マクロムの裏事情と悪夢
宿の一室で鬼謀は頭を抱えていた。
本来の予定では一晩を斥候に使い、山吹の能力で怪しい拠点に押し入り一気にことをすませてしまうはずだったのだが、深夜過ぎから降ってきたドカドカ雪のせいで計画が台無しになっていた。
「おお、街が真っ白に化粧をしている。弟子よ、初めての経験だが雪とはいいものだな。この寒さはいただけないが。」
「ああ、先生は砂漠出身だから……寒さと雪は抱き合わせだよ。」
毛布をかぶっている山吹は通りで雪投げをしている子どものようにはしゃいでいる。
昨夜は山吹が地中にもぐれなくなったので斥候も途中からは鬼謀が行った。
お陰で体力が削れてクタクタだ、もう少し寝ていたい。
「地面は雨の日と同じような状態ゆえ、作戦を練り直さねば。目をつけたやつは常に二人以上がついて動いているのだったか。」
「寝てる時以外はそうだね。ただの人だから戦う分には問題ないけど大声とか出されると厄介だし。」
「少し歩いたくらいでその体たらくのくせに、ずいぶん自信があるのだな。」
「まあね、予定とは違うけど僕の練習台になってもらおうかな。死んじゃったら運が悪かったってことで。先生は防寒具買ってきてよ。」
「せっかくの新しい服ゆえ、ここは洒落っ気のあるものを選んで……」
「地味なやつね。お金は余裕あるけどまだ潜伏中なんだから音が出ないやつ。」
山吹は不満そうだったが、とりあえず納得して出かけていった。
鬼謀は部屋の中で襲撃の準備を着々と進めていくのだった。
必要な御札を用意し、【ノゾキ魔】を使ってみたり食堂に聞き耳を立ててみたりと情報収集に余念がない。
その甲斐あって鬼謀はまたも気になる話を聞きつけた。
宿の食堂でクダを巻いている冒険者たちの間で貴族暗殺事件と大魔術、ドラゴンの出現が話として繋がってきているようなのだ。
マクロムの貴族は三家しかなく、爵位は侯爵しか存在しない。
他国の制度を鑑みてわかりやすいように爵位を名乗っているだけで、実際は政治家というよりも世襲制の魔術師の家柄なのだ。
当主の暗殺されたメテオライトのオリオン家、スワンの実家であるビッグバンのカシオペア家、天才ドミナと騎士団のヴォルカンがいるスーパーノヴァのヘラクレス家で三家である。
それぞれが各街を領地とし王家はどの貴族家とも交わらないというルールが有るため、すべての家が侯爵家という扱いになっているのだ。
そしてこれらの貴族家は国を興した北極星のマクロムが残した研究をそれぞれ一つづつ継承した家なのである。
研究は未完成であり、マクロムの死後はそれぞれ各家が分担して進めてきた秘中の秘の研究であるが、そのうち三つの家は欲をかきはじめる。
お互いの家がそれぞれの研究の成果を狙って争うドロドロな状態になってしまったのだ。
スーパーノヴァは知識の街、この街には各貴族家が研究をするための別邸が設けられている。
オリオン家別邸の地下牢の前で被害者であるフォンテーヌ・オリオンは無惨な死体となっていた。
この事件を探っているヴォルカンがとにかくすぐに人を犯人扱いするせいでヘラクレス家が疑われているというのが今の状況である。
ちなみにヴォルカンはもともとそういう直情的なバカ貴族を絵に描いたような性格で近くにいるものはいつものことと頭を抱えているようである。
ヘラクレス家謀略説の根拠の一つに次期当主がドミナになりそうだということもあげられる。
ヘラクレス家の現当主は高齢で代替わりするんじゃないかという噂が流れているのだ。
当主になるにあたりドミナの行動を知っている他の二家はいい顔をしない、特にフォンテーヌは冒険者ギルドとのつながりも強くドミナの行動を問題視していたらしい。
ドミナは余計に荒れ、もともとの選民思想も相まって行動がどんどんエスカレートしているとか。
で、むしゃくしゃして所構わず上級魔法をぶっ放し、ドラゴンを起こしてしまった。
その後、冒険者たちの話は貴族の悪口大会へと移行していった。
「なんか無茶苦茶だね、人の噂って。ドミナって性格は最悪そうだけど本当なら旦那様といい勝負なんじゃないかな。」
冒険者の話題に上がるのは大きな事件のことばかりで、スキップの話は全く出てこない。
ほとんど知り合いもいない街で、奴隷という立場に世間の風当たりは強い。
