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短編集

白い怠惰

作者: 林 藤守

 ぽろろんと、きれいな音が聴こえてきた。きっと、お爺ちゃんの奏でる三味線だろう。死んでからもう、三か月になる。それなのに、まだ家の中をうろついているのだから、どうしようもない。困った老人だと思う。けれど、灌木に水を垂らしたような音色は、眠りに倦んだ私の心にじんわり、まったく、朝にふさわしいほど、心地いい。

 時計の針がだんだんと大きく聞こえる。さっきまで部屋中に降り注いでいた夢の残滓が渦巻いているようで、私はふと、メロディの中に隠されたほんの少しの寂寥を、感じ留める。穏やかなそれは、寂しい海に浸したように、音の粒という粒に沁みわたっている。

 まるでじゃれつく魚のよう、あの、あの、沖を泳いでいると寄ってくる体中を吸っては離れる小さな魚のよう、好ましいとしか感じられないのは、不思議なことです。


 私はきかん坊な前髪を煩わしく感じながら、だるい体を回転させ、毛布に包まれた暖気を外へ逃がす。肩に鼻先を触れさせると、とても血が通っていたとは思えないほどに冷たくて、泡立つ肌がよそよそしい。鼻とは心臓からもっとも遠い場所であると突き付けられた気持ちがし、眼球を動かすことさえ、億劫になる。

 布団の中に潜り、体を毛布に押しつけた。穏やかな温もりが植物の病気を思わせる速度で拡がってゆき、体中の尖った部分が脈を打つ。まるで血管の中に流れる私そのものを知覚させるかと思わせ、私は自分の耳や鼻、指先などに可愛らしい心臓が宿った気がして嬉しくなる。


 ふと、小さな頃の思い出が頭を掠めた。小学生の頃だったか、傷ついた小鳥を拾ってきたことがあったのだ。たしか彼は私の手にすっぽりと収まってしまうくらい、小さかった。だから小鳥というよりは、雛、と表現した方が、正しいのかもしれない。どうやら巣から落っこちてしまったらしく、彼は石くれのように道端に落ちてい、もはや鳴く力すら持たない、死を待つだけの物体でしかなかったと記憶している。

 私は彼をつまみ、桃色のハンカチの上に乗せ、運んだ。馬鹿みたいに晴れた日だった。そこら中が明るかった、世界中の輪郭が浮かび上がっているのではないかと思われるほど、恐ろしく巨大な陽だまりの下だった。

 こんな陽の下では彼の毟られたようなピンク色の体が陽に焼かれてしまうことは自明だった。頭の弱い子供だった私でもそれは容易に想像できる未来だった。

 どのみち長く生きられや、しない。わかっていた。でも、助けたくなってしまったのだ。

 ただ内気な子どもだった私は、大人に相談する勇気なんて持ち併せていなかった。さてどうしよう、用意できたものと言えば、空のティッシュ箱に綿を詰めたものだけだ。私は矛盾していた、いや、子供とは矛盾しているものなのか? つまり死にかかっている生き物に対して、寝かせるだけで、満足してしまったのだ。当然、動物を看病するための知識や気遣いがあるはずもなく、彼はあっけなく息を引き取ってしまう。

 悲しいのは、ここからだ。

 小さな私にとって、突然現れた「死」は受け入れ難く、また、その観念に対する懐疑すら抱かせる、異物のよう感じられた。

 私は彼に何度も何度も語りかけ、揺らし、遊んだ。信じられないことにいくつかのお気に入りの人形と死骸を並べ、『おままごと』さえした。「お宅の坊やは可愛いですねえ」「ええ、そうなの。自慢の息子なのよ」仄かな温もりを残した彼は、次第に私の心の中で輪郭と人格をもって立ち上がり、賑やかに甘えだす。「お母さん、お母さん! お腹がすいたよう! お母さん!」夜が更けてゆく頃にはもう、まるで絵本で読んだ素敵な物語のように、そう、カエルの呪いが王子様のキスで解けるように、死骸は私のアイとやらで息を吹き返すに違いないと、思い込んでしまっていた。

 アイを伝える方法を思案した私は、体を丸め、小鳥を抱き、親鳥になったつもりで眠ることにした。それはある意味で、当然の成り行きだったと言えるのかもしれない。小さな頃の私の中では、坊やは既に生き返っていたのだから。そして朝には可愛い小鳥のさえずりで目覚めることができるよう、羽毛を撫でつつ、気持ちばかり嘴を耳に寄せ、安らかな眠りに就いたのだった。


○○○


 隙間の多い部屋の中へ、冷たい冬の匂いが滑り込み、あの日と同じにおいが立ち込める。ああ、私はきっと感傷的になっていると思う。そうでなければ、風邪でも引いてしまったに違いない。

