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消えた「薫風丸」


 泥棒市の綺羅の小屋で、薫子は手渡された夜光杯を目の高さに挙げてためつすがめつ見ていた。何を思ったのかは分からないが、綺羅と言う人は薫子が何をしていても勝手にしろという態度を崩すことはない。これもそうだ。

 この美しい杯をさりげなく渡してくれて、注意するでもなく与えてくれている。

「ここから出るのも自由だが、けんか騒ぎだけはやめてくれ。おまえが暴れるといらぬけが人が出る」

 ここの住人達も薫子が綺羅の預かり人であることを知っているのだろう、無茶を仕掛けてくることはない。だから、薫子もここを出てあちこちを歩き回っているときには薫風丸を持たずに出るようになっていた。

 ただ、気になるのは、時折ここで見かける貴族らしい少年たちの姿であった。

 何をするわけでもないのだが、薫子を見張っているような・・・気のせいでもあるような・・・


 今も夜光杯を見ていた薫子の耳にあわただしい足音が聞こえた。音のしたこの小屋の入口へ目を向けた時に、いきなり飛んできた者がいた。そのまま薫子の首筋にしがみつく格好で叫んだ、

「姫さま、見つけました!」


 抱きとめたまま後ろへひっくり返ってしまった薫子の耳に鮎女の泣き声が届いた。

「ほんまに、こんなとこにいてはったんや・・」

 それはお吟の声・・

「あれ、何でお吟さんと鮎女?」

「何でやおへんえ。兼からお迎え頼まれて、まさか思たんやけどね・・鮎女ちゃんがどうしても行く言わはるさかい、連れてきた」

「そっか・・ごめんな・・心配させてしまった。でも、なんでここがわかったの?」

「さあねえ・・兼が頼子さまから聞いたらしいけど、あいつ詳しいこと言わへんのや。怪しいやろ?」

 

 いかにも朝帰りと言う雰囲気を漂わせて兼がお吟のところへ現れたのは今朝のこと。しつこく聞けば怒るからそのままで置いたが、どう見てもいつもの兼ではなかった・・

「あんな格好して行ったら、検非違使庁へ入れてもらえへんえ」

 いつもの不良貴族の若さま風の姿では怪しまれると言ったのに、兼は笑っただけで出仕して行ったのだ。薫子には言わなかったが、その口から「頼子」の名が出たときに、お吟は妙なものを感じた。こういうことには鋭い勘の持ち主である。


(まっ、いっか・・)

 人の色事には深く立ち入らない・・それがお吟の信念である。


 二人に遅れてもう一人、十二・三歳の少年が一人入って来た。薫子にしがみついている鮎女を見て眼を丸くしている。

「小竹も来たのか?」

 呼びかけに少年はどぎまぎしていた。緊張しているのがわかって、お吟は少し笑った。小竹は鮎女の弟。主筋に当たる姫さまは美しい人であるが、いつも自分たち兄弟だけではなく親にまで気を配ってくれる人だった。


「頼子どのと話がついたのだな・・帰るか?」

 綺羅は市の外まで送ってくれるつもりらしかった。この時薫風丸は小竹が抱えていた・・この時までは・・

「わたしは、ただの餌であったらしいな。この貸しは返してもらうからな」

「きつい女子だな、そなた・・だがそれが気に入った。俺のものにならぬか?」

「寝首掻かれてもよいのなら?」

 その言葉に綺羅の端正な顔が苦虫をかみつぶした表情になった。

「かわいくねえなあ、お吟、お前から奴に言っとけ。どうやったらこんな可愛げのない女に育てられたんだと・・」

「心配には及ばぬ。ほかの殿御の前ではかわゆい女子ゆえ」

「さっさと帰れ!!」

 

 そこで初めて気がついた・・小竹がいない・・


 しかも、持たせていた薫風丸ごと、姿を消していたのである・・・


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