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婚約破棄された翌日、氷の王子が弟子にしてくださいと言ってきた  作者: 妙原奇天


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第6話 “光の雪”の夜

 午前十一時、白ノ原市危機対策課の公式アカウントが、黒い帯の上に白抜きの文字で告知を流した。今夜、全区で計画停電を実施する。電力需給ひっ迫。寒波の強度は予測上限を超過。“冷却者”関連イベントの拡散により行動予測が不確定——。


 文面は冷たく、正確で、救いがない。正確さは人を安心させるはずなのに、今は逆だった。タイムラインの隅に、祭りの吊り提灯の写真が並ぶ。まだ昼なのに、寒さのせいで色が褪せて見える。冬祭り中止のハッシュタグが、ゆっくり雪の表面に染みる黒みたいに広がる。泣きたい、という短い呟きの後に続いたのは、泣かない、と書かれた無音の連打。無音の言葉は、音より速く冷える。


「停電の時間帯、歩行者ルートだけでも“光の雪”を降らせたい」


 ミアはディスプレイから目を離さずに言った。自分の声が、喉の奥で少しだけ震える。震えは恐怖の水紋だ。その上に、決意の石を落とす。波が重なった場所に、かろうじて立てる。


「EmoHeatの光学拡張。情動の緩み——ため息の底でほどける筋肉の電位のゆるみ、それを微細な発光パターンに変換して、舞っている雪の片面だけに反射させる。街灯が消えても、歩道の上に灯りを作れる」


 アルヴィンはすぐに反応し、ラボの風洞シミュレータに歩行者ルートの地図を読み込ませた。白ノ原の幹脈と毛細血管に似た道路の網が、灰色の線で浮かぶ。風向、ビル風、橋の下の逆流、歩道橋の膝元で渦を作る地点——彼の指の動きに合わせて、矢印は音もなく並び替えられる。


「可能だ。歩道の縁沿いに低速の暖かい帯を作れる。帯の厚みは三十センチ、速度は時速二。雪はそこを流れる。あとは君の発光の“ゆらぎ”が、十分にやさしければ」


「やさしいゆらぎは、単色じゃ出ない。緑と青を薄く混ぜる。人の目が“撫でる”って錯覚するくらいに」


「撫でる色は、恐怖に割られない」


 短い会話の間にも、ネットの騒ぎは高くなっていく。冬祭りの中止を嘆く声の隣で、“氷面会”のアカウントが無言の告知を上げた。夜間の“冷却瞑想”は予定通り。停電を恐れない。冷たさは味方。言葉は短く、揃っていて、どこにも怒りがない。怒りがない言葉は、広がりやすい。


 準備の途中、研究所のドアが一度だけ硬い音で鳴った。振り向く前に、足音が止まる。止まり方が几帳面だ。監察官カイルが、ドアの前に立っていた。


「話がある」


 彼は前置きせずに言う。冷たい声。冷たいのに、疲れが滲む。アルヴィンが視線だけで合図し、ミアは工具を置いた。ドアの内側の空気が、わずかに薄い。薄い空気は、嘘を嫌う。


「白霧プラントのログの件。偽装に関与した」


 彼は言葉を短く切った。切るたびに、室内の温度が一段落ちる。切り口が冷えるのだ。ミアは息を飲み込む。飲み込んだ息は、喉の奥で遅延に変わる。遅延は橋だ。橋の上でしか言えないことがある。


「命令だ」


「誰の?」


 問いは軽い。軽くしないと、返事が壊れる。カイルは唇を噛み、視線を窓の外の雪に滑らせた。彼の瞳は寒い。寒いのに、奥で迷う。迷いは熱だ。迷いが残っている人は、まだこちらへ戻れる。


「言えない。言えば、失う。市の予算、研究費、冬季雇用、暖房手当……全部、この冬の“正しさ”で決まる。正しい側に名前を載せないと、生きていけない人がいる。俺は、それを見ている」


 アルヴィンの喉仏が、ひとつ上下した。怒りが通る音だ。だが彼は飲み込んだ。飲み込める人は、あとで吐き出す場所を持っている。持っている人は、壊れにくい。


「君ができることは?」


 アルヴィンの声は低くて、傷が少ない。カイルは短く考え、背筋を伸ばした。


「祭りの巡回路は、俺が押さえる。“光の雪”を邪魔させない。停電時の雑踏整理に、俺の立場は使える。私服の警備員はどこにでもいるが、あれは俺の言葉を聞く。聞かせる」


 彼はそれだけ言って、踵を返した。帰り際、肩に落ちた雪が、落ちない。落ちない雪は、冷えの名札だ。ミアはその背中に、凍りついた迷いの影を見た。影は、本人より長い。長い影は、方向を示す。示されても、歩けない夜がある。