 私という人間は体調が悪いのだ、生まれたときから、ずっと。

 ああ、ごめんなさい。こんな女でごめんなさい。でも、しょうがないのです。私はこういうふうに出来ていて、こういうふうにしか、在れないのです。 

 私は、誰に、言い訳をしているのだろう、この逡巡は、なんだ、私は、誰に聞いて欲しいのだ。

 お爺ちゃんの音色は止まない。乾いた家の中を気だるげに、しかし滔々と流れて響く。


○○○


 四十九日を過ぎた頃から聴こえるようになったそれは、どうやら私に伝えるためだけの音色であると思われた。あまりにも懐かしい気持ちのする音なので、『もしかしたらこれは私が生まれた頃からずっと鳴っている音ではなかったか?』などと悩んでしまうこともあったのだが、どうだったか、自堕落な生活を送っているためにか、はっきりとした答えは見つからない。私はずっとこの調子。考えているようで、過去を反芻しているばかりだ。ちょうど牛のようで、食べたものを消化できずに、何度も何度も吐き出しては、また、口にする、記憶を食べる、ああ、わたしは牛女。その響きが面白くて、何かいも呟いてみる。

 私は反芻し続けなくては生きてはいけない、穢れのかたまりなのだ。記憶を汚らしく咀嚼し、飲み込み、また吐き出してはぐちゃぐちゃにしているのだ。そこでは過去も今も、いっしょくた。私は暗くて汚い女なのだ。

 不安だ。今だって、どうやって生きているのか、覚束ないから。頭痛がするのは、寝ている間に、頭の中に水銀を注入されたからではないだろうか。鈍い痛みが私の心を弱らせてゆくのである。何かの拍子に『どうして朝なんて来てしまうのだろう?』なんて考えてしまう自分を発見して、いやで、いやで、暗い気分になり、拭えない。もはや脳髄すらも怠惰に蝕まれ尽くされているといっても過言ではない。


 私は眠たい眼を擦り、重たい頭でお爺ちゃんを心配しつつ、体を伸ばして欠伸をする。そして枕元にある読みかけの小説をテーブルに投げるように置き、焼けた肌を剥くかのごとく、慎重に布団を剥いで体を起こす。すると一際大きくなるのはまた、三味の音。ともするとお爺ちゃんは私の一挙手一投足を眺めているのではなかろうか、とさえ思えてしまうくらいにタイミングが良い。もしくは知らない間に、私が映画のヒロインにでもなってしまった、か。

 しかし心配である。こんなに体を動かしてしまっているのだ。大丈夫なわけがない。いくら死んでしまったからと言って、体は大事にするべきだ。私がお爺ちゃんを想うと、音の粒は一際波打ち、かき鳴らすように、慰めるように、お爺ちゃんの嘆きのよう。苦しみながら死んでいったはずなのだ。病気で窶れた枯れ木のような体をしていたはずなのだ。それなのに、いったいどこに、こんなにも力強い音色を隠していたというのか?

 私はたった一人、氷みたいに冷たい床を踏みしめながら廊下を進む。やがてお爺ちゃんの音は小さくなり、みしみしと軋む階段のそれと混じりあい、食い尽くされて消える。


○○○


 素敵な、夢をみた。

 私は大きな翼を持って、飛び回っていた。裏山にあるダイダラボッチも見上げるほどに大きい鉄塔よりも高い楠の木の上を、まるでスキップでもするかのように悠々と、飛び回っていたのだった。私は自然そのものだった。現実よりもずっと、現実的ですらあった。

 私は適当な太い枝にうんと砥いだ爪を器用に食い込ませ、ぼんやりと空を眺めていた。晴れやかだった。溶けそうなくらいにふやけた脳髄で、海も空も変わらないのだなんて思いつつ、カチカチと鳴る嘴の感触を楽しんでいた。

 うっすらと色づきはじめた葉は冗談みたいに大きい。柔らかい陽に浴された太い葉脈は浮き上がり、生き生きとした緑を私に見せる。彼らはみんな、誰も彼も冷たい顔で、ひたすらに死を願っているようにさえ見える。

 冷たい風が羽根を撫でる。山中の木々を震えさせ、たわませ、すいすいと隣の木々へと移ってゆく。私は眩しさに目を細めるが、満足そうな雲の表情から、空と季節がとても仲良しなことを発見する。これは素晴らしい発見だった。関係がないと思われていた二つのものが仲良しであるということ。それが希望でなくて、なんであろうか。私は更に目を細める。決して眩しさのためではなかった、私と坊やは、きっと、そういうことなのだ。

 やがて風に乗るようにして体を投げ、可愛い坊やの元へと飛んでいった。冷たい風が私の心を高揚させた。途中、いくつもの風景が視界に入った。湖の下に広がる空、木々の梢から覗く獣たち、龍になろうと土の中へともぐる蛇。蛇の真っ白いお尻がすっぽり土の中へ這入りこむと、後にはおへそのような穴だけが残っていて、私はそれをとても可笑しく感じ、漏らした笑いは息となり、うねる風へと消えていった。

