第1章
わたしは今、煌びやかなドレスを身にまとい、学園の舞踏会で光を浴びている。
周囲には貴族の子弟が整然と踊りの輪を作り、音楽隊が優美な調べを奏でている。シャンデリアの輝きが床を照らし、上品な香水の匂いと甘い菓子の香りが混ざり合っている。
「リリアーナ様、今日もお美しいですね」
「あの公爵令嬢、噂ほど恐ろしい方には見えないけれど……」
ちらほら耳に入るのはそんな囁きだ。だけど気にしない。わたしはただ、全身を緊張させたまま、待つべき瞬間を待っている。胸の奥で奇妙な鼓動を感じながら、王太子エドワルドの姿を探す。
彼はこの舞踏会の主催者だが、わたしの前にはあえて近づいてこない。まだ、何かを企んでいるようだ。
クラリスがわたしの背後から小走りに近づいてくる。
「リリアーナ、大丈夫?」
「ええ、平気よ。そろそろ彼が動くと思う」
そう返すと、クラリスは心配そうに唇を噛む。
「あまり油断しないで。王太子派閥からいろいろ聞こえてくるし、ミレイユがどう出るかもわからないし」
「大丈夫。前世の知識があるから、王太子がどんな手を打とうが準備はできてるわ」
わたしはそう口にしながらも、わずかな緊張が解けない。
ここに至るまで、王太子とわたしの間では不穏な空気が漂っていた。ミレイユという聖女が平民出身の生徒を守っていたとか、わたしがその生徒に嫌がらせをしただとか、まことしやかな噂がいくつも広まっている。
だが、実態を知る者は少ない。
わたしはそんな根拠のない噂を、悪役令嬢のレッテルとして押し付けられようとしている。
「王太子エドワルド殿下、ご登壇です!」
会場の端に設けられた高台に、彼が立つ。静かに音楽が止み、華やかな舞踏もぴたりと止まる。
みながエドワルドを見上げると、その隣には聖女ミレイユが控えている。純白のドレスを着たミレイユは気品漂う微笑を浮かべ、まるで絵画の天使のような柔らかな雰囲気を纏っている。
「皆、今日は集まってくれて感謝する」
エドワルドの声がホールに反響し、人々は微動だにせず耳を傾ける。わたしも視線を逸らさず、息をつめる。
「この舞踏会で、重大な発表をする予定だ。実は、王太子妃候補であるはずのリリアーナ・アルセイドに関して、深刻な問題が見つかった。ある平民の生徒をいじめ、そのうえでミレイユを侮辱する行為があったと報告を受けている」
ホールが一気にざわめき、視線がわたしに集中する。ほら、やっぱり来た。この瞬間を予期していたのに、心臓がドクンと音を立てた。
「よって、リリアーナとの婚約は破棄することにする。王太子妃としての品格を疑わざるを得ない」
一瞬、空気が凍る。わたしはまばたき一つせずエドワルドを見据える。彼の表情には冷ややかな自信が宿っているように見える。周囲の貴族や学生が押し黙り、「悪役令嬢が終わった」とでも言わんばかりの空気が漂っている。王太子とわたしの格差を思えば、それが当然の反応だ。
クラリスが息を呑む声が背後で聞こえる。
「リリアーナ、こっちが先手を打たれた……」
「わかってる」
わたしは唇を引き結び、舞踏の輪からすっと抜け、壇上を見上げる。自ら動いて反論するのは得策じゃない。まずは、彼がすべてを言い切らせる。エドワルドはさらに声を張り上げる。
「本日をもって、リリアーナ・アルセイドは俺の婚約者ではなくなる。学園での地位も再考しなければならないかもしれない。彼女が公爵令嬢であることを配慮しても、今回の罪は軽視できない」
「罪、ですって? 具体的に何をしたというのかしら」
わたしはあくまで丁寧な口調で尋ねる。彼は鼻で笑った、
「平民を嘲り、ミレイユに暴言を吐いた。証言を取っている。真偽がどうあれ、王太子妃として不適格だ」
「そう」
わたしは短く呟き、周囲の視線を感じながらも、一切動揺はしない。実のところ、この流れは予想の範囲内だから。
