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一般人が異世界に!?  作者: グリーン・シールド


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第三章

 帝都――その威容は、遠目からでも「力」の象徴として僕の視界を圧伏した。

 いくつもの村や町を視界の端に追いやりながら、僕たちはひたすら北へと距離を詰めていく。目指すのは、地平線の先に尖塔を突き立てた巨大な城塞都市。

 外周を囲うのは、巨人の腕のように分厚く、天を突くほどに高い城壁。その内側に何があるのか、外界の者には一切の予見を許さない。城壁に等間隔に配置された望楼からは、鋭い陽光を反射させる武具を纏った兵士たちが、獲物を狙う鷹のような視線を地上へと注いでいた。

 厳重。その一言に尽きる警戒網。

 巨大な城門の前には、入城を待つ長蛇の列が蛇のようにのたくっている。

 重い荷を背負い、脂汗を拭う商人。

 抜き身の殺気を隠そうともしない、傭兵風の荒くれ者。

 古びた法衣を纏い、底の深い帽子で顔を隠した魔導士。

 誰もが、門番の放つ威圧感に気圧され、神妙な面持ちで身分証を提示している。一組ずつ、一歩ずつ。停滞する列の最後尾に、僕とリーブ先輩は並んだ。

 ふと、自分の格好を見下ろす。

 ……ジャージだ。しかも、昨日の逃走劇で泥と汗にまみれた上下ジャージ。

 この鉄と魔法と革の世界において、僕の存在はあまりにも「異質」だった。

 案の定、前に並んでいたガタイのいい男が、肩越しに不審な視線を投げかけてくる。

「あはは……いや、全然、怪しいもんじゃないですよ。ちょっと遠くから来ただけで……」

 苦し紛れの愛想笑いを浮かべてみるが、逆効果だった。男は「関わるな」と言わんばかりに露骨に顔を背け、周囲の視線もじりじりと僕のジャージに集まり始める。

「……先輩、これマズくないですか!?」

 僕は声を極限まで潜め、隣のリーブ先輩に縋るように耳打ちした。

「僕、身分を証明できるものなんて何一つ持ってませんよ。パスポートも、学生証さえ冷蔵庫の向こう側です」

 門番からすれば、僕は「出所不明の奇妙な服を着た浮浪者」でしかない。

 最悪、スパイ容疑で地下牢行きだ。「異世界から来ました」なんて真実を口にしたところで、精神を病んだ狂人と見なされるのが関の山だろう。皇帝に会うどころか、一歩も中に入れずに終わる――絶望的な予測が脳内を埋め尽くしていく。

 だが。

 僕の隣で、リーブ先輩は不敵な笑みを口端に刻んでいた。

「安心しろ、大那。私に一つ、確実な『策』がある」

「さ、策……? 袖の下とか、賄賂の類ですか?」

 時代劇の悪代官のような光景を想像した僕に、彼女は首を振った。

「違う。もっと……正面突破に近いやり方だ」

 彼女の表情から余裕が消え、真剣な光がその瞳に宿る。

「いいか、大那。今から入城の手続きが終わるまで、お前は一言も発するな。置物のように黙っていろ」

 その強い語気に、僕は思わず喉を鳴らした。

「特に、名前を聞かれても絶対に答えるな。いいな?」

 その一言で、僕の脳裏に昨日の会話がフラッシュバックした。

 僕の名は「ダイナ」。だが、この世界の住人の耳には、それが最悪の禁忌――魔王の名と同じ響きとして届いてしまう。

 こんな厳戒態勢の門前でその名が漏れれば、即座に槍の雨が降るだろう。

「……了解です。地蔵になります」

 僕は短く答え、固く口を結んだ。

 列は、牛歩のように遅く、けれど着実に進んでいく。

 冷たい緊張感が肌を刺す中、ついに巨大な城門の影が僕たちの頭上を覆った。

 見上げるほどに巨大な扉。その向こうには、この世界の権力の中枢、あらゆる陰謀と希望が渦巻く帝国の中枢が口を開けて待っている。

 いよいよ、僕たちの番が来た。

「おい、次だ! 前に出ろ!」

 鼓膜を震わせる怒声とともに、鉄の匂いが鼻腔を突いた。

 フルプレートの鎧に身を包み、身の丈ほどもある槍を構えた門番が、獲物を検分するような冷徹な眼差しで僕たちを凝視している。

 ついに、僕たちの番が来た。

 一歩。また一歩。石畳を叩く自分の足音が、やけに大きく、乾いて響く。

「身分証、もしくは通行許可証を提示しろ」

 門番の声は、拒絶を前提とした重圧を孕んでいた。

「……」

 僕は、岩のように口を閉ざす。

 言えない。言えば終わる。リーブ先輩との約束を守るため、ただの「無口な同行者」を演じるしかない。

 だが、その沈黙が、逆に熟練の門番の不信感に火をつけた。

「なんだ? 舌でも抜かれたか?」

 門番が、一歩。間合いを詰めてくる。

 鎧が擦れ合うキシキシという金属音が、死神の足音のように聞こえた。

「己の身分さえ証明できぬ不逞の輩か、あるいは――」

 近い。あまりの威圧感に、肺が酸素を拒絶する。

 視界の端では、他の兵士たちが無造作に槍の石突を地面から浮かせ、いつでも突き出せる構えを取っているのが見えた。

(……まずい、これ以上は……!)

「い、いやぁ、その……」

 情けない裏返った声が漏れ、僕は反射的に後退りしようとした。

 その「逃げ」の動作が、決定的な引き金となった。

「怪しい奴だ! 構えろ、取り押さえ――」

 刹那、空気が爆ぜた。

 周囲の兵士たちが一斉に踏み込み、複数の穂先が僕の喉元や心臓へと一斉に向けられる。

 銀色の刃が、朝日にぎらりと反射した。

(終わった。ここで僕の人生は幕引きだ――)

 絶望が脳裏を白く染め抜いた、その時だった。

「控えよ」

 凛とした、凛烈なまでの声。

 僕の前に、リーブ先輩が静かに、けれど揺るぎない確信を持って立ちはだかった。

「私たちの身分は――」

 彼女は、突きつけられた槍の林など存在しないかのように、門番の目を真っ向から射抜いた。

「近衛兵団長ローザス閣下が保証してくださる」

「……っ!?」

 門番たちの動きが、物理的に凍りついた。

「ローザス閣下に伝えなさい」

 リーブ先輩は、淡々と、けれど命令に近い響きを込めて告げる。

「『大魔道士リーブが、魔の淵より帰還した』と。……私の名を聞けば、閣下はすべてを察するはずだ」

 空気が、一変した。

「ローザス閣下……だと?」

「今、大魔道士と言ったか?」

 兵士たちの間に、困惑と動揺がさざ波のように広がっていく。

(近衛兵団長ローザス……)