 『坊やはたった一人で、私を待っている』と考える。すると、胸の鼓動が速くなる。


 しかし、飛び回っているうち、私はとんでもないことに気がついてしまうのだった。坊やはどんな顔をしていた? 私は坊やの顔を思い描くことが、できなかったのだった。

 夢の中であったせいか大した不安が湧くことはなかった。が、疑問は湧き出でた。どうして私はこんなに、落ち着いているのだ? 自らの心の在りようそのものが疑問だった。つまり、私は、小さな頃から、よく、知っていたのだ。私は「予想や安心というものはことごとく外れ、靴の裏を舐めさせられるような結果になってしまう性質の人間」なのだ。何につけても、そんなふうに出来ている自分の運命の予感といったものを、感じ取っていた子どもだったのだ。

 私はほんのちょっぴりの焦燥をこしらえつつ、速度を上げる。進め! と願えば景色は線になって後ろへ吹き飛んでいく。木々は細い緑の糸になり、空は靄のような海色の板になる。爽快だった。陽が昇って、また落ちて、いくつもの海を渡った。いつしか私の心にはただ、甘ったるい母性だけが在った。

 ついに私は枯草と泥で作った巣へ辿りつく。それを見ると、疲労は何処かへ吹き飛んでしまった。たまらなく懐かしい気持ちで、バタバタと羽根を上下させる。そして、我が子を起こさないよう縁から半分だけ顔を出し、こっそり坊やの寝顔を覗き込んでみる。

 坊やは微動だにせず横たわっていた。まるで死んだしまったようだ。私は不安になって手を伸ばす。すると彼の体がぴくん、と可愛らしく跳ねる。

 ちゃんと、生きていたのだ。とくんとくんと、むき出しの心臓のように脈打つ体がそれを伝えている。よろこびを押さえきれない私の顔からは知らずと微笑みがこぼれ、それは音楽になり、粒子になり、風へと還る。私の喜びは体中から出でて、世界の隅々にまで拡散してゆく。

 どのくらい眺めていたのだろう、坊やは私の気配に気づいたのか、急に「お母さん。お腹が空いたよう」と泣き始めた。私は急いで木を削り、芋虫をほじくり返して口移してやる。灰色に一滴のミルクを垂らしたような色をした虫。彼がまだ柔らかい嘴で懸命についばむと、本当にミルクのような体液がぶちゅりと弾けて美味しそう。坊やは満足そうに喉を鳴らして飲み込んでから、「ああ、これで生きていける。ああ、これで生きていられる」と唄うようにさえずるのだった。

 私とその心は弦の音のような坊やの声につつまれて、母鳥にふさわしい暖かさで一杯になる。私は坊やに歌を教える。古い歌だ。いつか私が風の中に還ったとしてもたった一人で生きてゆけるよう、命のよろこびに満ち満ちた、幸福で孤独で哀しげなメロディ。いつの日か、お爺ちゃんに教わった歌だ。

 気がつけば、たった一人の歌声に、可愛らしいソプラノが重なっている。山々の頂を超えるよう、この子のためなら何でもできると、私の小さな母性は歌声となって、坊やと手を繋いで溢れてゆく。喜びとはまるで尽きることのない泉だと思った、坊やは私の全てだと、夢の中の私は、本当にそう思い、強く左手を握りしめた。


 そこで、目が覚めた。


 部屋中が幼稚園にある鶏小屋のようなにおいで満ち満ちていて、べとついた指、かさついたほっぺた、変に冷たい乳房の辺り。不思議に思って布団を剥げば、坊やがかろうじて原型をとどめる程度に潰れてしまっていた。ふわふわの羽毛からは赤黒い内臓と黄色い脂肪がはみで、私の隣だった場所、つまり坊やを抱いていたはずの場所は単なる赤黒い染みになっていた。グミのような小さな目玉。白く乾いては萎れ、ただ天井を見つめるばかり。堅い嘴は食い尽くされたようにバラバラになってい、硬い頭蓋の裏から緑とも赤ともつかない気味の悪いものが覗いていた。

私は茫然として、可愛い坊やだったはずのものをつまみ上げた。そうすると赤黒く固まった内臓から、血の塊がだらりと垂れて、音を立てて布団を汚した。


 私はその出来事を、誰にも伝えることができなかった。怖かったというよりは、気持ちが悪かったのかもしれない。初めて見、この手で触れた、「死」だった。どちらにせよ、口に出すことさえ嫌だったのだろう。口に出せば、本当になってしまいそうで、たまらなかったから。


 その日の夕方、帰宅する私の足取りは重かった。知らない家の夕ご飯のにおいを嗅ぎ、迫りくる夜を呪いながら歩いた。『お母さんは怒るだろうか? 坊やは本当に、死んでしまったのだろうか?』。靴裏がすり減るのではないかと思えるくらいに嫌々と家にたどり着いてから、ただいまも言わずに、恐る恐る自分の部屋に戻ってみた。すると部屋の中は『まったく変わらなかった』のだった。拍子抜け、というより、頭の中が真っ白、新しい布団カバー、シーツ、きっと死骸を見つけた誰かが後処理を行ったのだろう、でも、その後、私は、どうしたのだっけ。よく憶えていない。気がついたら小学校を卒業してしまっていたような気さえする。私は私の空白が、悲しい。いったい私は、坊やの所在を尋ねたのだろうか、ちゃんと供養はしてあげたのだろうか、それとも幼年特有の残酷さで、何事もなく一日を過ごしてしまったのだろうか? その後、私は、どうしたのだったか?

