神託とショーの木
水の祈りは影の書と同じく、魔術の研究と雑多な手記が入り混じったような本であった。
著者はネレウス、どうやらあの底なしの指輪が彼が言っていたお礼のようだ。
勉強する内容が大渋滞なので、さわりだけ流し読んだところによると、ネレウスの使う魔術は手と指の動きで発動させるスタイルのようだ。
忍はこの魔術形態に大いに興味を持った。
「これ、印じゃないか!忍者っぽい!絶対覚える!」
もうひとつ忍が決めたことがあった。
それは近接戦闘の訓練をすることである。
理由は、ネレウスほどの優れた魔術師が不意打ちで殺されたという話を聞いたことが二割、せっかくの忍者刀を使えないまま眠らせてはもったいないというところが八割であった。
忍はしばらくこの滝壺で修行することを決めたのである。
短剣と剣の振り方を図解・武器別戦闘術で学び、息が上がったら魔法の練習や魔術の訓練をする。
魚を食べて、千影に魔力を渡し、剣を振り、魔法を使う。
二ヶ月ほど続け、気温が熱くなってきた頃に、いくつかの変化があった。
まず、千影がどんどん大きく強力になっていった。
理由はあくまで予想なのだが、夜の見張りと昼間のおしゃべりくらいしか魔力を使わない状態で、忍の手加減できない魔力供給を受け続けたためかもしれない。
忍の心配を他所に、千影は上機嫌で続けてくれという。
『強くなるのを実感しております。主の魔力供給は千影にとって最高の褒美でございます。』
その後、最近になって忍が魔力の流れをおぼろげながら認識できるようになった。
魔力供給を何度もしていたことで、千影の反応からなんとなくの魔力の流れの強弱がわかるようになり、現在は意識すればぼんやりとした光みたいなものとして魔力を認識できるようになった。これは【魔力感知】という能力のようだ。
同時に魔力供給が手加減できるようになり、千影の様子を見ながらおこなえるようになった。
少しだけ千影が不満そうだったのには気づかないふりをしている。
魔法は大体の効果と内容を頭に入れ、火・土・水の基礎魔法が上級まですべて使えるようになった。
いずれの系統も中級までなら無詠唱で使用できる。
一般的な魔法使いや魔術師がどの程度魔法を使えるのかが分からなかったので、だるくなるまで魔法を撃って練習しようとしたところ、中級魔法では魔力切れで疲れる前に詠唱で喉が悲鳴を上げることがわかった。一度喉をからしてしまってからは加減している。のど飴がほしい。
また、思いつきで千影に闇の魔法を教えてみたところ、いくつかの魔法を覚えた。
使える魔法はいずれも無詠唱であり、上級魔法でさえ使えることが発覚した。
良いことばかりではなく、魔法について一つ気がかりなことが出てきた。
この世界の魔法にはゲームなどでのヒール、瞬間的に怪我を治す魔法というものがほぼ存在しなかった。
光の魔法に一つだけあるだけで、土・水の魔法に療養の回復を早める魔法があるくらいなのである。
これは一人で行動している忍が大怪我を負ってしまった場合、最悪の事態になる可能性が高いことを意味していた。
毒や病気に関しては土・水の魔法が得意な分野らしくこの二ヶ月の間に何度かお世話になっていた。
【魔力感知】以外にも手持ちの能力がいくつか増えた。
常時発動能力は 【魔力感知】【体操術】【魔法練達】、任意発動能力【従僕への躾】というものである。
常時発動能力【体操術】体がイメージ通り、正確に動く。
常時発動能力【魔法練達】魔法の効果が強くなる。
任意発動能力【従僕への躾】真の支配者の影響下にいる対象に罰と褒美を与えることが出来る。
【真の支配者】派生能力まであるなんてやっぱり激強能力なんだろう。
ただもうさ、SM中二病なのよ。恥ずかしくて言葉にしたくないのよ。
戦闘術に関しては正直あまり実感がない、最初よりはサマになってきているだろうか。
著しい成長と変わらない体型に右往左往しつつ、充実した日々を送っていたところ。
……久々に、忍は夢を見たのだった。
忍は浜辺に立っていた。
砂浜にはさざなみが寄せては返し、海は穏やかだが、空は雲に覆われていた。
ざざーん。ざざーん。
段々と海が荒れはじめると、砂浜に木片が漂着してくる。
これは残骸だ、忍にはなぜかそれが大破した船のものだとわかった。
雲が波が赤く染まり、次に海岸に漂着したのは子供の死体だった。