せめてスカーレット商会の主ということが周知されればきちんとした捜査も見込めるが、そうなれば商会が瓦解しかねない。ゴランたちは商会に必要な人材なのだ。
スキップの仇を取るには自分たちで犯人を見つけなければならない。
改めて鬼謀は気合を入れ直した。
ドカドカ雪の降る中で外を出歩く馬鹿はいない。
夕方に振りはじめた雪は今夜も鈍い音を立てて降っている。
「はい、これ。先生用の護符と御札ね。例の建物の周りに札を張ったら僕を入れてくれればいいから。ドアからでも隙間からでもね。」
「ふむ、護符は……呪いよけか。我のと少し違うが、何を企んでいるのやら。」
「それはやってみてのお楽しみだよ。」
山吹が買ってきたコートは白に近い薄茶色で愕然としたが、雪の上に立つと意外と見えづらく、むしろ鬼謀のマントのほうが目立ってしまうくらいだった。
状況に合わせて装備を変えるのは基本とか山吹が胸を張っていた。
「ほら先生、遊んでないでしっぽを捕まえに行くよ。」
「遊んでいるわけでは…速いな。」
山吹がコートを見せびらかそうとしている間に鬼謀はうさぎの姿に戻っていた。
鬼謀を拾い上げ殴りつけるようなドカドカ雪の中、師弟コンビが夜の街をゆく。
「……ザ・めしくいねぇ?」
山吹はバシンバシンと背中に当たる雪に身じろぎ一つせず、取り付けられた看板を眺めていた。
建物の周りを歩き回ると鬼謀が建物の四方に二枚づつ札を貼り付けていく、今回も結界を使うようだ。
「きゅ。」
鬼謀が木製ドアの下部分をかじって穴を開ける。
山吹の役目は鬼謀に雪が当たらないように壁役をすること。
鬼謀が中に入っていったら穴を雪で隠して通りの反対側の路地に隠れ、中から扉が開くのを待った。
「…っ?!」
声が漏れそうになるのをなんとかこらえる。
間違いない、建物の中から鬼謀にかかっていたあの呪いの気配がした。
山吹は臨戦態勢で懐に入れた呪いよけの札を確認する。
通りを挟んだ山吹のところでは発動していない、つまりあの建物の中だけで効果がとどまっているということだ。
一体何があったのか、鬼謀は無事か、踏み込もうか、忍を探してくるか。
山吹は大いに混乱したが、いつの間にか扉が開いており人の姿の鬼謀が焦った様子で手招きしていた。
急いで建物に入り扉を閉めると鬼謀が小言を言ってくる。
「先生、目を開けたまま寝てた?固まっちゃって扉開けても反応してくんないんだもん。」
「いや、驚いてしまってな。なんともないのか?呪いが再発したというわけでは?」
「違う違う。さっきのは僕が使ったんだ。【呪ノ王】、あの呪いを無意識にずっと使ってた僕なら意識的に発動することも出来るかなって練習してたんだ。出力の調整はできないんだけど一瞬だけなら気絶で済むかなって。ちなみに壁に貼った御札は呪いを外に漏らさない用と人払い用だよ。」
「なるほど。しかし肝が冷えたぞ。ここに主殿はいないのだ。」
ここで再発していたのなら、問答無用で街はゴーストタウンになっていただろう。
しかし練習とは。
「発動してるときは身体能力も魔王時代と変わらないから本当はずっと使ってたいんだけどね。」
「魔王であることを隠した意味がなくなるゆえ、主殿も困るだろうに。こんな気配のするものをいつの間に練習していたのだ。」
「まあ、ちょっと首都で。」
「少し失敗すればマクロムが滅びるではないか。主殿には報告しなければならんな。」
鬼謀は微妙な顔をしていたが、自覚はあるのだろう。
人の街で魔王が恐ろしい練習をしていたことが発覚したが、とりあえず目の前の仕事だ。
鬼謀は食堂奥の個室で足を止めた。
中にあるソファのシートを外すと下の階へ続く鉄製のはしごが現れる。
「下で騒いでた声は聞こえなくなってるし、気配もないから降りて大丈夫だと思うよ。罠っぽいものも…なさそう。」
「我が先にいこう。」
鬼謀が魔導ランプと片眼鏡を取り出して穴の中を照らす。
ここが盗賊のねぐらならば罠の一つもあってしかるべきだろう、透視した限りはそれらしきものはないが警戒するに越したことはないとのことだ。
山吹は魔導ランプを受け取ると慎重にはしごを下りた。
はしごの下には扉が二つ、あとをついて下りてきた鬼謀は迷わずに左の部屋のドアを開けた。
開けた空間には戦利品らしき金貨や銀貨、宝石に魔石、そして酒を飲みながら賭け事ををしていたであろう男たちが倒れていた。