 

○○○


 食器を洗い、制服を着て、お化粧をする。鏡の中には私が、一人だけ。溜息をつきながら、鏡はあの世と繋がっているというのは嘘っぱちに違いない、と考える。なぜなら私はこの縁の中にお爺ちゃんの姿を見つけたことがないのだ、から。

 傾げた首を元に戻して、短いまつ毛を長く大きく艶やかに固め、赤いチークを少しだけ塗り、自分に向かってはにかんでみる。電気を点けていないから、薄闇の中に浮かぶ私の顔だけがありありと見え、でも、もはや、何の感慨も湧かなくなってしまっている。まったく仕方のないことだと思う、人が死んでも世界は回るし、お腹もすくし、トイレにだって行きたくなる。「お爺ちゃんに会いたい」と口に出してはみるものの、誰も返事はくれなくて、私の顔はただ間抜けにぽっかり映る。じっと鏡を見つめていると、私は私でなくなって、ねえ、いったい、誰のためにお洒落をしているの? 幾度となく問いかけ、ああ、もう、もう、わかりきっていることばかり。気だるげな朝の空気を感じ留め、ふと全てが嫌になって、覚めない眠りにでも就いてしまおうかという気分になって、振り払うように窓の方を見やり、粘ついた光の粒がそこら中にくっついているのにハッとして。あら、いけない、こんな時間。私は少し焦って、準備を始める。


 高い鳥の声がして、小さな影が床を横切る。私は頭の中で、記号のような残身を描いてみる。そして、まったく、影、というのは残っても消えても、寂しいものだと、考える。不安の権化、寂しさの亡霊、わたしを縫いつけるおそろしいもの。けれど、しばらくしてから、私は、誰かを起こしてしまわないくらいの声量で、くつくつと笑ってしまう。

 寂しい亡霊、なんのことだ? 連想してすり替えてはいるものの、とどのつまり、それは、自分自身への憐憫ではないのか?

 このくらい頭がハッキリしている頃にはもう、三味の音はほとんど聞こえなくなってしまっている。たった一人のじょんがら節は波のように引いてしまい、後には暗い朝の残り粕みたいなものが残るだけだ。 

 私は頭がおかしくなってしまったのかもしれない、と、思うも、特別気にしないし、悩まない。まるでいつものことであるのだから、仕方がない。お爺ちゃんの音が聞こえる、なんてものは、他の人にしてみれば少し不思議なことなのかもしれないと、思ったりはする。でも、それだけなのだ。

 ああ、習慣っていうのは恐ろしい。慣れきってしまったということは、恐ろしい。


○○○


 もしかしたら、と私は思う。

 この世界が回っているのも、同じような理由なのではないだろうか。惰性。惰性の仕業なんじゃない? 太陽の周りを地球が旋回しているのだって、そいつのせいなんじゃないかしら? 

 世界はとっくの昔に、終わっているのかもしれない。


 最初にはただ、意志だけがあったのかもしれない。それは科学的に言えば、自転とか公転とかエントロピー、重力場とかヒッグス粒子。難しい理屈はついているが、本当は、難しいことなんて何一つなく、ただ『彼らがそうしてみたかった』からそうしてみたというだけの、簡単で単純、だからこそ強い、そんな意志だけがあったのかもしれない。いつでも止められる気がしていたはずなのに、慣性、次元、たとえば、ぴったりと張り付く、時間軸。がんじがらめになった何かのせいで、いつの間にか止めることができなくなってしまった。諦めることを諦めざるを得なくなった。自分たちの力が及ばないところまで運動のエネルギーは大きくなってしまった、っていうふうに、単純なことかもしれない。私は自嘲気味に笑う。偉い人たちはとやかくいうかもしれないけど、実はまったく下らない、単純な動機かもしれないのだ。高揚に任せて戯れた結果が私たちの世界を構築しているとしたら、それはなんて救いのない話だろうか。

 じゃあ、と続けて考える。彼らのふとした気まぐれで、夜が来なかったり、ずっと朝のままだったりすることがあったら、どんなに恐ろしいことだろうかと。いつまでも日付は変わらないのだ。変わらず時の流れというもの自体はあるのだろうけど、もはや物理法則の問題ではなく、朝が来なかったり、夜が来なかったりするのだ。それは森羅万象、あらゆるリズムを揺るがす問題になるだろう。私たちはきちんと寝て起きるという生活を保つことができるのだろうか。できなければ、大変なことだ。私なんて太陽と月がちゃんと追いかけっこをしている間でも、ずっと寝てばかりいて、そのためにか、少し、時間に鈍くなっているというのに。