海を見ると子供も大人も木片も、いくつも、何人も、ぷかぷかと浮かんで忍のいる浜辺を目指していた。
何処かから笑い声が聞こえる。男の、下品な高笑いだ。
沖合に目を移すと、あれは……飛んでいるのは……
「……鯨?」
ぐっしょりと濡れた服が気持ち悪い。
目を開けると見慣れた真っ暗な空間、千影がテントに戻ってきているのだ。
千影の見た目は光を反射しない真っ黒な水のようだが、実際は闇の集合体だ。
大きく広がった千影の中に入れば、そこは上下左右もわからない真っ暗闇である。
最近は日が昇るとテントの中で光を遮ってくれるようになっていた。
おかげで目を刺すような光で起こされるというような体験はしばらく経験がなかった。
『おはようございます。まだ明け方ですよ。』
「ああ、もう起きる。汗を流したい。」
外に出ると本当に明け方で少し触った川の水がつめたい。
火を起こしてこぶし大の石を焼く、川の端っこに作った小さな囲いに焼石を入れて、温めた水を数回頭からかぶった。
ついでに川で洋服を洗う、一着しかないのでくたびれてきていて、こんなところにも大自然サバイバルの弊害を感じていた。
「服、ほしいな。さすがに人のいる街を探そう。」
忍は修行の成果もあり、この近辺の魔物や動物なら正面から戦ってもまず負けないというところまで強くなっていた。
しかし、強くはなっても生活するには能力だけでなく物資も手に入れる必要がある。
神々の耳飾りの フォレストレンジャー式はじめてのサバイバル指南 とオタク特有の作品から得たにわか知識ではできることに限界が来ていた。
ちなみにこのフォレストレンジャー式はじめてのサバイバル指南は、ノリノリなようで時々毒を吐く大地の神グレーシアとマッチョで底抜けに明るい戦いの神ジャスティが深夜の欧米系通販番組のような軽快な掛け合いで初心者向けのサバイバル術を教えてくれるという内容なのだが。
「旅に出る前に街で絶対揃えたい道具はこれ!って言われてもなぁ。」
キャンプ動画を見る感覚でそれなりに楽しめたのだが、使える内容はほとんど忍の知っている内容だった。
いつか街を見つけたら、道具を色々揃えてみたい。
耳飾りに植物図鑑が入ってているため薬草毒草食用の話などはそっちを検索したほうが早いということもあり、この項目は流し見ただけで放置されていた。
図鑑と植物をくらべても違いが分からず、食用以外のものには全く手を付けていないというのは忍だけの秘密である。
「さて。」
慣れた手付きで焚き火をつけ、絞った服を着たまま乾かす。
たぶん、海だった。今回はかなり物騒である。
忍は集中して夢の内容を思い出そうとする。
「死体に船に空飛ぶクジラ。笑い声が嫌すぎるんだよなぁ。」
忍の経験上、あの笑い声はいじめっ子のものだ。
学校は社会の縮図というが、いじめっ子というのはそこら中にあふれている。
パワハラ上司、店員を怒鳴りつけるクレーマー、子供を過剰に叱りつける親などがそうだ。
バカにされている側だったやつが次は自分の番だとばかりに豹変することもある。
いずれにせよ理屈は通用しない、自分が受けた行為をやり返すのではなく別の弱者に与えている時点で復讐は成り立っていないし、楽しんでいるやつなんかはちょっと言われたくらいじゃ止まらない。
「それでも、手を出したほうが悪いか。ふざけろ。」
また嫌なことを思い出したが、これはあくまで前の世界での話。
しかし、忍は不安を拭えなかった。
これはただの嫌な夢ではない、運命の女神の神託なのだから。
「耳飾りさん、鯨、検索。」
『クジラは海に住む哺乳類です。いくつかの種類が……』
鯨はこちらの世界にも動物として存在するらしい。
まあ、種類とか細かいことを言わなければ動物は前の世界と大差ないようなのだが、それは空を飛ぶ鯨なんてのは存在しないというわけで、結局のところ正体は分からなかった。
「川を下れば海にはつく。ネレウスさんの本、読んどいたほうが良いかもな。」
体が温まり服が完全に乾くまで、忍は魔術の勉強に勤しむのであった。
忍はテントを片付けながら、マントの中の千影に話しかけた。
「千影、試したい魔術がある。」
『では、今夜にでも。』
忍は道すがら、魔術の内容を千影に説明した。
ネレウスの魔導書・水の祈りはアーガイルの影の書よりも小さかったが三倍以上分厚かった。