 僕はその名を反芻する。この帝国の軍事の中枢、皇帝の盾とも呼ぶべき重鎮。

 ただの浮浪者が口にすれば即刻不敬罪で首が飛ぶような名前を、彼女は「旧知の仲」であるかのように言い放ったのだ。

「馬鹿な! 名簿にそんな来訪予定はない!」

 若い門番が、動揺を打ち消すように叫んだ。

「騙されるな! 閣下の名を騙る不届き者だ、捕らえろ!」

 彼が槍を繰り出そうとした、その寸前。

「……待て。引け」

 背後から響いた、地を這うような重低音。

 現れたのは、顔に深い傷跡を刻んだ壮年の門番だった。

 彼はじっと、僕の隣で泰然と佇むリーブ先輩を見据えている。

「リーブ……。その名、そしてその魔力の残滓ざんし……」

 彼は眉間に深い皺を刻み、記憶の底を浚うように目を細めた。

「……確証はない。だが、その瞳に偽りがあるようには見えん」

 彼は周囲の兵士たちに、短く、峻烈に命じた。

「武器を収めろ。……確認を取る。判断は私が、いや、閣下が下される」

 若い門番は不満げに舌打ちしたが、上官の命令には逆らえず、渋々と槍を引いた。

「許可が降りるまでは、一歩も動くな」

 壮年の門番はそう言い残すと、驚くべき速さで城門の奥へと消えていった。

 やがて僕たちは、門の脇にある石造りの控え室へと通された。

 鉄格子のはまった窓から差し込む光が、埃の舞う部屋を虚しく照らしている。

「はぁぁ……」

 椅子に崩れ落ちるように座り、僕は溜まっていた息を吐き出した。

 死の淵から生還した実感。心臓が今さら激しく警鐘を鳴らしている。

 隣で静かに目を閉じているリーブ先輩に、僕は震える声で尋ねた。

「先輩……その、ローザス様って人。本当にお知り合いなんですか?」

「ああ」

 彼女は目を開けず、静かに頷いた。

「勇者パーティ。……その結成を皇帝に進言し、私を指名してくださった恩人であり、この『特攻作戦』の総責任者だ」

 静寂の中で、その言葉が重く響く。

「閣下は、私の生存を信じている数少ない人物の一人のはず。……あの方なら、皇帝に対しても多少の便宜を図ってくれるだろう」

 近衛兵団長、ローザス。

 僕たちが次に相まみえるのは、この帝国を動かす巨大な歯車の一つ。

 その人物が、僕という「異世界人」をどう扱うのか。

 静まり返った控え室に、その音は地鳴りのように響いていた。

 ドクン。ドクン。

 僕の心臓が、肋骨を内側から叩き割らんばかりに跳ねる。

 つい先ほどまでの城門前の喧騒が、遠い前世の出来事のように感じられた。

 どれほどの時間が過ぎたのか、もはや定かではない。

 ただ、一秒が永遠に引き延ばされたような、濃密で、息の詰まる静寂だけが部屋を満たしていた。

 ――やがて。

 遠くから、石造りの廊下を穿つような音が聞こえ始めた。

 重く。鋭く。規則正しい。

 軍靴の音だ。それも、一人ではない。

 だが、その集団の中心にいる者の足取りだけが、明らかに異質だった。

 歩幅が広く、速度が速い。――ほとんど、走っている。

 音は迷いなく、一直線にこの部屋へと向かってくる。

 そして。

 扉の前で、音が止まった。

 次の瞬間。

 蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで、扉が叩きつけられるように開かれた。

「――っ!」

 反射的に顔を上げた僕の視界に、三人の影が飛び込む。

 先ほどの門兵二人、そして――その中央に立つ、一人の男。

 初老の騎士だった。

 長く蓄えた銀混じりの顎髭。漆黒の鉄に鈍い光を宿す重厚な鎧。その背には、一振りの巨大な大剣が、持ち主の威厳を誇示するように担がれている。

 ただそこに立っているだけで、部屋の空気が数度下がったかのような錯覚を覚える。

 修羅場を幾度も潜り抜けてきた者だけが纏う、剥き出しの「圧」。

 その鋭い眼光は、隣に座る僕を一瞥もせず、真っ直ぐにリーブ先輩を射抜いた。

「帰ってこれたのか……リーブ――!!」

 絞り出すような、慟哭に近い叫び。

 リーブ先輩は静かに立ち上がり、迷いのない足取りで一歩を刻んだ。

「ええ。お久しぶりです、ローザス閣下」

 その一言で、すべてを察した。

 この人物こそが、帝国近衛兵団長――ローザス。

 僕も慌てて立ち上がるが、その瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。

 二人はほぼ同時に距離を詰め、言葉もなく、強く、折れんばかりに抱き合ったのだ。

「……!」

 威圧的な門兵すら蛇に睨まれた蛙のように従える鉄の男が、今、目の前で感情を爆発させている。

 ローザスの目には、こらえきれない涙が滲んでいた。

 やがて抱擁を解くと、彼は刹那の間に軍人としての冷徹な表情を取り戻した。

「確認は取れた。……お前たちは下がれ。重要な話になる」

 護衛の兵たちに下された、有無を言わせぬ命令。

 門兵たちは深く一礼し、音を立てずに扉を閉めた。

 完全な密室。

 その瞬間、ローザスは再びリーブ先輩の両肩を強く掴み、詰め寄った。

「それで――!」

 先ほどとは違う、切迫した、剥き出しの焦燥。

「お前が帰還したということは……魔王は! 奴の首は獲れたのか!?」

 その問いの重さに、僕の肺が潰れそうになる。

 勇者パーティ。それは帰還を前提としない片道切符の任務。

 生きて帰った者がいるということは――すなわち、討伐成功を意味するはずだった。

 だが。

 リーブ先輩は、ゆっくりと、断腸の思いで首を横に振った。

「……魔王には。勝てませんでした」

「……っ」

 ローザスの喉が、ヒュッ、と鳴る。

「私以外のメンバーは、全員……殺されました」

 部屋の空気が、瞬時に凍てついた。

「私一人だけが、無様に生き残り、こうして帰還したのです」

 沈黙。

 ローザスの顔色が、目に見えて土色に変わっていく。

 期待という名の崖から、真っ逆さまに突き落とされた男の絶望。

 だが――。

「ですが」

 リーブ先輩の声が、絶望の底で凛と響いた。

「残された力のすべてを、命を賭して繋ぎ――魔王の『封印』には、成功しました」

 その言葉に、ローザスはゆっくりと目を伏せた。

 肩を掴んでいた手が、力なく離れていく。

「……そうか。そうだったか」

 短い一言。だがその中には、戦友を失った悔しさと、当面の危機を免れた安堵、そして冷徹な政治家としての計算が、複雑に混ざり合っていた。

「結果は結果だ。全額とはいかないが、約束の報酬の半分は支払おう」

 彼はすぐに、止まっていた思考の歯車を回し始める。

「封印……か。一か八かだが、我らにとっては最大の好機。この間に前線を押し上げ、魔国の戦力が動けぬ今、その領土を切り取ることも……」

 戦略家の顔に戻り、利益を数え始めたローザス。

 だが。

「待ってください、閣下。私が本当に伝えたいのは、ここからです」

 リーブ先輩の声が、彼の野心を遮った。

「……何だと?」

 ローザスの眉が跳ね上がる。

 リーブ先輩は、迷わず僕を指し示した。

「彼が……大那が、魔王を完全に討ち果たすための『唯一の鍵』になるかもしれません」

 その場に、再び重い沈黙が降りた。

 ローザスの視線が、初めて僕に向けられる。

 ゴミを見るような、あるいは得体の知れない虫を見るような、冷淡な値踏みの目。

「……この少年が? その、奇妙な装束の……弱そうな小僧がか?」

 その評価は、あまりにも正確で、残酷だった。

 僕は、とりあえず乾いた笑いを浮かべた。

「はは……はじめまして、閣下」

 そして、覚悟を決めて名乗った。

 この世界の禁忌に、あえて触れるために。

「僕は――大那だいなといいます」

 わざと、その音を強調した。

 案の定。

「……ダイナーだと!?」

 ローザスの表情が、驚愕と殺意に塗り替えられる。

 僕はすぐに首を振り、一語ずつ、釘を刺すように言い直した。

「いえ、違います。大那、です」

 そして、一呼吸置いてから、世界を揺らす一言を告げた。

「僕は、あなたの知らない『異世界』から来ました」

 その瞬間。

 部屋の空気が、比喩ではなく、激しく波打った。

「リーブ――正気か?」

 低く、地を這うような声。だが、その内側には沸騰するような怒気が明確に滲んでいた。

「そのような荒唐無稽な出鱈目で、この私を担ぐつもりか。それとも……」

 ローザス閣下が一歩、踏み込む。黒鉄の鎧が重々しく軋み、物理的な圧力となって僕を壁際まで追い詰める。

「魔王の甘言に耳を貸し、その差し金に騙されているのではあるまいな?」

 それは、疑念という名の処刑宣告に等しかった。

 部屋の温度が氷点下まで下がったかのような錯覚。背筋に冷たい戦慄が走る。

「落ち着いてください、閣下!」

 リーブ先輩が、鋭い制止の声を上げた。彼女は僕を庇うように一歩前へ出ると、その黄金色の瞳で真っ向から閣下の威圧を跳ね返す。

「証拠なら、ここにあります。……大那、例のものを」

 促され、僕は反射的に身体を動かした。

「これを……見てください」

 震える手で、着ていたバスケ部のジャージを脱ぐ。そして、それを祈るような心地でローザス閣下へと差し出した。

 閣下は怪訝な表情を浮かべながらも、その大きな手で布地を受け取る。

 無造作に、指先で生地をつまみ、引き伸ばした。

「……これは」

 硬い髭に覆われた顎が、わずかに震える。

「見たことがない……材質だな」

 当然だ。ポリエステルとポリウレタンの混紡。この中世的な世界において、石油化学製品の結晶たるスポーツウェアは、魔法の産物以上に「未知」の物質。

 閣下の目に宿っていた殺気じみた警戒が、困惑という名の隙に取って代わられた。

 その隙を逃さず、僕は必死に言葉を紡いだ。

 僕がいた東京という街のこと。部活帰りに、ありふれた家庭用冷蔵庫を開けた瞬間、この世界へ墜ちたこと。そして、魔王の玉座の間で、封印の残滓ざんしを纏ったリーブ先輩と出会ったこと。

 僕が語る間、ローザス閣下は一言も口を挟まなかった。

 ただ、ジャージの生地を握りしめたまま、僕の瞳の奥を覗き込み、一言一句を精査するように聞き入っていた。

 やがて――話し終えた僕を待っていたのは、重い沈黙だった。

 ローザス閣下は、ゆっくりと目を閉じた。

「……信じがたい。あまりにも、荒唐無稽な話だ」

 はっきりと、彼は断じた。

「だが――」

 再び開かれたその眼光が、僕を射抜く。

「お前からは、一滴の『魔力』も感じられん。空虚そのものだ」

 背筋に、得体の知れない寒気が走った。

「この大陸の人間であれば、どれほど非力な赤子であろうと、魂に微細な魔力を宿している。だが、お前には……それすら無い。完全なる『無』だ。この世界のことわりから外れた存在であることだけは、認めざるを得まい」

 小さく、閣下が息を吐いた。

(……通じた!)

 喉の奥までせり上がっていた絶望が、一気に引いていく。

「じゃあ、僕も正式に帝国の勇者として――!」

「早まるな、小僧」

 冷や水を浴びせかけるような一言。

「異分子であることは分かった。だが、それが即座に『魔王を討つ鍵』である証明にはならん」

 冷静な、軍人としての声音。

大那だいな……と言ったか。ならば――」

 ガチリ、と金属音が響いた。

 ローザス閣下が腰の飾剣に手をかけ、それをゆっくりと引き抜く。

「その身を以て、力の一片を示せ」

 差し出されたのは、帝国の権威を象徴するような一振りの直剣。

「この剣を手に取れ。拒否は許さん」

 逆らえない、逃げ場のない圧。

 僕は無言でそれを受け取った。両手で柄を握りしめる。

(……重い)

 長さは中程度。だが、ズシリとした物理的な質量以上に、その剣には「命のやり取り」という概念が纏わりついていた。

「振ってみよ。それで決める」

 短い命令。

 僕は、剣を構えた。

(どうすればいい……? 剣道の経験すら全く無いのに……)

 ローザス閣下の冷徹な視線。そして、背後から向けられるリーブ先輩の、祈るような、期待に満ちた視線。

 それが僕の腕を、鉛のように重くさせる。

 この世界の住人にとって、武器は生存の道具だ。振れて当たり前、殺せて当たり前。

(でも僕は、ただの高校生なんだ……!)

「……っ!」

 歯を食いしばり、僕は意を決して振り下ろした。

 ヒュン、と。

 空気を撫でるような、頼りない音が小さく鳴る。

 それだけだった。

 手応えも、正解も、何一つ分からない。

 二人は、何も言わない。

(……え、これ、マズいんじゃないのか?)

 沈黙が、刃物よりも鋭く僕を切り裂く。

 僕は顔を上げることができず、誤魔化すようにがむしゃらに剣を振り続けた。

 横に。斜めに。袈裟斬りに。

 型もなければ、理屈もない。

 バスケで培った体幹だけを頼りに、ただの棒切れを振り回すかのように、無様に、がむしゃらに。

 やがて、肩で息をしながら僕は動きを止めた。

 剣先が、情けなく微かに震えている。

 静寂。

 三人の間に、あまりにも残酷で、逃げ場のない沈黙が落ちた。

 それを破ったのは、ローザスの冷徹な宣告だった。

「――論外だ」

 低く、突き放すような一言。その響きには、一抹の慈悲も、期待の欠片も混じっていなかった。

「剣を返せ。話にならん」

 流れるような動作で僕の手から剣が奪い取られる。鞘へと納まる際の硬質な金属音が、僕の心臓を直接叩き切るかのように冷たく響いた。

 閣下は鞘を払い、僕を塵芥ちりあくたでも見るかのように見下ろした。

「その腕の筋肉を見るに、日頃から多少は鍛えているのだろう。だが――まさかこれほどの素人とはな」

 吐き捨てるような言葉。それは「期待外れ」という評価以上に、「存在価値なし」という烙印のように感じられた。

「時間の無駄だった」

 その言葉が、耳の奥で爆ぜる。

 視界が急激に色を失い、周囲の音が遠のいていく。

(……ああ。分かっていたはずだ)

 自分が、ただの高校生であること。この血生臭い世界において、何の力も持たない空っぽの存在であること。

 それなのに、心のどこかで――リーブ先輩に必要とされたことで、自分に特別な何かがあると思い上がっていた。

 現実は、あまりにも、無情だった。

「リーブ」

 ローザス閣下が、扉へと歩みを向けながら背中越しに告げる。

「目を覚ませ。この男にどれほど目をかけても、我ら帝国が得るものは何もない」

 僕は、動けなかった。

 指先一つ、声一つ出すことすら叶わない。

 きっと、背後にいるリーブ先輩も、今の僕の無様な姿に失望しているに違いない。

(最初から……こんな奴に、賭けたりしなければよかったって……)

