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婚約破棄された翌日、氷の王子が弟子にしてくださいと言ってきた  作者: 妙原奇天


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第16話 正しさの冬、優しさの回路

 体育館の床は、たくさんの足音を覚えている。昼の授業も、夜の避難訓練も、賞状の読み上げも。だけど、今夜のきしみは少し違っていた。凍った空気のうえで音が薄く跳ね、跳ね返った先で吸い込まれる。舞台袖のビニール幕は息をしていない。ストーブは点けられていない。臨時の公開討論に「公平」を保つためだと説明され、観客はコートを膝にたたんで抱え込むみたいに前屈みだ。


 壇上の長机は二つ。左にミア、右に神崎。机の表面はつるりと冷たく、置いた指先から体温が少し盗まれる。マイクの金属部はもっと冷たい。冷たい金属は嘘をつかない。握れば必ずそれなりの覚悟を要求してくる。


 正面には見取り図みたいな座席が広がり、折りたたみ椅子の上に白ノ原の人たちが座っている。屋台の仲間。商店街の人。新聞記者。研究者。子どもたち。端のほうに工事用ヘルメットを抱えたグレス。中央の中段に、監察官のカイルが腕を組んで立ち、会場の最後列には顧問室の女性がいる。彼女は肩をすぼめず、一直線の背筋で座っている。姿勢の正しさは、寒さに強い。


 司会者の声は事務的で、紙に書かれた言葉からはみ出す温度がない。「それでは、『市内ステーションの運用と感応場技術の公共性』について臨時公開討論を始めます。最初に、顧問室提案の“正しい温度ステーション”について、神崎研究員から」


 拍手は遠慮深い。神崎は立ち上がって礼をし、マイクの位置を一センチ下げた。口の高さと合っている。「本質は単純です」と、抑揚の少ない声で切り出す。「公共サービスは確実でなければならない。気分や偶然に左右されてはならない。私たちのステーションは、標準化された冷却と配熱のプロトコルに基づいて働き、誰に対しても平等に同じ温度の安全を提供します。感情は不確実で、測れない誤差が大きすぎる。公共の静けさと決定の速度を守るには、確実性が必要です」


 体育館の壁に貼られた計算式のポスターが、背後でうすく光る。彼の言葉は鏡みたいだ。曇りがない。曇りがないものは、美しい。そして、寒い。


 ミアは自分の番が来る前に、一度だけ客席を見た。屋台のサラが両手で湯気のない紙コップを包み、子どもがその中に想像上の温かさを注いでいるふりをしている。グレスは無愛想な顔のまま、靴の先で床の傷を数えている。カイルは腕の位置を変えず、顎だけ少し引いた。顧問室の女性は瞬きの速度を変えなかった。


 司会者が目で合図する。ミアは立ち、マイクの冷たさを握る。握ると、胸の中の震えが、指先の痛みで置き換えられる。話す番だ。


「平等と、均一は違います」


 自分の声が体育館の梁へ飛び、薄く戻る。「あなたのステーションは、誰に対しても同じ温度を配ろうとする。凍える人にも、泣いている人にも、ただ歩いている人にも。でも、私たちが見たのは、同じ温度が“同じ意味”にはならない街です。泣きたい人から泣く許可を取り上げたら、静けさは確かに守られる。けれど、その静けさは、どこか別の場所で配管を泣かせます。十年前の白霧のように」


 言いながら、顧問室の女性の指が小さく動いた気がした。気のせいであっても、いい。


 神崎は笑いもしないし、怒りもしない。声は凪いでいる。「君の装置は社会を二分する。泣く者と泣かない者。泣ける者と泣けない者。甘えと努力、被害者性と加害性。境界線を装置が可視化し、街に新しい差別の座標を刻む危険がある。私は人を分けない。君たちは優しいかもしれないが、優しさは長持ちしない。正しさは長持ちする」


 正論は強い。音もなく近づき、正面から胸の中心に標準化された重みを落としてくる。反論のための言葉は、寒さのなかで固まりやすい。ミアは息を吸った。吸うと、肺の中の冷気が針になり、痛みが少しだけ眠気を追い払う。