 こんな子供っぽいことをぐるぐると考えている自分が馬鹿馬鹿しくなり、私は一人、照れ隠しにも似た笑いをこぼす。そして腫れぼったい目を隠すように髪を梳かしてから、鞄をもって立ち上がる。「はやくしなさい。置いてかれちゃうわよ」。聞き流しかけて、お母さんの声がちょっと怒ったふうに聞こえたことに気づいて、立ち止まる。お母さんが怒っていたらどうしよう、と思い、いや、そんなはずはない、と、思い直す。

 なぜか。それは、私だから。なんたって、私が彼女の娘であるから。「はやくしなさい。置いてかれちゃうわよ」声に背中を押されるように、私は男子みたいにドアを開け、靴をつっかけながら駆けてゆく。市井の慌ただしい沈黙が耳を刺し、誰も乗っていない車が目の前をびゅんと過ぎる。空々しい藍色。染められる街。私は暗い影のまま、空っぽのバッグを背負いながら、今日も空っぽの街を這いずり回る。


○○○


 冬の冷気に身を浴し、私はまったく気分が悪い。肌に触れる制服はいがいが不潔なくせをして、空気ばかりが清潔だから、馬鹿らしいくらいに性質が悪い。まるで世界が逆さになったように不自然、つまり、冬の朝とは不誠実で、不潔な感じ。でも、フセイジツって言葉の響きは好きだから許してあげる。私は冬のことを、やんちゃな男の子くらいに考えている。

 不運/不誠実/不潔/不愉快/不干渉に不思議、不仲、同音異義語の不感症。また不妊に不貞、不能と不倫に不平不満。「ふ」がつくと、とたんにかわいくすてきな響き。打消しのための漢字だなんて信じられない思い、鼻歌をそこら中にひっつけながら、曲がりくねった学路を駆け抜ける。

 ふ。ふ。ふ。心の中で呟き続ける。どうやら今日は雲一つない晴天になるらしい。私の嫌いな晴天かあ、少し物足りない気持ちで街の中に入ってみれば、ビルが真っ白に陽を跳ね返し、雪の実をつけた街路樹の梢がそこら中にインクのような影を飛ばしているのである。なんだか冬の威張りくさった声が聞こえるようで、怒鳴りつけてやりたいくらいに腹立たしくなり、ふいにマフラーなんて投げ捨てて、公園に積もった雪に飛び込んでしまいたい衝動に駆られるけれど、止める。しないのではなく、してやらない。私はちゃんと選択するのが好きなのだ。それに寒いのは嫌いだし、風邪で死んでしまうことだって、そんな下らない死に方だって、あるんだから。


○○○


 歩いてゆくと、猫が道の真ん中の氷の上で凍えているのを見つける。私は自分の体温で温めてあげようと駆け寄り、持ち上げる。するとその拍子に、氷に張り付いていた毛皮がべりりと剥がれ、柔らかい肉と黒い血の塊がぼたぼたと落ちる。ああ、と思う。ぼたぼた、という音は朝の静けさの中に消え、後には何にもない音だけが残る。私は彼をそのまま、地面の上に落としてやる。もうしてやれることはないのだから、どうしようもない。埋めてあげようかとも思うけれど、雪と氷を掘り返すのは面倒なので、やめる。外れた目玉がころりと転がり、見えない車に押しつぶされてひらべったい板になった。黄ばんだ体液が氷上に広がり、やがて何事もなかったかのように消えてしまう。私は汚れた手を雪で拭き、小さく手を合わせてから、また学校へ向かって歩き始める。

 大きなビルや騒がしい車たちに別れを告げ、五稜郭公園の曲がりくねったと小道、そんなものを丸ごと無視して、まっすぐ矢のように歩いていく。歩きながら、脚を上下しつつ重心を前に傾けるだけで体が動くのは、まったく不思議なことだと考える。膝まで埋もれる雪を掻き分け、白い山をいくつも登ったり下りたりすると、ついにはボロボロの弓道場が見えてくる。冬の匂いがむんと濃くなるのを感じ留めながら、私は自分が自然の一部として認められつつあるのを少しだけ嬉しく思い、また、嬉しく思う自分に侮蔑を覚えてる。

 道場裏の林を抜けると、積もった雪の下から覗く屋根の端が見えた。背の低い道場なので、周囲の木々が屋根を覆うように枝を伸ばしている。風が吹くと、たわわに実った雪の果実が、霧のような粉雪を散らしつつ、屋根の上に厚く積もる。

 その様を眺めていると、北海道の冬が持っている本来のイメージ、厳しい寒さ、凍る世界、途方もない寂寥。こんな連想が身を啄むのだけれど、けれども、雪は、優しい。私は知っているのだ。氷雪の世界は、イメージの表面からまるで対岸にいる暖かさを、意地悪な夏や秋が持って行ってしまったそれを、ちゃんと捕まえたままでいるということを。

