第1章 魔法遣い養成学校 No.2
魔法遣い養成学校には三つの規則がある。言い換えれば、規則は三つしかない。
1. 制服の着用
1. 各課題毎に決められた最短必須履修時間の厳守
1.授業外での魔法使用の制限
それ以外、入学時の年齢も、卒業までの期間も、一切規定は無い。
『魔法遣いに憧れる者に広く門戸を開く』
それが、この養成学校創立者であり、現在も現役トップとして、ルリアの民の厚い信頼と深い尊敬を集める校長先生の方針なのである。
そんな校長先生の理念に感銘し、あるいは、己の潜在能力を信じ、毎年、様々な種族から何百人もが養成学校の門を叩き入学するのだった。
養成学校では、一般教養として、歴史や文化史等のカリキュラムも用意されてはいるが、最も重点を置かれるのは、当然のことながら実践魔法を学ぶ魔法実技の授業である。卒業するには四十七段階の実技課題全てを修得しなければならない。最初の二十段階は基礎課程、残りの二十五段階は応用課程、最後の二段階は卒業課程であり、魔法遣い養成学校の卒業証書兼魔法遣い認定書を手にするためには、これら全てに『優』を貰わなければならないのだ。
しかし、言うは易し、行うは難しとは、よく言ったもので……。
授業が進む中で、生徒達は次第に己の能力の限界を知り、諦め、あるいは絶望し、一人、また一人と養成学校を去っていく。
卒業出来るのは、その苦しみを克服し、己の中に眠る能力を開花させ得た、ほんの一握りの優秀な生徒だけなのである。
魔法遣いになるために用意された、果てしなく長い道程。
それでも、一人前の魔法遣いになるという、たった一つの夢だけを糧に、今年も約三百人が魔法遣い養成学校の新入生となった。
これは、毎年の平均に比して、若干少ない人数と言えた。
新入生が魔法実技基礎課程の第一課題から第七課題までを履修する基礎初等クラスは、AクラスからCクラスまでの三クラス有る。
リオ、ルー、アルフの三人は、そろって基礎初等Aクラスだ。
鐘の音に急かされ、赤煉瓦の校舎の中へと駆け込んだ三人は、人影まばらな構内を慣れた足取りで駆け抜けた。長い廊下と階段が組み合わされた迷路のような構内に、始めのうちこそ閉口したが、今では通い慣れた道。自分の家と同じくらい、よく見知った場所となっていた。
似たような廊下を幾つも通り抜け、塔と塔とを結ぶ吹き抜けの渡り廊下に差し掛かった時、リオに追い付いたアルフが、横を走りながら問い掛けた。
「さっき、何見てたんだ?」彼の視線は、じっと正面に向けられたままだ。「時々、ああして見上げてるよな」
「うん……」リオが照れくさそうに俯く。「学校をね、……見てたんだ。僕も、この学校の生徒なんだなって……、やっと魔法遣いに一歩近付けたんだなって、そう思うと、なんだか嬉しくて……」
「変なのぉ」二人の後方に居たルーが、アルフとリオを追い越しながら、からかうように言った。「一番の優等生のリオが、そんなこと思うなんて、可笑しいや」
「そう、……かな?」リオは少し気恥ずかしげに頭を掻いた。
ルーを先頭に、三人が教室へと続く廊下を走る。
途中、チラチラと横眼でリオを見ていたアルフは、僅かにリオに躰を寄せると、小声で囁き掛けた。
「俺は、可笑しいとは思わないぜ」
「え?」
「さっきの話。俺は、お前らしいと思う」
「うん……」リオはアルフの意図を理解し、小さく微笑んだ。「ありがとう。でも、確かにルーの言う通りかもしれないよね。入学して、もう二ヶ月も経つんだもの、そろそろ慣れなきゃ。それに、何時までも遅刻しているわけにはいかないしね」
「まあ……、それはそうだけどな」
艶やかな黒い前髪の奥で、漆黒の瞳が苦笑いを含んだ。
リオが少し悪戯っぽく笑う。
「でも、僕が一番の優等生っていうのは、ちょっと違うと思うよ」
「……何でだよ」訝し気に眉を顰めるアルフ。
リオは楽し気に唇を窄めた。
「僕には、君やルーには到底敵わないことが、まだまだ、たくさんあるもの」
「そんなこと無いだろ」