 否定できない。それが、この世界の正解なのだから。

 僕に残っているのは、ただ、どこにも繋がらない空っぽの未来だけ。

 ――だが。

「……待ってください、閣下」

 凛とした声が、重い空気を切り裂いた。その声の主は、他でもない、リーブ先輩自身だった。

 足を止めるローザス。

「なんだ。まだ何かあるのか。」

 振り返りもせず、氷のような声で問う閣下。

「最後に、一言だけ」

 リーブ先輩の声には、先ほどまでの「祈り」ではなく、確固たる「信念」が宿っていた。

 彼女は一歩、地を踏みしめて進み出る。

「私は――彼と、一夜を共に駆けました。死の境界線を、幾度も超えて」

 その言葉に、ローザス閣下の肩がわずかに動く。

「魔王城からの撤退戦。武器もなく、魔力も尽き、エンバー・ファイアビーに追われ……体力が限界を迎えたその時。私たちは遭遇したのです」

 一拍。彼女の声が、わずかに低く沈む。

「――クリムゾン・サラマンダーに」

 その名が出た瞬間、ローザス閣下は弾かれたように振り返り、深く眉を顰めた。

「……クリムゾン・サラマンダー、だと?」

 その驚愕が、すべてを物語っていた。

 帝国軍の精鋭ですら一軍を壊滅させかねない、災厄の化身。

 僕の脳裏にも、あの赤黒い巨躯と、全てを焼き尽くす咆哮が鮮明に蘇る。

「はい」

 リーブ先輩は頷き、まっすぐに閣下を見据えた。

「常人であれば、その場で死を悟る絶望的状況です。ですが――」

 そこで、彼女は僕を見た。

 絶望に震えていた僕を、その黄金色の瞳で優しく、力強く包み込む。

 そして、ほんのわずかに、誇らしげに笑った。

 胸が、強く打たれる。

「彼は、諦めなかった。己の弱さを理解した上で、森の立地、切迫した距離……そのすべてを把握した」

「逃げるのではなく――『狩場』へと、あの怪物を誘導したのです」

 心臓が、強く脈打つ。

 必死に走った時の泥の感触。背中に感じた彼女の体温。

「結果、崖へと追い込み、落下死させることに成功しました。武力という剣ではなく、『知略』という剣によって」

「……何だと?」

 ローザス閣下の視線が、再び僕を捉える。だがそこには、先ほどの侮蔑はない。

「閣下はかつて私に仰いました。『真の勇者とは、武力のみに非ず』と」

 リーブ先輩はさらにもう一歩、踏み出す。

「瀕死の私を背負い、夜通し走り抜き、最後まで私を見捨てなかった。仲間への献身、極限状態での持久力、そして咄嗟の判断力……。彼こそが、勇者の本質を体現しているとは思いませんか?」

 ――気づけば、視界が滲んでいた。

 頬を伝う熱いものが、止まらない。止めようとも思わなかった。

(……違った)

 見放されたわけじゃなかった。

 僕が彼女を背負って走ったように、今度は彼女が、僕という存在の価値を背負って戦ってくれている。

 それが、どうしようもなく――嬉しかった。

「……ふむ」

 低い、唸るような声。

 ローザス閣下が、完全にこちらへと向き直った。

「一理、あるな」

 重々しく、承諾の言葉が落とされる。

「……分かった。今回の魔王封印の功績、そしてリーブ、貴様の眼力に免じて。その進言、受け入れよう」

「……え?」

 涙で滲んだ視界の中で、閣下と目が合う。

「だが」

 即座に、鋭い一言が続く。

「後衛であろうと、最低限の自衛能力は必須だ。……ちょうどいい」

 ふと、閣下の口元が野性的な歪みを見せた。

「皇帝陛下への謁見まで、まだ時間はある。――大那と言ったか。この私が直々に、貴様のそのなまくらな腕を鍛え上げてやろう」

 その笑みに、先ほどまでの怒気はどこにもなかった。

「ついてこい。演習場だ」

「え……? 」

 頭が追いつかない。立ち尽くす僕に、閣下は扉を乱暴に開けながら振り返る。

「何をしている。時間は有限だと言ったはずだ」

 その背中は、先ほどよりも少しだけ近く、けれど巨大な壁のように感じられた。

 リーブ先輩が、そっと僕の腕を引いた。

「今までのお返し、だよ」

 くすっと、悪戯っぽく笑う。

「さ、行こ? 地獄の特訓、付き合ってあげるから」

 僕は、ジャージの袖で乱暴に涙を拭った。

 そして、腹の底から声を絞り出す。

「……はい!!」

 全力で、頷いた。

 胸の奥には、もう空っぽの絶望なんてなかった。

 代わりに、青く、静かな決意の火が、確かに灯っていた。


 石畳の廊下を、ローザスの軍靴が硬く、傲然と鳴らしながら進む。

 彼は歩みを止めることなく、先ほど部屋に入ってきた時に連れていた門番の一人を鋭い声で呼び止めた。

「おい。宮殿へ伝令を頼む。内容は、『該当の人物が到着した。皇帝陛下への謁見の時間を最優先で確保してくれ』と私が言っていた旨を伝えろ。よいな」

「はっ! ただちに!」

 門番は直立不動で敬礼を捧げると、脱兎のごとく走り去った。

 その背中を見送るまでもなく、僕たちは巨大な鉄の扉をくぐり、開けた場所へと出た。

 帝都演習場。

 そこには、先ほどの門番たちとは明らかに一線を画す者たちがいた。

 陽光を跳ね返す、眩いばかりの白銀の甲冑。装飾の細かさ、そして何より纏う空気の重さが違う。

「……正規兵だな」

 隣を歩くリーブ先輩が目を細めつつ、冷静に分析して呟いた。

「あの白銀の装束……帝国の屋台骨を支える騎士団のようだ。階級も実力も、門番とは比較にならない」

 その正規兵と短く言葉を交わしたローザスが、獲物を見つけた獣のような笑みを浮かべて戻ってきた。

「小僧。どうやら運がいいらしいな。いきなり『実戦』の準備が整った」

「実戦……?」

 嫌な予感が、冷たい汗となって背中を伝う。

 演習場は、用途ごとに厳格に区画分けされていた。

 木偶でく人形が虚しく切り刻まれている試し切り場。

 百発百中の矢が突き刺さる射場。

 そして――中央に一段高く設えられた、円形の舞台。

「そこから出れば負けだ。単純だろう?」

 ローザスに促され、僕は舞台の正面に立った。

 そこへ先ほどの正規兵が、重々しい木箱を運んでくる。中には、長さも重さも違う五本の直剣が据え置かれていた。

「え……。あの、もしかして……いきなり真剣でやるんですか!?」

 思わず声が裏返った。

「普通、こういうのって木刀とかからじゃないんですか!? 怪我どころか死にますよ!」

「言ったはずだ。これは教育ではない、選別だとな」

 ローザスは楽しげに、残酷な笑みを深めた。

「“いきなり実戦だ”。案ずるな、死にそうになれば……誰かが止めてやるかもしれんぞ」

 ――その言葉が合図だった。

 ギィィ……ッ。

 耳障りな金属音が響き、舞台の奥から「それ」が運ばれてきた。

 太い鉄条で編まれた、頑強な檻。

 中からは、ガン、ガンと、獣が暴れるような激しい打撃音が鳴り響いている。

「ゔゔゔ……ぎぎっ……」

 低く、濁った唸り声。

 鉄格子の隙間から、どす黒い緑色の、長い爪の生えた指が覗いた。

「ゴブリンだ」

 ローザスが、まるで今日の献立でも語るかのような平淡な調子で言った。

「通常は群れで人を襲う下級のモンスターだが、単体なら脅威は低い。帝国が新兵の胆力を試すために捕獲している個体だ」

 檻の中で暴れる異形。歪んだ顔、獲物をなぶり殺そうとする濁った瞳。

 周囲を見渡すが、リーブ先輩も、正規兵も、誰一人として眉ひとつ動かしていない。

(……これが、この世界の“日常”なのか)

 ジャージ越しの肌が、寒気で粟立つ。

 平和な日本でバスケットボールを追いかけていた僕が、今、命を奪いにくる「化け物」と対峙している。

「さあ、剣を取れ」

 ローザスの命令が飛ぶ。

「実戦練習を開始する」

 僕は慌てて箱に手を伸ばし、中程度の長さの剣を掴んだ。

 柄を握る手のひらが、嫌な汗で滑る。

 一歩、舞台の土を踏みしめる。その生々しい感触が、これから始まるのが「遊び」ではないことを突きつけてくる。

 正面、鉄檻。

 その中で、緑色の怪物が、今か今かと扉を蹴り上げている。

 ――ガチャリ。

 重いかんぬきが外される音が、僕の死刑宣告のように響いた。

 檻の扉が、一気に開け放たれた。

「ギギィィッ!!」

 狂乱の叫びとともに、緑の影が飛び出してきた。

 ゴブリンは、僕を視界に捉えた瞬間――一直線に、地を蹴った。

 速い。

 小柄な体躯からは想像もつかない加速。瞬きする間に間合いを詰められ、網膜にはその醜悪な顔が焼き付く。

「――ッ!」

 咄嗟に剣を構える。振り抜く余裕なんてない。とにかく、鉄の板として「壁」にするしかない。

 迫るのは、汚れた泥と乾いた血に塗れた鋭い爪。僕の肉を引き裂くためだけに研ぎ澄まされた凶器を、剣の腹で強引に受け止めた。

 キィン――ッ!

 鼓膜を劈く不快な金属音。

「――ゔッ!」

 防いだ。そう思った。

 だが、その安堵が命取りになる。

 視界の端で、予想外の動きが走った。

 ゴブリンは剣に弾かれた右手の爪を支点にして、空中で独楽のように体を捻ったのだ。そして、がら空きになった僕の左脇腹へ、もう片方の鉤爪を叩き込んできた。

(……しまっ――)

 剣は右側で固定され、すぐには戻らない。

 回避も、防御も、もはや物理的に間に合わない。

 ズブリ、と。

 熱した鉄を突き立てられたような嫌な衝撃が、体の深部に沈み込む。

「――――ッ!!」

 声にならない悲鳴が喉に詰まる。

 肉が抉れ、裂ける感触。ジャージの繊維が皮膚の内側に入り込むような不快感とともに、熱い液体がどっと溢れ出した。

(痛い――)

 違う。これは、僕が知っている「痛み」の範疇を超えている。

 部活の接触で負った打撲でも、転んで剥いた擦り傷でもない。

 これは――明確な「殺意」だ。

 他者を終わらせるための暴力が、今、僕の肉体に直接刻み込まれている。

 呼吸が浅くなり、視界がチカチカと明滅する。

 だが、ゴブリンは止まらない。獲物の血の匂いに興奮したのか、さらに凶悪な唸り声を上げて爪を振り上げた。

(やばい……殺される!)

