デイジーが遺した手紙
“ デイジー・ロランド ”
そう刻んだばかりのまだ新しい墓石の前で、私は、ずっと握り締めている手紙に目を落とす。
突然現れ、たった一年共に暮らした彼女。
『私が居なくなってから読んでね』と渡されたこれには、一体何が書かれているのだろう。
読みたいけれど知りたくない。知りたいけれど怖い。葛藤の末にふうと息を吐く。
草の上に腰を下ろすと、皺になってしまった封筒から便箋を取り出し、震える手でゆっくりと開いた。
『ロランド様
素性の知れない私を、一年間も保護してくださり、本当にありがとうございました。
親切にしてくださったのに、何もご恩をお返し出来ないばかりか、ご迷惑をお掛けしてしまうことを心苦しく思います』
ところどころ綴りが間違ってはいるが、懸命に書かれたことが分かる文字を指でなぞる。
命の期限を知っても、字を覚えたいと言った彼女。毎日毎日練習していたのは、この手紙の為だったのかと思えば、胸が苦しくなる。
『私は、貴方にお詫びをしなければなりません。
初めてお会いしたあの日、デイジーという名前以外、自分のことは何も覚えていないと言いましたが、本当は全て覚えているのです』
全て……
時折見せる切なげな表情に、もしかしたらそうではないかと思っていたが。
何か事情があるのだろうと、話したくないものを無理に訊き出すことはしなかった。それを今、この手紙で語ってくれるのだろうか。
『私は、“ ニホン ” という国で生まれ育ちました。この世界の地図には載っていない、ここからは決して行けない、遠い遠い場所です。
生まれた時から辛いことばかりだった人生を終えたいと、崖から飛び降りたのですが……気付いたら、こちらのお屋敷の庭に倒れていました。
優しい貴方のことですから。自ら命を絶とうとした私に、胸を痛めてくださっていることでしょう。ですが勇気を出して飛び降りたお陰で、決して逢うはずのない貴方に逢うことが出来たのですから。不思議な話だと、どうか笑ってください』
初めてあったあの日────何も分からない、覚えていないと、ぼんやりした表情で呟いた彼女。あの仄暗い目の奥には、一体どんな苦しみを抱えていたのだろう。
苦い唾を飲み込み、その理由が書かれているらしい先へと慎重に進む。
『母は父を恨んでいました。父によく似た私のことも、父が私に付けた名前も恨んでいました。何故なら父は、自分が愛していた恋人の名を、娘の私に付けたからです。私が生まれて間もなく、父は私と母を捨て、その恋人と駆け落ちしました。その衝撃に加え、名前のことも知った母は精神を病んでしまい、乳飲み子などとても育てられる状態ではなかったそうです。私はシセツ……孤児院や親戚の元をたらい回しにされました』
手に力がこもり、便箋がくしゃりと歪む。
……なんと惨いことだろう。愛人の名を、妻が産んだ娘に付けるとは。
『デイジー』
彼女にとっては苦しいはずのその名を、愛らしいと褒め、何度も呼んでしまった自分を悔やむ。
『義務感からか、たまに会いに来る母の顔は、明らかに私を嫌い憎んでいました。母にとって、私は自分の娘ではなく、憎い元夫そのものだったのでしょう。
私が生まれなければ、母もそこまで病むことはなかったのにと思えば、私も私のことが嫌いになりました。きっとこの世に、生を受けてはいけなかったのだと』
そんなことはないと、そう叫んで抱き締めたくても、もう彼女の肉体はどこにもない。手には血管が浮き出て、更に便箋が歪んだ。
『出来るだけ迷惑を掛けないように、少しでも誰かの役に立てるようにと、必死に学びました。首都で一番難しいと言われる学校に奨学金で入り、お給金の良い仕事にも就けました。そして……働き始めて二年目に、誰かに愛される喜びを初めて知りました』
彼女と誰かが睦み合った日々……自分の胸に渦巻く何かを、深く吐き出し身構える。
『愛されて、夢中で愛して。他のものは何も見ようとしませんでした。見たくもありませんでした。彼に奥様がいることも、大切な家庭があることも……。気付いた時には、もう止められなかったのです。全てを知られてしまい、私は全てを失いました。一つ救われたのは、彼が迷わず奥様の元へ戻ってくれたことです。彼は父とは違い、誠実な人でした』
誠実……何を以て誠実と言うのだろう。
愛を求めていただけの空っぽの彼女に、与えてはいけない愛を与えてしまったのは、この男じゃないか。ただ猛毒となり、彼女を苦しめるだけと知って。
少し震える文字の線に、彼女の負った傷の深さが表れていた。