何時もの謙遜と、アルフは軽く聞き流そうとする。
だが、今回、リオは珍しく引き下がらなかった。
「あるよ。君達が気付いていないだけだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「そうは思えないけど……」
「アルフ、君は……」
二人の会話に、再びルーが割って入る。
「今日は遅刻しないで済んだよ。良かったねぇ」
人の話を聞いているのか、いないのか。それがルーの良いところでもあるのだが……。
気が付けば、基礎初等Aクラスの教室の扉は目の前だった。
真っ先に教室に駆け込んだルーに続き、アルフとリオが勢いよく飛び込む。
教室内は生徒達で溢れ、既に席も殆どが埋まっていた。
ざわつく室内では聞き咎められるはずもなかったが、三人は、何となく足音を忍ばせて教室内を移動した。
リオ達が教室の後方に並んで座れる席を確保し、ホッと一息吐いた時、教室の前方の扉が開き、基礎初等Aクラスの担任であるサリバン先生が、にこやかな微笑みを湛えながら入ってきた。途端に、それまで、うるさいほどに響いていた話声はピタリと止み、生徒達は大袈裟なほどの感嘆の眼差しを先生に向けた。
先生は、艶やかな亜麻色の髪を後頭部で一つに結い上げ、養成学校の規定である墨色の、踝まで届く制服に身を包み、小脇に白い杖を抱えていた。身長よりも少し短く、頭部が渦を巻くように太く丸い白木の杖は、この学校の卒業生が卒業証として校長先生から直に与えられる物であり、空を飛ぶ際にも使われる、魔法遣い養成学校全生徒の憧れであった。
先生は昨年度この学校を卒業したばかりの新任教師であり、平均千年から二千年の寿命を持つルリアの民としては、二百歳そこそこであろうかと思われた。小さな眼鏡を掛けたその顔は充分美しいと言えたが、学問好きの女性に有りがちな、着飾ることには、あまり興味が無い様子であった。お洒落といえば、琥珀色の髪留めと、腰の部分を緩く絞っている組み紐の色が明るいローズレッドという点のみである。
教室は、底に教壇を配した擂り鉢を三つに割ったような扇型の構造をしており、教壇に向かって下る階段状に長机と長椅子が配置されている。リオ達がいる教室の後方からでは、先生の姿は小指ほどにしか見えなかったが、それでも、教卓に右手を乗せて体重を懸け、左手を腰にあてがい、皆の注目を浴びて教壇に立つサリバン先生の姿は、今日も自信に満ち溢れていた。
魔法遣いを目指す生徒達にとって、この学校を卒業し、夢を勝ち取った先生は、正に憧れの存在だ。しかも、若くて美しく、優し気な女性ともなれば、生徒の大多数はすっかり魅了され、従順な仔犬のような瞳で先生を見つめていた。
生徒達が彼女の一挙手一投足を見守る中、サリバン先生は一つ深呼吸すると、教室内をゆっくりと眺め渡した。
「本日の授業が、第四課題『物体浮遊』の最終履修となります。今から、第三課題までと同じように確認試験を開始します。対象は身近にある物、何でも構いません。ペン、インク壺、筆箱、……何でもいいわ。私が皆さんの席を順番に回りますから、私の前で実演してみせて下さい。始めにも言いましたが、この課題は、貴方達が第六課題で学ぶ『飛行』の重要な基礎になりますから、おまけは出来ませんよ。みんな、頑張って下さいね」
女性特有の少し甲高い声に、生徒達の表情が引き締まる。
魔法実技の第一課題から第七課題までが、基礎初等クラスで学ぶ対象となる。このクラスでは、規定の最短必須履修時間を過ぎると、順次、次の課題へ進む。そして、全てに『優』を貰えた者だけが、基礎中級クラスに進級出来るのだ。進級出来なかった者は、七課題全てに『優』を貰えるまで、繰り返し繰り返し、練習を続けなければならない。
「今回、上手くいかなかったとしても、次に頑張ればいいんですからね。皆さんで協力し合いながら、一つづつ階段を昇っていきましょうね」
先生は、真剣な生徒達の様子に満足気に微笑むと、次いで、教室中を見渡し、後方隅に座っている月色の髪の少年を手招きで呼んだ。
