第5章 真実 No.10
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魔法遣い養成学校の真っ暗な校長室。
椅子に腰を下ろす校長先生の真正面には、二人の天使が佇んでいた。月明かりだけが、彼等のシルエットを形作る。それは、数日前に、この部屋を訪れたのと同じ天使であった。
「あの子供を我々に渡せないとは、いったい、どういうことですか!」
静かな部屋に、年若い天使の怒声が響く。
だが、それに臆することなく、先生は静かに言った。
「理由は、先程お話したとおりです。聞こえませんでしたかな? では、もう一度申し上げましょう。本人がルリアに残ることを希望しています。ですから、リオを貴方達にお渡しすることは出来ません。お引き取りく下さい」
若い天使は、冷静さを取り戻そうと、数度、大きく息を吐いた。そして、彼等を隔てる大きな木の机に両手をつくと、前屈みに、先生に顔を近付けた。
「貴方は何も解っていらっしゃらないようですね。我々は、本人の希望を訊いて戴きたいなどとお願いした覚えは無い。彼の能力さえ解れば結構。そのつもりで、貴方の提案どおり、今回の魂迎えを彼に任せた。ですが、その結果たるや、貴方もご存知のとおり、惨澹たるものです。ああ……、思い出すことすらおぞましい。魂を迎えに行ったはずの天使が、……いえ、彼は天使ではありませんが……、とにかく、死に逝く者に、生きることを願えと勧めるなど、言語道断。彼の思想は、あまりにも危険です。天上界へ連れ帰り、しかるべき処置を執ります。これは、大天使様の御決議にる決定事項なのです。それを、今更、変えることなど出来はしませんよ」
「その、御決議とやらを下された大天使様とは、いったい何方なのですかな?」
「貴方が知る必要など無い!」
天使は再び声を荒げた。
「知る必要は無い……、ですか」先生は、机上に肘をつき、組んだ指に顔を埋めると、深い溜息を吐いた。「天上界というところは、三千年間、全く変わってはいないのですね。自分達の正義こそ絶対。自分達の決断こそ全て。人間達も、そして、このルリアの民さえも、自分達より遥かに下等な生き物、……虫けら同然と考えておられる」
顔を上げ、天使達に視線を向ける。その表情にも、次いで発せられた声音にも、これまでとは打って変わった、厳しい怒りが満ちていた。
「帰られよ! 私は、彼の判断は正しかったと思っている。彼の優しさは、天使以上。あのような判断を下せた彼を、同じルリアの民として、誇りにこそ思いはすれ、危険だなどとは欠片も思ってはいない。リオは、お主等のような型に嵌っただけの天使とは違うのだ。心を持っておる。天上界の過ちを隠すため、今更、心を持った者を、駒のように右から左へ、思い通りに動かせると思ったら、とんだ思い上がりじゃ。さあ、帰られよ。帰って、その偏屈な大天使様とやらに伝えるのですな。私の眼の黒いうちは、決してリオは渡さぬ。そのように、ルリアの偏屈爺が申していたとな!」
恐らく、生を得て初めて浴びせられた屈辱的な言葉。若い天使は、怒りに身を震わせ、両手で思い切り机を叩いた。
しかし、その天使が感情のままに言葉を発しかけた瞬間、年嵩の天使が、それを制した。彼は、二人の間に割って入ると、静かに口を開いた。
「解りました。今日のところは、貴方に免じて退散するといたしましょう」
若い天使が、明らかに不満気な表情で何か言いかける。けれど、年嵩の天使の視線の前では、結局、何も言えず、促されるままに出口へと向かった。
若い天使の後に続き、校長先生に背を向けた年嵩の天使。しかし、一度立ち止まり、肩越しに言った。
「今日のところは、帰ります。ですが、ご忠告申し上げておきましょう。我々が彼の者を連れ戻そうとするのは、それ相応の理由があってのこと。我々は、常に真理を求め、真理のためだけに行動しているのです。貴方は、やがて、そう遠くない未来に、ご自分が情とやらに流され、下された今回の判断の愚かさを知り、きっと後悔なさることでしょう。そして……、お忘れ下さいますな。天上界が、その気になりさえすれば、少年の一人くらい、この世界から連れ出すことなど雑作もないのだということを……」
瞬間、校長先生は机を叩き、椅子を蹴って立ち上がった。
「そうはさせん!」
ゆっくりと振り返った二人の天使は、激しい怒りを露わに握り拳を震わせる白髭の老人に、冷ややかな視線を投げた。
「天上界の力は、貴方もよくご存じのはずではありませんか? 我々に不可能はありません。それとも、三千年もの時を、こんな下等な世界で過ごされるうちに、何もかも、全て忘れてしまわれたのですかな? 聖天使ケルビム様。元は聖天使様とはいえ、貴方は今、一個のルリアの民にすぎないのですよ。我々が何時までも、今までのように、貴方の言葉を受け入れるなどとは、努々思われませぬように……」
言い置き、天使達は、重い扉を軽々と開けて出て行った。
扉が閉まった後も、先生は、先程まで天使が立っていたその場所を、じっと凝視し続けた。そして、机の腕に置かれた両の拳は、白くなるほど強く握り締められていた。