「お、思ったより溜め込んでるよ。魔石の補充もできて運がいいね。」
「弟子よ、目的はこっちじゃなかったか?」
戦利品の確認をしている鬼謀を横目に山吹は一人の男を広いところに引っ張り出した。
縛り上げて座らせると鬼謀が頭から魔法薬をぶっかけて起こした。
「ぶあっ?!なっ、てめえら」
「先生、顔おさえて。」
ことここにいたっては男は哀れな犠牲者だった。
鬼謀の第三の目が開いて怪しく光り男を見据えると男の体から力が抜けた。
弛緩した顔からはよだれやら鼻水やらいろいろなものが垂れ流しである。
「奴隷を暗殺したやつを探してるんだ。殺された奴隷は赤いメイド服かドレスを着ていて、サイドにまとめた髪の先ををくるくると巻いていた。何か知らない?」
「奴隷が殺される…日常ちゃめしだ…」
情報が足りなかったようで男はそう言っただけだった。
鬼謀は質問を変えるべく少し考える。
「うーん、スカーレット商会絡みの暗殺の話は?」
「マウントバーガー商会…腕利き……話したら殺される…」
「話せ。」
男の瞳に一瞬だけ怯えたような色が伺えたが、直後に鬼謀が発した短い命令によって再び朦朧とした状態となる。
それから男は意識を取り戻す様子もなく、鬼謀たちはマウントバーガー商会の話を聞き取ることができた。
マウントバーガー商会はマクロムの伝統料理であるハンバーガーとホットドックを売っている。
マクロム国内では不動の人気店であり、研究の片手間に食べられる食事としてファストフードとしての地位を確立している。
残念ながら忍の世界と比べるとパンも固く肉もボソボソでウィンナーも香草が入っておらず燻製もされていないという出来なのだが、形だけはなんとかそれっぽくなっている。
謎素材の細かく刻まれたピクルスも入っていた。
それだけなら微妙なものになるだろうがマウントバーガー商会には驚くことにケチャップとマスタードが存在していた。
もちろんマウントバーガー商会の独占、秘伝のソースだ。
そんな独占市場に参入してきたのがスカーレット商会の漬け肉ドックである。
味噌ベースのタレにに漬け込んだ甘辛な肉を細切りにして焼き、野菜とともにパンに挟み込んだ商品は目新しさと確かな味で瞬く間に売れた。
こちらもレシピは門外不出だったがスキップが忍に食べさせたところ、食後にレシピをほぼあてられて涙目になっていた。香辛料や香味野菜のたぐいを使っていないので簡単だったというのはあるのだが。
そんなこんなで危機感を持ったマウントバーガー商会はスカーレット商会と激しい争いを繰り広げていたらしい。
そこに、スカーレット商会の本拠地であるアサリンドが戦争になったことで商会主が自分たちの国に本拠地を移す画策をしているということになり、大枚はたいて暗殺を企てたようだ。
本来ならばれるはずのないことなのだが、スキップを殺したはずなのにスキップが死んだという話が全く聞こえてこないことに業を煮やした商会主がスキップの死体を持ち去った男を探しているということだった。
暗殺犯はクラゲと呼ばれる凄腕らしい。
正体は不明だが仕事に誇りを持っているらしく、暗殺失敗の可能性があるとしてこの街に残っているという噂があるようだ。
もしそれが本当ならやはり狙いはスキップの遺体、是非ともこちらが先に補足したいところだ。
貴族暗殺事件の方も聞いてみるがこの男は詳しくなさそうだ。
「だいたい聞きたいことは聞けたかな。では、すべて忘れて眠れ。」
「……弟子よ、なかなかえげつないな。」
「え、殺してないよ?」
鬼謀がその一言にきょとんとしていた。
外見に騙されることなかれ魔王と呼ばれたものなのだ。
鬼謀の第三の目が閉じるとともに男は崩れ落ちたので、証拠となる御札や縄とついでにお宝も回収して二人は帰路についたのだった。
圧の強い千影に連れてこられたのは、入口が広めの洞窟だった。
すでに入口の外にはムカデらしき大きな虫や豚の顔をしたコウモリなどが積み上がっている。
『中の掃除は終わっております。どうぞ。』
狼の影分身に先導されて忍は洞窟内へと歩を進めた。
多少の湿気があるものの火などを燃やしても大丈夫なだけの広さがあり、テントで野営をするよりはまともに眠れそうだった。