 思考が白濁する寸前、生存本能が火を噴いた。

「――ッ!!」

 両手に渾身の力を込め、剣ごとゴブリンの体を前方へ押し返す。

 軽い。その小さな体躯は、文字通り羽のように軽かった。

 数歩分、魔物との距離が開く。

「防具も無いのに、身体で受けるつもりか!」

 後方から、ローザスの雷鳴のような叱責が飛んだ。

「突っ立っているのは案山子かかしの仕事だ! 死にたくなければ手足を動かせ!!」

(……そうだ)

 荒い呼吸の合間で、強引に意識を繋ぎ止める。

(受けているだけじゃ、いつか押し切られる……!)

 脇腹から滴る血が、土を汚していく。

 燃えるような痛みが意識を削り取ろうとするが、僕は逆にその痛みを、自分を繋ぎ止めるための「杭」にした。

(だったら――こっちから行くしかない!)

 土を蹴る。

 前へ。一歩。

 剣の間合いへと、自分から踏み込む。

「――ッ!」

 そのまま、力任せの横薙ぎ。

 だが――重い。剣に振り回されている。

 腰も入っていない、軌道もバラバラ。素人丸出しの、ただの「暴れ」だ。

 当然、そんな一撃が当たるはずもない。

 ゴブリンは嘲笑うかのように、軽々と身を翻してそれを躱した。

 否、躱すだけではない。

 奴は僕の剣の勢いを利用するように、真上へと跳躍したのだ。

 視界から敵が消える。

(上――!?)

 反射的に顔を上げた時、そこにあったのは、太陽を背に落ちてくるどす黒い影。

 狙いは、僕の脳天。

(当たれば――死ぬ)

 死神の鎌が振り下ろされるのをスローモーションで見ているような、凍りつくような確信。

 神経が焼き切れそうな極限状態。

 体が、勝手に動いた。

 前へ、無様に転がる。土の上に身を投じた。

 だが――遅い。

 ビシャッ!

 背中に、焼熱の衝撃。

 続いて、神経を逆撫でするような激痛が突き抜けた。

「――ッああああッ!!」

 ジャージが縦に引き裂かれ、背中の肉が深く削がれる。

 飛び散った血が、乾いた地面に点々と模様を作った。

 僕は回避したというより、ただ無様に土の上を滑り、舞台の端まで転がっていった。

 止まった時には、視界の端が自分の血で赤く染まっていた。

 肺から空気が漏れ、うまく息が吸えない。全身から力が抜けていく。

「……降参するか?」

 ローザスの声が、低く、冷酷なまでに冷静に響く。

(……ここで、終わるのか)

 こんな異世界に来て、ゴブリン一匹に殺されて。

 ぼやける視界の中で、僕は――舞台の下で見守るリーブ先輩を見た。

 彼女は両手を胸の前で組み、祈るような姿勢で僕を見つめていた。

 だが、その瞳は絶望に曇ってはいなかった。

 そこにあったのは、一点の曇りもない――「信じている」という強い意志。

(……まだ、見限られてない)

 その事実が、凍りかけた僕の心臓を再び強く叩いた。

(だったら――ここで、終われるかよ!)

 歯が折れそうなほど食いしばる。

 震える膝に無理やり命令を下し、泥まみれの体を引きずり上げる。

 立つ。

 血を流し、息を絶え絶えにしながらも。

 僕は再び、剣を構えた。

「……まだ、戦えます……!」

 声を絞り出し、真正面からゴブリンと対峙する。

「ほう……」

 ローザスの声のトーンが、わずかに、だが確実に変わった。

「根性だけは、一人前らしいな」

 感心とも、さらに過酷な試練を課す予告とも取れる響き。

「いいだろう。小僧、戦士として一つ教えてやる」

 空気が、張り詰めた。

 先ほどまでの冷徹な観察者ではない、戦場を統べる「将」の重圧。

「焦って攻めるな。己の未熟さを力で補おうとするな」

 ローザスの眼光が、一段と鋭く、深くなる。

「決して眼を逸らさず、必ず――相手を見ろ」

 その短い一言に、数多の戦場を生き抜いてきた男の矜持が宿っていた。

「敵の動き、微かな予兆を『読む』ことができれば……」

 一拍。

 完璧な静寂が演習場を支配する。

「自然と、あるべき場所に――お前の剣はあるはずだ」

 それは、小手先の技術ではない。

 幾多の死線を越え、理を削ぎ落とした者だけが辿り着く、真実の境地だった。

 ゴブリンが、再び飢えた獣のように駆けてくる。

 その瞬間――僕の身体もまた、吸い込まれるように前へ踏み出した。

 反射じゃない。恐怖に突き動かされた逃避でもない。

 明確な殺意を持って迫る相手に対し、自分から間合いを「合わせ」にいく。

 舞台の外へ押し出されれば、それで終わりだ。

 土俵際に追い詰められるのを待つだけでは、この緑の怪物には勝てない。

 距離が、一気に爆ぜる。

 来る――。

 右だ。

 大きく振りかぶられた鉤爪が、空気を引き裂きながら僕の顔面を狙う。

「――ッ!」

 剣を合わせる。渾身の力で押し返すのではなく、最小限の動きでその軌道を横へ逸らす。

 キィン、と高く、硬質な金属音。

 弾いた。

 その瞬間――。

(次は、左――!)

 意識が、僕の肉体よりも一歩速く「次」を捉えた。

 ゴブリンの肩がわずかに沈み、腰が捻れる。

 弾かれた右腕の反動を利用して、がら空きになった僕の脇腹へ、左手の爪を潜り込ませようとしている。

 だが――もう、見えている。

 バスケの試合中、敵の視線一つからパスコースを読み取ったあの感覚。

 僕は爪が届く直前、後方へ鋭くステップを踏んだ。

 シュッ、と鼻先をかすめて爪が空を切る。

「……はぁ、はぁ……っ」

 呼吸は依然として荒い。肺が焼けるように熱い。

 だが、さっきまでとは決定的に違う。

 翻弄され、ただ死を待つだけの「獲物」ではなくなっていた。

 一瞬のが生まれる。

 舞台の上に流れる、濃密な静寂。

 その隙を逃さず、ゴブリンが焦燥に駆られたように再び距離を詰めてくる。

 先ほどと同じ、右手を大きく振りかぶる大振りな一撃。

(……来る)

 視界が、恐ろしいほどに研ぎ澄まされる。

 傷口からの出血が、逆に脳を覚醒させているのかもしれない。

(このゴブリンは――必ず、右から入る)

 確信に近い分析が脳内を駆け巡る。

(右利き……攻撃の起点も、体重の乗せ方も単純だ)

 ローザス閣下の言葉が、耳の奥で反響する。

 ――相手を見ろ。

(見える……!)

 振り下ろされる右爪。それを剣の根本で受け流し、勢いよく弾き飛ばす。

 キィン――ッ!

 そして。

(次は――ここだ)

 左。

 僕の脇腹を狙い、最短距離で突き出されるはずの死の軌道。

 その「通り道」に。

 あらかじめ。

 剣を――「置く」。

 振るのではない。狙って当てるのでもない。

 そこに敵が来ると分かっているから、あるべき場所へ、ただ軌跡を残すだけ。

 下から、一気に切り上げる。

 一閃。

 ズッ――。

 重く、鈍い手応え。

 緑色の醜悪な腕の肉が、僕の剣に食い込み、裂けた。

 ドロリとしたどす黒い血が噴き出し、砂を汚す。

 剣の練度が低く、骨を断つまでには至らなかったが、それでも十分な深手。

「ゔゔゔぁあああッ!!」

 ゴブリンが、聞いたこともないような甲高い悲鳴を上げた。

 反射的に、僕は大きく距離を取る。

「……ほう」

 背後で、ローザス閣下が低く唸るのが聞こえた。

 だが。

 僕の胸に去来したのは、勝利の予感でも高揚感でもなかった。

(……切った)

 確かに、当てた。

 人生で初めて、この手で生きているものを傷つけた。

(……っ)

 気づけば、自分の手を見つめていた。

 赤黒い血に濡れ、小刻みに震える両手。

 その手に握られた、冷たい鉄の塊。

 達成感なんて、微塵もない。

 そこにあるのは、言葉にできないほど得体の知れない「重さ」。

 その、一瞬の意識の空白。

 本能で生きる魔物は、その隙を絶対に見逃さなかった。

 不意に。

 ゴブリンの姿が、僕の視界からかき消える。

「――え?」

 次の瞬間、奴は手負いの腕を抱えながら、舞台の縁から外へと飛び降りていた。

 そして――。

 一段下、地面の上から。

 舞台の上にいる僕を見上げる形で、再び低く身構える。

(な――!?)

「そ、それはズルなんじゃ……! 」

 思わず叫ぶ。ルール無用の挙動に、混乱が脳を支配する。

 だが。

「モンスターに、こちらのルールが通じると思っていたのか?」

 ローザス閣下の声が、冷たく、容赦なく降り注ぐ。

「甘いな」

 鋭い断言。

「戦場に『公平』など存在しない。敵は常に、貴様の最も嫌な方法で、最も弱い部分を狙ってくる」

 言葉が、刃となって心に突き刺さる。

「いついかなる時も、どんな奇想天外な手を使われても、冷静に対処し、勝利を掴み取る……」

 一拍。

「それが国を――仲間を背負う者の務めだ」

 言葉を失う。

 そうだ。これはスポーツじゃない。僕を殺しに来た獣に、競技規則ルールを求める方が滑稽なのだ。

(……じゃあ、どうする)

 視線を下げる。

 舞台の上の僕。対して、ゴブリンは一段下の死角から僕の足元を狙っている。

 剣を構えても、届かない。防ぎようもない。

(降りれば――負け)

 思考が、焦燥で一瞬止まる。

 その空白が――致命的だった。

 ザシュッ!

「――ッ!!」

 右のすねに、鋭い衝撃。

 遅れて、熱を帯びた激痛が這い上がってくる。

 視界が激しく揺れ、体勢が崩れる。

 後ろへ――倒れる。

 だが。

(――まずい!)