『家庭を壊される苦しみを知りながら、人の家庭を壊しかけた私を、神様がお赦しになる訳がありません。進行性の病で、あと一年の余命という罰をお与えになりました。それともう一つ、全てを失くした空っぽの私に、授かってはいけない重い命をお与えになったことも』
“ 授かってはいけない ”
その言葉に胸が切り裂かれる。
“ 生を受けてはいけなかった ” と苦しむ彼女の元へ来てくれた、愛しむべき命。それなのに……
こんな言葉を言わせるなんて、神はなんと残酷なのだろう。
『この子を産んでも、自分の手で育てることは出来ない。それに、もしもこの子があの人にそっくりだったら。私は母と同じように、この子を憎んでしまうかもしれない。そう思ったら怖くて怖くて。この子の為にも終わりにしたいと、崖の上に立ちました。
岩に当たる白い波を覗いていたら、風が背中を押してくれて……一瞬でした。痛みもなく、気付いたら、お庭の柔らかい草の上に寝ていたのです』
視界がぼやけ、文字が滲んでいく。
よかった……此処に来てくれて。自分の元へ来てくれて、本当によかった……
そう考えハッとする。
彼女は、彼女の方はどうなんだろう。そのまま神に召された方が幸せだったと、そう考えたことは少しもないのだろうか。
涙を乱暴に拭い、ゆらゆら揺れる文字を必死に追う。
『何も覚えていないと嘘を吐いた私を、貴方は問い詰めることなく、お屋敷に置いて親切にしてくださいました。ご自分からは何を求めることもなく、ただただ優しく与えてくださるばかりで。着心地の良い服も、美味しいご飯も、暖かな寝床も。楽しいとか綺麗だとか……悔しいと感じる健康な心も。そして、お腹の子の居場所まで。
せっかく神様が罰を与えてくださったのに、私の心には新しい欲が芽生えてしまいました。貴方の傍にずっと居たい。ずっとずっと貴方の傍で、貴方を愛していたいと。
だから……余命が僅かでよかったのです。これ以上欲張ってしまう前に』
拭っても、啜っても。彼女への想いが溢れては便箋へ落ち、文字のインクと混ざり合う。
澄んでいるのに曇っているような、そんな哀しい青がじわりと沁みる。
『身体を灰にする文化のないこの国のこと。せめて名もない死体として、神殿の共同墓地に埋葬してくださいましたでしょうか?
……私を妻にしたいと、何度も仰ってくださった貴方ですから。きっと私の願いなど聞かず、立派な墓石に、名を刻んでしまったのではないですか?
妻、“ デイジー・ロランド ” と』
何処かから見てるのかと、微笑いながら空を仰げば、眩しい陽射しが泣き腫らした目をくすぐる。
『それともう一つ、私は貴方に嘘を吐いていました。私の名前は、本当はデイジーではありません。生まれてからほんの数ヶ月しか使われなかった、馴染みのない “ 菊池 ” という父の名字から、意味を取って咄嗟に名乗りました。もしかしたら……最初から人生をやり直したかったのかもしれません。長く使っていた母の名字と、大嫌いな本当の名前を捨てて。
貴方が愛らしいと沢山褒めてくれたこの偽物の名は、いつしか私の中で本当の名前になっていました。貴方に呼んでもらう度に、生まれてきてよかったと、そう思えるようになったのです』
そうか……そうだったのか…………
デイジーと呼び、振り返った時の彼女。陽だまりみたいに明るく、愛らしいその笑顔は、本当にデイジーの花のようだった。
呼んでもよかったんだな、苦しめたのではなかったんだなとホッとする。
『貴方と過ごした最期の一年間は、私が私で居られた、人生で一番幸せな時間でした。
どうか……サマム様のこれからの人生が、私に負けないくらい幸せでありますように』
……ああ。幸せになるよ。
こんなに沢山の愛をもらったんだから。私は君より、もっともっと幸せになる。そうでないと、悔しいからね。
何と読むか分からない、不思議な “ 菊池 ” という文字。鼻を啜りながら、どんな響きなんだろうと考えていると、横からふええと可愛い泣き声がした。
「起きてしまったか?」
甘い匂いのする、柔らかくて小さな身体。そっと抱き上げれば、ピタリと泣き止み、ふにゃりと笑ってくれる。デイジーによく似た、円らな焦げ茶の瞳は、どんな宝石よりも尊く美しい。祝福されて生を受けた、大切な大切な命だ。
「お腹が空いたな、マーガレット。家に戻ってお父様とご飯にしよう」
背中をトントンと叩き、乳母車に戻すと、デイジーの白い花が咲く丘を歩き出す。
真っ青な空も、ふわりと撫でる光風も。デイジーがくれた父娘の縁を、未来へ繋いでくれているようだ。
「生まれてくれて、ありがとう」
ありがとうございました。