第5章 真実 No.9
大きく澄んだ深い碧の瞳を、先生はじっと見つめた。
月の光を集めたような淡い金色の髪。雲の白さを写し取った透き通る肌。
その風貌から、彼が大天使、あるいは、現在も空席のままであるとルリアにまで漏れ聞こえてくる聖天使の座を埋めるために生を受けのであろうことは容易に想像できる。これで、瞳の色さえ、澄んだ空を写し取った深い蒼であったなら……。そして、彼が、この優しさを持ったまま、天上界で成人し、天使達を導く地位に就いていてくれたならば、世界は変わったかもしれない。
そう思うと、先生は無念さに歯噛みする思いを抑えられなかった。
リオは、そんな先生を、小首を傾げ、不思議そうに見つめ返した。
先生は、少し気まずげに笑いながら立ち上がり、窓辺に佇んで、外の風景に視線を置いた。そして、思った。年端もいかぬ、この少年が、数千年の時を生きてきた自分と同じ疑問を抱き苦しんでいる。今、老いた自分が、この少年にしてやれることは、何なのか。唯一、出来ることがあるとすれば、それは、自分の知る真実を、在りのままに語ることではないか? そうすれば、きっと、この少年は、自分で考え、判断する。彼になら、きっとそれが出来る。そう思った。
校長先生は、ゆったりと振り返り、手招きでリオを呼んだ。
リオは小走りで近付き、先生を見上げた。大きな手が、彼の頭を優しく撫でる。掌を通し、温もりが伝わる。
先生はリオを見下ろし、静かに口を開いた。
「神は、いらっしゃる。……もしも、先程の君の質問を天使達に投げ掛けたなら、彼等は、きっと、そう答えるでしょう。ですが……、正直なところ、私には解りません。本当に、今でも天上界に神がいらっしゃるのか否か、私には解りません。ですから、君の質問に答えることが、今の私には出来ないのです。けれど、一つだけ、私に解ることがあります。それをお話しましょう。随分と古い、昔話ですけれどね」
校長先生は、リオの頭に手を置いたまま、遠くを見つめた。
その深い蒼の瞳が、何を捉えているのか、リオには解らなかった。
先生の白い髭を割って、朗々と言葉が流れ出す。それは、まるで、長い歴史を語る、老いた語り部の言葉のようであり、且つ又、古い音楽のようでさえあった。
「……数千年の昔、天上界で大きな反乱がおきました。『天上界の大反乱』と呼ばれるその事件は、今でも、天使達の心に深い傷を残しています。そして、数多の天使の運命を狂わせながらも、その反乱が終焉を迎えた時、神は、お独りで天上界の城『天宮』に篭もっておしまいになられました。そして、それきり、側近である聖天使達の前にさえ、お姿を現されることは無くなってしまったのです。……私に解るのは、そこまでです。その後のことは、何一つ解りません。神が今でも天宮に居られるのか、はたまた、別の世界をお創りになられるため、何処かへ去ってしまわれたのか……」
夕陽が窓から射し込み、先生の豊かな白い髭を紅く染めた。その反射のせいか、リオには、先生が泣いているように見えた。
先生は、そこで一つ息を吐くと、再びリオを見、少し淋し気に微笑んだ。
「今日のところは、これで許してもらえますか?」
リオが先生の服の裾をギュッと握り締める。先生の心を占める言い知れぬ哀しみが、リオの心の中に流れ込んできた、そんな気がしたから……。
「先生、ごめんなさい。僕……」
「さあ、本当に、もう帰らないといけませんね。もうじき陽が暮れてしまいます」
優しい笑みと共に、もう一度、リオの頭を撫でる。けれど、続く言葉を口にした時、先生の表情に笑みは無かった。
「最後に一つだけ、君に忠告しておきましょう。天には天の真理があり、地には地の真理があります。それと同じように、天上界の真理とルリアの真理も同じものではありません。どちらが正しく、どちらが過ちであるか、それは誰にも決められぬこと。それが現実です。真理に従い行動しても、お互いの思惑が食い違い、衝突することもある。しかし、それを誰が責めることが出来るでしょう。信念とは……、そういうものです。」リオがコクリと頷くのを確認し、言葉が続く。「天使達にとっては、天上界の真理こそが絶対。それこそが、常に正義なのです。そして、正義を遂行することに、一切の迷いも、躊躇もありません。彼等にとって、それは、天上界と同等の立場にある、このルリアにあっても同じことなのです。そして、彼等は君を欲しています。君が、この地に留まることを望んでも、彼等はきっと、あらゆる手段を講じ、君を手に入れようとするでしょう。そのためにならば、彼等は直接、君や、君の友人達に接触することも厭いません。その時は、リオ、迷わずに私に相談すると約束して下さい。君を護ると、決して君を連れていかせはしないと、私は君に約束しました。その約束を、君は私に守らせてくれなければいけません。いいですね。絶対に、君や友人達だけで動かないように。天使達の考える正義と、我々が考える正義は、必ずしも同じではないのです。そのことを、決して忘れないで下さい」
リオは、ただ黙って頷いた。笑みの消えた先生の表情に、何らかの問いを発する余地も見出せなかったから。彼の小さな胸に、一抹の不安が過ぎった。