 取っ手が金属製の、氷よりも冷たいぬるぬるしたドアに触れる。私は上着を脱ぎながら、先ほどの猫を思い出している。



○○○


 峰岸家、つまり私の一族は、ずっと昔から函館近郊に住み続けている名家である。元々は漁業で成り上がったらしいのだが、今は土地を貸して生計を立てている。典型的な田舎の名家といったところだろうか。私で何代目なのかなんてことは見当もつかないし、また、これから後世に峰岸の血を残し続けてゆくのはもはや不可能かと思われるのだけれど、代々この弓道場を所有する星雲高校に通うことになっているので、とりあえず私も従っている。数え年で十九歳まで、とのことなので留年なんてしたら大変だ。そして、弓道部に入ることも決まりの一つ。ただ、この習いはあまり歴史のあるものでない。曾曾おじいちゃんが考案した事らしい、が、詳しいことは誰も知らない、というか、さして、興味が、ない、というより、理由を知る術さえもうないのだから、親族の人間のほとんどはどうでもいいと思っているのが、本当のところか。

 我が家には変な決まり事がいくつかあるが、その中でもひときわ異彩を放っているのは、『死んだ人間の写真を残さない』ということだろう。私たちは家族が死んでしまったら、故人の顔の写っている何もかもを焼き払ってしまう。焼き払う日もちゃんと決まっていて、骨を拾い、墓に納めた日を一日目としてから八日後、つまり、肉体がなくなってから九日後だ。肖像画ですら焼いてしまうのだから、これはもはや徹底しているというほかにない。灰はお墓には埋めずに、本家で代々守っている林檎の木から採れた果実を浸けたお酒に溶かして、大きなお皿に注いでみんなで回しながら飲む。峰岸家では、写真とはあの世とこの世を繋ぐ窓のような物だと信じられているから、窓をそれぞれのお腹、つまり心に持つといった意味合いで行われている伝統らしい。

 それと、死んだ人の話もタブーとなっている。死んだら土に還ってしまうのだから、話しても仕様がないと考えられているのだ。こんな非合理的、非人道的とも呼べる風習は都会ではありえないのではないだろうかと思う。だから私はもうお爺ちゃんの顔を見ることができないし、存在の根拠を記憶の中に求めることしかできないでいるのだ。なんて悲しい伝統なんだろう、と胸が張り裂けそうになってしまう。けれど、お婆ちゃんに言わせればそれが大事なのだそうだ。本当の悲しみとは過ぎ去ってしまう『死』に対して感じる彼我の隔絶に対する感情でなく、心の中に在り続ける『変化しない人間』に対して抱くべき、同化の感情らしいのだ。肉体と肉体の永遠の距離と隔たり、それ自体を悲しむべきでなく、むしろ故人を自らの心の中に同化させ、その在り様を悲しむべきらしいのだ。もう話せない、顔を見ることができない。そんなものは皮相であって、本質でない。むしろ故人が永遠の象徴になってしまったこと、観念になってしまったこと、変容しないことを悲しむべき……らしいのだ。少なくとも、峰岸家に生まれたからには、そうあるべきだとお婆ちゃんは言っていた。

 だから私が曾お爺ちゃんの顔、ひいては考えや人となりを知らないのは当然、なのである。それにどうせそこまで隔たれてしまうと身内って感じがしないし、悲しさとかも生まれないし……あ、でもご先祖様ってのはしっくりくるかも? 帰ったら誰もいない仏壇で、供えてあるおやつでも食べながら、手くらいは合わせておこうかな。私がいつ盗んでもいいように、お父さんが私の大好きなものばかり供えていてくれているはずだから。


 蜜の詰まった蜜柑に熟して油の乗った鮭とばや、隣町の名産であるアップルパイ。私はジャムのようにペースト状になったもの・口の中でとろけてしまうものが大好き。苦くても甘くてもしょっぱくてもいい、汁が溢れるくらいにドロドロだったら何でもいい。鋭い味や輪郭のはっきりした力強い味は好きではない。そういう類のものは何だか食物よりも運動、肉体を使うことの方がしっくりくる気がする。

 そういえばお父さんは弓道があまり好きでなかったらしい(弓道どころか武道全般を好まないそうだ、命を無駄にする行為に感じられるから)。辞めたければいつ辞めてもいいだなんて嘯いていたけれども、別に嫌いではない私は、今日も早起きして弓を射る。それにおじいちゃんと離れ離れになってから、家にいるのはちょっとだけ億劫なのだから。


○○○


 弓道場というものは神聖だ。特に安土は神様がおわすところなので(言っておくが、未だ見たことはない)、私たちは的の方にお尻を向けることさえ禁じられている。また、左進右退の歩の運びや、畳を歩く際の歩数などまで細やかに定められているが、つまり、礼節重んじ弓に対して真摯であれということなのだ。