「婚約破棄を宣言したからには、わたしも相応の対応をするわ」
「対応?」
わたしは軽く息を吸い込む。
「ええ、資産でお答えするってことよ。婚約破棄で公爵家の名に傷がついても構わない。でも、経済的にわたしを排除できると思わないで。学園でビジネスをする権利は、あなた一人で独占できるものじゃない」
エドワルドが眉をひそめる。
「何を言っている? お前の資産はこの学園では凍結される運命だ。俺が商会に手を回すから、取引先を失うだろう」
「あら、どうかしら。あなたが商会を掌握しているのは表向きだけじゃないの?」
ざわめきが広がる。わたしは背筋を伸ばし、エドワルドがまだ気づいていない“前世の知識”を思い返す。
どの国でも、資本がすべてを決めるわけではないが、資産運用が巧みなら抵抗の術はあるはず。
エドワルドは苛立った声を出す。
「リリアーナ、お前は婚約破棄された自覚があるのか? 身分が下がる同然だと理解しているか?」
わたしはまっすぐ彼の瞳を捉える。
「ええ、理解してる。でも、何度も言うように、わたしは『資産』で戦うつもりなの。あなたがわたしを排除するなら、それこそ開戦よ」
人々が息を呑む。わたしは冷ややかな視線に耐えつつ、くるりと背を向ける。
「失礼するわ。こんなくだらない集会に留まる価値はなさそう」
そばにいるクラリスが小声で囁く。
「大丈夫? ここで退場すると、さらに悪役扱いされるかも」
「いいの。彼らの言う噂なんて気にしても仕方ない。むしろ、わたしの目論見はここからよ」
そう言って、舞踏会の会場を出る。背後でエドワルドが何か言いかけた気もするが、わたしは振り返らない。廊下に出ると、まだ音楽が止まったままの会場から、微妙なざわめきが伝わってくる。クラリスは足早にわたしの横をついてくる。
「婚約破棄……本当にしてくるなんて。でも、リリアーナは平然としてるわね」
「正直、そこそこ堪えてるけど、事前に想定していたシナリオだから。わたしはもう、王太子の婚約者ではない。ならば、彼に気兼ねなく学園での経済活動を始められるわ」
「学園商会はもう、王太子派閥に支配されてるでしょう? どうやって参入するつもり?」
「わたしは“リリアーナ・ファンド”を立ち上げる予定よ。公には王太子からの命令で取引停止を言い渡されても、裏で資金を動かす手段があるから」
「裏の手段って?」
わたしは笑みを浮かべる。
「一度部屋に戻って説明するわ。あなたの広報スキルが必要だから、協力してほしい」
その夜、わたしの私室にクラリスを呼び、机に書類を並べた。蝋燭の灯が書類の文字を照らし、ベッドサイドには護衛のメイドが控えている。彼女たちも緊張しながら、わたしとクラリスのやりとりを見守る。
「まず、学内の生徒から資金を集めるわ。名目は“運用ファンド”。出資者には配当を渡す契約にして、学園での購買や食堂で使えるポイント制を導入するの」
クラリスが興味深そうに身を乗り出す。
「ポイント制? つまり、ファンドに出資した学生は、購買部や食堂でお得に利用できる仕組みを作るってこと?」
「そう。価格で真っ向勝負すると、王太子派閥の商会が半額セールとかで対抗してくるかもしれない。でも、わたしは安易に値下げはしない。むしろポイントや特典をつけて、長期的にメリットを感じてもらう」
「なるほど。学内通貨みたいな発想?」
「そういうこと。さらに、もし王太子派閥がわたしを追放しようとしても、学園の生徒自身がファンドの恩恵を受けていれば味方になるはず。無視できない規模に育てば、王太子一人の力じゃ抑えきれない」
クラリスは目を輝かせ、「面白いわ、わたしも協力する!」と即答した。
「新聞部や情報源を使って、『リリアーナ・ファンド』の宣伝をする。学園内にいたずらに噂を流すだけじゃなく、具体的な利益があるって伝えれば、みんな関心を示すはず」
