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プロローグ

 日の光が一切届かない地下牢。存在を否定され、尊厳を奪われた者たちの墓場。

 空気が濁っていて、鼻を突く腐臭がこびりつく。血と排泄物、臓腑が混ざり合った重たい臭い。息をするだけで、胃が反応しそうになる。かすかに響くのは、誰かが呻くような声と、鎖のこすれる音。

 

 爛れた皮膚に空気が鋭く突き刺さる。肌には赤黒い斑点の痣が浮かび、じわじわと熱を帯びて広がっていた。他の囚人たちにはそんな症状は見られない。原因は不明だが、このままでは長くはないだろう。それでも、今出来ることは浅く息を繰り返し、痛みを紛らわせることだけだった。


 この場所に閉じ込められてどのくらい経つのか。忘れるほどに長く、時間の感覚はとうに失われていた。


 突然、杖が石床を叩く音が響いた。足音とともに、ゆっくりと現れたのは、一人の老人。白髪は乱れているが、身体は驚くほど引き締まっている。片足を引きずるように杖を突きながら、それでも歩みに迷いはなかった。鋭い眼光がこちらを射抜くように見下ろしてくる。


 そして、淡々と、静かに言った。


「……今日から私が主人だ。お前に仕事を与える……動けるならば付いて来い」



 ★☆



「……っ」


 腐臭が鼻を突き、意識が急速に浮上する。重たい瞼を開けば、暗がりの高架下。散らばるゴミと湿った段ボール。冷たい地面に横たわっていた六は、ようやく現実を取り戻した。どうやらゲートを潜り抜けた影響で気絶していたようだ。悪臭の影響か、懐かしさと嫌悪が入り混じった夢を見た記憶が微かに残っている。


 髪を束ねていた紐はどこかで千切れたらしく、長い前髪が乱れて額に張りついていた。搔き上げようと額に手を伸ばすと、荒れた皮膚の感触と、指先に触れるいくつもの古傷。それらは長年の戦いを物語っていたが、それでも肌自体は妙に若々しい。原因は理解しているが、あれから二十年も経過しているというのに、加齢による変化が殆どないというのは、自分としても違和感を覚えずにはいられなかった。


 ゆっくりと立ち上がり、埃と湿気が染み付いた服を軽く払う。帰還に際して、服装はこちらの文化に近いものを選んでいる。落ちていた新聞を拾い、軽く目を通す。知らない政治家の名前、聞いたことのない番組名。隅の方に、小さく日付が書かれている。最新のものではないだろうが、同じ時間が流れていたと考えて問題はなさそうだ。

 生暖かい風が髪を靡かせ、遠くで車の走る音が耳に届く。座標に間違いは殆どない筈だが、あまり記憶にない場所だ。


 頭上を走る高架は、遠くまで真っ直ぐに続いている。このまま沿って歩けば、駅に辿り着けるかもしれない。

 子供が自転車を勢いよく漕ぎながら、通り過ぎて行く。スーツを着た男性は、寝坊でもしたのか急ぎ足だ。それだけの光景が、妙に感慨深く胸に刺さる。早足で暫く歩いていると、駅名が書かれた案内板が目に入る。かつて大学に通うときに利用していた駅。その文字を見つめながら、六の胸にはじんわりと実感が広がっていく。確かに、自分は戻ってきたのだと。


 駅前のベンチに腰を下ろし、胸ポケットから異世界産の煙草を取り出す。見た目は細身で、やや青みがかった紙巻。見えないように屈みながら、指先に火を灯し、息を吸い込む。空を仰ぐように吐き出した紫煙が大きく広がり、直ぐに霧散していく。視界の隅に映った時計は、十二時過ぎを指していた。昼の陽気が、体を優しく包んでくれる。


「あー、地球やっぱいいわー」


 改札へ向かう人々の姿に、長く険しい旅路の記憶が自然と蘇る。改札を通り過ぎた瞬間、見慣れたホームは消え、目の前には辺り一面の荒野が広がっていた。魔力による汚染もすぐに始まり、身体は蝕まわれ、彷徨ううちに奴隷狩りに遭い、解放されたと思えば戦争に投入される。そんな生活を二十年。運よく生き延び続けて、ようやく帰ってこれたのだ。

 

