第零章
漆黒の闇が、広間のすべてを無慈悲に呑み込んでいた。
光源などどこにもない。ただ、部屋の奥に鎮座する「玉座」だけが、凝固した血のような鈍い光を放っている。その絢爛な装飾の前に、一人の男が立っていた。
雪のように白い長髪。背に不吉な影を落とす、漆黒の翼。
ゆったりとした黒いローブを纏う男の首元で、銀色の鍵が歩みに合わせて小さく揺れる。
――チャリン。
乾いた金属音が、墓標のような静寂を切り裂いた。
男はゆっくりと歩み寄る。その冷徹な視線の先には、一人の少女が膝を突き、力なく蹲っていた。
「ククッ……」
地を這うような低い笑い声。
「もはや、立ち上がる気力すら残っていないか」
男は少女を見下ろし、残酷な愉悦を瞳に宿す。
「ならば――慈悲を授けよう。これで終わりだ」
男が右手を掲げると、そこへどす黒い魔力の奔流が収束した。
周囲の空気が悲鳴を上げるように歪む。
それは単なるエネルギーの塊ではない。
世界の理を強制的に書き換え、奇跡を蹂躙する「魔法」、その根源的な力。
――魔力。
男の掌の中で、それは底の見えない濁流となって渦巻いていた。
少女の傍らには、四つの骸が転がっている。
血に濡れた鎧、裂けた肉、半ばから折れ曲がった聖剣。
かつて「希望」と呼ばれた勇者パーティーの成れの果てだ。
すでに、戦いは決していた。
「死ね、人間。貴様らの歩みはここで終結だ」
男――魔王は、処刑人の如く静かに宣告した。
「『ダーク――』」
放たれようとする魔法は、この城ごと世界の一角を削り取るほどの絶大なる破壊。
だが、その極限の死を前にして、少女の瞳がふと揺れた。
(……みんな)
薄れゆく意識の底で、彼女は横たわる仲間たちを視界に収める。
(死んじゃったんだ……本当に……)
共に笑い、共に明日を語り合った。魔王を斃すことを信じて疑わなかった仲間たち。
そして――。
(アレグスでさえ……)
胸の奥が、焼けるように軋む。
誰よりも強く、誰よりも優しかった、あの青年。彼さえも、目の前の「怪物」には届かなかった。
(こんなの、もう……人間の手に負える相手じゃないよ……)
絶望が、冷たい泥のように彼女の心を覆い尽くしていく。
少女は、届かぬ救いを求めて心の中でその名を呼んだ。
(アレグス……助けて……)
この世に、もういないはずの英雄に。
その時だった。
閉ざされた暗闇の記憶の中で、不意に彼の笑顔が浮かび上がった。
『諦めちゃ駄目だ、リーブ』
幻聴だろうか。けれど、それは確かに、震える背中を支えるような力強い声だった。
『君にはまだ、希望を未来へ託す方法があるはずだ。自分を信じろ』
その言葉が、凍てついた胸の奥で小さな灯火となって燃え上がる。
「――っ!」
少女、リーブは目を見開いた。
(そうだ……忘れていた。……いや、怖くて忘れようとしていたんだ)
まだ、残されている。
全ての因果を断ち切る、最後にして最悪の手段。
(でも、あの魔法は……)
対価として支払うべき「代償」を思い出し、指先が激しく震える。それを使えば、自分という存在はどうなるのか。
だが。
魔王の掌に集う闇は、すでに臨界点に達している。
迷う時間は、一秒たりとも残されてはいなかった。
(――いいよ。全部、持っていって)
リーブは、ゆっくりと顔を上げた。
(全部、賭ける。……未来に、繋ぐために!)