「リオ、貴方には一時限目で完璧な実技を見せてもらったから、今日はいいわ。何時ものように、他のお友達の手助けをしてあげて頂戴」
その途端、教室全体に微かなざわめきが生じ、期待と嫉妬に満ちた視線がリオに注がれた。この三ヶ月余の間、魔法実技の授業の度に繰り返される情景だ。
事の発端は、入学式の翌日。初授業の日の朝まで遡る。
教室へ向かう途中のサリバン先生が渡り廊下に差し掛かった時、彼女を襲った突風。手にしていた授業用の資料が風に浚われ、空へと舞った。
偶然、その場を通り掛かったリオ達三人。初めての場所で迷子になっていたのだ。
資料を追いかける彼女の姿を眼にしたリオは、咄嗟に風を操り、資料を一枚残らず彼女の掌の上にキチンと重ねて戻した。
風を操るなど、上級クラスの技だ。
驚いた先生は、試しに、第一課題の模範演技をリオ達に依頼してみた。
生真面目なリオは、手を抜くことを知らない。彼が皆の前で披露した実技は、先生の予想通り、素晴らしいの一言に尽きた。そればかりか、続くアルフとルーさえも軽々と課題をクリアしたのだ。無論、アルフは気分屋な上に、ほどほどを弁え、ルーは、そんなアルフを真似たので、技もほどほどであったが、それでも初授業の新入生を感嘆させるには充分なものだった。
それ以来、サリバン先生は授業の度に、リオ、ルー、アルフの三人に模範演技を依頼した。
教師としての自尊心よりも、個々人の持つ才能を尊重し、それに敬意を払う。それも魔法遣いとしての立派な分別だと、他の先生達に語っていたらしい。
魔法とは、理論だけで習得出来るものではなく、個々人の持つ潜在能力『夢幻の力』に大きく左右される。その力の大きさは、年齢に全く関係ないと言われてきた。
リオ達の出現は、それを見事なまでに体現していると言ってよかった。
新入生の中でも群を抜いて幼い彼等に出来るのならば、自分にだって……。そんな奮起を生徒達に持って欲しかった。その意味で、リオ達に実技を披露してもらうことは極めて効果的だと、サリバン先生は信じていたのだ。
今回の課題でも、リオは、はや一時限目で、教卓上の花瓶を軽々と浮き上がらせてみせた。誰もが認めざるを得ない合格だ。
そして、アルフとルーは、と言うと……。
第一課題以降、アルフは気分が乗らないと言って、毎回、最低限のことしかしなかった。ルーに至っては、アルフ以上に気分屋らしく、興味を惹く課題に出会えないからと、こちらもまた、何時も最終履修の時にギリギリで合格していた。実を言えば、二人とも、自分達に向けられる級友の視線の奥に垣間見える負の感情を、敏感に感じ取っていたのだ。
今回も、頬杖をつきながら、つまらなそうに先生の話を聞いていたアルフ。面倒くさ気に一言呟く。
「またかよ。いい加減にしろっての」
「アルフ!」
リオは窘めるように小声で言うと、彼の服の袖を軽く引っ張った。
アルフが小さく舌を出し、わざとらしく姿勢を正す。皆には、愛想が無く、取っ付き難いと思われがちなアルフだが、リオとルーの前では、いたって普通の悪戯っ子だ。
少し困った態で肩を竦めた後、リオは急いで教壇へと下りていく。
その背中を見送り、ルーはニコニコと手を振った。
いっぽう、アルフは、眉を顰め、口をへの字にまげて机に突っ伏した。リオが先生の手伝いをするのが気に入らないらしい。何時もそうだ。
そんなアルフを横目で見遣り、ルーは小さく笑った。
その頃、教卓では、サリバン先生が満面に笑みを湛え、リオを迎えていた。
「ありがとう、リオ。何時も助かるわ」
リオは笑顔で首を横に振った。
先生がリオの肩に手を置き、教室中を見渡す。
「今から皆さんの席を順番に回ります。頑張って下さいね。それから、この時間も大切な授業ですよ。先生が行くまでは、何時もと同じように、皆で協力して教え合っていいのよ。解らないことはリオに訊いて、少しでも技を磨くよう努力して下さい」
先生は、端から順番に席を回り始めた。