 そのとき、客席で小さな手が上がった。司会者が戸惑い、会場内を見回してから、うなずく。小学高学年ぐらいの男の子だ。首もとまでマフラーを巻き、耳は赤い。「でも、泣けないときもある」と、彼ははっきり言った。「ぼく、家で泣くと窓が凍るから、泣けないときがある。ミアさんの“待つ”があると、泣かないままで、息ができる。泣くときもあるけど」


 笑いではない、薄いざわめきが広がる。客席の端で老夫婦が立ち上がった。腰の曲がったおばあさんがマイクを借り、「“待つ”ボタンがあると、喧嘩が減ったよ」と言った。「うちのじいさんはすぐ怒鳴るけど、あの前だけは少し黙る。黙ってる間に、怒鳴らなくていいことが分かる」


「うちもだよ」


 屋台のサラが笑う。「客が泣いちゃった日は、あたし、暖かいお茶を出す間が生まれた。前はその『間』がなくて、お茶を出しても届かなかった」


「うちの職人は手が荒い」


 グレスがぶっきらぼうに言葉を足す。「怒鳴る奴もいる。でも“戻る”ボタンの前で、少し黙るようになった。黙るのは弱さじゃない。手を洗う前に蛇口をひねるのと同じで、準備だ」


 体育館の空気が、ほんの少しだけ温かくなる。空気の温度は上がっていないのに、言葉の間に体が落ち着きを覚える。ミアは喉の奥の氷がひとかけら融けるのを感じ、言葉の角が丸くなる。


「私は、装置に人を分ける力があるとき、同時に“混ぜる”回路も設計します。『許可』『待つ』『戻る』は、分けるためのスイッチじゃない。混ざれないものを、混ざる速度まで遅らせるためのスイッチです。あなたのステーションは、正しい温度を“同時に”届けられる。でも人の心は同時に動かない。誰かが遅れて生きている。その遅れが、街の“厚み”を作る」


 そこで、アルヴィンが静かに立った。彼は多くを語らない。語らないことが説得になる人間だ。「正しさは必要だ」とだけ言った。「けど、正しさで人を凍らせない回路も必要だ。君のシステムと僕らの回路は、原理として両立する。冷やす権限があるのなら、泣く権利も設計に入れるべきだ」


 顧問室の女性が、マイクを求めてゆっくり立った。立ち方が丁寧で、床の上で音を残さない。「十年前、私は泣く場所を配管に作った」と、彼女は言った。体育館が静まる。「あの時は、それしかなかった。今、君たちは街の上に泣く場所を作った。私はそれが悔しいし、嬉しい。悔しいのは、昔の私が救われなかったから。嬉しいのは、いま、誰かが救われているのが見えるから」


 神崎の目が、ほんの少しだけ動いた。動いた目は、まだ冷たい。けれど、曇りが一瞬だけ走ったのをミアは見た。彼はマイクへ向き直り、言う。


「では、実証だ」


 会場の空気が短く固まる。実証という言葉は、石のように重い。投げつけられると、音より先に重さが胸へ落ちる。


「私のステーションを停止しよう」


 椅子の足が床をこする擦過音が、一斉に引っかかった。ざわめきが二重三重に重なり、体育館の梁を揺すぶる。司会者がマイクを握り直し、「静粛に」と繰り返した。神崎は淡々と続ける。


「停止条件は明確にする。事故時対応のバックアップ網は残す。広域停電時の最低限の配熱ラインも残す。だが、市内十数カ所のステーションをこの二十四時間、段階的に落とす。君たちの“返す回路”が街を壊さないなら、受け入れる。壊すなら、即座に私の方式に戻す。議事録に記す」


 顧問室の女性は目を閉じ、そのまま数拍おいてから開いた。カイルは腕をほどき、メモに短く何かを書き込む。グレスは「上等だ」と小さく呟き、サラは唇を噛んで頷いた。観客席の子どもはマフラーの端を握りしめ、老夫婦は手をつないだ。冬の体育館で、人の手が温度を持っている瞬間だ。


