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一般人が異世界に!?  作者: グリーン・シールド


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第二章

 魔王城の外には、乳白色の重苦しいもやが立ちこめていた。

 視界は数メートル先すらおぼつかない。空は不気味な赤黒さに染まり、風が吹くたびに、何かが腐敗したような鼻を突く臭いが肺を撫でる。

 道端に蠢く草花も、日本の図鑑ではお目にかかれない異形ばかりだ。

 どれもが意思を持っているかのように身をよじり、通り過ぎる僕らを無数の眼で睨みつけているようにさえ見える。

 どうやらここはかなりの高地らしく、道をわずかに外れれば、雲海の下へと続く切り立った断崖が口を開けていた。

「そのまま北東へ進め。方角は間違ってない」

 背中からリーブ先輩の声が聞こえる。

「……というか、大那。お前、体力は大丈夫なのか? 私を担いだまま、もうかなりの距離を走っているけれど……重くはない?」

 不安げに揺れる声。

 僕は、そんな心配を吹き飛ばすように快活に笑ってみせた。

「全然、余裕ですよ!」

 荒くなる呼吸を強引に整えて、言葉を継ぐ。

「こう見えても僕、バスケ部なんです。中学の頃から持久走だけは得意で、学校の外周十周が僕のライフワークみたいなもんですから!」

 あの地獄のような毎日。冬の凍てつく朝も、夏の焼けるような放課後も、ただひたすらに地面を蹴り続けたあの時間が、まさか異世界で少女の命を運ぶためにあったなんて。人生、本当に何が起こるか分からない。

「……そうか。なら、お前の言葉を信じる」

 リーブ先輩はどこか納得したように頷いたが、すぐに先輩らしい厳格な口調を付け加えた。

「だが、この先は魔物の領域。私たちが城へ向かった道を逆に辿れば、遭遇率は低いはずだが……それでも、余分に体力は残しておけ」

「はい! 肝に銘じます!」

 僕は元気よく答え、泥を蹴ってさらに速度を上げた。

 しばらく進むと、視界を遮るように巨大な針葉樹の森が姿を現した。

 天を突くほどに巨大な木々が折り重なり、その奥は昼間でも光が届かない永久の黄昏に沈んでいる。

 森へ足を踏み入れた瞬間、足元の感覚が変わった。

 地面は深い泥に覆われ、一歩踏み出すたびに「ぐにゃり」と足を取られる感覚がある。借り物の重い鉄靴が、ぬかるみの中で鈍い音を立てた。

 気を抜けば転倒し、背中の先輩を放り出してしまうだろう。僕は下半身の筋肉をフル回転させ、慎重に、かつ着実に歩を進めた。

 どこからともなく、不気味な咆哮が響いてくる。

 フクロウの不吉さと、熊の凶暴さを煮詰めたような、正体の知れない鳴き声。

(出会い頭に襲われたら終わりだ……。絶対に正体なんて知りたくない)

 僕は心臓の鼓動を一定に保つため、意識的に彼女へ話しかけた。

 彼女の声だけが、今の僕にとって「正気」を繋ぎ止める唯一のいかりだった。

「不気味な森ですね……。先輩たちは、ここを抜けるとき何かと戦ったんですか?」

 リーブは少しの間、沈黙した。

 かつて仲間と共に歩いた、希望に満ちていたはずの道。それを今、一人の異邦人の背中に揺られながら振り返っている。

「……デーモングリズリーと一戦交えたな」

「で、デーモン……グリズリー!? 名前からしてヤバそうじゃないですか!」

 思わず声を上げた。日本のヒグマですらニュースになれば震え上がるのに、そこに「悪魔」なんて冠詞がついているなんて、遭遇したら即死確定だ。

「ええ、まあ、私の魔法で瞬殺だったけどね」

 少しだけ誇らしげに、彼女が鼻を鳴らす。

「すごい……! さすが先輩です。それだけ強い魔法が使えるなら、百人力ですね!」

 これでひとまずは安心だ、と胸を撫でおろしかけた――。

 けれど、彼女の声は一転して、冬の夜風のように冷たく沈んだ。

「……無理だ。もう、あんな魔法は使えない」

 不吉な予感に、足が止まりそうになる。

「……どうしてですか? 」

 魔王に攻撃が効かなかったから、その精神的なショックで自信を失ったのだろうか。

 でも、彼女の声はそんな単純なものじゃなかった。

 彼女は、自らの杖を握る右手を悲しげに見つめた。

「私は魔王に……自分の『全人生』を賭けた封印を施した。文字通り、私のすべてを代償としてね」

 その言葉の重みに、僕は息を呑んだ。

「あの魔法は、一定の時間が経過するか、あるいは私自身が封印を解くと念じない限り、絶対に解けない。そして……その封印を維持するために、私の魔力のほぼすべてが使われ続けている」

 森の奥から吹き抜ける風が、彼女の言葉を運ぶ。

「つまり、魔王の封印が続いている限り、私は強い魔法を使えない。……生きていても、死んでいても、私の身体は魔王を封印するための楔だ。最後の一滴まで魔力を吸い取られ続ける楔」

