第8話 公開ヒアリングの日
公開ヒアリングの朝は、雲の底がひときわ低かった。市役所の古い庁舎は雪に沈み、石段の縁が黒く濡れている。階段の手すりは、誰かの掌の熱が届くより先に冷えて、触れた指の跡をすぐ消した。正面玄関をくぐると、金属探知機の枠が白い息を輪にし、廊下の蛍光灯はやけに近い音で唸っている。掲示板の紙には大袈裟な飾りもなく、黒い活字が一行だけまっすぐに敷かれていた。
感応場技術の社会実装に関する公開ヒアリング。
会場は第三委員会室。扉の前に、淡い灰色のコートを着た事務局員が二人立ち、傍聴席の整理券を配っている。ミアは襟元を指で押さえて、深く息を吸い、吐いた。吐いた息は自分の胸にかからず、肩のうしろへ逃げていく。アルヴィンは横で顎紐のないヘルメットの癖に指を当て、何もないのを確かめるように一度だけ触れた。
「大丈夫」
「うん」
扉が開くと、議場の空気が一段低く鳴った。木目の机、緑のフェルト、斜め前から差す冬の日差し。前列に市議たち、その後ろに事業者、左側に市民席。右側の最後部に黒いフードがいくつも並び、顔の輪郭が一様に薄い。カメラが三脚の上で膝を曲げ、レンズの黒がじっとこちらを見ている。壇上のスクリーンには、市章と「感応場技術の社会実装」が映り、議長の木槌が軽く台を叩いた。
「開会します。本日の議題は——」
形式的な挨拶が続き、事務局から参考資料が配られる。紙は冷たい。紙の冷たさは、言葉の温度を奪うことがある。最初に登壇したのは神崎だった。黒いダッフルの上にきちんとしたジャケット。マイクに近づいた口は、曇らない。
「私の提案する方式は、人の気分に依存しません。一定の供給熱と、統合的な温度管理を保証する。寒波の強度がどうであれ、白霧プラントからの制御信号で街区ごとに最適な温度帯を維持できる。情動は不確実で、危険です。行動予測にとってノイズでしかない」
スクリーンにグラフが現れた。滑らかな曲線、揺らぎのない帯、青から赤への均等なグラデーション。数式の端が美しく丸められ、説明の矢印は迷いなく進む。議場の空気がわずかに前のめりになる。美しいものは、冷たくても人を引き寄せる。
「質疑はのちほど。次に——」
呼ばれて、ミアとアルヴィンは壇上に立った。マイクはまだ冷たく、握り直すと掌の熱が薄く移った。ミアは、持参したパネルにEmoHeatの回路図をシンプルに示した。四角の箱、センサーと遅延、出力ペア。説明の線は太すぎず、細すぎない。
「私たちは、不確実だからこそ価値があると考えます。人の気持ちが街の気温に影響するなら、その影響が暴走しないように、共に扱える道具が必要です。熱は配れる。でも、配る相手の気持ちを無視すれば、それは“温度の暴力”になる」
後方で椅子の軋む音がした。反対派の議員が顔を上げる。市民席の誰かが小さくうなずき、レポーターのペン先が走った。アルヴィンは風の図を最小限に映し、言葉を選ぶ。
「僕たちは“輪郭”を与えます。冷たさが刃になる前に、輪郭で囲う。その中で、遅延で待つ。待つ間に、安堵の波形が立ち上がれば、装置はわずかな対流で橋を渡す。人がいないとき、この箱はただの鉄です」
神崎が視線を投げた。見下ろす角度ではない。真っ直ぐだが、温度がない。彼の視線は、対象の熱を拾わないで戻る。戻る視線は、数字の外側のものを連れてこない。
「質問」
議員席から手が上がる。中年の女性議員、マフラーの端が机の角に触れて、布の音がした。
「じゃあ、寒い日に泣きたくなったら、どうすれば?」
会場がすこし笑った。笑いの殻は薄く、すぐ消えた。ミアは頷き、端末の画面を操作した。スクリーンに小さなインターフェースを映し出す。手形のアイコン、その横に点滅するやわらかなランプ。
「“泣く許可”のモードがあります。装置に触れて、許可のアイコンが点灯している間、周囲のユニットは“待つ”に切り替わります。慰めの熱を押し付けない。見守るだけ。泣き終わったら、近くの帯が寄ってくる。人が選べる“間”を、私たちは道具で支えたい」