 ミアは喉の奥に熱を感じた。熱は涙に形を変えやすい。変えないでおくのは、技術と意地の両方だ。マイクを握り直し、短く言う。


「ありがとう」


 神崎は微かに笑った。笑いは温度を持たない。「礼は要らない。これは正しさのためだ。市民のためだ」


「ええ。市民のためです」


 視線が交わる。交わったところに氷が薄く張り、次の瞬間、音もなく割れた。割れたところから、合図が生まれる。


     ◇


 停止は夜から始まった。まず郊外の三カ所。次に下町の一角。最後に中心街。顧問室から送られてくるスケジュールには、それぞれの柱に番号が振られていて、こまごまとした注記が並ぶ。「周辺病院との連絡済」「交差点の夜間警備を増員」「バックアップ網は手動に切替」。事務の言葉でできた雪が、画面の上で降り続ける。


 体育館からそのまま、ミアたちは工房車に乗った。アルヴィンは助手席で地図を睨み、サラは後ろでユニットの電池残量を並べ替え、グレスは運転手の肩越しに前方の路地を読む。カイルは無線で各所と繋がり、顧問室の女性はオフィスの明かりを落とした窓辺に立ち、街の灯りの減り方をじっと見ているだろう。


 一本目のステーションが落ちたとき、何も起こらなかった。何も起こらないことは、恐い。恐くても、いい。何も起こらない間に、こちらは“返す回路”の帯を静かに広げる。歩道に沿って、薄い光の血管がもう一度立ち上がる。許可の灯りは控えめで、合図は小さく、遅延は長めに。無理をしない。無理は、刃の速さだ。


 二本目が落ちる。風が少し変わる。角の渦が濃くなりかけるところで、アルヴィンが手をかざして輪郭を描き直す。描き直された輪郭は、目に見えないのに、足の裏の滑り方を変える。グレスが反射板を足して、サラが「待つ」を回収して、「戻る」を置き直す。屋台の仲間が手袋ごしに手を合わせ、子どもが雪片に穴を開ける。穴の形が、北へ、南へ、と知らせる。


 三本目で、冷気がひと息、強く息を吐いた。吐いた冷気は、広場の中心を目指す。中心では、老夫婦がベンチに座っている。ベンチの金属は冷たい。老夫婦の手は、その冷たさを吸って赤い。ミアは駆け寄り、ユニットをベンチの下に滑り込ませる。「許可」を点灯。「待つ」を点滅。老夫婦は顔を見合わせ、黙って頷き合い、何も押さない。押さないという選択は、装置に組み込まれている。押さない間、回路は“見守る”へ入る。風は角を落とされ、冷気は自分の重さで中央へ落ちずに、少し外を回って薄まる。


 四本目。五本目。街は折れない。折れないまま、疲れていく。疲れは、刃を鈍らせると同時に、判断を遅くする。遅い判断に合わせて動ける道具だけが役に立つ。その意味で、遅延はやはり武器だ。ミアは遅延の長さを二目盛り伸ばし、合図の穴の数を一つ増やす。合図の意味を、子どもにだけ伝える。大人は気づかない。気づかない合図ほど、よく届く。


 中心街の一本前、顧問室の女性から短いメッセージが届いた。「窓から見ている。昔、私が塞いだ扉の向こうで、今夜は別の扉が開いている。——気をつけて」。気をつける方法は、一つではない。ミアは画面を閉じ、車外に出た。空気は冷たい。冷たいのに、口の中が苦くない。


 最後のステーションの光が、ゆっくりと消える。消えた瞬間、街は凪いだ。凪いだ空気は、怖い。怖いが、やさしい。ミアは深く息を吸い、吐いた。吐いた息は、白くならなかった。ならない息は、胸に残る。胸に残る息の温度で、彼女は「始めよう」と言った。


 “返す回路”の帯が、街のあちこちで静かに立ち上がる。許可、待つ、戻る。泣く人も、泣かない人も、押さない人も、押せない人も。帯は細く、切れない。帯に沿って、子どもが歩き、老夫婦が立ち止まり、屋台が湯気を出し、配達員が自転車を引き、職人が手袋を外す。誰も、誰かの上に温度を置かない。置かないまま、少しだけ寄る。寄ると、空気の拍が遅くなる。遅くなった拍に、街の心臓の拍が重なる。重なったところで、夜が音もなく薄く割れ、朝の色の粉がひと粒だけ落ちる。


