第2章 新しい暮らし No.2
理由など解らずとも、嬉しいものは、やっぱり嬉しい。
善は急げ、とばかりに、引っ越しは夏休みを利用して行うことになった。
そういうわけで、今日は家の下見に来たのだ。
だが、いざ家の中を覗いてみて、ビックリ仰天。外からでは解らなかったが、家の中は荒れ放題に荒れており、とても人が住める状態ではない。遂に、三人揃って頭を抱えてしまったというわけなのだ。
埃と蜘蛛の巣だらけの室内に足を踏み入れることを躊躇い、アルフとルーは戸口付近でウロウロしていた。
しかし、そんな二人を尻目に、リオはキュッと唇を噛み締めると、足許の小枝を一本拾い上げ、それで蜘蛛の巣を上手に払い除けながら、ツカツカと中へ入っていった。
「おい、リオ、待てよ!」
アルフが慌てて引き留める。
リオは、二人を振り返ってニッコリと微笑むと、その場で小枝をクルクルと回し、その動きに合わせるように家の中を眺め回した。
「ねえ。この家、よく見たら、とても素敵だよ。二人とも、こっちへ来て見てごらんよ」
「……お前、本気で言ってんのか?」
アルフは胸の前で両腕を組み、戸口に寄り掛かりながら、ウンザリした表情でリオを見た。彼の肩口から顔を出したルーが、不思議そうに家の中を覗き込む。
埃の積もり具合から、その家が、もう長い間使われていないのだということは容易に想像、いや、確信出来た。その状況で、『素敵』という言葉は、どう贔屓目にみても、二人の口からは出てこなかった。
けれど、リオは、彼等の表情などお構いなし、部屋の奥へと入り込むと、埃だらけの柱やテーブルに手を掛け、埃を払った。舞い上がる埃の煙。リオは、埃を避けるように顔の前で手をパタパタと振りつつ、顔こそ顰めながらも、それらをしげしげと眺めた。埃の底から現れたのは、美しい木目と精巧な造形。途端に、リオの口許が嬉しそうにほころぶ。
「だって……、ほら」少しの間、埃の舞う空気が澄むのを待ち、リオは言った。「柱なんて、こんなに立派な木を使って創ってあるから、凄くしっかりしてるし、家具だって、……ご覧よ、細かな細工の施された、とても手の混んだものだよ。掃除さえ済めば、文句なしに素敵な家だよ。何より……」その家で一番大きな窓を開け、そこから外を眺める。「此処は、素敵な場所だもの」
家が建っている場所は、森の中にぽっかり開けた平地で、森の緑と平地の緑が絶妙なコントラストを成していた。リオが開けた窓からは、小さな湖を眺めることが出来る。その水面には陽の光が燦々と射し込み、風の動きに合わせてキラキラと輝いていた。森伝いに流れ下る小川が湖に注ぎ込み、サラサラというせせらぎが耳に快く響く。
リオは窓から顔を出すと、心地よい微風に髪を遊ばせた。養成学校に入学した時より少し伸び、肩に触れるほどになった柔らかな金色の髪は、風をはらんでキラキラと輝いた。
アルフは、暫くの間、リオの横顔を眩し気に見つめていたが、やがて、一つ大きな溜息を吐くと、徐ろに左袖を捲り上げた。
「しようが無いな。じゃあ、やるか」
「やるって……、何を?」
隣にいたルーが訝し気にアルフを見上げる。
入学時には、さほど差の無かった三人の背丈は、一人、アルフだけがグングンと伸び、今では、他の二人に比べ、アルフが頭半分抜きん出ている。並んで話しをする時、ルーとリオは決まって彼を見上げなければならなかった。
「決まってんだろ。掃除だよ、掃除」
短いアルフの言葉。
ルーは、さもウンザリとした態で肩を落とした。
「でも……、大変そうだよぉ」
「大変でも何でも、ここに住むって決めたんだから、しようが無いだろ? 今更、やっぱり寮に残ります、なんて、口が裂けても言いたくないぜ、俺は」右袖を捲り上げる。「今日中には無理でも、少しずつやれば、夏休み中には引っ越せるさ」
先程まで、文句ばかり言っていた当人の言葉とは思えない。ルーは上目遣いでアルフを見ると、小声で不平を漏らした。
「……こんなとこ住めないって、さっき言ったばっかりのくせに……」
「何か言ったか?」
「何でもない!」
言いしな、逃げようとするルー。けれど、一歩遅く、頭上にアルフの拳骨が降ってきた。
頭を抱え、その場に座り込むと、ルーは不満気にアルフを見上げた。だが、それ以上、何も言わなかった。