前列の老舗呉服店の店主が、ふむ、と低く唸って頷くのが見えた。「間」という言葉は、布の世界に似合った。委員の一部が身を乗り出し、フードの列の端で誰かが小さく肩をすくめた。空気が、少しだけ揺れる。揺れは、危うい。
そのとき、後方で甲高い音が刺さった。ハウリング。マイクではない。冷気の尖った周波数がスピーカーのコーンを舐め、空気を歪ませる。黒いフードの一人が立ち上がり、手のひらサイズの装置を掲げた。銀色の角、青白いランプ。起動音はほとんどなく、その代わりに、壇上の水差しの水面が一瞬で粒だって曇った。
冷気が流れ込む。床の板が縮み、椅子の脚が低い音で泣く。前列の誰かが咳きこみ、議長の前の紙が波打つ。ミアは反射的に端末に触れ、アルヴィンが壇から飛び降りた。彼のコートの裾が空気を切り、壇上と客席の間に見えない壁が立つ。壁は、風の輪郭でできている。直撃を避け、速度を落とすための「静かな帯」。
「遅延、広域バッファ。待つに切り替え」
ミアはユニット群に一斉配信を送り、スクリーンに簡易アニメーションを出した。待機、吸収、逆拡散——三つの矢印がゆっくり動く。矢印は冷気をはね返さない。吸い、薄め、そっと返す。返される先は、誰でもない空気。人の顔ではない。押し返さない矢印は、観客の喉の筋肉を固くしない。
フードの青年は、呼気を殺そうとして、呼吸を失った。膝が折れ、床に手をつく。手のひらが冷たさに貼りつき、剥がれない。近くの若い市民が慌てて駆け寄り、彼の肩を支えた。肩から肩へ、体重が移る。その瞬間、安堵の波が装置に入り、ユニットのファンが一斉に目に見えない速度で回る。壇上の水差しの縁に薄い霜が走り、それがすぐに解けた。会場の空気が、音の高さをひとつ戻す。戻すとき、誰かの涙がこぼれた。
青年はフードを外し、顔を上げた。濡れた睫毛が光る。顔の骨格はまだ幼い。唇は白く、乾いている。
「……泣けないんだ」
声はかすれ、歯の隙間から漏れて、床に落ちた。
「泣くと、家が凍るから。窓、内側から。母ちゃん、ひび割れた手で拭いて、余計に凍る。だから、俺が泣くと、家が痛む」
議場が静まった。紙の音も、ペンの音も止まる。神崎が口を開きかけ、閉じた。開いたまま出なかった言葉は、彼の喉で白くなり、消えた。議長は木槌に手を添え、深く短い溜息をついた。溜息はガラスに触れず、空中で薄く割れた。
「この場での装置使用は原則禁止です。ですが、本日の状況に鑑み、混乱の収拾として最低限の対処を認めます」
そのあとで、議長は前を向き直った。眼鏡のレンズに窓の反射が入り、目が見えない。
「“許可”という考え方は、検討に値する。人の感情の“間”を制度の側でどう扱うか。採決は先送りとします。資料の追加提出と、第三者検証の拡充を求めます」
木槌が台を叩いた。音は厚く、鈍い。鈍い音でも、合図にはなる。事務局員が慌ただしく動き、後方のフードの列は数にばらつきを生んで速く退室した。残った人は、立ち上がるのを忘れたまま座り続け、顔の向きを変えるだけで温度を示した。
会場の外の廊下は、会議室よりも狭くて、声が交じりやすかった。出入口付近で記者団がざわつき、市民たちが小声で感想を交わす。「泣く許可って、いいね」「でも危ないよ」「危ないのは、押し付けじゃない?」ふたつの声は喧嘩せず、互いに薄く重なって歩いた。重なる声は、冬に強い。
アルヴィンは壁に背を預け、目を閉じた。目を閉じると、耳が近くなる。近くなった耳に、遠くの風の線が入る。ミアはその横で、彼の袖口の糸のほつれを親指で押さえた。糸の端は細く、弾力がある。切るのは簡単だが、結ぶのは時間がいる。
「消耗した?」
「君の“間”に、僕が頼った」
アルヴィンは目を開け、薄く笑った。笑いは殻ではない。殻を作る間がなかった笑いは、夜の底で温度を保つ。
「頼って。何回でも」
「ありがとう。でも、君一人に任せない。輪郭は、僕の仕事だ」
その時、人の流れが少し割れて、監察官カイルがこちらへ歩いてくるのが見えた。今日の彼は腕章を外し、ネイビーのコートの襟を立てている。歩幅は一定、足の置き方は慎重だ。目は昨日よりも揺れていない。揺れない目は冷たいが、凍ってはいない。
「さっきの“待つ”は、よかった」
