第3章 白の訪問者 No.9
☆ ☆ ☆
生徒達が下校した後の養成学校は、昼間の賑やかさとは対照的に、淋しいほどに静かだ。
長い廊下の突き当り、一番奥に位置する校長室は、一際、静寂に包まれていた。部屋の窓から外を眺めていた豊かな白髭の老人は、ドアをノックする音に振り返った。
「お入りなさい」
声に従い、大きな重い扉を開けて現れたのは、美しい金髪の小柄な少年。リオだ。
部屋の中、壁際に独り佇む校長先生の姿を見付けると、その顔に何時もと同じ愛らしい微笑を浮かべた。
「こんにちは、校長先生」
「やあ、こんにちは、リオ。元気でやっていますか? 今日は急に呼びたてて、すまなかったね」
「いいえ。校長先生にお会い出来て、僕、嬉しいですから」
満面の笑みで答えるリオ。
満足気に頷いた校長先生は、ゆっくりと歩を進め、部屋の中央に置かれた机の奥にある自分専用の椅子に腰を下ろした。
リオは、校長先生のゆったりとした動きを楽しそうに見ていたが、促されて、机の横の椅子に、ちょこんと腰掛けた。
リオが椅子に落ち着くのを待って、校長先生が口を開く。
「寮からの引っ越しは、終わったそうですね。新しい家の住み心地はどうですか?」
リオは、僅かに小首を傾げた。
「まだ、良く解りません。一週間しか経っていませんから。でも、毎日、本当に楽しいです」
素直な答え。
校長先生は白髭を揺らし、にっこりと頷いた。
「それは何よりですね。しかし、親友との三人暮らしとはいえ、子供ばかりでは色々と不便もあるでしょう。何か不都合なことがあれば、何時でも私に言って下さい。私は、この学校の校長として、生徒諸君が快適で充実した生活をおくれるように配慮する義務があるのですから。それに、君達が寮を出て、あの家で暮らすことを最終的に承認したのは私です。その責任も果たさせてくれなければいけません。解りましたか?」
校長先生の然り気ない気遣いに、リオは心から感謝した。その想いが零れる笑みとなる。
「ありがとうございます、先生。でも、あの素敵な家に住めるよう手配して下さっただけで充分です。僕達なら、本当に大丈夫です。アルフとルーは、とても頼りになるんですよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました。しかし、約束して下さい。困ったことが起きた時には、必ず私に相談するとね。間違っても遠慮などしてはいけませんよ。それこそ、私に対して失礼というものです。いいですね?」
校長先生が優しく微笑む。
リオは少し照れくさそうに、小さく頷いた。
リオは、校長先生の笑顔が大好きだった。この老人に対して、まるで自分の肉親のような親近感と好意すら抱いていた。それは、リオが養成学校に入学するまでの間、親代わりに育ててくれたラウ夫妻に対する以上の想いだった。しかし、なぜそう思うのか、その理由はリオ自身にさえ解らなかった。
リオは、校長室の窓から見えるポラリスの森に視線を向けた。
この学校に入学して、もうじき四ヶ月が過ぎようとしている。しかし、森は、リオが入学した時と少しも変わらず、否、緑は深さを増し、そこにある。そのことが、不思議なほどにリオを安心させた。
穏やかな時が流れていく。
校長先生は、そんなリオの横顔を、暫くの間、じっと見つめていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「ところで、リオ。今日、君をここへ呼んだ理由を、まだお話していませんでしたね。実は、一つ、君にやってもらいたいことがあるのです。引き受けてくれますか?」
リオの驚きは、大きく見開かれた深い碧の瞳で解る。先生は小さく微笑み、組んだ掌の上に、白い髭ごと顎を載せた。
「私の頼み、……いいえ、『課題』と言っておきましょうか。これを無事終了することが出来たなら、その時点で基礎課程修了としましょう。それに値する能力が、君には充分にあります。本来であれば、既に応用課程に進んでいて、何の支障もない能力です。ですが、最短必須履修時間を定めている我が校としては、入学して僅か半年足らずの君を応用課程に進ませることは異例中の異例。周囲を納得させられるだけの結果を、形にして示さねば、後々、混乱を生じる要因となってしまうでしょう。そのための……、結果を残すための『課題』です。解りますね?」
リオは、椅子に行儀良く腰掛け、校長先生の話をじっと聞いていた。しかし、先生の言葉の端々に、微かながら何時もと違う響きを感じ取った。戸惑いがちに口を開く。
「先生……。何を隠していらっしゃるのですか?」
先生の表情が少し歪む。
リオは慌てて自分の発言を訂正した。
「ごめんなさい。僕……」
「いいえ……」先生が、ゆっくりと首を横に振る。「なぜ、そう思うのですか? 私が何かを隠していると……?」
リオは暫し先生の顔をじっと見つめた。碧の瞳を僅かに伏せる。
「先生が、校則を破ってまで、誰か個人に便宜を図ろうとなさるなんて……、おかしいと思ったんです。それに……」視線がすっと上がり、真っ直ぐに眼前を見る。「なぜ、僕だけなのですか? 今の僕程度の能力を評価していただけたというのであれば、それは、僕だけじゃ無いはずです。少なくとも、アルフとルーが居ます。彼等だって能力は同じ位です」
校長先生は静かに、リオの次の言葉を待った。リオは戸惑いつつも言葉を継いだ。
「僕は、みんなと一緒が良いんです。急いでこの学校を卒業しなければならない理由は、ありませんから」
校長先生が優しく、けれど、僅かに自嘲を含んで微笑む。リオは、とても感の鋭い子だ。この子を相手に、今からしようとしている話しが、何処まで通じるか、自信がなかった。そして、こんな幼い子供を相手に、そんなことを考えてしまう自分自身が可笑しかった。
「これは、私の思い上がりでしたね。許して下さい、リオ」
リオは、少し頬を赤らめ俯いた。やはり、校長先生は何時もと同じだ。少しでも疑った自分が恥ずかしかった。
「僕の方こそ、生意気なことを言ってしまいました。すみませんでした」
「いいのですよ。私の思慮が足りなかったのですから」
「そんな……」
恐縮するリオ。
そんな彼を包み込むように、校長先生が笑った。
「それでは、おあいこということにしましょう。それで良いですね?」
「はい」リオの顔にも、笑みが戻る。「有り難うございます」
校長先生は、椅子の背に深く凭れ、胸の前で腕を組んだ。
「話しを戻しましょう。『課題』という表現は適切ではありませんでした。そう……、お願いです。リオ、私のお願いを聴いて戴けますか?」
「はい。僕でお役に立てることがあるのでしたら、何でも……」
先生は満足そうに深く頷き、じっとリオを見つめた。その顔に、もう笑みは無かった。