第二十四話 海援隊、ヒーローになる
十一月の長崎は、風が冷たかった。
龍馬は朝から動いていた。
神戸の商人との交渉。横浜の港湾業者への手紙。土佐の藩士との調整。長崎の保険組合の設立準備。
全部、同時に動いていた。
海援隊の事務所は、以前より忙しかった。
隊士たちが走り回っていた。書類が積まれていた。来客が絶えなかった。
船の組織だったものが、少しずつ変わっていた。
――――――
昼過ぎ、近藤が報告に来た。
「長崎の石炭商が、三軒、うちの保険に入りました」近藤は言った。
「英国系から替えたか」
「ええ」近藤は言った。「最初は様子見でしたが、条件を見て、替えてくれました」
龍馬は頷いた。
三軒。
小さかった。
だが、始まりだった。
「査定は、公正にやれ」龍馬は言った。「儂らが英国系と同じことをしたら、意味がない」
「分かっています」近藤は言った。「ただ、一つ問題があります」
「何じゃ」
「英国系が、値を下げてきました」近藤は言った。「うちが動いたのを見て、対抗してきた」
龍馬は少し考えた。
「下げるか」
「下げますか」
「下げない」龍馬は言った。「値で戦ったら、資本力で負ける。そこでは戦わん」
「では、どこで戦いますか」
「査定の公正さで戦う」龍馬は言った。「うちは、小さい港も外さない。リスクを数字だけで見ない。その分、値は高くても、信頼で選んでもらう」
近藤はしばらく考えた。
「時間がかかりますね」
「かかる」龍馬は言った。「だが、それしかない」
――――――
夕方、龍馬は波止場に出た。
一人になりたかった。
波止場の端に立って、海を見た。
蒸気船が一隻、港に入ってくるところだった。
大きな船だった。英国の旗を掲げていた。
龍馬はその船を見た。
グレイが乗っているかもしれないと思った。
乗っていないだろうが、そう思った。
あの男は今頃、どこかで次の設計をしているはずだった。
横浜か。神戸か。あるいはもっと別の場所か。
止まらない男だった。
だから龍馬も、止まれなかった。
――――――
汐が来たのは、日が暮れてからだった。
「また一人でいましたね」汐は言った。
「考えることがあって」
「何を考えていましたか」
龍馬は海を見た。
「儂は、正しくやれているかどうか」
汐は龍馬の隣に立った。
「何か、曲がっていますか」
「まだ分からん」龍馬は言った。「だが、曲がりそうになる瞬間はある」
「どんな時ですか」
「数字を見すぎる時」龍馬は言った。「利益の計算をしている時。航路の効率を考えている時。ふと気づくと、グレイと同じ目で見とる」
汐は海を見た。
「その時、どうするんですか」
「父のことを思い出す」汐は静かに言った。
龍馬は汐を見た。
「儂が、ということですか」
「ええ」汐は言った。「龍馬さんが数字だけで見始めたら、私が父のことを話します。それで、戻れますか」
「戻れると思います」
「なら、それでいい」汐は言った。「難しい設計をしているのは分かります。でも、設計図の中に、父みたいな人間を忘れなければ、曲がらないと思います」
龍馬は海を見た。
波が来て、引いた。
「汐」龍馬は言った。「儂は、あんたに礼を言わなければならないことがある」
「何ですか」
「最初の日、波止場で」龍馬は言った。「英国人は銃より先に港を見る、と言った。儂は笑って流した」
「覚えています」
「あの時、ちゃんと聞いていれば」龍馬は言った。「もっと早く動けた。徳蔵さんが死ぬ前に」
汐はしばらく黙った。
波が来て、引いた。
「龍馬さん」汐は言った。「父のことは、あなたのせいではありません」
「でも」
「あなたが笑ったのは、まだ見えていなかったからです」汐は言った。「見えていない人間を責めても、意味がない」
「汐」
「ただ」汐は続けた。「今は見えている。だから動いている。それで、いい」
龍馬は汐を見た。
この女は、最初から見えていた。
龍馬より先に、全部見えていた。
それでも怒らなかった。
ただ、傍にいた。
「汐」龍馬は言った。「儂が動けるのは、あんたが傍にいるからじゃ」
汐は少し目を伏せた。
「大げさです」