 地面に背中が着いた瞬間、反射的に身体を跳ね上げた。

 追撃を受ければ、今度こそ頸動脈を切り裂かれる。

 ふらつきながらも、必死に立つ。

 足元からは血が流れ、土が泥濘ぬかるみを作っている。

 気づけば。

 僕の足は、円形の舞台のちょうど「中央」に位置していた。

(……中央)

 その立ち位置が、僕の脳内に一つの「気づき」を閃かせる。

(下から来るなら――こっちにも、やりようがあるはずだ)

 ズキズキと脈打つ痛みの中で。

 バラバラだった思考の欠片が、パズルのように組み合わさっていく。

 戦い方が――。

 この異世界で生き残るための術が、ほんの少しだけ、見えた気がした。

 僕は、舞台の中央に立ったまま――動かなかった。

 剣の重みを両手で受け止め、荒い呼吸を整える。ただ、待つ。

「……来いよ、ゴブリン」

 低く、自分を鼓舞するように呟く。

「全部、受けてやる。逃げも隠れもしない」

 安い挑発だ。言葉が通じるとは思っていない。

 だが、僕から溢れ出す「戦う意志」は、獲物の隙を伺っていたゴブリンの狡猾な意識を確かに逆撫でした。

 ゴブリンは動かなかった。舞台の下でこちらを睨み、わずかに首を傾げる。

 考えている。どうすればこの人間を、最も効率よく、最も惨たらしく殺せるかを。

(……来い)

 内心で、呪文のように念じる。

 ゴブリンの体格は小さい。腕も短い。舞台の下、つまり一段低い場所からでは、奴の爪は僕の致命的な部位には届かない。

 なら、奴が僕を殺そうとするなら、選択肢は一つしかない。

 “同じ土俵に引きずり上げる”ことだ。

 やがて、ゴブリンは周囲を見渡した。石、あるいは投擲できる獲物を探している。

 だが、ここは帝国精鋭の演習場。死角になるような瓦礫も、投げつけるための小石も、あらかじめ徹底的に排除されている。

「……」

 短い逡巡。そして――奴は決めた。

 ギチリ、と地を蹴る音。

 一気に舞台へと駆け上がる。その加速の勢いのまま、弾丸のように僕へと突っ込んできた。

(かかった――!)

 一瞬、思考の端で口元が緩む。

 ゴブリンの右腕が大きく振りかぶられる。

(やっぱり、右から――!)

 確信。今度こそ、その軌道に剣を「置く」。

 そう思った、次の瞬間。

 ――止まった。

 振り下ろされるはずの右腕が、空中で、磁石に吸い寄せられたかのようにピタリと制止した。

「――なっ!?」

 直後、視界の下から突き上げが走った。

 後方で溜めていた左腕。それが、蛇のように鋭く、抉るような軌道で突き出される。

 完全な、フェイント。

(読まれた――!)

 剣は右を防ぐ位置に固定されている。左脇腹は、無防備な空白。

 ズブッ――。

 脇腹に、再び焼けるような衝撃。

「――ッ!」

 だが、止まらない。

 僕は激痛に意識を飛ばすことなく、逆に一歩踏み込んだ。そのまま、力任せに剣を薙ぐ。

 浅い。だが、致命傷だけは無理やり逸らした。

 ゴブリンの右爪が、すぐさま追撃で迫る。

 受ける。弾く。

 また来る。弾く。

 キィン、キィン、と高く硬質な金属音が連なる。

 脳漿が揺れるほど呼吸が荒い。だが――。

(……遅い)

 気づく。

 ゴブリンの動きが、ほんのわずかに、けれど確実に鈍っている。

 僕が刻んだ最初の傷。そして、執拗なまでの連撃による疲労。

(今だ――!)

 渾身の踏み込み。

 横一閃。ゴブリンの胸を抉る、必殺の軌道。

 だが。ゴブリンは――また読んでいた。

 奴は空中で体を不自然に捻る。そして、地を蹴るのではなく、僕の剣の腹を「踏み台」にするようにして跳んだ。

 上へ。

 僕の剣が、虚しく空を切る。

 だが――。

(それも、読んでるんだよ……!)

 一拍遅れて、僕は膝を深く沈めた。

 バスケで、ダンクシュートを決める時のように。

 全身のバネを、一点に集中させる。

 そして――。

 跳ぶ。

 全力で。

 ゴブリンよりも――さらに高く。

 空中。

 重力から解放された一瞬、視線が交差した。

 ゴブリンの濁った瞳が、驚愕で見開かれる。

 理解できない、という絶望。

 なぜ、地にいたはずの人間が、今、自分よりも高い場所にいるのか。

(教えてやるよ)

 心の中で、静かに呟く。

(“読む”ってのは……こういうことなんだろ!)

 崖での記憶が、血の匂いとともに蘇る。

 環境を使い、動きを読み、そのさらに先を手繰り寄せる。

「うおおおおおおッ!!」

 咆哮。

 全神経、全体重を、血に濡れた両腕へ。

 ありったけの力で、剣を真下へ振り下ろす。

 ゴブリンが反射的に両腕を上げる。防御。

 だが――遅い。

 ズンッ――。

 重く、鈍く、けれど確かな手応え。

 鋭い刃が、奴の腕の骨を砕き、そのまま――。

 その醜悪な身体を、縦に断ち割った。

「ゔゔゔぁああああああッ!!」

 絶叫。

 鮮血が花火のように舞い、僕の視界を赤く染め上げる。

 そのまま、ゴブリンの体は重力に従い、舞台へと叩きつけられた。

 ビチビチと、数度痙攣し。

 やがて、ぴくりとも動かなくなった。

終わったのだ。

「はあっ……はあっ……」

 着地する。膝が笑い、立っている力もなく、膝を地につけた。

 指先から力が抜け、剣がカランと音を立てて土に落ちる。

「大……大丈夫……!?」

 駆け寄ってくる、慌ただしい足音。リーブ先輩だった。

 彼女は僕の名前を呼びかけて、一瞬だけ帝国の目があることを思い出し、言葉を飲み込む。

「すごいよ……! やったね!」

 明るい声。

「ちゃんと、一人で戦えてるじゃん! 本当に、すごい!」

 その声は、後ろで控えるローザスにも聞こえるように、わざとらしく、けれど温かく響いた。

 だが――。

 僕の中には、勝利の味なんて微塵もなかった。

 耳の奥で、さっきの断末魔が、呪いのように反復している。

 手のひらには、肉を断ち、骨を砕いた不快な感触が、まだ生々しく熱を持って残っている。

視線を落とす。

 血に濡れた自分の手と、鈍く光る剣。

 ボロボロになったジャージ。自分の血と、ゴブリンのどす黒い血が混ざり合い、嫌な臭いを放っている。

「……」

 言葉が出ない。

 ゴブリンの死体は、どこか、歪んだ形をした人間に似ていた。

 だからこそ、余計に――吐き気がするほど気持ちが悪かった。

(これが……「戦う」っていうことなのか……)

 戦争とは無縁の生活をしていた僕にとっては、とても想像のつかないような感覚だ。

「……血が、怖いか」

 低い、地を這うような声。

 ローザス閣下だった。いつの間にか、すぐ傍らに立っている。

「最初は、皆そうだ。吐き気を催し、己の罪悪感に押し潰されそうになる」

 淡々と、突き放すような口調。

「だが、すぐに慣れる。いや、慣れねばならん」

 閣下の視線は、物言わぬ肉塊となったゴブリンへと向けられる。

「戦場では、呼吸をするのと同義の光景だ。避けては通れん」

 その言葉に、僕は耐えきれず顔を上げた。

「……閣下は」

 声が、制御できずに震える。

「人を……自分と同じ、言葉を話す人を、斬ったことがあるんですか」

 間髪入れずに、答えが返ってきた。

「ある」

 迷いも、後悔も、一片すら感じさせない断言。

「なら……!」

 思わず、声が強くなる。

「どうして……どうしてそんなに平然と、慣れられるんですか……!」

 感情が、堰を切ったように溢れ出す。

「モンスター一匹殺しただけで、こんなに……! 怖くて、気持ち悪いのに!」

「人なんて……そんなの、僕は……!」

 絞り出すような僕の問いを、ローザスは静かに、ただ静かに受け止めた。

「……お前は」

 ゆっくりと、彼は口を開く。

「優しいな。その若さで、他者の痛みを、命の重さを、そのまま受け止めている」

 その声音は、先ほどまでの冷徹な教官のものとは思えないほど、どこか柔らかかった。

 だが。

 続く言葉は、冬の夜風よりも冷たく、鋭かった。

「だが――そんなものは、この世界にはいらん」

 はっきりと、彼は断じた。

「私は、とっくに捨てた」

 視線が、演習場の向こう、帝都を包む高い壁の先を見る。

「人の心の一つや二つ――壊れていなければ、戦士にはなれん。誰かを守るために、捨てなければならないものもあるのだよ」

 その言葉には、途方もない重みがあった。

 数えきれないほどの戦場と、その陰で積み上げてきた「失ってきたもの」の残響が。

 演習場に、風が吹き抜けた。

 僕とリーブ先輩、そしてローザス。

 三人の間を通り過ぎるその風は、どこまでも冷たく、そして酷く寂しい匂いがした。

 演習場に、再び沈黙が落ちる。

 その静寂を裂くように、ローザス閣下が隣に控えていた正規兵へと歩み寄り、短く何かを囁いた。

 内容は聞き取れない。だが、耳打ちを受けた騎士は即座に深く頷くと、軍靴を響かせて演習場の奥へと姿を消した。

 やがて、ローザス閣下がゆっくりとこちらへ向き直る。

「……まあ、何はともあれだ」

 低く、落ち着いた、けれどどこか重みのある声。

「ゴブリンを単独で討伐した。その事実は評価に値する。付け焼刃の剣筋ではあったが、土壇場で『理』を掴みかけた動き、悪くはなかった」

 一拍、置いて。

「大那。お前を――正式に勇者パーティの一員として認めよう」

 心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

「……っ、本当ですか!?」

 思わず身を乗り出す。傷の痛みも忘れ、その言葉の真意を確認せずにはいられなかった。

「ああ」

 ローザス閣下は、静かに、だが力強く頷いた。

「これより陛下への謁見がある。私からも直接、お前の登用を進言しよう」

 その言葉は、異世界に放り出されてからずっと、僕が喉から手が出るほど欲しかった承認だった。

 胸の奥から熱い塊がせり上がり、視界がじわりと滲む。

(やっと……)

 これで、居候でもお荷物でもない。

 胸を張って、隣に立てる。大好きな先輩の、隣に。

「よかった……!」

 弾むような、歓喜の声。

 振り向くと、そこにはこれ以上ないほどの満面の笑みを浮かべたリーブ先輩がいた。

「よかったね、大那! 本当によかった!」

 次の瞬間。

「わあぁっ!」

 ぎゅっ――と、彼女に勢いよく抱きつかれる。

「い、いててて……! 先輩、痛い、痛いです……!」

 喜びよりも先に、生々しい激痛が走った。傷口が「これ以上はやめろ」と悲鳴を上げる。

「あ、ご、ごめん! 嬉しくてつい……!」

 慌てて離れる先輩。その顔は、喜びと申し訳なさで赤くなっていた。

「……喜ぶのは勝手だが、その前にだ」

 ローザス閣下の声が、容赦なく割って入る。

「医務室へ行け。その状態では、まともに歩くこともままならんだろう」

 確かに。アドレナリンが切れてきたのか、一歩動くたびに脇腹と背中が焼けるように痛む。

 今の自分は、まさに満身創痍という言葉がふさわしい。

「……わかりました。ありがとうございます」

 素直に頷き、医務室へ向かおうとした――その時。

 先ほどの騎士が戻ってきた。その手に、何かずっしりと重そうなものを抱えて。

 それは――武骨な鉄のハンマーだった。

 ただし、工作用のものではない。頭部が恐ろしく大きく、重心が一点に集中した、一撃で敵を粉砕するために誂えられた「凶器」だ。

「待て、小僧」

 ローザス閣下が、僕の歩みを制する。

「先ほどのお前の戦いを見ていて、気づいたことがある」

 鋭い眼光が、まっすぐ僕を射抜く。

「お前は足運びが速く、独特の重心移動を見せる。加えて、跳躍力に優れる」

 淡々とした、けれど的確すぎる分析。

「そして――お前は『血』を嫌う。肉を断つ感触に、心が揺らぐ」

 その指摘に、わずかに息が詰まった。見透かされている。

「以上を踏まえた、私なりの答えだ」

 閣下は騎士からハンマーを受け取ると、それを僕の前に差し出した。

「斬撃ではなく、打撃。刃で肉を裂くのではなく、質量で叩き潰す武器だ。致命傷を与えつつも、過剰な流血を避け、お前の跳躍の勢いをそのまま破壊力に変換できる」

「剣を振るより、こちらの方がお前に適していると判断した」

 僕は目を見開いた。

(……そこまで見ててくれたのか)

