第九話 上海の夜、龍馬が笑う
その夜、龍馬は初めて上海で酒を飲んだ。
真壁が連れて行ったのは、租界の外れにある小さな酒場だった。中国人も西洋人も日本人も、同じ卓に座って飲んでいた。誰も互いの国を気にしていなかった。酒と煙草と、騒音だけがあった。
「長崎と違うか」真壁が聞いた。
「違う」龍馬は杯を見た。「長崎は、異国を意識しとる。ここは、異国が普通になっとる」
「慣れただけです」
「慣れるということは、変わるということじゃ」
真壁は何も言わなかった。
――――――
二杯目が来た頃、真壁が口を開いた。
「坂本さんは、日本をどうしたいんですか」
龍馬は杯を置いた。
「どうしたい、か」
「ええ」
「まだ分からん」
「分からない人間が、上海まで来ますか」
「分からんから、来た」
真壁はしばらく龍馬を見た。それから、珍しく少し表情が緩んだ。
「正直な人だ」
「あんたは正直か」
「仕事では嘘をつきません」真壁は杯を持ち上げた。「ただ、全部は言わない」
「どこがグレイに似とる」
真壁の手が、わずかに止まった。
「似ていますか」
「目が似とる」龍馬は言った。「信じとるものがある人間の目じゃ」
「グレイは帝国を信じています」真壁は静かに言った。「私が信じているのは、速度です」
「速度」
「速い者が生き残る」真壁は窓の外を見た。「国でも人でも、それは変わらない」
「速さだけが正しいか」
「正しいかどうかは関係ない」真壁は言った。「速い者が、正しさを決める」
龍馬は黙った。
否定できなかった。
だが、何かが胸に刺さった。
――――――
三杯目の頃、龍馬は取引所の話をした。
初日に見た、数字が飛び交う部屋。走り回る男たち。黒板に書かれ、消される数字。
「あそこで動く数字が、どこかの港を殺す」龍馬は言った。「でも誰も、そのことを考えていない」
「考える必要がないからです」真壁は言った。「仕組みがあれば、人間は考えなくていい。それが効率化です」
「考えなくていい、か」
「ええ」
龍馬は杯を見た。
「それは、怖いことじゃないか」
真壁は少し間を置いた。
「怖いと思う余裕がある者は、まだ速度が足りない」
龍馬はしばらく黙った。
それから、笑った。
声を出して笑った。
真壁が驚いた顔で龍馬を見た。
「何がおかしいんですか」
「あんたの言葉が」龍馬は笑いながら言った。「全部正しいのに、全部怖い」
「矛盾しています」
「矛盾しとる」龍馬は頷いた。「でも本当のことじゃ」
真壁はしばらく龍馬を見ていた。
それから、静かに言った。
「坂本さんは、変わった人だ」
「そうか」
「グレイも同じことを言っていました」
龍馬は笑うのをやめた。
「グレイが」
「ええ」真壁は杯を置いた。「あの人はあなたを、本当に惜しいと思っています」
「惜しい」
「敵にするには、もったいない、と」
龍馬は窓の外を見た。
上海の夜は明るかった。ガス灯が並んでいた。黄浦江が光を反射していた。
長崎の夜とは違う明るさだった。
長崎の夜は、闇の中に光が点る。
上海の夜は、光が闇を消している。
龍馬はそれを見ながら思った。
この明るさが、好きだ。
そして、この明るさが怖い。
同時に、両方が本当だった。
――――――
帰り道、二人は黄浦江沿いを歩いた。
川には船が浮かんでいた。蒸気船と帆船が混在していた。新しいものと古いものが、同じ川を流れていた。
「真壁」龍馬は歩きながら言った。「佐賀に、家族はおるか」
真壁は少し間を置いた。
「母がいます」
「帰らんのか」
「帰れません」
「なぜ」
真壁は川を見た。
「帰ったら、ここが夢だったことになる」静かに言った。「私はそれが、怖い」
龍馬は何も言わなかった。
真壁が続けた。
「坂本さんは、帰れますか」
「帰る」龍馬は即座に言った。
「なぜですか」
「帰らにゃならん場所があるけん」
真壁は龍馬を見た。
その目が、一瞬だけ、何かを羨むような色になった。
龍馬は気づいた。
気づいて、何も言わなかった。
――――――
宿に戻ると、龍馬は文机に向かった。
紙を出した。
長崎への手紙を書こうとした。
だが筆が止まった。
汐に、何を書けばいいのか。
上海は凄い、では足りない。
上海は怖い、では正確ではない。
龍馬は筆を置いた。
窓の外で、蒸気船の汽笛が鳴った。
遠くて、低い音だった。
龍馬はそれを聞きながら思った。
儂は今、何かに魅せられとる。
それは分かる。
だが魅せられながら、まだ汐の言葉が消えていない。
——人が、そこしか選べなくなるようにするんです。
上海は美しい。
そして上海は、選べない場所を作りながら美しくなった。
龍馬はそこで、初めて紙に書いた。
一行だけ。
「国では遅い」
それだけ書いて、止まった。
続きが、まだ出てこなかった。