そんな二人の遣り取りを、独り、離れた場所からニコニコと見ていたリオは、その笑顔のまま言った。声には、少し悪戯な響きがあった。
「ねえ。……使っちゃおうか?」
「え?」
二人揃ってリオを見る。窓を背に、逆光に縁取られた姿。アルフとルーは眩し気に眼を細めた。
リオが少し声を潜める。
「使っちゃおうか、……魔法」
「……いいのか?」
「ホントにぃ?」
優等生のリオの口から出た言葉とは思えず、アルフとルーは驚きに顔を見合わせた後、身を乗り出した。
リオはといえば、照れくさそうに視線を泳がせ、躊躇い気味に言う。
「校長先生は、養成学校の学生であるうちは、授業以外で不用意に魔法を遣ってはいけません、それによって取り返しのつかないことが起こるかもしれないから……、っておっしゃってたけど、ここは僕達の家の中なわけだし、誰も、見ていないし……」
「……だな!」
「賛成!」
二人は両手を挙げてリオの提案に賛同した。
「じゃあさ、どうする」
ルーの問い掛け。
リオが一歩前に出る。
「言い出しっぺだからね、僕がやるよ」
手に持った小枝を軽く回す。
すると途端に、さっきまで蜘蛛の巣と埃だらけだった家の中から、埃と塵、更に、その場を埋め尽くしていた、あらゆる汚れの類が消え去り、まるで、新たに磨き上げられたかのような輝きを取り戻した。タンスやテーブル等の家具類、暖炉や床までも、埃を拭い去ってみれば、風合いのある美しい調度品へと変貌を遂げた。
「ほらね。やっぱり素敵な家だよ」
リオは満足気にニコニコと笑いながら周囲を見回した。
「じゃあ、次はボクね」
ルーが両腕を頭上に挙げると、窓から心地よい風が流れ込んできた。息苦しかった室内は一変し、清浄な空気に満たされる。それだけで、家の中の景色は更に澄み渡った。
「凄い! どうやったの?」
リオの素直な感嘆の言葉に、ルーは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「大したこと、無いよ。家の周りの空気を、ほんの少し動かしただけ。風は流れるからね」
「へえ……。やっぱり、こういうことは、ルー、お前が一番得意なんだな」
今回ばかりは感心の態でアルフが言った。徐ろに腕を捲る。
「さてと……。次は、俺の番だな」
軽く口笛を吹く。すると、見る間に、家中のランプに灯が灯り、暖炉には赤々とした炎が燃え上がった。
「凄いや、アルフ。やっぱり、火を遣わせたら君には敵わないね」
これもまた、リオの素直な賞賛。
気を良くしたアルフは、ほんの少し得意気に胸を張った。
「俺だって、これくらいは出来るさ」
しかし、鼻高々といった様子のアルフを見遣りながら、リオとルーは顔を見合わせた。
「でもね、アルフ……」二人は揃って深い溜息を吐き、声を揃えて言った。「もう夏なんだから、暖炉は必要無いんじゃない?」
気が付けば、暖炉の中で燃え上がる炎によって、周囲の温度はみるみる熱くなっている。
アルフは気まずげに頭を掻くと、指を鳴らし、火を消した。
リオが小さな笑い声を漏らす。それにつられるようにアルフとルーが笑った。
すっかり綺麗に整えられた家の中に、三人の明るい笑い声が木霊した。
今朝、この家に初めて足を踏み入れた時には、いったいどうなってしまうのかと、三人とも途方に暮れたけれど、ほんの少しの魔法で、見違えるほどに綺麗になった家の中は、こざっぱりとしていて、とても住み心地の良さそうな場所に思えた。戸棚には、日用品や食器類までもが整然と並んでおり、しかも、それらは造られたばかりのころの輝きを放っている。今すぐに、この家で生活を始めても、なんら不便を感じることは無いと思われた。また、調度品に至っては、どれも細かな細工の施された質の良いものばかりで、この家の前の持ち主の趣味の良さが窺えた。その上、それら全てが、まるで、リオ達が自分で選び、揃えた物であるかのように、彼等の手にしっくりと馴染む物ばかりだったのだ。
綺麗になった家の中、リオ、アルフ、ルーの三人は揃ってテーブルに腰掛け、満足そうに家の中を見渡した。
「やっぱり、素敵な家だよねぇ。ボク、きっとこの家が大好きになるよ」
頬杖を付きながら、ルーが楽し気に言った。
それに応えるようにリオが笑う。