 そして。

 彼女は、消え入りそうな声で囁いた。

「ごめんね。……今の私は、あなたを守る戦力にはなれない」

 申し訳なさに目を伏せる彼女の気配が、背中から痛いほど伝わってくる。

 けれど、僕の胸を占めたのは絶望ではなく、静かな、けれど熱い憤りだった。

 僕は前を見たまま、深く泥を踏みしめた。

「……先輩」

 一歩、また一歩。

「僕、さっき言いましたよね。絶対に諦めないでくださいって」

「諦めなければ、可能性は無限大。その言葉、本気で言ったんです」

 声に力を込める。

「それに。先輩の横には僕がいます」

「先輩一人なら、今はゼロ人力かもしれない。でも、僕らが二人でいれば、それは『二人力』です!」

 暗い森の闇を切り裂くように、僕は言い切った。

「もっと僕を頼ってください! 先輩に降りかかる火の粉は、全部僕が払いのけてみせますから!」

 彼女の未来をこじ開ける友達になる。あの玉座の間で誓った言葉に、嘘は一つもない。

 絶対に、この人を独りにはさせない。

「大那……!」

 背中の衣類を掴む、彼女の指先に力がこもる。

 僕はその震えを受け止め、にっと前を指し示した。

「しっかり掴まっててくださいね! まずは、この鬱屈とした森を突破しましょう!」

 どんな状況でも、一歩でも前へ。僕の性分を象徴するように、二人一組の足音は森の奥へと力強く刻まれていく。

 その背中で。

 リーブは、彼に気付かれないように。

 そっと、大那の広い背中に額を預け、安らかな眠りにつく子供のように、微かに唇を綻ばせた。


 二人がぬかるんだ森を駆けていた、その時だった。

 横の茂みが、不自然な力強さでざわりと揺れた。

 ザザザッ!

 何かが、そこに潜んでいる。

「……っ!?」

 リーブ先輩が鋭い視線を向けた、その刹那――。

 爆ぜるような音と共に、草むらから巨大な紅い影が飛び出した。

「――っ! エンバー・ファイアビーだ!」

 彼女の悲鳴に近い警告が、僕の耳を打つ。

 空中に静止したのは、体長一(いち)メートルを優に超える、規格外の巨大蜂だった。

 その身体は冷却前の溶岩のように赤黒く脈打ち、外殻の隙間からは陽炎のような熱が揺らめいている。

 そして、その尻尾の先に鈍く輝く針は、槍と見紛うほどに長く、凶悪に研ぎ澄まされていた。あんなもので突かれれば、人間の身体など防具ごと容易に貫通するだろう。

「でっっっっか!! 嘘だろ、蜂ってレベルじゃないぞ!?」

 僕は絶叫し、さらに足に力を込める。

 日本ではスズメバチ一匹で大騒ぎだというのに、こんな「空飛ぶ溶岩」がいたら、もう災害の域だ。

「気をつけて、大那! 奴は針の先から超高温の炎を噴射してくる!」

 その忠告に応えるように、エンバー・ファイアビーが空中で身を翻し、毒針の先端をこちらへ向けた。

 ボォッ!!

 針の先から紅蓮の火炎が噴き出す。

 巨大な羽を高速で震わせ、鼓膜をつんざくような羽音を響かせる。

 ブゥゥゥゥゥン!!

 奴は推進力を得て、真っ直ぐに僕の無防備な背中へと肉薄してきた。

「はぁっ……! はぁっ……!」

 泥を跳ね上げ、心臓が破裂しそうな勢いで地を蹴る。

 けれど、重い具足を履き、リーブ先輩を背負った状態では、空飛ぶ捕食者から逃げ切るには限界がある。

「くっ……!」

 背中で、先輩が悔しげに息を呑む。

 このままでは、背後から焼き殺される。そう直感した彼女は、反射的に僕の首に回していた腕を解き、半身で振り返った。

 迫りくる火の粉の中、震える右手の杖を、狂暴な羽音の主へと向ける。

 その瞬間、僕の背中越しに、凍てつくような緊張感が走った。

 空気がわずかに歪み、異質な流れが生まれる。

 それは――リーブ先輩から発せられていた。

「ライトニング!!」

 叫び声と共に、闇に包まれた森が、一瞬だけ白銀の世界へと塗り替えられた。

 バチィッ!!

 ――しかし。

 その杖の先から放たれたのは、細く、頼りない電撃の一筋だった。

 それは空中を突進するエンバー・ファイアビーへと一直線に走ったが――。

「っ……!?」

 奴は空中で不自然なほど急激な旋回を見せ、その一撃を容易く回避してみせた。

「くそっ……!」

 リーブ先輩の歯噛みする音が聞こえる。

 かつては瞬殺できたはずの魔物を前に、狙いすら定まらない。その情けなさと、僕への申し訳なさが、掴まれた肩から痛いほど伝わってきた。

 けれど、その一撃は無駄ではなかった。

「助かりました、先輩! おかげで奴が怯んだ!」

 僕は叫ぶ。回避行動によって、奴との距離はわずかに開いた。

「でも……」

 リーブの声は、湿った土のように重かった。

「奴はしつこい。……一度狙った獲物は、灰になるまで諦めない……!」

 その言葉通り、エンバー・ファイアビーは再び姿勢を立て直し、猛烈な勢いで加速する。

 ボォォ……!

 炎が空気を焼く、嫌な熱気が首筋をなでる。

 汗が目に入り、視界が滲む。このままでは――いずれ、追いつかれ、貫かれる。

 二人が死の予感に身を強張らせた、その時だった。

 僕たちの後方――。

 エンバー・ファイアビーの、さらにその奥にある深い闇から。

 森の平穏を根底から踏みにじるような、凄まじい「声」が響き渡った。

 それは、熊の唸り声に似ていた。

 いや、それよりも遥かに凶暴で、この世界の理を否定するかのように禍々しい咆哮。

 ズズズ、と大地そのものが怯えて震えるような、圧倒的な捕食者の気配。

 そのあまりのプレッシャーに、僕を追っていたはずのエンバー・ファイアビーまでもが、空中でピタリと羽音を乱した。

「……まさか……」

 僕の背中で、リーブ先輩の身体が、氷を押し当てられたように硬直した。

 咆哮が森の静寂を切り裂いた、次の瞬間――。

 ズシン。

 ズシン。

 大気が、そして大地が悲鳴を上げるように揺れ始めた。

 大樹の枝葉が激しくざわめき、頭上では不吉な鳥の群れが、羽音も狂わんばかりに一斉に飛び立った。

 バサバサバサッ!