今回の課題は、なかなかに高度だ。先生を目の前にした生徒の多くは、汗をかきながら奮闘するが、対象物は、なかなか浮び上がってくれない。焦り、半べそをかく生徒に、先生は優しく声を掛けた。
「先生だって、卒業するまでに何十年もかかったの。それでも、こうして魔法遣いになれたわ。焦らなくても大丈夫よ。貴方達には時間はたっぷりあるんだから」
その間も、リオは、先生から離れて、級友達の間を行き来していた。その顔には、少し気まずげな笑みが張り付いていた。彼とてアルフと同じ。自分に向けられる周囲の視線に込められた負の感情に気付かぬほど鈍くはない。それでも、リオは先生の依頼を断れないのだ。それで、少しでも誰かの役に立てるのなら……、と。
その時、突然、グレーの髪の少年がリオを呼び止めた。
「先生のお気に入りってのも、大変だね」
「サライ……」リオは心底困ったように眉根を寄せた。「そんなこと、ないよ」
だが、サライは、リオの困惑には全く気付かぬ様子で、ニコニコと笑い、話を続けた。
「でも、僕は、まだ君に教えてもらう必要は無さそうだよ」
言いながら、掌の上に置いたペンをじっと凝視する。すると、それは、まるで意志を持った生き物のようにフワフワと宙に浮き上がった。
「サライ、お前、凄いじゃねぇか」
「リオと同じくらい出来るんじゃない?」
周囲の者達が、次々に賞賛の言葉を口にする。
サライは顎を突き出し、自慢気に胸を張った。
「魔法遣いを目指そうという者なら、このくらいは出来て当然だと思うけどね」
しかし、視線を逸らした瞬間、ペンは大きく揺れ、そのまま床まで落ちて、リオの足許に転がった。
リオは屈んでペンを拾い上げ、サライに手渡した。
「あ、……ありがと」
周囲から微かに失笑が漏れる。
サライは気まずげに鼻の頭を掻いた。
リオは気遣うようにサライに微笑み掛けた。
「意識の絃を一本繋いでおければ、視線を逸らしたくらいでは術は解けなくなるよ。大丈夫、少し練習すれば直ぐに慣れてしまうから」
リオの言葉は優しい。けれど、サライの顔に浮かんだ笑みは硬く、ぎこちなかった。
「……やっぱり、難しいよ」
サライは力無く言い、どっかりと椅子に腰を下ろすと、じっと机上の一点を見つめた。
サライが場所を空けたことで、それまで彼の後ろにいた少年が身を乗り出した。少年は、黒い短髪に快活そうな笑みを浮かべ、屈託なくリオに話し掛ける。シューカルク。それが彼の名前であり、皆はシューと呼んでいた。
「なあ、俺、上手く出来ないんだよ。教えてくれよ」
彼は何時もせっかちで、時間を惜しむように話す。それにつられ、リオも、ほんの少し早口になった。
「じゃあ、シュー。そのペンをじっと見て、それが動くことをイメージしてみて」
シューは椅子に深く腰掛け、仰々しく背筋を伸ばすと、リオに言われたとおり、机の上に置かれたペンをじっと凝視した。
「こうか?」
だが、ペンはピクリとも動かない。
ふと気付くと、リオがシューの額に向けて掌を翳し、眼を閉じていた。シューの意識がペンからリオへと移った瞬間、それを見ていたかのようにリオは瞼を上げ、にっこりと笑った。
「僕ではなく、ペンに集中してね」
「……ああ、解った。ゴメン、ゴメン」
シューは恥ずかし気に頭を掻き、再びペンを凝視した。
始めのうちは何の変化もなかった。
しかし、突然、ペンがゆっくりと動き始める。固唾を呑んで見守っていた仲間達は、次々とシューの背中を叩いて成功を祝福した。
「何だよ。お前、出来るじゃん」
「凄いわ。ねえ、どんな感じなの?」
シューは、信じられないと謂わんばかりにリオを見つめた。
「……お前、……何かしたんだろう」
リオは微笑んだまま首を横に振った。
「ううん。これは君の力。僕はただ、それを引き出すお手伝いを、ほんの少し、しただけ」
「ホントかよ」
「うん。だから、君が今念じたように、もう一度念じてみて。きっと、直ぐにコツを掴めるはずだから」
シューは大きく頷くと、先程にも増して真剣にペンを凝視した。