「大げさじゃない」龍馬は言った。「グレイには、傍に置く人間がいなかった。だからホルト卿になりかけとる。儂には、あんたがいる」
汐は海を見た。
しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「では、傍にいます」
「頼みます」
二人は海を見た。
波が来て、引いた。
蒸気船の煙が、夜空に溶けていた。
――――――
その夜、海援隊の事務所に、各地から手紙が届いた。
神戸の商人から。横浜の港湾業者から。土佐の藩士から。そして、長崎の小さな港からも。
全部、同じ内容だった。
海援隊の保険に入りたい。航路の設計に加わりたい。情報網に繋がりたい。
近藤が興奮して報告に来た。
「龍馬さん、全国から来ています」近藤は言った。「噂が広がったんだと思います。海援隊が、新しい仕組みを作ろうとしていると」
龍馬は手紙の束を見た。
一枚一枚、確かめた。
神戸。横浜。土佐。そして長崎の小さな港。
全部、繋がり始めていた。
「近藤」龍馬は言った。「一つ一つ、丁寧に返事を書け」
「全部ですか」近藤は言った。「かなりの数です」
「全部じゃ」龍馬は言った。「大きい港も、小さい港も、同じ丁寧さで書け」
「分かりました」
近藤は手紙の束を持って、部屋を出た。
龍馬は一人になった。
手紙が来た場所を、頭の中で地図に置いた。
神戸。横浜。土佐。長崎。
線が繋がっていった。
まだ、紙の上だけの話だった。
だが確かに、動き始めていた。
――――――
深夜、龍馬は設計図を広げた。
航路の線が引かれていた。
日本の沿岸を、細い線が走っていた。
長崎から始まって、神戸へ。神戸から横浜へ。横浜から函館へ。
そしてその線の途中に、小さな港が点在していた。
福浦も、あった。
龍馬は設計図を見た。
これが完成した時、日本の港は繋がる。
情報が流れる。
物が動く。
人が選べるようになる。
どの港を使うか。どの航路を選ぶか。どの保険に入るか。
全部、自分で選べるようになる。
グレイの仕組みとは、違う設計だった。
似た道具で、逆の方向に引いた線だった。
龍馬は設計図を折り畳んだ。
立ち上がった。
窓を開けた。
長崎の夜の港が見えた。
霧が出ていた。
白い霧の中に、船が浮かんでいた。
海援隊の船も、その中にあった。
ただの船が、少しずつ変わっていた。
情報を運ぶ船に。
航路を繋ぐ船に。
人が選べる世界を作るための船に。
龍馬はその船を見た。
まだ、道は長かった。
グレイは止まらない。
仕組みは止まらない。
だから龍馬も、止まれない。
だが今夜だけは、少しだけ立ち止まった。
霧の中に浮かぶ船を見ながら。
波が来て、引く音を聞きながら。
――――――
龍馬は窓を閉めた。
机に戻った。
次の手紙を書き始めた。
グレイへ。
真壁へ。
西郷へ。
そして、日本中の港の人間へ。
書くことは、山ほどあった。
設計は、まだ始まったばかりだった。
だが、始まっていた。
確かに、始まっていた。
長崎の朝は、霧から始まる。
その霧の中で、海援隊は動き続けた。
刀を持たずに。
銃を持たずに。
帳簿と航路と情報と、傍にいてくれる人間を持って。
それだけで、戦っていた。
それだけで、十分だった。
ご挨拶
最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
坂本龍馬を書くことは、正直、怖かった。これほど愛され、語られ、描かれてきた人物に、新しい角度から向き合うことへの緊張がありました。
でも書かずにはいられなかった。
「龍馬はグローバリストの手先だった」という見方があります。武器商人との繋がり、英国資本との関係、資金の出所——状況証拠だけを繋げば、そう見えなくもない。
でも私はそう思わない。
龍馬は仕組みを理解した上で、仕組みに飲まれなかった人間だったと思っています。刀ではなく帳簿で、銃ではなく航路で戦おうとした男。それがこの作品の龍馬です。
史実と異なる部分があります。グレイも汐も真壁も、架空の人物です。でも描いたことの本質は、嘘ではないつもりです。
龍馬の誤解が、少しでも解けたなら。
八雲 海