 ただの意地悪な試験官じゃなかった。僕がこの世界でどう生き残るべきか、この短時間で、彼は真剣に考えてくれていたんだ。

「……試してみろ」

 ローザス閣下が、演習場の端にある打ちかけの太い杭を指差す。

 ハンマーを受け取る。

 ずしり、とした鉄の重みが両腕にかかる。

(重い……剣の比じゃない……)

 だが、構える。

 膝を沈め、脇腹の痛みに耐えながら、大きく振り上げる。

 そして――一気に振り下ろす!

 ガンッ!!

 鈍く、腹に響くような衝撃音。

 太い杭が、一段深く地面へと沈み込む。

「――っ」

 跳躍の勢いを乗せて、もう一度。

 ドンッ!!

 今度は地面がわずかに震え、土埃が舞った。

「……なるほど」

 小さく、呟く。

 これなら、肉を裂く感触に怯える必要はない。当たれば、物理法則に従って敵を「終わらせる」ことができる。

「まだ武器に振り回されているな」

 ローザス閣下の、少しだけ満足げな声。

「だが、それは訓練で補える。そのハンマーはくれてやる。当面はそれで凌げ。軍資金が貯まったら、自分に合うものを新調しろ」

「……はい! ありがとうございます、閣下!」

 自然と声が大きくなる。僕は深く、深く頭を下げた。

 騎士から肩掛け用の丈夫なベルトを受け取り、背中にハンマーを固定する。

 僕は先輩に伴われ、ようやく演習場を後にした。

 医務室の扉を開ける。

 そこには、白衣を纏った一人の女性がいた。

 甲冑を纏った騎士たちとは明らかに違う、清潔で柔らかな雰囲気。三十代ほどだろうか。

「あら」

 彼女はこちらを見るなり、眼鏡の奥の眉をぴくりと動かした。

「ずいぶん派手にやられたわね? 新入りさん」

 やはり、この人が帝国の軍医らしい。

「えっと……ローザス閣下に、試験ということで模擬戦を……」

 苦笑いしながら答えると、彼女は納得したように深いため息をついた。

「あー……ローザス閣下ね。あの人、新人のしごきに関しては加減を知らないから」

 呆れたような口調で、治療の準備を始める。

「最近は政務で忙しくて新人の相手なんてしてないって聞いてたけど……。まあ、珍しいこともあるものね」

(やっぱり有名なんだ、あの怖さ……)

 閣下の鋭い眼光を思い出し、僕は妙に納得してしまった。

「じゃあ、すぐに手当するから。……服、脱いで」

 あっさりと告げられる。

 僕は頷き、まずは血と泥で汚れ、ボロボロになったジャージの上着を脱いだ。

 裂けた布が力なく床に落ちる。そのまま、汗を吸った下着も外す。

 ――が。

 紐を解いたところで、手が止まる。

「下も全部ね」

 当然のように、カルテを書きながら軍医が言う。

「……ですよね」

 ここは医務室だ。恥ずかしがっている場合じゃない。

 意を決して下のジャージに手をかけると。

「あうっ……!」

 背後で、押し殺したような小さな悲鳴。

 振り向くと、リーブ先輩が耳まで真っ赤にして、反対側を向いていた。

(……そりゃそうか。先輩も女の子だもんね)

 軍医の淡白さがむしろ例外なのだ。

「はい、横になって。始めるわよ」

 医師はそう言うと、傍らに置いてあった一本の杖を手に取った。

 その先端が、まっすぐ僕の傷口へと向けられる。

(……魔法。これが、本物の治癒魔法か)

 僕は期待と、少しの緊張を抱えながら、静かに息を呑んだ。

 杖の先端から――柔らかな光が、溢れ出した。

 それはまるで、木漏れ日のように穏やかな光だった。ゆっくりと、僕の全身を包み込んでいく。

 傷口が――閉じていく。

 視界の端で、それがはっきりと分かった。裂けていた皮膚が、まるで時間を巻き戻すかのように、あるべき元の形へと戻っていくのだ。

 むず痒い。それでいて、内側からじわじわと熱い。けれど、痛みはない。

(……すごい……)

 思わず、息を呑む。あれだけの深手を負っていたはずなのに、わずか一分も経たないうちに、すべてがなかったことになっていく。

 やがて光がすっと消えた時、残っていた鈍い痛みも完全に引いていた。

「はい、終わり」

 あっさりとした声。

「……え、もう……?」

 思わず自分の体を見下ろす。腕、腹、足。どこにも傷跡一つ残っていない。

「ええ。外傷はこれで全部よ」

 医師は頷き、棚から一本の小瓶を差し出してきた。

「最後に、これを飲んで」

 透き通った緑色の液体。見覚えがある。

「……これ……」

 脳裏に、あの魔王城での光景が蘇る。絶望の中で、先輩に手渡した――。

「回復薬……!」

 思いがけない再会に、胸の奥がじんわりと温かくなる。迷わず栓を抜き、一気に流し込んだ。

「――ぶはっ!」

 次の瞬間。

「に、苦っ!!」

 猛烈な苦味に顔をしかめる。見た目通りの、草の根を煮詰めたような強烈な味だ。とてもじゃないが、味わって飲める代物ではない。

だが、すぐに気づく。体の奥底におりのように溜まっていた倦怠感が、すうっと霧散していくのを。

「どう?」

 医師が、少し楽しそうに尋ねる。

「疲れ、抜けたでしょ?」

「……はい」

 頷く。おそらくこれは、単に傷を塞ぐだけの薬ではない。身体の持つ回復力そのものを、無理やり底上げしているんだ。

 だからあの時、先輩の傷は一瞬では治らなかった。理屈が、ようやく繋がった気がした。

「これで治療は全部おしまい」

 医師は軽く手を払った。

「また派手にやられたら、いつでもいらっしゃい」

 その言葉とほぼ同時に、扉が開いた。現れたのは、ローザス閣下だった。

「着替えだ」

 短く言って、布の束を放り投げてくる。

「これに替えろ」

「……え?」

 慌てて受け取り、目を瞬かせる。

「治療の間に用意させておいた。そのボロボロの格好では、陛下の御前に出られんからな」

(……この人……)

 厳しいだけじゃない。必要なことは、すべて先回りして整えてくる。

「……ありがとうございます」

 素直に頭を下げ、僕は新しい衣服に袖を通した。

 それは、動きやすさを重視した軽装の戦闘服だった。

 淡い緑色の生地は体に程よくフィットし、余計な遊びがない。腕や脚には硬質の皮革を用いた最低限の防具が仕込まれており、関節の動きを妨げない設計だ。腰には幅広の堅牢なベルト。そこには、装備を固定するための金具がいくつも取り付けられている。

 全体として――それは「戦う者の装い」そのものだった。

 最後にベルトを締め、ずっしりとしたハンマーを背負う。

「どう……かな?」

 振り返る。少しの緊張と、期待を込めてリーブ先輩を見た。

 先輩は一瞬、言葉を失ったように目を丸くしていた。

 そして。

「……本当に、かっこいいよ……!」

 ぽつりと漏らされたその言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。

 気分がすっと軽くなり、自然と背筋が伸びた。

「さあ」

 ローザスの声が、空気を一変させる。

「行くぞ。ここからが本番だ」

 

 宮殿。そこに辿り着いた時、まず感じたのは「隔絶」だった。

 外壁の内側に、さらにもう一つの巨大な城壁。その中心へと続く、白石の敷かれた一本の道。

 それを遮るようにそびえ立つ、巨大な鉄の門。

 重厚な扉の前には、一糸乱れぬ動きで武装した兵士たちが整列している。明らかに、今まで見てきた場所とは格が違う。

 その中の数人が、ローザスに気づいて歩み寄ってきた。

「ローザス閣下。お待ちしておりました。……となれば、そちらがリーブ様ですね」

 一瞬、視線が先輩に移り、そして僕で止まった。

「……こちらの方は?」

 当然の疑問だ。本来、ここへ来る予定だったのは先輩だけだったのだから。

 だが、ローザスが静かに、威厳を持って頷く。

「ああ。彼も私の客人だ。そして――今回の謁見における重要人物でもある。通せ」

「ははっ!」

 短い命令に、門番が即座に応じる。拒否という選択肢など最初から存在しないかのようだ。

「それでは、武器をお預けください」

 皇帝の御前に武装のまま臨むことは許されない。当然の手順だ。

 僕たちは差し出された手に、それぞれの武器を預けた。

 背中からハンマーの重みが消え、急に心細さが襲ってくる。

「確認しました。それでは――こちらへ」

 巨大な門がゆっくりと開かれる。その先に広がっていたのは、別世界だった。

 完璧に手入れされた広大な庭園。計算され尽くした配置で咲き誇る色とりどりの花々。静かに水を湛える鏡のような池。

(……美しい……)

 思わず見入ってしまう。ここだけで一つの完成された世界があるかのようだった。

 宮殿本体の扉が開かれ、中へ入る。

 長い廊下。壁には歴史を感じさせる高価な絵画や装飾品が並び、行き交う人々は誰もが洗練された立ち居振る舞いで、上質な衣服を纏っている。

(……場違いだな、僕)

 否応なしに自覚させられる。それでも、足は止めない。

 やがて、案内していた兵が重厚な装飾の施された扉の前で足を止めた。

「――ここです」

 指し示された先。そこには、天を衝くような高さの重厚な扉がそびえ立っていた。

 謁見の間。

 ――すべてが、ここに繋がる。

 開け放たれた扉の先――そこに、皇帝の姿はまだなかった。

 玉座は空。その周囲では、高官たちが忙しなく動き回っている。書類を急ぎ運ぶ者、小声で緊密な打ち合わせをする者、配置の微調整を確認する者。

(……そりゃ、そうか)

 胸の内で、ひとり納得する。

(いちばん偉い人が、最初から座って待ってるわけないもんな)

 主を待つ玉座は、主不在であってもそれだけで凄まじい圧を放っていた。遠目からでもわかる、気が遠くなるほど精巧な黄金の装飾。ここが、この帝国の、ひいてはこの世界の中心なのだと否応なしに理解させられる。

「お二人は、こちらでお待ちください」

 案内役の低い声。

「ローザス閣下は、あちらへ」

 ローザス閣下は、僕たちから離れ、玉座のすぐ近く、重臣たちが集う場所へと導かれていく。

 その背中が、遠ざかる。

(……急に、心細いな……)

 左右を高い壁と冷ややかな視線に囲まれ、僕は思わず、隣のリーブ先輩に身を寄せた。

「ど、どうしよう……」

 声を極限まで潜める。

「この世界の礼儀とか……僕、全然わかんないんだけど……」

 最悪の想像が脳裏をよぎる。

(もし“逆立ちで迎えるのがこの国の最高礼儀”とか言われたら、どうしよう……?)

