人間の達観、悪魔の憐憫
「長くても1ヶ月でしょう」
医師はベッドに横たわるカエに言った。
「あぁ、神様。どうか、カエを天に召すことをもう少しだけ待ってはいただけないでしょうか」
献身的な看護を行ってきたカエの母は、ベッドの横で両手を組み、その手を掲げ、大げさに泣き崩れた。
「お母さん悲しまないで。このことは、ずっと前から分かっていたことじゃない。人はいつか、皆死んでしまうわ。私はその時期が少し早かっただけ」
親を気遣い弱弱しく微笑むカエの姿を見て、カエの母は一層泣き崩れた。
「お医者さま。今日もありがとうございました」
余命幾ばくかの病人であるにもかかわらず、医師への気遣いも忘れずにいる姿に医者は痛々しげに微笑むしかできない。
「あぁ。苦しくなったらこの薬を飲むといい。効かなければいつもの倍飲んでもいいよ」
医師は表明上は優しいが、非情な薬の出し方をした。もう決して治ることはないのだから、せめて苦しまずに逝けるようにという配慮がその言葉には隠れていた。
その言葉にますます嗚咽を漏らす母の肩を撫でながら、カエは医者の方に小さく頭を下げた。
すっかり泣き疲れて寝た母に自分の毛布をかけてカエは目を閉じた。
「心残りを処理しようか」
カエが目を開けるとそこには一人の真っ黒な男が立っていた。
「何故?」
カエは驚くこともなく問い返した。
「母も娘の延命を望むがそれさえも少しだけと諦められ、医師からも後がないのだと言われた娘を憐れと思うからだよ」
慈悲深く微笑む男は少し悲しそうであった。
「ありがとう。そんなことを言ってもらえるなんて、ほんとに有り難いことね」
女神信仰の上でまさしく悪魔と言われるような姿で現れた男に対して、カエは驚くそぶりを一切見せない。普通の人間であれば、その悪徳さゆえに狂喜乱舞するか、神の御国へ行けないと、ひたすら恐れおののくかの二択であるのに、平静さを保つカエはやはり天使の素質を持つのだと悪魔は思った。
「そう言ってもらうために行動に移したんだから、素直に受け取ってもらって構わないよ。ヨキをどうしたい。ヨキとともに生きたい?ヨキの君の記憶を消す?それともヨキと一緒に逝く?」
「どれも魅力的な提案ね」
カエの気持ちを少しでも揺さぶろうと、彼女の幼馴染でおそらくは最愛の人の名を出すが、カエはそれでも薄く微笑んだままだ。
「それとも、他に要望がある?大抵のことは叶えられるよ」
「そうね。ところで、お母さんが起きてしまうから場所を移動していいかしら」
「君の体に負担はかけられないから、場所を移す必要はないよ」
指を男がパチンと鳴らすとカエの母の姿が忽然と消えた。
「お母さんをどこにやったの」
少し困ったように眉根を寄せてカエは男に尋ねた。
「自分の寝室で寝ているよ」
その言葉を聞くと、カエは固くしていた表情を緩ませ、また薄く微笑んだままの表情を顔に張り付けた。
「ありがとう。親切ね」
「いや、当然のことをしたまでだ。ところできみは何を望む?残りの余生をかけて。私は一流の悪魔だから君の余生を手放しさえすれば、それを最小のベッドで君の欲を実現させてあげることができる」
芝居がかった仕草で、カエに悪魔は手を差し出した。
「あら、それは困ったわ。私の命は1ヶ月しかないのだから、たいしたことはできないわね。仮に叶ったとしても、私はそれを味わう時間は残されていない。ということで、申し訳ないけれど、その提案に対しては謹んで辞退させて頂いていいかしら」
カエは面白がって、クスクスと笑った。
「困ったな。流石、天使候補。なかなか欲を表さないね」
「褒めてくれてるのかしら。天使候補だなんてうれしいわ」
病人が見せるにしては随分皮肉げに笑い、ここにして初めてカエの本質が垣間見える笑みへの変容に悪魔は驚く。
「君はその病のため、生きていくごとに、天使になるための資質をひどく兼ね備えてしまったんだ。そのまま死なれると均衡を保っている天使と悪魔の関係が崩れてしまう。だから、君を人として死なせることが私の役目というわけだ」
悪魔はいったん言葉を切って続けた。
「きっと今頃ヨキのところには天使が行ってるはずだよ」
あの時、私が悪魔に願いを叶えてもらえば、今の幸福はなかったのだろうか。
どうか彼らも幸せになってほしい。私たち人間と異なる次元に生きる彼らに人間としての幸せを望むのは、私ののエゴなのだろうか。