第5章 真実 No.7
先生が再び優しく微笑む。
「先程、私は言いましたね。君は、私の期待どおりのことをしてくれたと。確かに、君は自分の願いを願い珠に懸けました。これは……、正直に言えば、確かに私の予想外のことでした。ですが……」組んだ掌の上の顔を少し傾げる。「君の判断は正しかったと、私は思いますよ。君は真に、あの少年のために祈った。彼の幸福のためだけに祈った。自分の身さえ省みず。これは紛れもない事実です。そして、そのことが、私は嬉しいんです。もしも、私が君の立場だったなら、あの場で、君ほど的確な判断を下せたかどうか、自信が無いほどです」
リオには見えない角度で、口許が僅かにほころぶ。
「……そうですか。彼は生まれ変わり、新しい命を生きることが出来るのですね……」
校長先生は、ふと何かを思い出したように、窓の外に視線を移した。そして、満足気に頷く。
「『転生』。それは、人間の魂が生まれ変わること。神は人間に転生を約束しておられます。ですから、君の判断は、決して神の意思に反するものではありませんよ。安心なさい」
リオの表情が安堵に変わる。
けれど、その時、校長先生の心は、深い後悔の念に苛まれていた。
自分は何と愚かな課題を、この心優しい少年に科してしまったことか。それが悔やまれてならなかった。リオが、その心の奥に深い哀しみを抱え、独り、じっと耐えている姿が、痛々しかった。
初めて出会った少年の淋しさに同調し、自らの命すら投げ出すことを厭わぬリオ。この子は優し過ぎる。先生は思った。天使となるには、この子の心は、あまりにも優しく、透明で、繊細過ぎる、と……。
先生は、ふと、リオに古い大切な友の姿を重ねた。
心に無償の愛を抱き、人一倍正義感が強く、誰よりも神に心酔していた美しい友。
自分は今、その友と同じ苦しみの茨の道に、この少年を放り出そうとしているのではないのか? 決して癒されることのない苦しみを、この少年に科しても良いのか? 天上界で彼を待っているのは、幸福でも、夢の花園でもないことを、こんなにもハッキリと確信している自分が……?
校長先生は、深い溜息を一つ吐くと、心を決めた。天上界の禁を犯す決意をした。リオに全てを話そう。彼の未来は彼が選ぶべきもの。彼ならば、きっと正しい判断を下すことが出来るに違いない。そう、信じた。
校長先生は、再度、机に肘をつくと、真っ直ぐにリオを見つめ、静かに口を開いた。蒼い瞳はとても優しく、その声は、とても穏やかだった。
「リオ、君に話しておきたいことがあります」
「何でしょうか?」
気丈にも、笑顔を創り答えるリオ。
校長先生は、年甲斐もなく無償に哀しくなった。しかし、そんな心の動きを表情には出さず、何時もと同じ口調で語った。
「君の出生に関することです」
それまで曇っていたリオの表情が一変し、瞳が輝く。彼は立ち上がり、身を乗り出して机に手を掛けた。何時も冷静な彼には珍しい直情的な行動。
「何か解ったのですか? もしかして、僕の両親のことが、何か……?」
期待に満ちた表情。
だが、リオとは対照的に、先生の表情が曇る。組んだ両の指に視線を落とし、躊躇いがちに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君が生まれたのは、ルリアではありません。そして、君に、肉親は……」一瞬口篭もる。「……いません」
「え?」リオの表情が曇る。「……どういうことですか?」
先生の言葉の意味を理解しかね、眉を顰めた。
先生は、構わずに言葉を継いだ。
「君は、雲と光から生まれました。ですから、君に肉親はいないのです」窺うような視線をリオに向ける。「私の言葉の意味が、解りますね?」
リオは、視線を宙に漂わせ、次いで、力なく首を横に振った。
「……解りません」
嘘だ。リオは解っているはずだ。先生は思った。しかし、己を偽ってさえ、心を否定せねばらなない彼の気持ちが、先生には痛いほどに解った。だからこそ、彼を納得させ得る言葉を、否定できない明確な形で伝えなくてはならない。こんな辛い思いは、一度で充分だ。
「そう、ですか……。では、はっきり言いましょう」敢えて言葉を選ぶことをしなかった。それが、リオのためであると信じたから……。「君は、ルリア人ではありません。君が生まれたのは……、天上界。君は、天使です。天上界で生まれた、正真正銘の天使なのです」
率直な言葉。
リオは、今、耳に届いた『音』を理解しようと、繰り返し、繰り返し、言葉一つ一つを咀嚼するように呟いた。そして、何とか自分の中に収め終えると、力無く俯き、椅子に腰掛けた。酷く落胆していることは、明らかだった。
けれど、そんな状況でも、リオは必死に平静を装おうとしていた。その姿は、あまりにも健気で、先生は目頭が熱くなった。
リオは、正面から校長先生を見つめ、少し躊躇いながら、ゆっくりと口を開いた。
「……もしも、そのお話が事実なら、……いえ、先生がおっしゃるのですから、事実なのですよね。……つまり、僕には両親がいない。それは解りました。けれど……」縋るような視線が先生を射る。「僕が天使であるのならば、なぜ、今、僕は此処に……、ルリアに居るのですか? 天使は天上界に居るものでしょう? 何故なんですか?」
言い置いて、ある単語が脳裏に浮かぶ。……忌まわしく、蔑まれし存在。
しかし、彼は敢えて、それをそのまま言葉にした。
「堕天使……」
瞬間、先生が弾かれたように腰を浮かす。