千影の指示通りにレンガや平板を取り出すと、寝床とかまど、椅子などのセッティングが瞬く間に出来上がり、久々に取り出した樽風呂用の焼き石がすでにかまどの火にかかっている。
改めて忍は千影のお願いについて考えたがここしばらくはどこかで聞き流してしまっていてもおかしくない状況が何度もあった。
仕方がないので素直に聞いてみることにする。
「あの、千影さん。千影さんの願いってなんでしょう。」
『何度か忍様に進言いたしました。どうかお聞き届けください。』
「え、えー。ごめんなさい、何をお願いされてたか覚えてないです。」
流れる気まずい沈黙になんとなく正座をしてしまう。
ここは山吹を見習って先手で土下座をするしかないと覚悟した時、千影が人の姿になってこの前と同じように抱きすくめられることとなった。
『忍様、千影の願いは忍様に休んでもらうことです。ご自身ではお気づきになっていないのでしょうが、目の下のクマがひどく足元がふらついております。せめて次に連絡を取るまでの数日間、しっかりと休んでください。』
「……わかった。でもそれは千影のお願いを使うところじゃないぞ。」
『いえ、千影は心から忍様の健康を願っております。』
忙しくなにかが起こっていないと嫌でもスキップのことが頭をちらつく、せっかく眠る時間を作ってもらっても休めないで千影に心配させてしまうという悪循環だ。
しかしこれは忍の一存ではどうにもならない、心の問題は最も厄介で根深いものなのだ。
「……努力はするから、それで許してくれ。」
『決定権は忍様にあります。もしお許しいただけるなら休養中は可能な限りのお世話をさせていただきたいです。』
「……風呂入りたい。あと、服を着てくれ。」
『仰せのままに。』
狼の尻尾も本体の尻尾も嬉しそうにブンブンしている。
何が嬉しいのかわからないが、そんな千影の姿が忍も嬉しかった。
沸かしてもらった樽風呂に入りながら思考を巡らせる。
考えすぎて脳みそがパンクすれば自然と眠気もやって来るだろう。
アーグ賢王国最後の王である魔王アーガイルの魔術書、影の書。
指定通り三つの大魔術を使用し、その魔法陣から暗号を読み取ったものだけがたどり着けるアーグ式魔法陣の境地だ。
暗号文にはこう書かれていた。
【溶岩雪崩】魔術は言葉と想像で魔力を操る方法であり、魔法陣はすべて言葉に変換できる。魔法陣とは言葉を暗号化したもので、魔術の発動した姿は術者の想像によるものである。言葉には想像の補助という役目もある。
【風雷玉】魔法陣のみで魔術を発動することは出来るが、大きな呪文であるほど陣の層が増え、発動までの時間も長くなる。呪文のみの魔術は長時間唱えねばならず失敗の可能性が高くなる。呪文の補助として魔法陣を使うことで大魔術を驚くほど早く発動することが出来る。
【逆さ氷山】魔法陣および呪文に使われる言葉はその世界に存在する言葉なら何でもよい。言葉の存在を証明するために魔術師は魔術書を書く。魔術書が存在する限り暗号も言葉も魔術もこの世界に残り続ける。
これらの内容に影の書の内容を照らし合わせてかいつまむとこうなる。
言葉は何でもいいけど詠唱を決めて魔術書、石碑などに書きつけ、効果を実際に想像して発動することで魔術として使えるようになる。
暗号化した言葉も使えるので魔法陣のような絵などに意味を持たせて使うことも出来る。
暗号と詠唱をうまく併用すると魔術の発動が驚きの速さになる。
アーグの魔法陣の真髄は融合である、【影分身の霊獣】なら術者の魔力と闇の精霊の一部を、【溶岩雪崩】なら岩と炎を融合させて発動する。
魔法陣は言葉の量を詰め込めるが発動は遅い、通常は呪文一区切りごとに魔法陣の層が増える。
この層というのは魔法陣の中に入っている丸い線で区切られた区画のことで、最も層が多い【風雷玉】は十二層で発動までの時間も長い。
影の書で解説されているオリジナル魔術は六つの属性と闇の精霊、術者の魔力を融合させることで作り出せる魔術だけのようだ。
【抗魔相殺】【枯渇】のようにこの特徴に一致しない魔法陣の魔術が存在するのでここに描かれていることが全てではないはずだが、影の書の内容はこれですべて把握したことになるだろう。
才能と関係なしに魔法と同じ六属性がすべて扱える魔術形式、自信満々に王国の名前に賢いとつけてしまうだけのことはある。