その中でアーガイルに教えていたときの記録を見つけたのだが、水の精霊の使役例をいくつか教えたところ、それを参考に闇の精霊を使役したという記述があった。
影の書の同じくらいの時期の記述と照らし合わせると、どうやら闇の精霊を魔物の形に変えて使役できるらしい。
墓室の壁画にアーガイルは数百の魔物の影を従え、それらを偵察や援軍に使っていたというエピソードがあったのだが、この魔物の影というのが昼間の戦場にも登場するのだ。
この魔術の名は【影分身の霊獣】としてあった。
情報が噛み合っていれば、昼間に千影が活動することもできるかもしれない。
「水の精霊だと姿を変えたりはできても分身はできないようだ。千影は自分で姿を変えることはできるか?」
『幻影を見せる事はできますが、千影が違う形になるというのはできないですね。人に干渉するときは、相手の精神を通して近しい人物の姿を取ったりします。』
「え、すごい。あれ、千影は私に話しかける時、姿なんて見せないよな。」
忍にも両親や友人、好きだった人、それなりに顔を合わせた人間はいた。
しかし、千影はなにかの姿になって話しかけてきたことはない。いつも闇の状態のままだ。
『できないのです。契約の時にも試みましたが主の精神には全く干渉ができません。抵抗されるのではなく、効かないという印象でございます。』
忍はなんとなく理由がわかった。
おそらく千影の行為は精神攻撃に属するものなのだ。
【精神攻撃無効】の能力を持つ忍には全く効かないということなのだろう。
『ただ、眠っているときなどに主の考えが流れ込んでくることがございます。千影からなにかすることはできなくても、主からなにかするのは可能かと。』
「え゛。」
『そのときは、あられもない姿をした女性が、ミラクルマジカルポインセチアチェーンジ!と』
「その記憶の話はよそうか。」
忍は即時千影の言葉を遮った。
声は違えど完璧な発音に、冷や汗が止まらない。
魔法少女ミラクルフラワーズは名作だが、この世界にはまだ早いのだ。
「私の考えは、読んでしまってもあまり口外しないように。」
『承知いたしました。』
川はまだ中流域に差し掛かったくらいだろうか。
最初に登ってきたときには数日かかっていた道程も、今日は一日たたずに通り過ぎてしまっていた。
「そういえば、お昼に水の精霊との契約の魔術を」
『主、それはおすすめできません。』
今度は千影が忍の話を遮った。
しばらく行動をともにしてきたがはじめてのことだった。
『精霊は同じ主と契約することで問題がおこる場合がございます。精霊同士の相性もありますし、主の精神にもよろしくないかと。』
精霊同士の相性の話は水の祈りにも書いてあった。
光と闇、水と火、土と風の精霊は仲が悪く、一緒に契約すると反発をするらしい。
しかし、相性の悪くない組み合わせならば複数契約自体はできるし、精神力不足で従えられない場合、術者がどうこうなる前に契約の術式によって送還されるはずである。
もちろん正式な術式でなければその限りではないのだが、これはあのネレウスの魔術書なのだ。
もっともおかしいのは千影の言っていることが、ふんわりとしていることである。
千影はずっとできる・できない・わからないをはっきりと助言してくれていた。
「千影、落ち着いて具体的に説明してくれ。私が水の精霊と契約してはいけない理由はなんだ。」
『……申し訳ございません。契約してはいけない理由はございません。』
ないんかい。
つっこみが反射的に口から出そうになった忍だったがなんとか我慢した、この話はなにか真剣な話のはずだ。
「千影、なんでそんな意見を言ったのかわかる?」
『申し訳ございません。よく、わかりません。』
忍は考える。
表情もわからない、声の抑揚もほぼ変わらない、千影のことを考える。
千影の立場でそんな事を言う理由を考える。
理由がわからない意見、そんなの感情から出るものくらいしか思いつかない。
魔力供給を嬉しいと喜んでいたのだから、表情が読めなくても、感情がある。
「まさか、捨てられるとか、思ってる?」
ネレウスは闇の精霊は人気がないと言っていた。
感情のあるものがそんなことを言われたらどう思うだろうか。
短期間ではあるが忍は千影と行動をともにして、仲間意識のような感情を持っている。
いつもふたりで遊んでいたやつに、別の友だちができたら、自分のところに全く遊びに来なくなった。
そんな状況を千影は考えたのではないか?