「……なっ!?」

 揺れは収まるどころか、拍動のように力強さを増していく。

 僕も思わず足を取られそうになり、転倒を免れるために必死で踏ん張るのが精一杯だった。

 ズシン。

 ズシン。

 ズシン。

 一歩ごとに、心臓を直接叩かれるような重低音が鼓膜を震わせる。

「今度はなに!?」

 ただでさえ、エンバー・ファイアビーに追われているという状況で、立て続けに事が起こったのだ。

(何かが……とてつもなく「巨大なもの」が来ている!)

 そう確信した直後、深い霧の向こうから、ついに“それ”が姿を現した。

「――っ!?」

 背中で、リーブ先輩が凍りついたように息を呑む。

「……嘘でしょ……。クリムゾン・サラマンダー……!?」

 それは、もはや生物の範疇はんちゅうを越えていた。

 視界を覆い尽くす、歩く「山」そのものだ。

 体長は優に二十メートルを超え、全身を覆う漆黒の鱗の隙間からは、ドロドロとした溶岩のような赤い光が脈打っている。

 特に異様なのはその背中だ。活火山そのものを背負っているかのように巨大に隆起し、その頂点は火口さながらに口を開け、絶え間なくマグマを噴き散らしている。

 ジュウ……ッ。

 降り注ぐマグマが地面を焼き、周囲の湿った泥を一瞬で蒸発させる。

 先ほどからの地響きは、この怪物がただ「歩いている」だけの振動だったのだ。

「うわあああああああああ!?」

 振り返った瞬間、僕の喉から絶叫が漏れた。

 本能が、全身の細胞が「死」を察知して逃走を命じている。

 僕らを追っていたはずのエンバー・ファイアビーも、その絶対的な捕食者の登場に戦慄したらしい。一瞬だけ空中で静止すると、次の瞬間には僕らとは真逆の方向へ、羽音を撒き散らして全力で逃げ去っていった。

「まずい……最悪だ……!」

 リーブ先輩の震える声が、耳元で響く。

「クリムゾン・サラマンダーは……かつての私でさえ、単独では太刀打ちできない相手よ……!」

 その声には、混じり気のない「恐怖」が宿っていた。

「奴が通った場所は、すべてが生を失う焦土と化す。化け物の中でも……群を抜いた化け物よ……!」

 その瞳は、先ほどよりもさらに濃い、漆黒の絶望に染まっていく。

 僕の足も、あまりの威圧感に竦みそうになる。

「グルアアアアアアアア!!」

 クリムゾン・サラマンダーが咆哮し、巨大な頭部をこちらへと向けた。

 灼熱の双眸が、僕らを獲物としてロックオンする。

 次の瞬間、巨体がその重量を武器にして、一直線に突進してきた。

「だ、大那! 逃げろ! 早く!!」

 リーブ先輩の悲鳴で、ようやく意識が現実へと引き戻される。

「わ、わかってます!!」

 僕は具足を鳴らし、再び走り出した。

 背後では、ズシン!! ズシン!! と、大地を粉砕する音が迫ってくる。

 奴にとって、この深い森の木々など障害物ですらない。巨体がかすめるだけで大木はへし折れ、岩も倒木も、すべてが平等に踏み潰されていく。

「はぁっ……! はぁっ……!」

 心臓が口から飛び出しそうなほど、必死に酸素を求める。

 だが、奴の一歩はあまりにも巨大だ。

 最初は離れていたはずの距離が、一歩、また一歩と、確実に、そして無慈悲に縮まっていく。

(このままじゃ……ただ走ってるだけじゃ、追いつかれる……!)

 背中越しに感じる熱気が、じりじりと僕の肌を焼き始める。

(何か……奴の足を止めるか、遠ざける方法はないのか!?)