     ◇


 夕方から、祭りの片付けの音が街を薄く叩いた。紙垂が外され、紅白の紐が巻き取られる。計画停電に合わせて、屋台は早仕舞い。串の油の匂いが冷たい路面に貼りつき、氷の表面に薄い膜を作る。ミアはEmoHeatの光学拡張ユニットを、歩道の街路樹の根元に一台ずつ忍ばせた。見つからない形で、見えるものを作る。それはずっと、自分の手に合っている作業だった。通電テストでユニットのLEDがひとつ瞬き、すぐに消える。意図的な“遅い起動”。停電の闇の上でだけ現れる灯り。


「帯の準備、完了。三番通りから八番通りの間、風の逆流が強い。橋の上だけ、君の“ゆらぎ”を二割強く」


 アルヴィンの声が無線に落ちてくる。少しだけ息が上ずっている。寒さではない。焦りでもない。緊張の線だ。線は切れない。切れないで、伸びる。伸びる線は、役に立つ。


「了解。発光の下限を上げる。歩幅に合わせて揺れる設定にする」


「歩幅?」


「人の歩き方を見てれば分かる。泣きたい人は、足裏で着地する。泣かないようにしている人は、かかとを使いがち。どちらにも効く“揺れ”は、ひとつじゃない」


 十七時五十七分、空の色が最後の青を手放し、街灯が一斉に点いた。点いた直後、順番に消えていく。音はない。けれど、消灯の波はある。波が建物の壁を舐めて、交差点の中央で一度だけ止まる。止まったのち、全部が黒くなる。黒いと分かるのは、ここに色があったからだ。


 黒くなった街の上に、最初の雪の光が流れた。はじめは、薄い、気のせいのような瞬き。次に、はっきりした光点が三つ、また三つ。歩道の縁に沿って、細い帯のような小さな灯りが続く。雪の一片一片が、片面だけ光を受ける。回転する雪片の一瞬に、微かな文字の破片のような模様が浮かび、すぐ消える。文字ではない。人の呼気の緩みの形を、光に直したものだ。ため息の幅と、目尻の皺の方向。その両方に似た揺れ。


 子どもが手袋の指を伸ばし、光る雪を掬う。掬う手の中で、雪はほどけ、青白い微光を残して小さく溶ける。老夫婦が足を止め、肩を寄せて帯の上に立つ。帯の中は、外よりほんの少しだけ暖かい。息が、白い虹になる。虹は色を持たない。けれど、見る人の記憶の色を借りて、色に見えることがある。


 SNSに「#光の雪」があふれ始めた。写真はぶれている。ぶれているのに、伝わる。泣けた、歩けた、少しだけ春だった——短い言葉が、黒い画面に浮いた。短い言葉は冷えに強い。長い言葉は持っていかれる。持っていかれないものだけが、今夜を渡る。


 遠巻きに、神崎がいた。黒いコートの襟を立て、腕を組み、光の帯の外で立っている。彼の周囲だけ、光が吸い込まれる。雪はそこだけ、回転を止めて落ちる。落ちるのに、溶けない。正しさの白は、灯りの白より冷たい。冷たいものは、形を保ちやすい。保った形は、気持ちよく見える。見えるものは、人を引き寄せる。引き寄せられた足元で、灯りは一度だけ息を止め、すぐ再開した。再開は、人のほうに合わせる。


 巡回路では、カイルが動いていた。腕章はつけず、目立たないネイビーのコート。位置取りが正確だ。細い路地と帯の交点に立って、流れの悪いところだけ身振りで人を回す。誰かが「寒い」と呟くのが聞こえたかと思うと、彼はすぐに一歩、帯の内側へ誘導し、若い配達員の肩を軽く叩いた。叩く手が、冷たくない。彼の迷いはまだ凍っていない。凍っていない迷いは、道具になる。


 テントの陰から、サラが赤子を抱いて現れた。赤子の指は今日は赤い。昨日より。ミアは手を振って、すぐ次のユニットの保守へ走った。帯の一部が弱っている。風の角度が思ったより急だった。アルヴィンが風を撫で、ミアがゆらぎを足す。二人の間に、何度も細い橋がかかり、落ちて、またかかる。橋は、夜の間ずっと必要だ。


