第4章 人間界にて No.7
「凄い、……凄いや! 外の世界って、こんなに大きくて、こんなに綺麗だったんだね!」
雪の舞い踊る公園の中、アロウは両腕を広げて走った。生まれて初めて、走った。なのに、何時も彼を苦しめていた胸の痛みも、息苦しささえも、なぜか今は、まったく感じない。ずっと、窓から眺めているだけだった『普通の少年』と同じように、思いっきり走ることが出来る。そのことが、……たったそれだけのことが、アロウには堪らなく嬉しかった。
公園には、アロウとリオ以外に人影はない。街頭の灯に照らされた雪片が、僅かな風に飛び、星屑のようにキラキラと輝きながら、アロウを包み、舞い踊った。
「見てよ、リオ! 僕、走れる。走ってるんだ。全然、苦しくないんだよ!」
アロウの呼び掛けに、リオは微笑み、片手を振って応えた。
アロウは飽きもせず、今度は別の方向へと走っていく。
リオは、公園の隅で淋しく揺れるブランコの支柱に寄り掛かり、初めて歳相応の少年の表情をみせたアロウの笑顔を、複雑な思いで見つめていた。
自分なら、当たり前のこと。駆け回るという、たったそれだけのことが、なぜ、彼には許されなかったのか。なぜ、彼は、これほどまでに喜ばねばならぬのか。それが、彼の『運命』。人間一人ひとりに科せられた『天命』だと言われても、そんな言葉だけで、眼の前の現実、全てを受け入れることなど、リオには出来なかった。それは、あまりに哀し過ぎた。
そんなリオの胸中を知る由もなく、楽し気に駆け回っていたアロウだったが、ふと立ち止まると、空に向かって両腕を翳した。
「リオ、見て。雪だよ。雪が空から降ってくる。……綺麗だな。まるで、空に輝く星のようだね。こうしてると、何だか、空に吸い込まれてしまいそうだよ」
そして、雪の一片を、大切な宝物を抱くように胸の前で握り締める。
「冷たいね。でも……、変だな。なんだか温かいや」
暫くの間、アロウは、その場に佇んでいた。けれど、何事か思い立ったように急に顔を上げ、ゆっくりとリオに近付くと、彼の服の裾を握り締めて笑った。
「ねえ、リオ。願い事は三つ、叶えてもらえるんだったよね。あとの二つ、……決めたよ」
ブランコに腰を下ろし、リオを見上げる。促され、リオは彼の隣に腰掛けた。
アロウは、ほんの少し躊躇うように首を左右に傾げていたが、空を見上げ、口を開いた。
「あのね、リオ。僕のパパとママね、……リコン、するんだって。リコンって、解るかな? きっと、君の世界には無いんだろうな」小さく笑う。とても淋しそうな笑み。「……あのね、リコンっていうのはね、パパとママが、お互いに好きじゃなくなって、一緒に暮らさなくなることなんだ。今までの好きだった気持ちとか、楽しかった思い出とか、そんなもの、全部いらなくなって、もう会わなくなるんだって。それにね……、僕、看護婦さん達が話してるの、聞いちゃったんだけどね、……パパもママも、他に好きな人がいるみたい……、なんだ」
一つ溜息を吐く。続く言葉は、胸の奥の蟠りを吐き出すように強い口調になった。
「パパとママがリコンするのは、きっと……、きっと、僕のせいなんだ。僕、産まれた時から、ずっと心臓が悪くてね、何度手術しても、ちっとも良くならなくて……。あの病院から出たこと、無いんだ。だから、パパもママも、僕の病気の心配や、入院のためのたくさんのお金のことで、疲れちゃったんだよ。それでね、……それで、僕が嫌いになった。僕のことなんか要らなくなったんだ。だから、リコンするんだよ」
雪が、アロウの髪を一瞬だけ飾り、直ぐに消えた。
「だって、……そうだよね。当たり前だよね。僕なんか、心配掛けるばっかりで、なんにも出来ない。パパにとってもママにとっても、邪魔なお荷物でしかないんだ。……要らないっていわれたって、しようがないよね」
アロウが笑う。頬に付いた雪が解け、流れ落ちた。まるで涙のようだ、と、リオは思った。
しかし、リオは、無言でアロウの言葉を聞いていた。彼の強さに応える術が、他に見付からなかった。
アロウは微笑んだまま、真っ直ぐにリオを見つめた。
「だからね、今日、君が迎えに来てくれて、ホントに良かったと思ってるんだ。これで、パパもママも、やっと幸せになれる。二人とも、今まで僕のために一生懸命がんばってくれたんだ。これからは、うんと幸せになって欲しい。だからね、リオ、僕の願い事、絶対に叶えてね。僕の願いは、……僕が死んだ後、パパとママが幸せになること。パパとママ、両方の分だから、さっきのと合わせて、これで三つだよね」
リオは、今にも溢れそうになる涙を必死で堪えた。
そんなリオを気遣うように、アロウが笑みを浮かべる。そして、確かめるように訊いた。
「リオ。僕の最期の願い、きっと、……きっと叶えてね。約束だよ」
リオは哀しかった。哀しくて仕方なかった。自分と同じ歳くらいの少年が、なぜ、こんなにもあっさりと『死』を受け入れることが出来るのか。それが無償に辛かった。
その時、無意識にポケットの中を弄っていたリオの手が、願い珠に触れた。その珠の存在を思い出した瞬間、リオは思った。この珠に封じ込められた力が真に天上界のものであるならば、一人の人間の運命を変えることも出来るのではないか? それが許されぬことだと解っていても、リオは、今、どうしても、眼の前で穏やかに微笑む少年の哀しい運命を受け入れられなかった。
「ううん、違うよ。君の願い事は、まだ二つだよ」
リオは、静かなアロウの瞳を、やっとの思いで見つめ返しながら言った。
「アロウ。これは、僕が与えられた使命の範囲を超えることだけれど、……見せてあげるよ、未来を。君をここへ連れ出すためには使わなかった天上界の力で、見せてあげる。君がいなくなってしまった後、君のお父さんとお母さんが、どんな未来を歩むのかを……」
リオの言葉が終わらぬ内に、突然、アロウの眼前が真っ暗になり、次いで、闇の一点が薄っすらと輝き始めた。その光の中に、始めは微かに、やがてハッキリと、人影が浮かぶ。
アロウが瞳を凝らす。