 ただ逃げるだけでは未来はない。かといって立ち向かえば、一瞬で消し炭にされる。

 僕は、走りながら必死に記憶を掘り起こした。

 さっき、先輩がこの森について話してくれたことを。

 この不気味な、泥に覆われた森の特徴を……。

 頭の中を火花が散るような速さで情報が駆け巡る。

 そして――。

 ある一つの「知識」と「現状」が、カチリと音を立てて繋がった。

「……っ!」

 僕は、喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。

「わかった! 先輩、これならいけるかもしれない!!」

 僕はそれまで北へと刻んでいた進路を猛然と切り替え、東の茂みへと突っ込んだ。

「大那!? なにしてるんだ!」

 背中でリーブ先輩が悲鳴に近い声を上げる。

「帝国はこっちじゃないぞ!?」

「いいえ……これで合ってるんです!」

 心臓を直接握りつぶされるような鼓動に耐えながら、僕は叫び返した。

「帝国に行く前に――あの山を、先に片付けます!」

 僕たちが進路を変えても、クリムゾン・サラマンダーはぴたりと背後を離れない。

 距離はもう、数メートル。振り返れば、その巨大な顎が、灼熱の蒸気とともに迫っている。

 今この瞬間に転べば、考える間もなく噛み砕かれ、火砕流に飲み込まれるだろう。

 だが、この「絶望的な近さ」こそが、僕の立てた唯一の作戦の鍵だった。

 僕はただ、東へと地を蹴る。

 すると――。

 やがて前方の霧が晴れ、かすかな外界の光が差し込んできた。

 森の終焉。遮るもののない、開けた空間。

 それを見た瞬間、僕はひりつくような高揚感とともに、不敵に口角を上げた。

「ちょっと、大那! こっちは――!」

 先輩が何かに気づき、息を呑む。

 構わず、僕は森を突き抜けた。

 視界が一気に開け、赤黒い陽光が僕らを包み込む。

 そして。

「――っ!!」

 リーブ先輩が、僕の肩を掴む手に力を込めた。

 彼女も、僕が見ている「答え」を理解したのだ。

 その瞬間、僕は左足に全体重を乗せ、地面を爆ぜるように蹴った。

「せーのっ!!」

 先輩に合図をしてからの、全力のサイドステップ。

 左へと大きく身を翻した僕たちの視界の先、つい数秒前まで「足元」であったはずの場所には――。

 切り立った、絶壁の崖があった。

 そう。魔王城から続くこの土地は、雲を貫くほどの高地。

 そして、この森の東端もまた、底の見えない断崖絶壁だったのだ。

 だが。

 僕たちの直後に迫っていたクリムゾン・サラマンダーは――止まれない。

 なぜなら、奴は僕らを今すぐ咀嚼しようと、二十メートルの巨体を「全力の突進速度」に乗せてしまっていたからだ。

 僕の具足が弾いた小石が、カラリと空中に舞い、奈落へと吸い込まれる。

 その軌跡をなぞるように、巨大な黒い影が宙を泳いだ。

「グルアアアアアアアアアアアア!!」

 クリムゾン・サラマンダーの絶叫が、虚空に響き渡る。

 だが、空中に足場はない。

 勢いを制御できない巨体は、滑稽なほど無力に、そのまま奈落の底へと真っ逆さまに落ちていった。

 しばらくの間、世界から音が消えた。

 そして数秒後。

 ドシィィィィィィィィィィン……ッ!!

 大気を震わせ、山を揺らすほどの凄まじい轟音が、はるか下方から突き上げてきた。

「はぁ……っ、はぁ……っ」

 肺が焼けるように熱い。

 これは死に物狂いで走ったせいか、それとも――「山」を一つ転落死させたという、狂気じみた高揚感のせいか。

 僕は背中からリーブ先輩をそっと降ろした。

 そのまま、支えを失った操り人形のように、力が抜けて後ろへと倒れ込む。

「大那! 大丈夫!? しっかりして!」

 リーブ先輩が慌てて膝をつき、僕を覗き込む。

 本気で血の気が引いた顔をしている彼女を見て、僕は少しだけ笑った。

「大丈夫、ですよ……先輩。ちょっと、足が笑ってるだけです……」

 僕は冷たい土に手を突き、ゆっくりと上半身を起こした。

 空を見上げる。相変わらずの赤黒い空。けれど、今はその色がどこか美しくさえ見えた。

「もう……っ!!」

 リーブ先輩が頬を膨らませ、大きな瞳にうっすらと涙を浮かべて怒鳴った。

「心臓が止まるかと思ったぞ! あんな、自分まで落ちるような真似……!」

 そう言いながらも、彼女は安心したように何度も胸を撫で下ろした。

 そして、そっと僕へ右手を差し出す。

 僕はその手をしっかりと掴み、彼女の力を借りて立ち上がった。

 二人で、静かになった崖の下を見下ろす。

 光さえ届かない深い奈落。そこにはもう、怪物の唸り声はない。

 一陣の風が、勝利を祝うように僕たちの間を通り抜けた。

「……でも」

 リーブ先輩が、噛み締めるようにぽつりと言った。

「すごいよ、大那」

 彼女が僕の方へ振り向く。

「まさか、剣も魔法も使わずに……あのクリムゾン・サラマンダーを仕留めちゃうなんて」

 少しだけ、いたずらっぽく笑う彼女の瞳は、これまでにないほど柔らかく澄んでいた。

「本当に……」

 彼女は僕の顔をじっと見つめ、確信を込めて続けた。

「あなたには、魔王を斃す『素質』があるのかもしれないね」

 僕は力強く頷いた。

「さあ、行きましょう。先輩」

 僕は彼女の小さな手を、もう一度取り直した。

「帝国へ。僕たちの反撃は、ここからですから」


 その後、僕たちは特段魔物に追われることもなく、静まり返った夜のとばりの中を進むことができた。

 山を下り、僕たちは北へと歩を進めていく。道中、何度か短い休憩を挟みながらも、基本的には僕がリーブ先輩をおんぶする形を保ったままだ。極限の緊張から解き放たれたせいか、一歩踏み出すごとに蓄積された疲労がずしりと重くのしかかってくる。

 しばらく走り続けていると、ふと地面の感触が変わった。

 それまでの湿った泥や腐葉土ではない。乾いた、大地の硬い感触。

「ここは……荒野……?」

 思わず独り言が漏れる。さっきまでの森は、肌にまとわりつくような湿気が支配していた。けれど内陸へ入ったからなのか、空気は一気に乾燥し、夜風はどこか刃物のように冷たい。

「よく頑張ったな、大那」

 背中から、リーブ先輩の労うような声が届く。

「ここを越えれば、帝国と魔国の国境だ。ようやく……帰ってこられた」

 その横顔には、死地を脱した安堵と、隠しきれない望郷の念が滲んでいた。

 気がつけば、空を覆っていた不気味な赤黒い靄はすっかり姿を消している。

 代わりに夜空に浮かんでいるのは、地球の月よりも一回り大きく、青白く幻想的な光を放つ天体だった。その周囲には、東京の空では決して見ることのできない、宝石をぶちまけたような無数の星々が瞬いている。