 回想に耽ってる間に、一本目が根元にまで達していた。灰皿を探そうと立ち上がり、辺りを見渡すが、それらしいものは見当たらない。

 後でコンビニで捨てればいいかと、特に気にも留めず、最後の一本へと指を伸ばす。異世界での友人に勧められ始めた煙草。これを吸いきったら、異世界の生活に終止符を打ち、地球での人生を再開するつもりだった。だが、同じように火を付けようとしたその瞬間、後ろから声をかけられる。


「すみません。ここ禁煙エリアなんですよ」


 振り向くと、制服姿の若い警察官が立っていた。聞きなれない言葉に一瞬思考が停止しそうになるが、警察官の表情が徐々に硬くなっていくのを見て、こちら側に非があることを理解する。


「……あ、すみません。知らなかったもので」


 当時は十九歳だったため吸ってはいなかったが、駅前なんて喫煙者で溢れかえっていたはずだ。しかし、よく見れば、喫煙を禁止する標識のようなものが、そこかしこに掲示されている。灰皿が無かったのにも納得がいった。二十年も経てば、色々変化しているのは当然か。

 吸おうとしていた煙草を胸ポケットに戻し、礼儀正しく謝罪を述べると、警察官は和らいだ表情を見せた。


「一応なんですがお兄さん、見た目お若いですけど……身分証明できるもの、持ってます?」


 唐突な言葉に、背筋が僅かに強張った。当然、持っているはずもない。


「……え、っとですね、今、手持ちには無くて、ですね」


 しどろもどろな言葉に、再び警察官の表情が険しくなる。


「……お名前とご年齢、お聞きしても?」


「あー、名前は六です。年齢は今年で、三十九……」


「……三十九?」


 警察官の眼光が鋭くなる。年齢と見た目が一致してないのは、度重なる身体改造と魔力の影響によるものだが、そんな話を真に受ける人などいないだろう。恐らく警察官の目には、焦って意味の分からない嘘をついている未成年か、あるいは家出中の不良にしか見えていない。


「はあー、じゃあ保護者の方に連絡はとれる?」


 完全に呆れた様子だ。禁煙エリアでの喫煙がどれほどの罪になるかは分からないが、少なくとも自分に非があるのは確かで、出来ることなら穏便に済ませたかった。自宅に案内出来るなら、まだ可能性はあるかもしれないが、先に交番に連れていかれそうだ。


「……ははは」


 曖昧に笑うと、空気が固まったのを感じる。警察官が腕を伸ばし、こちらを掴んでこようとするが、跳ねのけるようにベンチから立ち上がり、駆け出す。証明出来るものもなく、連絡手段すら持っていない。警察に同行すれば身元不明者として扱われるだろう。さらに考えるなら、二十年も行方不明だった人物が、容姿に全くの変化無しに現れたとなれば、より大きな問題に発展する可能性もある。逃げる以外に選択肢はなかった。


「ちょっ……おい!待ちなさい!」


 警察官の声が背後で響くが、六の姿はすでに角を曲がって消えていた。全力ではない。本気で走れば、舗装された道路が砕けてしまう。あくまで、常人の限界を少し超える程度に抑えている。


 走りながら、流れる景色を目で追っていく。コンビニが増え、通い慣れた駄菓子屋は看板ごと消えていた。空き地だった場所には、見慣れない家が立ち並んでいる。気づかないだけで、きっと他にも変わったものは山ほどあるはずだ。それでも懐かしいと感じた。自分が生まれた世界を感じている。駅の比ではない。ここで育ち、歩んできた人生が確かに存在している。

 両親に顔を出すつもりはなかった。会えばきっと喜んでくれるだろうが、不自然な点が多すぎる。正直に話すにしろ、誤魔化すにしろ、気が重かった。だが、気づけば足は自然と、自宅があった方角へと向かっている。


「まあ、一つの区切りにはなるか……」


 そんな事をぼんやり考えながら曲がり角を抜けると、そこには何もなかった。更地になった土地に、かつての家の面影は一つも残っていない。新しい住宅が建つ気配すらなく、ただ雑草が風に揺れているだけだった。考えてはいた。二十年も行方不明となると、死亡扱いにでもされているのではないか。そんな、嫌な思い出しかない場所に、残り続ける親などいないだろう。


「……ちょうどいいか」


 周りに禁煙の標識がないことを確認してから、自宅跡地の中心で胡坐をかき、煙草に火を付ける。ここで全部終わりにしよう。あの日までの過去も、異世界での二十年も、何もかも。この紫煙と一緒に、風に流してしまえばいい。


 ふっと息を吐き、空を見上げた。


「さて、これからどうしたもんかな」

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