼女と目が合う。
そこには果ての見えないような闇が、ぐるぐる渦を巻いていた。
「だから……もっと見せて?」
甘く囁く声が、僕の奥底に浸入する。同時に、鍵の掛けられた大事な何かが引き抜かれた。
そう。確か、彼女との思い出の、その最後のこと。
いつものように遊び疲れて、二人して家路を辿る途中。
ちょうど星が全く見えない、闇だけが広がるからっぽの空の下で。
彼女は精神を病んだ男の凶刃に仆れた。
笑う彼女の涙と、動かなかった腕から零れ落ちる血の温度が、匂いが、僕の手にこびりついて離れない――
「ふふ、元凶が出たね……」
嬉しそうなその声に、僕は応えられない。痛くて。辛くて。胸中がよく分からない何かで一杯になって、喋れなかった。
そうだ。僕はこの記憶を忘れてしまいたかったのだ。
重ねてきた思い出が脳裏で甘美にきらめく度に、黒い事実が僕の四肢を縛り、重くのしかかってきて、潰れてしまいそうだった。早く忘れ去って、このおぼろげな鎖から逃れたいと祈った。
だから僕は、ここに来たのか。
「それ、治してあげよっか」
彼女の言葉が、耳朶を打つ。脳髄に染み渡る。
僕は頷いた。
ガタン、ゴトン。
一定間隔で体を突き上げる衝撃に、意識が次第に持ち上がっていくのを少年は感じていた。
自分は今、どうやら電車に乗っているようだ。ツンとした埃の匂いと、田畑がどこまでも続いているような風景が、開かれた窓の向こうを流れていく中で、少年は自問する。
自分は一体、何をしていたのだったか。
答えは簡単だ。お盆休みに、祖母の家に帰省していたのだ。
ただ、なんとなく判然としない感じがする。単調に、かつ無感動に過ぎていった日々の記憶の中に、妙な齟齬があるような気がした。
はて、と呟いた少年の声は窓の向こうに当て所なく放たれて、蝉の声と、風凪ぎの静けさの中に消えていく。
ふと首にひんやりとした感触を覚えて、少年は手を当てた。
チェーンネックレス。その先には薄い楕円の金属球がある。
そこに切れ目が入っているのが見えて、爪を差込み開いてみると、そこには一枚の写真が無理矢理貼られていた。
日焼けの顔色とは対称的な、白い歯が綺麗な少女の写真だ。
見覚えは、……特になかった。
ただ、それを見ていると何故だか、切り裂かれたように胸が痛む。
あ、と思わず声を出す。
小耳に引っ掛けた、近くで起きた不思議な話の事。
とある電車に乗っていると、記憶を失ってしまったように、嫌なことを忘れさせてくれるという。
どうにも自殺やら、事故やらと人死にが多い路線らしく、それだけに怨念がわだかまり、膨れ上がって、真っ暗闇の世界に人を呑み込むことがあるとかないとか。
しかしどうして今、こんなことを思い出したんだろう。
そう思った少年の頬に一筋軌跡を残し、雫が落ちていく。
少年は首を捻って、何度も目元を拭うが、その勢いはむしろ増すばかり。
雫が落ちて弾ける度に、胸裡がぽっかり穿たれるような痛みが生まれる。少年は呻き、胸を押さえながら思う。
所在不明の記憶と共に、この痛みさえも消えてしまうならば。
それはとても、悲しいことだと。
これはある日の、夏の思い出だった。
結局のところ、背負っていた記憶やら思い出を捨ててしまうのは悲しいことだ、っていう話でした。漂うまとまらなかった感
次回になりますが、少し遅くなりそうです。
単にまた時間が1、2週間取れなさそうなのと、少し知識不足を感じてきているからです。ポギャ貧がひどく目立ち始めました。
もっと見聞を深めて、納得のいくものが書けたら、皆さんにお見せしたいと思います。
これで失礼します、お疲れ様でした。