 私はうめき声を立てる引き戸を開き、上着を脱いで暗闇に向かって礼をする。今日もまた、一番乗りだ。足音を立ててはいけないので、摺り足でゆっくりと、びっこを引いて冷たい床を滑っていく。弓具に対して乱暴な態度を取ってはいけないのである。足音を立てれば、何かの拍子に弓具が倒れ傷つくかもしれないのである。安土への信仰と程度の差こそあれ、神社で騒いではいけないのと一緒で、ここでは弓に関わる全てに敬意を払い、慎重に取り扱わねばならないのだ。弓具の全てに神様がいる、と私たちは教えられている。つまり、ここは神前なのだ。武の神とは古事記にあるように帝の降臨に与した建御雷之男神、あれ、でもこれは剣の神様だ、じゃあ弓の神様は……なんて考えてから、私は笑ってしまう。馬鹿馬鹿しいのだ。まったく、弓が、武器が、何だっていうのだろう。お父さんは考えすぎだ。私がもし男の子だったらそういうものに神性を感じるのかもしれないけれど、お生憎さま、女の子なのだから、どうだっていい。弓なんてただの道具で、ただの木でしかない。反り返るよう誂えられた、人が作った木の棒でしかない。神様なんていったい、何処におわすというのだろう。私にとって伝統とは、文句を言われないために従う処世術の一つでしかない。

 鼻歌を歌いながら袴に着替え、帯で締めつけられた苦しいお腹をさすりつつ、安土に向いたシャッターを開ける。そしてもう一度外に出て、安土の横にある待機所に積まれた的を取り出し設置し、急いで戻って右手に弓懸を嵌めて的に向かって一礼の後(ああ、なんて仰々しいことだろうか)、五つある立場の真ん中に入り矢を二本床に置き、一本を右手の小指で持ったままに、最後の一本を弦につがえて、ホッと息つく。

 はやく矢を射たいと逸ってみるが、それは弓道においては何より邪魔な感情だ。私は構えることをせず、そのまま弓を両手と一緒にぶらぶらと投げだし、外の方へと目を見やる。すると粉雪が埃のように舞ってい、まるで砂漠のただ中に取り残されたような錯覚を覚える。

 ふいに、ついこの間まで在った、高校生活での日々を思い出す。体育が大嫌いだった私は、いつも仮病を使って木の陰で休んでいたのだ。とても暑い日だった。まるで血管の一本一本がほどけてしまうんじゃないかと思われるほどに、ぎらついた陽の光が溶けた飴みたいにそこら中に積もっていた。先生だけが帽子を被って、鋭い笛の音に耳が痛かった。彼女は目が弱く、紫外線で変色する眼鏡をかけていたため、体育になると決まってサングラスをかけてくる時代遅れの格好つけだと誤解されていた。ああ、熱中症にかかった子もいた、水を汲んで持っていってあげたかった。私ばかりが休んでいて、なんだか申し訳ない気持ちがしていたのだ。私は彼女らの方を見たくなくなって、土を弄って風に乗せ、砂丘のような風のたわみを観察してばかりいた。授業も半ばを過ぎ、みんながへとへとになり始めると、私はぽつんと外に取り残されているのに、なんだか自分も疲れているような気がして……。「あー、もう。なんでプールじゃないのよ―!」と、大声で叫んだのは、みっちゃんだ。私の大嫌いな女の子。水泳部で、肩幅と口が大きくて、体の小さい私なんて一呑みにしてしまいそうで……でも笑うとパアッと周りを華やがせる力を持った、ちょっと可愛い女の子。彼女とはもうしばらく会っていない。会うこともないし、会えるはずもない。

 なぜ今になって、彼女の事を思い出したのかはわからない。けれどもなんだか泣きたい気分だ。私は完全に失われてしまった過去へと思いを馳せる。記憶の陥穽に吸い込まれてゆく気持ちで、体はどんどん重くなる。


○○○


 白んだ空の下、ふいに差した曙光の反射で視界の隅が煌めいた。そこは、グラウンドだった。安土の右手の小道を挟んで広がる雪だまりの上、藻のような影の揺らぎを見留める。縁取るのは遠くから注ぐ、あの日の夏を思い出させるくらい、暴力の権化とも呼べる曙光。けれど、そこは、そこだけは、グラウンドだけは、まるで静かな白銀の湖面のように、ぽっかりと開いた空虚な場所、厳かな次元、あまねく自然の深淵。居た堪れなくなるくらいの静謐に満ち満ちて、私の呼吸は、もう一度、止まってしまいそうになる。

 祈る。こんな風景に出会ったとき、私は、いつも。様々な思いが湧き出でる。自然と対峙する瞬間にある自身の現在、包括されている事実、また不自然で在り続けること自体について、彼らを嫌悪してしまうことへの矛盾について。赦されるためにはどうしたらいいのかと考えるも、結局、考えることの無意味さを知らしめさせられる。私は祈る。目を細め、誰ともない自然に頭を垂れて、こんな気持ちが過ぎ去ってくれるのを待つことしかできない、いや、できないはずなのだ。自分の姿を遠くで見つめながら、滅私に努めるほかにない。限りなく無垢であろうとする、何もかもを投げ出してしまいたくなっている、助かりたい、居続けたい、救われたい……いや、救って欲しい。もしかしたら私の祈りは、祈りの本質から大きく離れているかもしれない。でも、いいんだ。知っているから。どんなに強く祈っても、誰も助けてくれないことなんて、私の存在がイレギュラーであることなんて、痛いほど感じてしまっているのだ。そればかりか、自然は冷酷に、いや、そもそも、感情なんてものがない、意味を持たせてくれやしない。生きているだとか死んでいるだとか、全部を一緒くたにして、津波のように押し寄せ、うねり、私の穴という穴から滑り込もうとするだけなのだ。