 歩道橋の上で、ミアは一度だけ息を止めた。見下ろす光の帯は、河のようだった。流れて、たわんで、時々、渦を作る。渦の底で、小さな声が起こる。ありがとう。言葉は、橋脚に触れて、すぐ解ける。解けた言葉は、灯りに変わる。灯りは、また次の足を誘う。


「ミア」


 無線が低く鳴った。アルヴィンの声は、夜気で丸くなっている。


「少し話していい?」


「今?」


「今、言わないと、言えない気がした」


 彼は歩道の角で立ち止まり、光の雪に包まれながら、ゆっくり言葉を選んだ。


「僕は婚約を破棄された。理由は単純だった。僕の“冷やす力”が怖いって。正しい温度だけで人は生きられないのに、僕は正しさで自分を凍らせた。泣くより、冷やすほうが早かった。早さは、いつも正しいと思ってた」


 ミアは言葉を選ばなかった。選ぶと、いまの彼には遅すぎる。


「じゃあ、解凍しよう」


 彼が息を呑む音が、無線越しにさざなみになって届く。ミアは続けた。


「私が、あなたの遅延になる。すぐ冷やさないで、少しだけ待つ時間。待つ間に、熱の行き先を見つける。あなたが均してくれるなら、私が灯りに変える。二人でやれば、どっちかが壊れずに済む」


 通話が途切れるほどの静けさののち、アルヴィンの笑いが、ほんの短く滲んだ。笑いは殻じゃない。中身のある笑いは、夜の底で温度を保つ。


「了解。共同研究者だ」


 光の雪が二人の間でふわりと揺れた。揺れは、折れない。折れない揺れは、冬に強い。


 光の帯を渡る人の中に、“氷面会”の講師の顔がちらりとあった。帽子なし、薄手のコート。彼は帯の中に入らず、縁を歩いた。縁は冷たい。冷たいまま歩く人は、身を縮めず、背筋を伸ばす。伸ばされた背中の上で、光の雪は滑り落ち、足元で消えた。消えたあとに残るのは、音の階調の変化だけ。少しだけ低くなる。低さは、祈りに似る。


 帯の外れに、神崎の影が動いた。スマホの画面だけが彼の顔を下から照らす。彼は口を開かない。開かない口が、灯りを嫌う。嫌われた灯りは、すぐ人の側へ寄る。寄られない灯りは、雪しか照らせない。雪は、文句を言わない。文句を言わないものは、簡単に奪える。


 その時だった。市役所の古い時計台が、停電の中で一度だけ、鐘の音を返した。誰も鳴らしていない。電気もない。なのに、冬祭りの時刻を告げるはずだった鐘が、薄い金属の涙みたいな音で、夜を叩いた。叩かれた夜は、ひび割れて、隙間から冷気が降りた。降りる冷気の先に、白霧プラントの方角。遠く、警笛の最初の音が、雪の細い管を通って耳に入る。


 ミアは顔を上げた。光の雪が目の中で小さく焦点を変える。焦点が合うところに、現実が立つ。現実は、容赦がない。容赦のないものは、正確だ。正確さは、人を傷つけることがある。傷は熱を呼ぶ。呼ばれた熱は、橋になる。橋をかけるには、もう少しだけ時間がいる。


 帯の端で、カイルがこちらを見た。無言で頷く。頷きは短く、確信は長い。彼は人混みの中へ消えた。消える背中に、凍りの名札がまだ貼りついている。名札は、一瞬だけ、光の雪に照らされて半分ほど溶けた。溶けた水が彼の肩に落ちる。肩は動かない。動かせないものを抱えて歩くのは、重い。


 ミアは最後のユニットの出力を微調整し、街角のエッジに追加の“ゆらぎ”を流し込んだ。風に削られた帯が、また柔らかさを取り戻す。取り戻すたび、人は歩く。歩けることは、尊い。尊いものは、声を上げない。


「行こう」


 無線の向こうのアルヴィンが言う。声は落ち着いて、温度の端に微かな震えを持つ。震えは、灯りの前兆だ。ミアは走り出した。足音は夜に吸われ、代わりに息が白い虹になって背後に残る。虹は色を持たない。持たない色は、どこにも属さない。属さないものだけが、橋になる。


 光の雪は、足元を照らし続けた。照らし続けながら、少しずつ減っていく。減るものは美しい。美しさは、危うい。危ういものは、人をまっすぐにする。まっすぐになった背中が、冬の夜空に線を引く。線は細い。細い線の向こうで、白霧プラントの警笛が、再び鳴った。深く、長く、街の心臓に降りるように。

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