 緊張のあまり、くだらない、けれど妙に現実味のある不安が頭をかすめる。

「大丈夫」

 すぐに、鈴を転がすような柔らかな声が返ってくる。リーブ先輩だった。

「丁寧な言葉遣いをして、必要なときに合わせて頭を下げればいいだけ。……それから」

 ちらり、と彼女は周囲に目をやる。

「みんなの動きを見て、真似すれば問題ない。私がついてるから」

 その一言で、肺の奥に溜まっていた熱い空気が抜け、少しだけ呼吸が楽になる。

「……ありがとう」

 小さく呟き、僕は深く、息を吸った。そして、ゆっくりと吐き出す。

(落ち着け。やるべきことはやったんだ……)

 やがて。劇的に、空気が変わった。

 高官たちが次々と所定の持ち場につき、背筋を伸ばして整然と並び始める。

 不快なざわめきが、潮が引くように消えていく。

 静寂。

 耳が痛くなるほど、重く、張り詰めた空気。

「――皇帝陛下が、お入りになられます」

 場を統べる、朗々とした声が響き渡った。

 その瞬間。

 バサリ、と音を立てるように全員が、一斉に深く頭を垂れる。

 僕も、慌ててそれに倣った。

 心臓が、耳元で鳴っている。手のひらに、じわりと嫌な汗が滲む。

 僕は、息を――止めた。

 重厚な扉が、再び開かれた。

 視線は床に落としたまま。だが、視界の端に――黄金が。

 豪奢な衣を纏った、“それ”が映り込む。

 足音。

 カツ、……カツ。

 硬い石床を叩く、一定のリズム。

 一歩、また一歩。

 確かに、こちらへと近づいてくる。

 その音だけで、誰もが本能で理解する。

 “この場の頂点”が、絶対的な権力者が、今ここにいると。

 やがて。僕のすぐ近くを通り過ぎると、足音が止まった。

 衣擦れの音。玉座へと、ゆっくりと腰を下ろす気配。

「――(おもて)を上げよ」

 静かな声だった。

 だが――逆らえない。

 底知れぬ深淵を覗き込むような、圧倒的な威厳があった。

 一斉に、顔が上がる。僕も、震える膝を堪えてそれに続いた。

 視界に入ったのは――一人の男。

 三十代前半ほどだろうか。細身で、贅肉を削ぎ落としたような無駄のない体躯。

 剃刀のように整った顔立ち。背後へと流れるような、美しい金の長髪。

 金と白を基調とした衣には、帝国の威信を象徴するような精緻な意匠が施されている。

 美しい。神々しいとさえ思える。

 だが同時に――“触れてはならない、冷徹な劇薬”のような気配があった。

 沈黙を破ったのは、その男――皇帝自身だった。

 鋭い金色の視線が、値踏みするようにこちらを射抜く。

「この場は――」

 ゆっくりと、一言一言を噛み締めるように言葉を紡ぐ。

「勇者の帰還を祝うためのもの」

 一拍。

「――それで、間違いないな? ローザス」

 視線が鋭く横へと流れる。

「はっ」

 ローザス閣下が一歩進み出る。

「おっしゃる通りにございます、陛下」

 恭しく、かつ堂々とした態度で頭を垂れる。

「本日この場に――かつて勇者アレグスと共に魔王討伐へ赴いた、大魔導師リーブが帰還致しました」

 ざわっ――。

 広間に抑えきれない微かな歓声が上がる。

 ここに集っているのは、国の命運を握る者たちだ。勇者パーティの動向は、彼らにとって最大の関心事。

 ならば、期待するのは当然のこと。

「……つまり、魔王は……!」

 誰かが、期待に震える声を漏らす。その声を、誰も遮ることはできなかった。

 皆、同じ光景を夢見ている。長年の悲願、魔王討伐。それが今、この瞬間に叶ったのではないかと。

「――その件につきましては、私から」

 静かに、けれど凛とした声が差し込む。

 リーブ先輩だった。彼女は一歩、前へ出る。

「確かに、私たちは魔王城にて魔王と対峙しました」

 落ち着いた声音。だが――。

 その次の言葉で、会場の空気は氷点下まで凍りついた。

「しかし――その圧倒的な力の前に、私たちは敗北したのです」

 静寂。一瞬、誰もその言葉の意味を理解できなかった。

「な……」

 遅れて、動揺が津波のように広がる。

「なんだと……?」

「では、なぜお前はここに――」

 口々に疑問が噴き出す。当然だ。

 最強を誇った勇者パーティが敗北したというのなら、今ここで彼女が五体満足で立っていること自体が、説明のつかない矛盾なのだ。

「ええ」

 リーブ先輩は、迷いのない瞳で頷く。その瞳の奥に、一瞬だけ、焼き付いて離れない凄惨な記憶の影が差した。

「仲間たちは、全員……その場で命を落としました」

 場が、再び凍りつく。勇者アレグスが死んだ。その事実は、帝国にとって国家存亡の危機を意味する。

「ですが、私は――」

 言葉を、途切らせることなく続ける。

「最後の力を振り絞り、魔王を一時的に封印することに成功しました」

「封印……だと……!?」

 困惑と疑念が、一気に噴き出す。

 この国、いやこの世界の歴史において、“魔王を封印する”など聞いたこともない。

「……封印……」

 一人の老高官が、記憶の糸を辿るように呟く。

「そういえば……ローザス殿が、かつて彼女を選定した理由の一つに、特殊な封印術の素養があると……」

「それで……!」

 別の文官が、焦燥を隠しきれず口を挟む。

「封印と言われても納得できん! その魔王は今、どうなっているのだ!? 復活の恐れはないのか!?」

 リーブ先輩は、まっすぐ皇帝を見据えて答えた。

「おそらく――一ヶ月ほどは、意思もなく、指一本動かせない状態にあります」

 ざわめきが、再び雷鳴のように広がる。

「一ヶ月……!」

 短い。あまりにも短い。だが、無防備な魔王を叩くには、これ以上ない猶予でもある。この時間をどう使うかで、世界の命運が決まる。

「――静まれ」

 低い、地を這うような声がすべてを断ち切った。

 皇帝だ。

 その一言で、広間は墓場のような静寂に包まれる。

「それで?」

 冷ややかな視線がリーブ先輩を射る。

「まさか、その程度の……『一ヶ月の時間稼ぎ』という戦果のみで帰還したわけではあるまいな?帝国は、お前たちに相応の投資をしているのだぞ」

 圧。

 言葉の重みが、物理的な圧力となって僕たちの肩にのしかかる。

 だが。

 リーブ先輩は、その威圧に一歩も退かなかった。

「――もちろんでございます、陛下」

 まっすぐ、そして揺るぎない自信を込めて言い切る。

「魔王を完全に討ち果たすための……絶望的な力に対抗しうる唯一の“鍵”を、私は見出した可能性があります」

 その言葉に、空気が一変した。

 期待、疑念、驚愕。すべての視線が、光のように彼女に集中する。

 そして――。

 リーブ先輩は、ゆっくりとこちらを振り返った。

「彼が――」

 一歩、僕の方へと手を向ける。その指先が、僕の運命を決定づける。

「その鍵となる人物です」

 ――視線。

 宮殿を埋め尽くす数百の瞳が、一斉に、鋭い槍のように僕へと突き刺さる。

 逃げ場は、どこにもない。

 僕は、決意を固め一歩前へ進んだ。

「ただいまご紹介にあずかりました。私の名前は、大那だいなと申します」

 僕が名を名乗った瞬間、場の空気が沸騰した。

「だ、ダイナーだと……!?」

 もはや何度聞いたかわからないその反応。この場にいる列席者のほとんど全員が、弾かれたように同じ反応を見せた。

「貴様……魔王の系譜か……!」

 ある者は僕を指さして非難し、ある者は恐れ慄いて物理的な距離をとった。こうなってはもはや、僕がどれだけ言葉で否定しても、疑念の渦を鎮めることはできない。

 僕は沈黙した。浴びせられるのは、身に覚えのない罵り。

 しかし――。

 この場で唯一、その名に過剰な反応を示さなかった人物、皇帝がこの場を力で取り押さえた。

「静まれと言ったはずだ」

 一喝。その重低音の響きだけで、会場に一瞬で静寂が戻った。

「続けろ」

 静寂を確認し、皇帝は顎で僕に続きを促した。これが一国を統べる王の器か。何事にも動じず、ただ本質だけを見つめるその姿勢は、一般人の僕には到底真似できないものだった。

「……ありがとうございます、陛下」

 僕は一度深く頭を下げ、言葉を継いだ。

「ダイナーではなく、大那です。僕に魔王との接点は欠片もありません。そう、欠片も。なにせ僕は――異世界から来た人間なのですから」

 張り詰めた場に、目に見えるほどの衝撃が伝播した。

「なに……?」

 さすがの皇帝も、これには眉を動かし困惑を隠せない様子だった。大臣たちは皆、「何を馬鹿なことを言っているんだ」という蔑みの混じった顔でこちらを見てくる。

「私は魔王封印の際、発生した『次元の穴』を通ってこちらに来ました」

 言いながら、僕は喉の奥で跳ねる心拍を必死に抑えていた。皇帝に「嘘を吐くな」と切り捨てられれば、最悪、その場で首が飛ぶかもしれない。真実を話してはいるが、信じてもらえるかどうかは皇帝の裁量一つにかかっている。

(ここで否定されたら終わりだ。帰る場所も、信じてくれた先輩も、全部失う……)

 焦燥が、冷や汗となって背中を伝う。

「本当です、陛下! 私もこの目で見たんです、彼が虚空から現れるのを!」

 隣でリーブ先輩が必死の追撃をしてくれた。それを受け、皇帝はしばし沈黙して考え込んだ。そして助言を求めるように、側近でありこの場を設けた張本人であるローザス閣下へと視線を向けた。