 ……滞った藻のような影は海猫の群れだ。私は以前にも朝焼けと共に降り立つ彼らを目にしたことがある。彼らはいつも、まるで空の絵の具が年月によって風化したようにポロポロと、冷たい雪の上に音もなく降り立つ。何一つとして変わらない生き物、そんな印象を、初めて彼らを見た日から抱き続けている。

鉱物のように澄んだ瞳、古く汚れた爪先。私の柔らかい肉なんて易々と裂いてしまいそうな獣であるための武器。嘘だろう。本当は、何の意味もないだろう。私の頭の中で大きくしているだけ、拙く乏しい連想を共通の無意識の中から取り出しているだけ。彼らは何も考えちゃいない。ただ彫刻のように突っ立ち、茫漠とした表情で佇んでいるばかり。

 ふと雪に混じる土の匂いと、土の下で眠る枯草の匂いが香り、私は心に暗い萌芽を感じ留める。矢を射れば、どうなる? 飛ぶ、刺さる、出血ののちに、死ぬ。有り体に言えば、それだけ。

 けれど、彼らは、彼らの意志は? 彼ら自身に有されているはずの、自然そのものの意志の所在は?……握りしめた弓束が汗で滑った。一際大きな声で鳴いて欲しい。断末魔と言うよりは、むしろ掠れた楽器のようなきれいな声で。彫刻であり続けて欲しいのだ……ごちゃまぜのスープになった湖面から、丁寧に、スプーン一杯分の温いミルクのような死だけを掬って。

 私はただ、そうあれかしと願っているだけなのだろうか? 血まみれになりながらもどこ吹く風で、矢が突き刺さったままの海猫。そんな悲しい生き物がいるだなんて、信じたくないだけ? 悲しいのは、私だけで十分だと、心のどこかで考えているのかもしれない。矢は雨となって、必ずや彼らを絶命させる。それでいい。それがいい。そうだといい。大袈裟かもしれないが、私はそう信じたいし、そうあって欲しいと願う。しかし、いったい、何本射れば矢は当たるのだろう。いつになったら、死ねるのだろう。彼らはそのとき何を見て、私はどんな復讐を? やはり、私が聞きたいのは――


 ぞくりとした。そして、あやふやな言葉ばかりが出てくることに驚いた。思考のうねりは取り留めなく続いてゆくことを知った。岸辺のない思索。私は自分が自然そのものになってしまう気がして、考えるのをやめ、的を向く。細い息を吐き、右手の力を調節し、矢を放った。ぱあんっと小気味良い破裂の音が、泡立つ皮膚にちりりと痛む。まるで鏑矢のよう、皮膚という皮膚が後ろへ抜けてゆくようで、もう一本、ぱあんっ。足元にある矢を拾い、続けざまに、三本目。焦燥の矢は驚くような精度で正鶴へと吸い込まれる。私は無心であろうとしている。けれどそれはもう、無心でない。矛盾だらけの私の心から、ぎらぎらとした凄いものが体中へと張っていくような感覚が拡がるのを感じ、ついには四本目も、言い訳のように、当たってしまう。矢が無くなってしまうと私は弓を捨て置き立ち尽くして、泣きそうな気持ちのまま、でも濡らしちゃいけない弓懸のために、上を向いてぐっと堪え。懐かしい名前が目に飛び込んできた。壁にかかった名札に記された、お爺ちゃんの名前だ。青雲高校の弓道部では歴代の主将の名札だけを壁に残してゆくのが習わしなのだ。海猫が一声「ぎゃあっ」。水面に広がる波紋のように連なる声がけたたましく、「ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃぎゃあ!」。私も真似て諳んじる。「ぎゃあぎゃあ、ぎゃあ!」混じりあった二種類の声が、朝の中へと吸い込まれる。

 お爺ちゃん。肺炎で苦しむ私のために、いつも三味線を弾いてくれたお爺ちゃん。秋のはじまりに、血を吐いて死んでしまって、ごめんなさい。ああ、お爺ちゃん。お爺ちゃん。


 パラパラと音がして、それは、音楽のように軽く、虚しく、連続的に降りしきる。私は目の前に広がる氷の雨を見留めるだけ、何にも考えられないでぼうっとしている。囃し立てるような雹が強まると、遠くの的が風に吹かれて転がってゆき、壁に当たって、誰かに引きずられるよう、動いている。

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