震える足に、死力を振り絞って力を込める。
そして、彼女は立ち上がった。
「……ほう?」
魔王が怪訝そうに眉を上げる。
「まだ抗うというのか。その無価値な命を、さらに削ってまで」
リーブは乱れた息を整え、真っ向から魔王を射抜くように見据えた。
血と涙に汚れた顔。それでも、彼女の唇は不敵な弧を描く。
「……ええ。私の全財産、全部叩きつけてあげるわ」
刹那。
リーブの細い体から、世界を震わせるほどのとてつもない魔力が噴き上がった。
暴風のごとき奔流。
黄金の光が漆黒の広間を塗り潰し、城全体を軋ませ、天を衝く柱となって広がっていく。
「なっ……!」
魔王は自らの手に確かに集っていたはずの魔力の霧散を目の当たりにし、初めて焦燥を露わにする。
彼は激しい風圧にローブを翻し、一歩、後退を余儀なくされた。
「なんだ、この魔力量は……! どこにこれほどの力が隠されていたというのだ!」
驚愕に染まる魔王の瞳に対し、リーブはただ静かに、そして晴れやかに微笑んだ。
「――『オールマジックシール』!」
轟音。
そして、白一色の光。
魔力の嵐が、魔王城のすべてを、運命ごと呑み込んでいく。
「言ったでしょ」
消えゆく意識の中、リーブは最後に勝ち誇った。
「私の――全力なんだから」
彼女の唇から最期の言葉がこぼれ落ちた、その直後だった。
狂ったように吹き荒れていた魔力の嵐が、まるで時が凍りついたかのように、ぴたりと止んだ。
音が消える。世界が肺の空気をすべて吐き出し、息を止めた。
刹那の静寂。
魔王は動けなかった。ただ、己に迫る魔力の鎖を、固唾を呑んで見上げることしかできない。
リーブは慈愛に満ちた微笑を湛えたまま、死神のように静かに告げた。
「さようなら、魔王。……また、未来で会いましょう」
その瞬間、凝縮されていた魔力が一斉に牙を剥いた。
轟音。
白銀の魔力は巨大な渦を巻き、逃げ場を塞ぐように魔王へと収束していく。
「な……っ!? 何だ、これは……!」
魔王の瞳が驚愕に見開かれた。どす黒い魔力を凌駕する「純白の奔流」が、毛穴という毛穴から彼の肉体へ侵入していく。
「身体が……動か――」
言葉は、絶叫にかき消された。
「グアアアアアアッ!!」
魔力は魔王の五臓六腑を内側から焼き尽くすように満たし、溢れ出した光が外側からも彼を塗り潰していく。
内から、外から。逃げ場のない完全なる封印。
魔王の四肢が硬直する。
荒れ狂っていた白髪の一本一本までが、法則を無視して静止した。
やがて――広間の中央には、青白く発光する美しい氷像だけが残された。
微動だにしない。永久の静止。
そして今度こそ、世界に真の静寂が訪れた。
「…………っ」
すべてを成し遂げたリーブは、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
もう、指先一つ動かす魔力も、命の火も残っていない。
カラン、と乾いた音を立てて愛用の杖が床を転がる。
魔王を封印するという大役を果たした彼女は、仰向けに倒れたまま、ぼんやりと天井を見つめた。
(アレグス……)
薄れゆく意識の淵で、最愛の人の姿を追う。
(終わったよ……。これで私も、あなたのところへ……)
口元に微かな、けれど満足げな微笑みが浮かぶ。未来で魔王と再会する役目は、誰かに託そう。
自分の死を、彼女は穏やかに受け入れていた。
重い瞼がゆっくりと、重力に従って閉じていく。
その時だった。
「……っ?」
不意に、彼女の顔を奇妙な光がなでた。
それは世界の綻びから漏れ出したような、不自然で歪な輝き。
光の源は、封印された魔王ではなかった。
彼の首元――銀色の鍵が、異様な拍動を繰り返しながら光を放っていたのだ。
光はやがて氷像の真上で一点に収束し、空間を無理やりこじ開けるように歪ませた。
空中に口を開けた、巨大な楕円の「穴」。
外周はまばゆい白光に縁取られているが、その内部は、光を一切寄せ付けない漆黒の闇。
そこには、無数の小さな光が瞬いていた。
まるで、夜空の星々を切り取って閉じ込めたかのように。
「……あれ、は……?」
リーブは戦慄し、息を呑んだ。
正体を確かめようと上半身を浮かせようとするが、鉛のように重い体は言うことを聞かない。
ただ、その「異界の穴」を凝視することしかできなかった。
その時、穴の奥の闇が、生き物のようにドロリと蠢いた。
ぞわり、と肌を粟立たせる怪異の気配。
そして――闇の奥から、何かが乱暴に押し出された。
「うわあああああ!?」
緊迫感を根底からぶち壊すような、間の抜けた絶叫。
排出された「それ」は、放物線を描いて無様に床へと叩きつけられた。
リーブの目が見開かれる。
そこに転がっていたのは、一人の青年だった。
顔も、手足も、人間そのもの。
だが、彼が纏っている衣服は、この大陸のどんな文化圏にも属さない、見たこともない奇妙な仕立てのものだった。
「……お前、は……何だ……っ!」
リーブは残された全神経を研ぎ澄まし、声を絞り出す。
魔王の手先か、それともこの惨状を招いた真の黒幕か。
(どちらにせよ……もう、戦う力なんて……)
己の無力さに奥歯を噛み締める。
その時、床に突っ伏していた男が、恐る恐る顔を上げた。
そして初めて、血にまみれたリーブの存在に気づく。
「……えっと」
男は、緊張感のない声で呟いた。
「ここ、どこ? 撮影スタジオ……じゃないよね?」
そして、不思議そうに首を傾げる。
「……あの、あなたはどちら様で……?」
「お前……こそ……っ!」
リーブは執念で床の杖へと指を伸ばした。
その瞳には、まだ消えぬ戦意の焔が宿っている。
しかし、肉体はすでに限界をとうに超えていた。
杖の感触を指先に感じた瞬間、視界が急速に反転し、どす黒い闇に呑み込まれる。
伸ばした手から力が抜け、リーブの意識は深い奈落へと沈んでいった。
本気で異世界転移モノを書いてみた