「ホントに、凄く不思議な家だね。今日、初めてこの家に入ったのに、とても居心地が良い。まるで、ずっと住んでいたみたいに、何もかもが、しっくりと肌に馴染むよ。何故だろうね」
「さあな。でも、確かに良い家だよ。此処でなら静かに暮らせそうだ。早く引越して来ようぜ」
椅子の背に凭れ掛かり、両手を頭の後ろで組んだアルフが、のんびりとした口調で言った。
耳には、小川のせせらぎと小鳥の囀りが心地よく響いてくる。そんな森の音に耳を澄まし、窓の外に視線を投げる漆黒の瞳は、とても優し気に微笑んでいた。
満足そうな二人の様子を静かに見つめていたリオは、アルフの背後、暖炉の上に、微かな光を見たような気がした。
「……あれ?」
不思議な感覚に捕われ、椅子から立ち上がる。そのまま、テーブルを迂回してアルフの背後に回り込んだ。
「どうしたんだ、リオ?」
「何かあるの?」
アルフとルーは、椅子に腰掛けたまま、リオの動きを眼で追い、そう声を掛けた。
リオは二人に小首を傾げて応え、暖炉上の蝋燭台の影を覗き込む。そこで見付けたもの、それは、金色に輝く一本の羽根だった。
「これ……。何でこんなところに……?」
呆然とした態のリオの呟きに、アルフとルーが近寄ってくる。リオに頬が触れるほどの距離で覗き込んだかと思うと、二人揃って驚きの声を上げた。
「なんだ、それ」
「金色だ。綺麗だねぇ」
リオは、二人の素直な驚きの声を聞きながら、小さく笑った。そして、再び羽根を見つめ、不思議そうに言った。
「これって、……多分、天使の羽根……、だと、思うよ」
「天使?」
「うん……」なぜか、歯切れが悪い口調。「どうして、こんな所にあるんだろう。天使がこの世界に来るなんて、……今では有り得ないことなのに……」
囁きにも似たリオの言葉。
アルフはリオの横顔をまっすぐに見つめ、異議を唱えた。
「天使って……。そんなはず無いだろう。だって、これ、金色だぞ。天使の羽根ってのは、白いものだろ?」
リオはアルフを振り返り、再び小さく笑いながら頷いた。
「うん。普通の天使の羽根は、確かにそう。純白だよ。これは、多分、聖天使の羽根……、じゃ、ないかな……?」
「聖天使?」
「……って、何だ?」
二人揃っての質問。こういう時には、やたらと気が合う。
リオは小首を傾げ、記憶を手繰るように、一言一言、ゆっくりと言葉にした。
「天上界ってね、僕達が普段思っている『平等』『博愛』のイメージとは、ちょっと違っていて、ホントは封建的な縦社会で、厳しい上下関係があるんだそうだよ。一口に天使といっても、彼等には位というものが与えられていてね、一般的に『天使』っていわれて、人間界で人間達を導くのは『守護天使』、その天使達にあれこれ命じるのが『大天使』といわれるんだって。普通、『天使』っていうと、『大天使』までだと思われがちなんだけど、本当は、更にその上位に五人の天使がいる。それが『聖天使』。神から直接お言葉を戴けるのは、聖天使だけなんだそうだよ。数多居る天使達の中でも最も美しく、背には金色に輝く二対の翼、頭上には二重の光輪を擁するんだって」
リオは、感心の態で彼を見つめている二人の視線に気付くと、小さく舌を出し、肩を竦めた。
「僕も、以前、ラウ先生から教えて戴いただけだし、それも、たった一度か二度くらいだけだから、あまり詳しくは知らないんだ。今度、ちゃんと調べてみるね」
それでもアルフは、感心しきり、一つ深い溜息を吐いた。
「お前の育ての親だったラウ先生って、人間界のことを調べてる人なのかと思ってたけど、天上界のことにも詳しいんだ。凄い人だな」
「ラウ先生の専門は『人間心理学』と『天上界史』なんだって。総称すると『異世界人類学』。……よく解らないよね」
リオは再度肩を竦めた。そして、暖炉に寄り掛かり、微風に綿毛を揺らす金色の羽根を、肩越しに振り返ると、独り言のように呟いた。
「でも、これが本当に聖天使の羽根だとしたら、……なぜ、こんな所にあるんだろう。聖天使が天上界を降りるなんて、そんなこと、あるわけがないのに……」
リオは、少し躊躇いながらも、そっと腕を伸ばし、その羽根に触れた。
その瞬間、羽根は純白の小鳥へと姿を変え、窓を擦り抜けて、何処へとも無く飛び去っていってしまった。
リオ、アルフ、ルーの三人は、暫し呆然と、小鳥が飛び去った空を見つめた。