「ありがとう、助かる。じゃあわたしは実際のファンド設立手続きをメイドや執事と進めるわ。あとは……“空売り”という手段を使うかもしれない」
「空売り?」
「株式や商品の値下がりに賭けることで儲ける方法。王太子派閥が偽情報を流したら、それを逆手に取るわ。前世で培った知識を使えば、学園レベルの市場なんて造作もないはず」
クラリスが不思議そうに首を傾げる。
「ほんと、リリアーナの言うことは時々わからないわ。でも信じる。まずは宣伝の準備をするから、何か必要になったら言って」
翌朝、わたしは目を覚ましてすぐ執事から報告を受ける。
「王太子派閥から正式に連絡が入りました。リリアーナ様との取引を一切停止するよう、学内商会に通達が出たようです」
「予想通りね。じゃあ、わたしはすぐに動く。クラリスとの連携も忘れずに頼むわ」
商会と直接契約できなくても、学生相手の小口取引で手を広げればいい。それに学園の購買部を利用する学生は多いから、そこにファンドの仕組みを組み込めば新しい市場を作れるはず。
ホールを歩いていると、道行く生徒たちがわたしを遠巻きに見てひそひそ話をしている。
「悪役令嬢だって」「王太子に捨てられたくせにまだ余裕そう」とか、そんな言葉が聞こえてくる。
「リリアーナ、気にしないで」
隣のクラリスが声をかけてくる。わたしは肩をすくめた。
「気にしてない。むしろ、悪役呼ばわりされるなら徹底的に利用してやるわ」
そう。王太子に悪役のレッテルを貼られたからこそ、遠慮なく資産で抵抗できるのだ。
購買部の前に来ると、店長が困り顔で待っている。
「リリアーナ様、申し訳ありません。上からの命令で、あなたとの取引は……」
わたしは胸の奥を落ち着けながら笑顔を見せる。
「大丈夫。取引停止は聞いてる。でも、正面から契約しなくてもいいの。店舗での買い物客に向けて、わたしがファンドポイントを付与する形を考えてる。店長さんの負担は最小に抑えるから、どうか協力していただけないかしら?」
「協力、ですか?」
「そう。商会が仕入れる商品に手を出さなくていい。わたしのファンド出資者にポイントカードを配るから、そのカードを持っている学生は購買部で商品を買うとポイントが貯まるって仕組みにする。購買部の売り上げには影響がないし、むしろ客が増えるわ」
店長は迷いながらも、わたしの言葉に興味を持っているように見える。
「ポイントはどこが負担するんです?」
「わたし。ファンドが出資を受けた資金を、ポイント還元という形で運用する。購買部さんは通常通りに商品を売ってもらえればいいの。うちのファンドに協力するなら、将来的にもっとメリットを用意するつもり」
店長は唸るように息をついて、「面白い話ですが、本当に大丈夫ですか?」と慎重に聞く。わたしは力強く頷く。
「わたしを信用してくれたら、王太子派閥の圧力なんか恐れる必要はなくなる。買い手は学生たちよ。彼らが得をするなら、結果的に店も儲かると思わない?」
「確かに、安売り競争だけでは限界がありますしね……わかりました。では、表向きは“個人的な協力”という形で……」
「助かるわ。ありがとう」
わたしは購買部を後にし、すぐにクラリスを捕まえる。
「準備はどう?」
「ばっちり。新聞部に知り合いが多いから、すぐに『リリアーナ・ファンド始動!』って特集記事を出してもらう。王太子派閥が何を言おうと、新聞の自由を奪うのは難しいはず」
「いいわね。賛否両論あるかもしれないけど、注目を集めればそれで十分」
わたしは頬を軽く叩き、前世で学んだ金融市場の知識を思い出す。市場には心理が働く。大きな噂や得られるメリットがあれば、人は一気に動くものだ。王太子派閥の偽暴落情報も、もしこちらが先回りすれば絶好のチャンスになる。