 一瞬、その美しさに足を止めそうになった。けれど、僕は震える両足に鞭を打ち、もう一度荒野を蹴った。

「はぁっ……はぁっ……。よかったです……! ラストラン、気合入れていきます!」

「いや、今日は帝都まで行く必要はない」

 リーブ先輩が僕の肩を叩いて制した。

「帝国領に入れば、すぐに開拓村が見えるはずだ。それを目印に、近くの洞窟か岩陰を探して一泊しよう。その辺りなら、好戦的な敵も少ないはずだから」

 休息の提案。正直、僕の体力も限界に近かった。ありがたい申し出だ。

 けれど、一つだけどうしても拭えない疑問があった。

「……わかりました」

 僕は呼吸を整えながら、素朴な疑問を口にする。

「でも、村が見えるなら……わざわざ洞窟じゃなくて、そこに泊めてもらうのはダメなんですか? 宿屋とか、せめて民家の軒先とか。その方が安全ですよね」

 普通の感覚なら、人の住む場所を目指すのが当然だ。

 けれど、その提案を聞いた瞬間、リーブ先輩の身体が微かに強張った。

「……ダメだ」

 きっぱりとした、拒絶の響き。

「今日はもう遅い。こんな真夜中に村へ行っても、ほとんどの村人は寝静まっている」

 そして、彼女は少しだけ声を落とし、夜の闇に溶けるような低さで続けた。

「たとえ誰かが起きていたとしても……必ず怪しまれる。まず疑われるのは、私たちが本当に人間かどうか、だ」

 僕は首を傾げた。

「怪しまれる……? なんでです?」

 だって、彼女は世界を救うために戦ったはずだ。

「だって、先輩は『勇者』なんですよね?」

 僕の頭の中には、物語で読んだ「勇者」の理想像があった。

 魔王を倒しに行く英雄。村人たちから「勇者様!」と歓声で迎えられ、宿も食事も提供される、誰もが憧れる高潔な存在。

 けれど、リーブ先輩の答えは、僕の幻想を粉々に打ち砕くものだった。

「……勇者は、そんなに綺麗なものじゃない」

 その言葉には、鉛のような重みが伴っていた。彼女は視線を逸らし、荒野の先に広がる暗闇を見つめる。

「とにかく、村には入れない。……理由は、落ち着いたら話す」

 短い沈黙。

 冷たい夜風が僕たちの間を吹き抜け、枯れた草がカサカサと鳴る。

「だから……村が見えたら、その手前の山か森へ入ってくれ。手頃な洞窟を探そう」

 その瞳に宿っていたのは、英雄としての誇りではない。

 凄惨な戦いの記憶か、あるいは「勇者」という肩書きを背負わされた者だけが知る、孤独と疎外感。

 頭上の星々は、そんな僕たちの事情など知らぬげに、ただ冷たく、静かに瞬き続けていた。


 さらに少し先へ進むと、確かに村の影が見えてきた。

 村の周囲はぐるりと柵と堀で囲われている。

 門の横には見張り台が立ち、そこには灯りがともっていた。

 どうやらこんな真夜中でも、見張りが立っているらしい。

 その光景を目の端に捉えると、僕は進行方向を変えた。

 村の見張り台が放つ篝火を遠ざけ、僕たちは深い夜を湛えた山中へと潜り込む。

 入り口付近に横たわる、静かな洞窟。

「ここなら、ひとまず腰を据えられそうです」

 僕はリーブ先輩をそっと下ろし、暗がりの奥へ一歩を踏み出す。

 未開の闇。現代の東京で経験したことのない、濃密な「黒」が視界を塞ぐ。

 目を凝らし、手探りで進もうとしたその時だった。

 天井に、無数の小さな「光」が灯った。

 一つ、二つ……いや、数十個。それらが一斉にこちらを射抜く。

 バサバサバサッ!!

 轟風を伴う羽ばたき。黒い群れが僕の頭上を掠めて外へと飛び出していく。

「うわあああああああっ!?」

 無様に頭を抱えて叫ぶ僕に、背後から落ち着いた声がかけられた。

「大丈夫だ。あれはソニックバット。人を襲う吸血種ではない」

「吸血種……そんなのもいるんですか。やっぱり物騒な世界だ……」

(日本ならニュースどころか特番が組まれるレベルだぞ)

 心臓のバクバクを抑えながら、僕は改めてこの世界の生態系の過酷さを思い知らされる。

「それにここはもう帝国領。住んでいるのは『モンスター』だ。魔国の連中とは違う」

「モンスター? 『魔物』とは呼び方が違うだけですか?」

 僕の問いに、彼女は焚き火の準備をしながら説明を始めた。僕もそれに倣って枝葉を集める。

「いや、根本が違う。モンスターはこの大陸に元から息づく野生生物のこと。対して『魔物』は――魔国の淀んだ魔力に侵されたモンスター。あるいは、魔王が自らの魔力で歪ませ、創り出した殺戮の兵器だ」

 洞窟の壁に、彼女の声が冷ややかに反響する。

「奴らは理性を欠き、ただ破壊と捕食を繰り返す。人類にとって、生存を脅かす明確な『敵』。それが魔物だ」

 つまり、魔王という存在は生物の理さえも書き換えてしまうということか。クリムゾン・サラマンダーのような絶望的な化け物も、魔王の意志一つで量産される可能性があるのなら……。いや、現実には人間の領土がまだ残っている。魔王にも何かしらの制約があるのかもしれないな。

 僕が思考を巡らせていると、彼女は枯れ枝を組み上げながら、どこか誇らしげに口元を綻ばせた。

「村人も心得たものだ。異形を見れば即座に魔物か否かを見極め、迷わず叫ぶ。『魔物が出たぞ!』とな。種族名を鑑定する暇があるなら、一刻も早く危機を知らせる。それがこの最前線の生きる知恵なんだ」

 どこか得意げな顔だった。もしかすると、彼女も村出身なのかもしれない。

「なるほど……。この世界の村人は、みんな戦士みたいなものなんですね」

 さっき見た要塞のような村の柵や見張り台。あれは平和な農村の風景ではなく、明日をも知れぬ戦場の前線基地そのものだったのだ。

「ああ。中央から派遣された兵士が駐屯することも多い。ここが抜かれれば、次は帝都が火の海になるのだからな」

 説明を終えると、彼女は精神を集中させ、杖の先を集めた枝葉へ向けた。

 バチィッ!!