「お前はどう見る、ローザス」

 促されたローザス閣下は、一歩前へ出て答えた。

「私も、出現の瞬間をこの目で見たわけではありません。ですが。彼にはこの世界の理である魔力が一滴も無く、つい先ほどまで我々の常識にはない未知の衣装を纏っていました。少なくとも、私の知る既存の枠組みには収まらない者。異世界の者と断じても、何ら不都合はないかと存じます」

 閣下も援護をしてくれた。それを聞き、皇帝は再び僕を射抜くように見据えた。

「ふむ……。それで? 仮にお前が異世界人だとして、それがどう魔王討伐に繋がるというのだ」

 まだ信じたわけではない。しかし、結論を急いでいる。それがどう帝国の利益に直結するのか、その一点を。

「はい。魔王には、この世界のあらゆる攻撃が効かなかったと聞きました。そうですね、リーブさん?」

 僕は隣の先輩に確認を取った。彼女は強く頷いて肯定する。

「魔王には、おそらくこの世界の理に基づいた攻撃が通じないのでしょう。剣も魔法も。しかし、僕の力はこの世界の理の外側にあります! 僕の力ならば、魔王に傷を負わせることができるかもしれない。ですからお願いです、陛下。僕をこの国の勇者として、正式に迎えてはいただけませんか!」

 勢いよく一礼した。

「お願いします!」

 隣の先輩も、少し遅れて深く頭を下げる。広間に再び衝撃が走った。得体の知れない男の戯言を鵜呑みにしていいのか、そんな不満の声が周囲から漏れ聞こえる。

「……そうか。お前の言い(ぶん)はわかった。だが、それはつまり、お前はたった一人で、封印された魔王を叩きに行くとでも言うのか?」

 これまでの論理だけなら、確かに皇帝の言う通り、僕一人がいれば済む話に見える。

「いいえ、それは不可能です。攻撃の途中に魔王を包んでいる封印の氷が割れれば、その瞬間に封印は解けてしまいます」

 頭を上げ、リーブ先輩が専門的な見地から補足した。

「そうです。封印を維持したまま斃すことはできません。故に、復活した魔王と直接戦う必要があるのです」

 それを聞いた皇帝は、さらに疑問を重ねた。

「……では、どうやってあの絶望的な力を持つ魔王と戦うつもりだ? お前一人で勝てるとでも?」

 それが、この場で最も核心に触れる問いだった。

「はい。魔王に確実に通じる力が、一つだけあります。それが――魔王自身の力です。故に、僕、あるいは魔王の力を仲間に纏わせ、そのメンバーで再び魔王と相対するのです。つまりは、私共を含む、『新生勇者パーティ』の結成を所望します!」

 僕の声に合わせ、今度は先輩も同時に「お願いします!」と頭を下げた。さらに、ローザス閣下が重厚な声で続く。

「陛下。一見、荒唐無稽な話ではありますが、彼らの瞳に嘘偽りは見えません。これは私自身が目で見て判断したことでございます。故に私からもどうか、この通り」

 閣下までもが、僕たちのために頭を下げてくれた。

 三人が揃って頭を下げる異様な光景。それを見て、皇帝が口を開こうとした瞬間――。

「陛下! こんな得体の知れない男の戯言に耳を貸してはなりませんぞ! 私は断固として、このような不確かな案には反対いたします!」

 堅物そうな初老の大臣が叫んだ。それを皮切りに、「私もだ」「賛成できん」と同調する声が次々と上がる。

「……なるほどな。確かに、荒唐無稽な話だ」

 ダメか……。一瞬、絶望が胸をよぎった時。

「だが。確かに、お前からは不思議な『覇気』を感じる。これは理屈ではない。私の、皇帝としての勘が、この機を逃してはいけないと強く告げているのだ」

 皇帝は不敵に、獰猛な笑みを浮かべた。

 僕は顔を上げる。

「――っ!」

 許可が下りたのか。しかし、それはまだ僕の早計だった。

「だが――。皇帝として、不確かなギャンブルに無制限に国庫を注ぎ込むことはできん。故に大那。お前に一つ、訊きたいことがある。……勇者に最も求められるものは、何だと思う?」

 突然の質問。僕は頭が真っ白になるのを感じた。緊張で固まった思考を必死に回す。誰も口を開かぬ静寂の時間だけが、重く、残酷に流れる。

「そ、それは――!」

 時間は無い。ここで答えに窮すれば、間違いなく見限られる。僕は、バスケの試合終了間際、逆転のパスを出す時のような極限の集中力で考えた。

 そして、一つの答えを導き出す。

「それは――仲間からの『信頼』です! 背中を預けられる仲間がいれば、自分も、相手も、限界以上のパフォーマンスを出すことができる。それが、不可能を可能にする力だと信じています!」

 思わず、丁寧な言葉遣いが抜けてしまった。しかし、その熱意を面白がったのか、皇帝は「はっはっは!」と腹の底から響くような高笑いをした。

「そうか。実に面白い。教科書通りの答えではないな。……ならば大那! お前に、皇帝として命ずる!」

 一瞬で空気が引き締まった。皇帝が一際力強い声を張り上げる。

「あと三人、お前自身の手で仲間を集めてこい。普段ならこちらで最適と思われるメンバーを選定するが、信頼できる仲間というのなら、お前自らが決めた方がいいだろう。もちろん、実力のある者に限るぞ。……ただし。一ヶ月という封印の期限を考慮し、猶予は半月とする」

「――っ!」

 僕は目を丸くした。条件。だがそれは、決して不可能なハードルではなかった。むしろ、僕という人間を試そうという皇帝の、期待の表れ。

 その期待を、信頼を、裏切るわけにはいかない。

「はい!」

 謁見の間の隅々にまで響き渡るような声で、僕は承知の意を示した。


 皇帝が威厳に満ちた足取りで退室するのを、僕たちは深く頭を下げて見届けた。

 重厚な扉が閉まり、残響が消えたのを確認して、ようやく一斉に顔を上げる。

 張り詰めていた空気が一気に弛緩し、広間には解散の雰囲気が漂い始めた。足早に退室する者、柱の陰で眉をひそめながら話し合う高官たち。そんな中、真っ先にこちらへ歩み寄ってきたのはローザス閣下だった。

「よくやったな、大那。見事陛下を説得してみせた」

「いや……。これも閣下の助力がなければ、そもそもこの場に立つことすら叶わなかったはずです。本当に、ありがとうございます」

 お世辞でも謙遜でもない。僕一人では、異世界人だと言い張った瞬間に地下牢送りだっただろう。

「礼には及ばん。だが、感傷に浸っている暇はないぞ」

 閣下は鋭い眼光を崩さず、言葉を継いだ。

「半月以内に仲間を三人集めるという条件だが……一人、私に有能な者の心当たりがある」

「えっ、本当ですか!? ぜひ教えてください!」

 思わず食いつくと、閣下はその人物を思い描きながら口を開いた。

「その者の名は『マノー』。帝国精鋭騎士団に所属する女騎士だ」

「て、帝国精鋭騎士団……!?」

 その響きだけで、先ほどの演習場にいた正規騎士たちよりも遥かに隔絶した強さが予感できた。僕の脳裏には、戦場を力でねじ伏せるような、鋼の肉体を持つ巨躯の女性騎士が浮かび上がった。

「ああ。ちょうど任務から帰還する頃合いだ。正門へ行ってみよう」

 僕はリーブ先輩とローザス閣下に連れられ、武器を返してもらって宮殿を出て、帝都のメインストリートが通る正門へと向かった。

 辿り着いたそこには、すでに黒山の人だかりができていた。何かの祭事でも始まったのかと思うほどの熱気だ。群衆の視線はすべて、正門の向こう側へと注がれている。

「来たぞ」

 ローザス閣下の低い声が、僕の背中を叩いた。

「うおー! 精鋭騎士団だ! 万歳!」

「あのブラックドラゴンをこんなに早く討伐しちまうなんて、やっぱり化け物揃いだぜ!」

「彼らがいる限り、この帝国は安泰だ!」

 押し寄せるのは、民衆からの地鳴りのような称賛と、羨望の眼差し。拍手の音が近づくにつれ、僕の目にもその光景がはっきりと映し出された。

 まず目に飛び込んできたのは、隊列が纏う真紅の鎧だ。

 帝国の正規騎士は白銀の鎧だと聞いていたが、精鋭にのみ許されたその深紅は、まるで切り伏せた敵の鮮血で染め上げたかのように、陽光を浴びて不敵に輝いていた。

 そして隊列の最後尾。数人がかりの荷車に載せられた荷台の上には、巨大な黒いドラゴンの死体が縄で幾重にも縛り付けられていた。死してなお漂う猛烈な威圧感。僕のハンマー一振りでは、とても傷一つつけられそうにない。

 これは帝国の武力を民に知らしめる、最高の凱旋パレードなのだろう。その圧倒的な格好良さに、僕の心も勝手に沸き立っていた。

「……見ろ。前方、二列目。あの金髪の女がマノーだ」

 ローザス閣下の一言で、僕はハッと現実に引き戻された。

 だが、僕が想像していた「岩石のような大女」はどこにもいなかった。

 そこにいたのは、兜の隙間から眩いばかりの金髪をたなびかせ、しなやか、かつ堂々とした足取りで歩く一人の美女だった。その様相は、北欧神話に語られる戦乙女ヴァルキリーそのもの。

「えっ……」

 度肝を抜かれた、という表現が一番近かった。

 整った横顔、そして何より、その意志の強そうな美しい瞳に吸い寄せられるように視線が止まる。

 彼女が、僕たちのすぐ側を通り過ぎようとしたその瞬間。

 注視していた僕の視線と、彼女の瞳が一瞬だけ、火花を散らすように重なった。

 ――冷たい。けれど、芯に熱を帯びた瞳。

 彼女はすぐに視線を逸らすと、何事もなかったかのように、騒乱の中を淡々と歩み去っていった。

「どうだ。強そうな女だろう。勇者の隣に並ぶには、申し分ない器だ」

 ローザス閣下がニヤリと笑って僕を見た。

「――そうですね」

 心臓がまだ高鳴っている。どこか意識が浮ついたまま、僕は適当な相槌を打つことしかできなかった。

「ならば、あ奴に声をかけてみろ。私の直属ではないため命令はできんが、奴の上司とは古い付き合いだ。精鋭騎士団を抜けて勇者パーティに加わるという決定については、こちらで多少の融通は利かせてやろう」

 ローザス閣下が、僕の背中を力強く叩いた。

 魂の奥まで響くような一撃。夢見心地だった気分が、その衝撃で一気に現実に引き戻される。

「ここからは、お前の本分だ。お前の言葉で、あ奴を勇者パーティに引き抜いてこい!」

 力強い、信頼の言葉。僕はそれを深く噛み締め、自分に言い聞かせるように答えた。

「はい!」

 最初のターゲットは決まった。

 歓声が渦巻く群衆の中で、僕の瞳はまっすぐ、未来を切り拓くための「一人目」の背中を見据えていた。

ローザス。181cm。79kg。

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