『主、千影は必ずこの失態を取り返し、今まで以上に主に尽すと誓います。どうか、主に仕え続けることをお許しください。』
ああ、そうかもしれない。
千影は最初からものすごく私に気を使っていた気がする。
千影の口調はいつものものに戻っていたが、おそらく心はいつでもざわついているのだ。
「千影、今回のことは失態ではない。意見や疑問があれば今後も教えてくれ。その上でどうするかは私が決める。理由がなく嫌なときは嫌と言うように。」
『……嫌、ですか。よくわかりませんが、その言葉はしっくりきました。今後、使わせていただきます。』
千影が本当にそうだったのかは忍にはわからない、あくまで考えただけで忍は千影ではないのだから。
しかし、それからはなんとなく千影の感情がわかるようになった気がした。
昼時、忍はちょうどいい河原を見つけて休憩を取っていた。
水の精霊は結局召喚しないことになり、千影はなんとなく上機嫌だった。
今日はストックの渓流魚を塩焼きにしている。
忍の食卓は竹焼肉と魚の塩焼きのローテーションでぐるぐる回っていた。
そんなとき、対岸の木に忍が恐ろしいものを見つけた。
「うーわ。」
群生した大きな木の幹の部分にいくつも蛹がくっついていた。
問題はその大きさである。対岸から視認できるのだ。
忍の二の腕くらいの大きさはあるように見える、タプタプの部分を合わせれば常人の倍くらいはある二の腕だ。
『あれは蝶の蛹です。くっついているのはショーの木ですね。』
「そ、そうなの。魔物では?」
『魔物ではないですね。』
ふむ、チョーのいるショーの木。蝶の名前はショーチョーだろうか。
くだらないことを考えつくのは蛹の大きさのインパクトのせいだ。
「……蝶のいるショーの木?まさか。」
忍は耳飾りでショーの木を調べてみた。
『ショー、山林に群生する落葉樹。一部の蝶が葉を主食とし、虫の木として地域によっては敬遠される。果実の皮は強い毒性をもつが独特の香りとピリリとした痺れるような味があり、一部の地域では乾燥させて香辛料に使われている。大量に摂取するとお腹を下し、更に接種すると体が麻痺する。生の状態では香りを嗅ぐだけでしびれるため、しびれ薬としても使われる。薬用、食用、毒。』
「もしかして。」
山椒だろうか、だとすると、できれば手に入れたい。
しかしあの蛹の大群につっこむとなると尻込みしてしまうのだった。
『主、ショーの実がほしいのですか?千影も集めるのを手伝います。あそこは影が濃いのでお役に立てます。』
先程のことがあってか千影はやる気満々のようだ。
忍は覚悟を決めてショーの葉と実を採取することにした。
「やっぱ、でかい。」
蛹は予想よりさらに大きく片腕くらいの長さがあったが、どれも全く動かないので奇妙なオブジェのようだった。
作戦は、千影が闇の初級魔法【ダークニードル】で蛹のいない枝を落とし、忍がそれを拾うというものだ。
実際に林に入ってみると葉に隠れた部分にも蛹の数はかなり多く、正直冷や汗が止まらない。
「すまない、千影、早くしてくれ。」
『承知いたしました。では、参ります。』
ベキッという音がした、枝を落とすのには成功したようだ、が。
その落ちた枝が、幹に居た蛹に当たる。その蛹が、別の蛹に当たる。
雪崩式に数匹の蛹がぼたぼた落ちてきた。お腹の部分が苦しそうにうねっている。
「おおぅ。」
うめいてしまった、気持ち悪い上に罪悪感がすごい。
『申し訳ございません。かくなるうえは蛹をすべて処分してから枝を採りましょう。主の魔力を分けて頂いている千影なら、容易いことでございます。』
「却下、もどってきなさい。さらっと恐ろしい提案したな。」
千影の落とした枝は実も葉も十分についていた。
ショーの実はまるでみかんのような大きさで鈴なりにいくつも成っており、葉も忍の手のひらくらいのサイズがあった。
あのサイズの蛹が育つ理由がよくわかった。
なんとか実と葉を手に入れた忍は大きな実に少し傷をつけて香りを確認してみた。
「よかった。やっぱり山椒だ。中はミカンみたいだけど。」
強い香りなのは野生だからだろうか、確信というほどではなかったがうなぎにかけるあれの雰囲気を確かに感じた。
「こりはちゅかえぇ、あえ?」
『主?!なんてことを!ショーの実の香りを直接吸い込むなんて!気をしっかり持ってください!主!忍様!』
忍はその場で力が抜けて倒れた。
そのまま気が遠くなり、ごつごつした河原で昼寝をすることになったのだった。
『動物に襲われなくてよかった。忍様はショーをご存知だったわけではないのですね。千影はてっきり効果を知っているものと。』
星が綺麗だ。なんとか回復するまでたっぷり数時間はかかっていたが、忍は普通に目を覚ましていた。
千影はその間賢明に忍を呼び続けていたらしい。
「心配をかけた。面目ない。まさか香りだけで全身が痺れてしまうとは。」
やはり知らないものには手を出さないほうが無難だと思い知らされた。
『ショーの実には強い麻痺毒があるのです。おそらく果肉の方まで傷をつけてしまったのでしょう。毒は千影には効きませんが、忍様はノーマルなのですよ。』
「なるほど、強力だ。身をもって知ったよ。」
夜、忍は細心の注意を払ってショーの実の皮を剥き、焼肉に少しだけ乗せて食べてみた。
倒れることはなかったもののかなり痺れたので、乾燥させないとだめだということがわかった。
今度は気絶しなかったので、ついでに土の中級魔法【リムーブポイズン】を試すことができた。
楽しそうに七転八倒している忍を千影は妙な気分で見つめていた。