 鋭い閃光が走り、高圧の電流が乾燥した枝を焼き焦がす。

 パチパチと小さな爆ぜる音が響き、やがてオレンジ色の柔らかな光が洞窟を隅々まで照らし出した。

 その様子を見ても、先輩は特に誇った様子を見せない。

 どうやら彼女にとっては、当たり前のことらしい。

 焚き火。この原始的で力強い熱源が、凍えた僕の心と体を少しずつ解きほぐしていく。

 余った葉を敷き詰めて作った、簡素な寝床。

 ようやく一息ついた僕は、ずっと喉に引っかかっていた、けれど避けては通れない問いを口にした。

「……さっきの話の続きですが」

 焚き火の爆ぜる音が、一瞬、会話の隙間を埋める。

「駐屯している兵士たちにさえ、先輩の名前は通じないんですか? あなたは、世界を救うために戦った『勇者』なのに」

 その言葉が、熱を帯びた空気を一瞬で凍りつかせた。

「――っ」

 リーブ先輩が、目に見えて息を呑んだ。

 そのまま彼女は顔を伏せ、燃える炎をじっと見つめる。

「……その質問に、正直に答えるには」

 長い沈黙の末、彼女は絞り出すような声で言った。

「この大陸の……醜い情勢を、話さないといけない」

 彼女の声は、浅い洞窟の壁に冷たく跳ね返り、やるせない孤独を伴って消えていった。

 彼女は、ゆっくりと語り始めた。

「まず、この大陸には三つの国がある」

 焚き火の炎が、彼女の横顔を照らす。

「魔国、帝国、そして王国だ」

 そこで一度言葉を切り、こちらを見る。

「それはさっき説明したな?」

 僕の理解を確かめるような視線だった。

 僕は小さく頷く。

「はい」

 それを確認すると、彼女は続けた。

「今、この大陸では――」

 少しだけ声が低くなる。

「その三国すべてが、覇権を巡って争い合っている」

 僕は黙って聞いていた。

 元々は、いくつもの小国が存在していたのだろう。

 それが統一され、三つの国にまで集約された。

 ならば――

 最後に残る一国になるまで争い続ける。

 それは、決して不思議なことではない。

 ここまでは理解できた。

 だが。

 彼女が本当に伝えたいことは、その先にあった。

「確かに魔王という共通の敵はいる」

 焚き火の炎が、ぱちりと弾ける。

「だが、もし片方の国が堂々と魔国へ攻め込めば――」

 彼女は続けた。

「もう一方の国が、その隙を突いて自国へ侵攻してくるかもしれない」

 三国は、常に互いを牽制し合っている。

 均衡、疑念、そして恐怖。

 そんな緊張関係の中で。

「この状況を打破するために、皇帝が考え出したのが――」

 彼女は、遠くを見るように視線を向けた。

 そして、噛みしめるように一拍置く。

「勇者パーティだった」

 その言葉が、静かな洞窟に落ちる。

「勇者パーティは、他国へ攻め込むための先遣隊」

 彼女は続けた。

「もっと直接的に言えば――」

 そして、はっきりと言った。

「魔王を討ち取るためだけの、必殺の精鋭部隊だ」

 その言葉が、僕の脳天を強く打った。

 彼女の声は、淡々としている。

「敵国はもちろん、自国民にすら、その存在は知らされない」

 焚き火の炎が揺れる。

「密かに魔王城へ潜入し、魔王の首を取る、暗殺者集団」

 彼女は自嘲するように細い指先で自身の杖をなぞった。

「それが、私たちが“勇者”として誰にも認知されていない理由だ」

 僕は、言葉を失っていた。

 洞窟の入口から吹き込む夜風が、汗ばんだ背中を急激に冷やしていく。

「成功すれば、高額の報奨金はもらえる」

 彼女は続けた。

「けど、実際は返り討ちにされて終わり」

 その声は、どこか諦めているようだった。

「おそらく、私たちより前にも同じような勇者パーティが派遣されている」

「でも――」

 彼女は焚き火を見る。

「全部、失敗している」

 そして静かに言った。

「現に、魔王は生きていたしね」

 その瞳は、どこか儚かった。

「結局のところ、私たちは、皇帝の手駒に過ぎない」

 火の光が、彼女の顔を揺らす。

「生きるために磨いてきたこの腕が」

 彼女は自分の手を見る。

「自分自身を死地へ追いやるなんて」

 小さく息を吐いた。

「……馬鹿げた話ね」

 僕はどこかで、勘違いしていたのかもしれない。

 これは、勧善懲悪の冒険ゲームなんかじゃない。

 生きるか死ぬか、奪うか奪われるかの、一国と一国が争う、剥き出しの「戦争」なんだ。

 日本は、戦争のない平和な国だった。

 一般人が持つ武器なんて、せいぜい包丁やナイフくらい。

 テレビの向こうでは、どこかの国で戦争が起きているというニュースが流れていた。

 内紛。爆撃。戦闘。

 けれどそれは、結局、音と文字だけの情報だった。

 僕は、それを理解した“つもり”になっていただけだ。

 自分の身で戦争を体験する。

 そんなことは、日本人として生まれた以上、僕の人生には起こらない。

 どこかで、そう思っていた。

 でも、違った。

 戦争はこんなにも、醜い。

 自国民を戦場へ送り込み。

 相手の首魁の首を切り落とす。

 そしてその戦いは、どちらかの命が尽きるまで終わらない。

 僕は、思わず声を上げた。

 それはリーブ先輩への反論ではない。

 この世界への反論。

 いや――

 ずっと現実から目を背けてきた、自分自身への反論だった。

「……で、でも! なんで手を取り合えないんですか!? 人間同士が争っている場合じゃないって、話し合えば……!」

 叫びは、虚しく壁に跳ね返る。

 リーブ先輩は、悲しいほど落ち着いた声で僕の言葉を遮った。

「……もう、無理なんだ」

 短い言葉だった。

「……一度流れた血は、言葉では拭えない」

 洞窟の空気が、冷たくなる。

「仮に表面上、書類上で同盟を結んだとしても」

 彼女は、焚き火の底で赤く燻る炭を見つめた。

「『いつか裏切るかもしれない』。その一滴の毒が、すべての信頼を腐らせる。軍費の分担、戦後の領土配分……。妥協点を探るたびに、新たな憎しみが生まれるだけ。私たちはもう、引き返せない場所にいるんだ」