「ありがとう」
「ただ、公式の場では、ルールを先に作らないと、君たちはまた“危険なもの”にされる」
「わかってる。だから、今日の資料は“選べること”を中心に書いたよ」
カイルは頷き、少し視線を落とした。落とした先に、さっきの青年が座っていた。床に背をつけ、膝を抱え、目を閉じている。彼の呼吸は早く、浅い。浅い呼吸は、熱を薄くする。薄くなった熱は、風に弱い。ミアはポケットからステッカー型のEmoHeatを取り出し、迷った末に、青年の手の甲の上にそっと置いた。置いただけ。貼らない。彼が選べるように。カイルは何も言わず、ただ一歩、風の当たりやすい角を自分の体で塞いだ。塞ぎ方は自然で、練習していない。
庁舎を出ると、昼の雪が細かく降り出していた。空は白いが、光はどこかにある。光の所在を確かめるように、歩道に若い母親がベビーカーを押して現れ、押しながらスマホで何かを撮った。「#光の雪」の昨日の写真に、今日の灰が薄く重ねられていく。重ねられた灰は、汚れではない。冬の色だ。冬の色は、春の前触れの反対側にいる。
「敵意、少なかったね」
ミアが言うと、アルヴィンが頷いた。
「敵意は少なかった。代わりに、“気をつけて見ている”目が増えた。見られるのは、冷える。でも、必要だ」
「見られながら、温めよう」
「うん」
二人は市役所の階段を降り、白い息を合わせて歩き出した。足元で、薄い氷が細かく割れる。割れる音は、人の生活の音に混じり、すぐに聞き分けられなくなる。聞き分けられないものの中に、必要なものだけ拾う。拾ったものは、夜に持ち帰る。
研究所への道すがら、ミアはポケットの中の指先を擦り合わせた。皮膚の乾いた音が小さく鳴り、火花のない火の跡がつく。火の跡は見えない。見えないのに、そこにある。そこにあるものを、道具に変える。それが今日、自分に課された仕事だ。
夕方、ラボに戻ると、所長の机に早速、議会事務局からのメールが届いていた。追加資料の依頼。匿名化の手順の可視化、同意の撤回の方法、第三者監査への窓口。ミアは椅子を引き、手帳を開いた。手帳の紙は、会議室の紙よりもやわらかい。やわらかい紙は、体温を持ちやすい。持ちやすいものに、言葉は染みやすい。
「“泣く許可”のUI、もう少し直す。押しやすさじゃなくて、触りやすさに寄せる」
「風の壁、厚みをミリ単位で可視化する。見えないものを見えるように。見せすぎないように」
「神崎の曲線、綺麗だったね」
「綺麗だった。綺麗さは、凶器にも盾にもなる」
「じゃあ、うちは、手触りで勝とう」
アルヴィンが笑った。笑いは短く、夜の前口上のように軽い。窓の外で、白霧プラントの方向に雲が低く積み、光を呑み込む。警笛は鳴っていない。鳴っていないのに、耳の奥では、あの薄い金属の涙みたいな音が待機している。待機音は、怖い。怖いけれど、準備になる。準備は、恐怖の遅延だ。
机の端に置いた端末が短く震えた。サラからだ。短い文。
さっき議場にいた子、見た。うちのココア飲みに来ないか訊いといた。夜、連れてくるかも。
ミアはありがとうと返し、しばらく画面を見つめた。黒い文字の周りに、光はない。光がないのに、温度は少し上がる。上がった温度は、すぐに消える。消えるのに、上がった事実だけが残る。残った事実は、夜の橋になる。橋を渡る足音はまだ遠い。遠い足音に間に合うように、彼女はEmoHeatのユニットを一台、工具台に載せた。
「間に、名前をつけようか」
ミアが呟くと、アルヴィンが首を傾げた。
「“泣く許可”の間。“歩くための間”。“寒さに負けないための間”。名前はたくさんあって、どれも正しい。でも、呼びやすいのがいい」
「じゃあ——やわらぎ」
「いい」
彼は即答した。即答の温度は高い。高い温度は、冬に強い。
夜が来る。窓は内側から凍らない。凍らないように、誰かが外で風を撫でているからだ。撫でられた風は、刃を忘れて、道になる。道の上で、明日の足音が小さく練習を始める。練習の音は、紙の上よりもはっきりしていた。ミアはその音に合わせて、遅延のつまみをほんの少し右へ、右へと寄せていった。