実際、翌日には早速動きがある。王太子派閥が「リリアーナ・ファンドは詐欺だ」と噂を流し、「あの悪役令嬢に金を預けたら破滅する」という情報をあちこちに撒き散らしているらしい。
クラリスが駆け寄って、「どうする? 噂を否定する?」と尋ねる。わたしは笑って首を振る。
「いいえ、否定しなくてもいい。むしろそれを利用するわ。悪い噂が広まるほど、値下がりする銘柄があるはずだから、そこを狙う」
「狙うって、空売り?」
「そう。“リリアーナ・ファンドは破綻する”って彼らが噂を流すなら、わたしの関連銘柄を手放そうとする人が出てくる。価格が下がったら、そこを買い戻して逆転する。空売りで差益を取るだけでなく、実際に買い集めればわたしのファンドの存在感が増すわ」
クラリスは興奮した様子で手を叩く。
「なるほど。王太子派閥が焦って偽情報を流せば流すほど、儲かる仕組みになるんだ」
「そういうこと。一時的に値が落ち込む銘柄があるはずだから、安値で買える。前世の世界と違って、ここはまだ市場自体が未成熟。でも仕組みは同じよ。『売りが集まるなら、そこで利益を取る』」
やがて、王太子派閥の連中がついに仕掛けてくる。学園内に「リリアーナ・ファンドは投資詐欺」「今にも破綻する」と根拠のない噂を流し、関連する銘柄を売らせようとする。
わたしはクラリスに新聞記事で対抗してもらいつつ、裏では空売りの準備を整える。そして、実際に市場で銘柄が下がりはじめた瞬間、一気に空売りを仕掛ける。
次の日、銘柄がさらに下落すると、わたしは買い戻しを進めて差益を獲得する。出資者への最初の配当もそこで生まれる。学園の投資家たちはびっくりしているようだ。「リリアーナ・ファンド、本当に稼いだらしいぞ」などという噂が、くるくると学園中を駆け巡る。
わたしは冷静に数字をチェックしながら、出資者へ配当を配り、購買部で使えるポイントも追加で発行する。結果、たった数日のうちに「リリアーナ・ファンド」への信頼度が急上昇する。王太子派閥が狙った偽暴落情報が、まさに逆手に利用された形だ。
そんな動きの中、わたしは笑顔のクラリスと学園の中庭で一息つく。
「だいぶうまくいってるわね」
「王太子たちの表情が悔しそうだったわ。まさか悪役令嬢にやり返されるなんて思っていなかったんでしょうね」
「婚約破棄された時点でわたしは自由の身。彼らが仕掛けるなら、堂々と戦うだけ。前世の知識を舐めないでほしいわ」
クラリスが手のひらを軽く広げる。
「これからどうする? まだ学園には大きな商会が絡んでるみたいだけど」
わたしは軽く息を吐いた。
「大丈夫。クレスター商会だってそう簡単に手を出せないはず。王太子にとっては莫大な借入先だろうし、むしろその弱みに付けこめば……」
言いかけて言葉を止める。まだこの段階で先の戦略を明かすには早い。わたしはクラリスに微笑むだけで、ゆっくりと立ち上がる。
「わたしは悪役令嬢と呼ばれても構わない。資産で全てを覆してみせる。だから、あなたの力も貸してね」
クラリスは明るくうなずき、「もちろん。二人で学園を面白くしよう」と答える。
わたしの心は既に決まっている。王太子に婚約破棄を突きつけられたのは、むしろ始まり。資本を使えば、理不尽な上下関係も、噂も、何もかも塗り替えられる。
「婚約破棄の代償を、彼らにしっかり味わわせてあげるわ」
口の端に笑みを浮かべながら、わたしは中庭を後にする。これがわたしの“開戦”だ。王太子派閥を相手にした経済バトル、その第一歩を踏み出したばかり。だけど、すでに手応えを感じる。
資産は嘘をつかない。そう信じて、わたしはこの学園を舞台に、思いきり行動してやるつもりだ。
面白い/続きが読みたい、と感じて頂けましたら、
ページ下の【☆☆☆☆☆】から評価をお願いします!
ブックマーク、感想なども頂けると、とても嬉しいです