 僕が取り乱しているのに対し、

 彼女はどこまでも冷静だった。

 それが――

 勇者パーティとして選ばれた者の覚悟なのだろうか。

「だから、最後の一国になるまで。あるいは人類が魔物に喰い尽くされるまで、私たちは殺し合うしかない。……それが、この大陸のルール」

 火の光が、彼女の顔を揺らす。そこに映っているのは、暗殺者として、手駒として、死地を潜り抜けてきた者の覚悟。

 そして――

 彼女は僕に向き直った。

 真っ直ぐに。

 逃げ場を与えない視線で。

「それでも」

 焚き火が大きく爆ぜ、火の粉が舞う。

 彼女の声が、先ほどよりも一段と低く、鋭くなった。


「お前は、勇者として」

 一瞬の沈黙。

「魔王を斃すことを誓うか?」

 その瞳は、冷徹だった。

 焚き火の炎があるのに。

 なぜか。

 洞窟の空気が、ひどく、肌寒く感じられた。

 僕は――消え入りそうな声を、熱を帯びた意志で必死に絞り出した。

「……先輩は」

 一度、言葉が詰まる。喉の奥が焼けるように熱い。それでも、僕は逃げずに言葉を紡いだ。

「どうして、勇者パーティに入ったんですか?」

 イエスかノーか。暗殺者になるか否か。そんな二択を突きつけた彼女にとって、僕の問いは拍子抜けするほど的外れに聞こえたかもしれない。

 リーブ先輩はわずかに目を見開いた。その黄金色の瞳が微かに揺れ、彼女は憑き物が落ちたように視線を落とす。

「……私は」

焚き火が、爆ぜる。

「当時、まとまったお金が欲しかったのよ。それと――」

 わずかに間を置く。その沈黙には、かつての彼女が抱いていたであろう傲慢なまでの自負が混じっていた。

「自分が極めた魔法が、どこまで通用するのかを確かめてみたかった。……半々、かな」

 自嘲気味に、彼女は少しだけ笑った。

「でも、そんなおごりは、魔王にあっさり打ち砕かれた。敵を知らなかった私が、間抜けだっただけ」

 感情を押し殺すような、けれど隠しきれない悔恨が滲む声。

 僕はさらに踏み込んだ。

「……それって、自分のためだけだったんですか? 亡くなった仲間の皆さんに対しても、並々ならぬ思いがあるように見えました」

 リーブ先輩はゆっくりと天を仰いだ。洞窟の低い天井を見つめるその横顔に、炎が揺れる。

「……最初はね、知り合いでも何でもなかった。それぞれに思惑を抱えた、ただの五人の集まり」

「でも、背中を預けて戦ううちに、いつの間にか感情が芽生えていた。……友情っていう、青臭くて熱い感情がね」

 彼女の声が、不意に柔らかくなった。

「その中でも、アレグスだけは別格だった。誰かがピンチになれば真っ先に飛び込み、常に先頭を走り続ける。それでいて、普段は驚くほど優しくて温厚で……」

 懐かしむように、彼女の目が細められる。

「……本当に、かっこよかった」

 沈黙が落ちた。それは亡き英雄への、あまりにも重く静かな祈りだった。

「私は、最後まで彼のために尽くそうと決めた。でも、それすら叶わなかった。……だから、せめて」

 彼女は言葉を絞り出す。

「せめて彼の弔い合戦ができるように、もう一度魔王と対峙しようって、そう決意したの」

 そして彼女は、僕の方へと向き直った。

「そう思わせてくれたのは、間違いなく大那のおかげよ。……本当に、ありがとう」

 それは、まるで旅の終わりを告げるような、静かな微笑みだった。

 何かに区切りをつけ、僕をこの「戦争」から解放しようとするような、訣別の色。

 けれど、僕の心は不思議と澄み切っていた。迷いなんて、最初からどこにもなかった。

「……ありがとうございます。その言葉で、僕の決意も固まりました」

 僕が視線を落とすと、リーブ先輩は少しだけ寂しそうに、けれど悟ったように口を開いた。

「……じゃあ、魔王討伐は諦めるのね。残念だけど、それなら私たちは帝都で――」

「違います」

 僕は彼女の言葉を、真っ向から遮った。

「いいえ、違いますよ、先輩」

 顔を上げる。

「……もう忘れたんですか?」

 一歩、踏み出す。

「魔王城で言ったでしょう」

 僕は彼女の手を取り、驚く彼女をそのまま背後の冷たい岩壁へと押し当てた。

「――っ!?」

 距離が、一気に縮まる。逃げ場のないほど近く、僕の体温が彼女に伝わる距離。

 僕は彼女の耳元へ、重い誓いを直接注ぎ込んだ。

「僕は、あなたの未来をこじ開ける友達になるって」

 低く、けれど岩をも通すほどの確信を込めて。

「あなたが進む道には、必ず僕がいます」

「元の世界に戻るためだけじゃない。……先輩のためにも」

 僕は彼女を射抜くように、強く言った。

「僕が、魔王を討ち倒してみせます。暗殺者としてでも、駒としてでもない。あなたの友達として」

 静かに手を離し、一歩だけ距離を置く。

「……もう三度目ですよ」

 僕は少しだけ苦笑した。

「いい加減、覚えてくださいね。僕のしつこさを」

 しばらくの沈黙。

 リーブ先輩は、僕の言葉を一つ一つ飲み込み、胸の奥で反芻しているようだった。

 やがて。

「……ふふっ」

 彼女は、ゆっくりと、そして今日一番の明るさで笑った。

「……うん。そうね。あなたはそういう人だったわ」

 その笑顔に、もう迷いはない。

 そう確信した次の瞬間。