「魔術を作りだすには相応の手続きというか儀式がいるということか。融合無しで使えば魔法と同じような効果も作り出せそうだ。まてよ、言語表現が細かいほうが有利なのか……?」
そうなると忍が選択して最も有利な言語は日本語ということにならないだろうか。
想像が固まりやすい言葉を使えばあの長い呪文も短く出来るかもしれない、試してみる価値はある。
メモ兼魔術書を書こうとして買うだけは買ったが全く手つかずで底なしの指輪に放り込んである。
少し試したらメテオライトの文具屋で和綴じで和紙の帳面を見かけたので、少々お高いが清書用に買ってもいいかもしれない。
考えれば考えるほど魔術を作ってみたくなってくる、忍は千影に聞いてみた。
「魔術、試していい?」
『忍様、お休みください。』
まあ冷静に状態だけ考えてみるとまともな食事が喉を通らず徹夜で雪に対応し魔力も三割程度しか残っていない。うん、ダメだ。
仕方がないのでもんもんとしつつ、忍はまた思索にふけるのだった。
千影は甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
ナイフを貸してくれと言うので渡すと洞窟前に積み上がった魔物から魔石を回収し、風呂から上がった忍にマッサージをしてくれた。
あまりに何でも出来るので何ができないかを聞いてみると、実は不器用で知識は蓄えられるものの細工や裁縫などはあまり得意でないと話してくれた。
そういえば闇の魔法の【ダークニードル】もニカほどではないがよく外している。
勝ちを確信した瞬間、緊張が緩和した直後、気の抜けた瞬間が一番危ない。
意識していたとしても回避するのは難しいことの一つだ。
千影の献身のお陰で忍は気持ちよく眠りについて、夢を見る。
忍は夢の中で地底湖にいた、体は勝手に動いて湖を覗き込む。
湖の中は透き通って底まで見えるようなきれいな水だ。
水面に触ろうとした時、その水がいきなり真っ黒になった。
真っ黒なみずから手が伸びて忍の体を引きずり込もうとしてくる、忍は踵を返して逃げようとするが黒い水は腰元辺りまでまとわりついてどんなに踏ん張っても逃げることができない。
忍を引っ張っている水が徐々に形を成す、見慣れたシルエットに耳と尻尾、その影が手を伸ばし忍の顔を掴むと体の力が抜けて忍は水の中に沈んだ。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい!
もがいても助けは来ない、千影はそのまま忍の首に手をかけて楽しそうに首を絞めるのだ。
「…っあ…ぐっ……ぎ!」
『忍様!忍様!』
忍が起きた時、千影は忍に覆いかぶさるようにして名前を呼んでいた。
夢の残滓、恐怖と混乱が思考を埋め尽くし、忍はとっさに指輪からナイフを取り出して千影の腹に突き立てた。
『あ゛っ……し、忍様…?』
意識が覚醒し段々と現実味を帯びてくる。
肉とは違う不思議な手応えがあった、解体のときは感じない身じろいだようなナイフ越しになにかが動く感触。
今、自分は何をした?
「っひ、【ヒール】!【ヒール】!」
ナイフを抜いて咄嗟に回復魔法を使う、口から言葉が出そうになるがすべて飲み込む。
今、この場で口をついて出る言葉は、自分を正当化する理由か言い訳くらいしか無いからだ。
わかっている、わからなければいけない、忍は恐れていたことをしてしまったのだから。
恐怖が現実になった瞬間、その感触を忍は知ってしまった。
忍は大事にしているものを、体を重ねることが出来るくらい好きな相手を、自分の手で殺そうとしたのだ。
『忍様、落ち着いてください。千影に魔力を使っていない攻撃は効きません。お確かめください。』
「いや、私、刺して、ごめん!ごめん!!」
『傷はありません、落ち着いてください。無理やり起こしてしまったのがいけなかったのですね。ずいぶんと苦しそうにされていましたので、出過ぎた真似をいたしました。』
「ぢがげ、何も…な、悪ぐ、ない、がら。」
涙が止まらない、千影が普通に接してくるのも意味がわからない。
忍はもう顔も頭もぐちゃぐちゃで千影に謝りながら泣き続けた。
千影は背中を擦りながら忍が泣きつかれて眠るまでずっと生真面目に返答を返してくれた。