 神崎はどこにも立っていなかった。彼はおそらく、制御室の暗いモニタの前に座り、指を組んでいるのだろう。指の間に、何も挟んでいない。挟むべき鍵は、今夜だけ、彼の掌から離れている。「正しさ」のために。彼の目の前の画面には、事故のアラートは上がっていない。上がらないのは奇跡ではない。誰かが「待つ」を押し、誰かが押さず、誰かが「戻る」を触れ、誰かが触らない。そのばらつきの中に、街の安定がある。


 戻ってきた無線の声が、工房車の中に散った。「ステーション停止、全行程完了。事故なし。凍傷の搬送ゼロ。転倒は二件、軽傷。白霧プラント、出力安定。……感応核の流量、予定どおり低く安定」


 サラが「よし」と言い、グレスが「上等」と言い、カイルが短く息を吐いた。「議事録に『実証をもって停止に条件付き同意』の文言を入れる。神崎さんも了承」


 ミアは背もたれに沈み、アルヴィンは窓の外を見た。窓の外では、雪が細かい。細かい雪は、音を持たない。音を持たないものは、よく積もる。積もる前に、帯をもう一度だけ見直す。見直す間に、胸の奥の針の痛みが柔らぐ。柔らぐと、眠気が来る。眠気は、刃を鈍らせる。


「勝ったの?」


 助手席から振り返らずに、アルヴィンが聞いた。勝ち、という言葉は、今夜には似合わない。けれど、人はときどき、その言葉で今を測る。


「分からない」とミアは言った。「ただ、傷が増えていない。泣く場所が、増えた」


「なら、それでいい」


 彼はそれ以上、何も言わない。言わない間に、顧問室の女性からもう一つメッセージが届いた。「私はまだ泣けない。でも、窓の内側が凍らない」。その短さが、彼女の技術の高さだ。短い言葉は、冬に強い。


 工房車の天井に、昼間の体育館の照明が残像のように浮かぶ。最初にここに集まった理由を思い出す。正しさのために。優しさのために。どちらのためにも、街はある。どちらかだけのために、街はない。


 「正しさの冬」は、たしかに街を守った。規格化された太い管とプロトコルが、誰の名前にもならない安全を作ってきた。「優しさの回路」は、ばらけた歩幅に合わせて、細い道を増やした。細い道は、雪で見えなくなりやすい。見えなくなりやすいぶん、何度でも引ける。引き直すたび、街の地図が厚くなる。


 無線が一度だけノイズを吐き、すぐに静かになった。静かさの質が、昼と違う。昼の静けさは作業のため、夜の静けさは眠りのため。今夜の静けさは、そのどちらでもなく、「間」のためだ。間があると、人は明日の心配を、少しだけ先に送れる。送ったぶんだけ、今を持てる。今を持てる街は、凍り切らない。


 ミアは目を閉じ、掌を膝の上で重ねた。指先はまだ冷たい。けれど、その冷たさは持ち歩ける程度だ。持ち歩ける冷たさは、武器になる。刃ではなく、縫い針として。破れを留め、穴を小さくし、泣く場所を増やすために。


 神崎の「正しさ」は、譲歩の形で今夜を通した。譲歩は敗北ではない。合理の最後に残った、弱さの場所だ。弱さは、温度を持つ。温度を持つ弱さと、設計された優しさが、やっと同じ机に並んだ。体育館の机ではなく、街という机に。


 雪は止まない。止まないけれど、粒は変わる。重さが変わり、光り方が変わり、溶ける速度が変わる。変わる雪を見ながら、ミアは小さく笑った。笑いは誰にも見えない。見えない笑いが、装置のログに薄く刻まれ、遅延の長さが一目盛りだけ変わる。変わった一目盛りぶんだけ、街は明日も息ができる。


 「ありがとう」


 ミアは誰にともなく言った。誰でもいい。誰でも、少しは受け取るだろう。受け取ったものは薄く街へ返る。返す回路は、もう街中に縫い込まれている。ほどけにくい縫い目で。寒さが強い冬ほど、縫い目は役に立つ。正しさの冬を越えるために、優しさの回路は、今夜もゆっくり流れている。

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