 不意に、彼女が僕の胸に飛び込んできた。

 確かな意志をもって、ぎゅっと僕の服を掴む。

「……もう、絶対に迷わない。あなたを信じて、あなたと一緒に歩いていく」

 その小さな、けれど鋼のように硬い誓いの声が、僕の胸に響く。

 焚き火の炎が、静かに揺れている。

 その光の中で、僕たちの間には、世界の理さえも超える「絆」が結ばれた。


「大那、今日はもう疲れたでしょう」

 洞窟の入り口、外の闇を睥睨するように座ったまま、リーブ先輩が静かに告げた。

「先に横になりなさい。夜番は私が引き受けるから」

 魔物の気配が漂う森の夜だ。不寝番の必要性は、素人の僕にだって痛いほどわかる。その申し出がどれほど重く、そして温かい献身の上に成り立っているか。

「……いいんですか? すみません、お言葉に甘えます」

 僕は素直に頭を下げ、枝葉を敷き詰めただけの即席の寝床に体を預けた。

 仰向けになると、視界を塞ぐのは凹凸の激しい岩の天井。

(異世界、か……)

 数時間前まで、僕は部活帰りのありふれた日常の中にいた。それが今や、冷蔵庫を経由して魔王の城に降り立ち、黒髪の美少女を背負って逃走劇を繰り広げている。

 あまりにも非現実的すぎて、感覚が現実と乖離していく。

 もし明日目が覚めたら、そこはいつもの自室で、母親が朝食を作っている音が聞こえるんじゃないか。そんな淡い期待が胸をかすめる。

けれど、同時に重い不安が肺の奥に沈殿していく。

(今、向こうは何時なんだろう。親父や母さんは、僕を探してるのかな……)

 日本の警察の捜索願も、異世界のことわりの前には無力だ。もしここで僕の命が尽きれば、遺体どころか、僕がこの世界にいたというあかしさえ届けることはできない。

 この世界で「明日」を迎えることは、当たり前の権利ではなく、勝ち取るべき恩寵なのだ。

 重苦しい思考を振り払うように、僕は視線を横へ向けた。

 洞窟の入り口、夜の気配をじっと見据えるリーブ先輩の背中。その華奢な肩には、国の命運と亡き仲間たちの遺志、そして僕という異邦人の命までが乗っている。

 僕は深く息を吸い込んだ。焚き火の爆ぜる音と、爆ぜた後の炭の匂いが鼻腔をくすぐる。

 考えるのは、もうやめだ。

 住めば都。そんな言葉がふと頭を過る。

 こんな場所でも、人は眠れるものらしい。

 僕はゆっくりと瞼を閉じ、吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。

 リーブは、背後から聞こえる規則正しい寝息を確認すると、微かな衣擦れの音を立てて振り返った。

 そこには、無防備に眠る少年の姿があった。

 自分を、そしてこの見知らぬ世界を信じきっている、あまりにも危うい寝顔。

「……明日からも、よろしくね。大那」

 その囁きは夜風にさらわれ、焚き火の爆ぜる音にかき消された。

 けれど、彼女の黄金色の瞳に宿る熱だけは、闇の中で確かな意思を放っていた。

 

 翌朝。

「……ん……っ」

 瞼を突き抜けてくる鋭い光に、僕は意識を引き戻された。

 何時間眠ったのか、時間の感覚は麻痺している。けれど、泥のように重かった体は驚くほど軽くなっていた。

 重い瞼をこじ開けると、視界の先に広がっていたのは、抜けるような青空。

 そして、朝露に濡れた草むらを見渡すリーブ先輩の後ろ姿だった。

 物音に気づいたのか、彼女が振り返る。

「……おはよう、大那。しっかり眠れたようだな」

 穏やかな声だ。

「先輩……」

 寝起きの掠れた声で、僕は問いかける。

「先輩こそ、少しは休めたんですか?」

「ああ、それなりにな」

 彼女は事も無げに答えると、すぐさま表情を引き締めた。

「それより――今日中に帝都へ入る。目指すは宮殿、皇帝陛下の御前だ」

「きゅ、宮殿!? いきなり皇帝陛下に会うんですか!?」

 普通なら、まず町を見て回って――。身なりを整えて――。

 そういう段階を踏むものじゃないのか。

「当然だ。私たちの戦果報告と――」

 彼女は一歩、僕の方へ歩み寄った。その瞳には、射抜くような鋭さが戻っている。

「お前という存在が、魔王を斃す『唯一の鍵』である可能性を、皇帝陛下に直訴しなければならないのだからな」

 あまりに急進的な展開に、心臓の鼓動が早まる。期待よりも、巨大な国家という怪物に対する恐怖が勝りそうになった、その時。

「……はぁ。まだ寝ぼけているようだな」

 彼女が呆れたようにため息をつき、杖をこちらへ向けた。

「ウォーター・フロー!」

 ぴしゃっ!!

「うわっ!? 」

 顔面に直撃した冷水の弾丸に、僕は跳ね上がった。

「これで目は覚めたか?」

 彼女は平然とした顔で、背を向けて歩き出す。

「顔は洗えただろう。さっさと準備しろ。置いていくぞ」

「ま、待ってください! 先輩! 水、鼻に入ったんですけど!」

 慌てて荷物をまとめ、僕は彼女の背中を追って駆け出した。

 降り注ぐ朝日は眩しく、僕たちの行く先を白く染め上げている。

 その光の向こうに、この世界の中心――帝都の影が、ぼんやりと見え始めていた。

いよいよ次回、主人公が戦います。

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