運命の女神
『……辛かったのだろう。苦しかったのだろう。』
頭の中に気持ち悪い声が響く。
ここは真っ暗で、上も下も、右も左もわからない。
いや、右手がポケットを探り当てた感覚がある。
残念ながらポケットの中にはなにもないのだが、手の位置から考えてお気に入りだったパーカーを着ているのだろうか。
人が完全な真っ暗闇に身を置くと、そのうち狂ってしまうと何かで聞いたことがある。
さっきまでのことは夢だったのだろうか、それならそれもいいかもしれない。
人生のロスタイムを生きるなんて苦痛以外の何物でもない。
自力でそれを終わらせることもできない。
死にたくて死にたくてたまらなかったのに、一度失敗したら今度は怖くてたまらなくなった。
気持ちはあれど、ついに二度と試みることはできなかったな。
『……心残りもあろう。しかしここにはなにもない。』
さっきと同じ、しわがれた声が言った。
おそらくは悪夢の部類なのだろう、頭がぼうっとしている。
自分が置かれている状況がよくわからない。
話しかけてきている声のことも全く覚えがない。
相手の姿や周辺の状況が見えれば? そもそもこれは本当に夢か?
思考がまとまらない。
あぁ、どうせなら耳ざわりの良い声で話しかけてくれ、そうだな、あのゲームのあの子のように。
……しわがれた声が、言った。
『お兄ちゃん。ひとつになりましょう。』
「ぱんぱかぱーん!おめでとうございます!あなたは異世界に召喚されることが決定しましたー!」
アンケートの書き込みをするようなボードをかかえた女の子がクラッカーを鳴らし、ハイテンションに叫ぶ。
この子は何を祝っているのだろうか。
私、天原忍は俗に言うところのニートである、オタクコンテンツと食事と妄想ぐらいしか楽しみがない生活を送り、人との交流などほぼ皆無というかできないし、女性というものにはむしろ恐怖さえ感じる男だ。
両親の負担になっていることに負い目を感じつつ、心の古傷と折り合いをつけきれないで、今日もまた部屋にいるだけの存在。よくある社会の鼻つまみ者である。
自分のことを考えれば考えるほど心が死んでいく、やめよう。
「えー、あなたは30歳の誕生日の朝! 部屋に突っ込んできたトラックに潰されて死んでしまいました! で、本来は魂を浄化されて生まれ変わるところを、わたくし、運命の女神の権限で異世界に召喚されることになります! 激強能力のおまけつきで!」
「やだ。」
反射的に一言を発していた。
こういうシチュエーションは、色々なコンテンツで見てきたが、なにかしら頼まれるパターンが考えられる。
魔王を倒せ、世界を救え、国を立て直せ、何を頼まれてもできる自信などない。
忍は何よりも人と交流するのに、世界に、生きるのに疲れていた。
このまま第二の生がはじまるなど、何かの罰ゲームなのだろうかと考えるほどに。
「いやいやいや、体も心も強化します!魔法も使えますよ!最低3種の魔法属性!攻撃に対する耐性!」
まるでネズミ講のセールスのような勢いである。
忍はそんなところから彼女に小娘という若干ばかにした印象を持った。
「なんなら伝説の剣の目の前に召喚しちゃいますよ! いきなり伝説の剣ゲット! 召喚直後に英雄確定ですよ!」
やかましいセールストークを聞き流しながら周りを観察する。
空は晴天で、彼女の後ろには大きな石造りの階段、その上にそびえ立つのは神殿であった。
画面の中でしか見たことのない巨大建造物、パルテノン神殿だったか。
無数の石柱に支えられた屋根は崩れておらず、少なくとも自分の立っているところが忍自身の知っている場所ではないことを物語っていた。
現状、これが夢でも妄想でもあまり差し障りはない、どっちであってもおそらく自分の現実は変わらないはずだ。
問題は目の前の小娘が真実を言っていた場合だ。
その場合、この無能ぽっちゃりおっさんニートが追加の人生を歩むことを強要されることになってしまう。
他人を観察することは、長年の苦しみの中で忍に染み付いてしまっていた。
その経験からして、彼女はおそらく嘘を言っていない。
しかし、こちらをミエミエの特典でなんとかいいくるめようとしていると見た。
高校生くらいか、月桂樹の冠にシンプルで真っ白なオフショルダーのドレスが似合っている。
格好だけならよくある女神のテンプレートそのままだ。
長い金髪は艶があり毛先がくるくるとカールしていて、同じ色の瞳から涙が零れそうになっていた。かなりの美少女である。
しかし、自分が不利と見るなら女性は涙ぐらい平気で流せるものだ。
早口でセールストークをしながら紙ににペンを走らせている彼女を見て、忍は若干引き気味になっていた。
「なにかほしい能力とかありませんか! できる限り融通しますよ! しますから~……」
しばらく圧力をかけていると小娘はべそをかきだしていた、泣かれても困るのだが。
怪しいとはいえ取り付く島もないというのはよくないかもしれない、黙っていると怖いと言われたことがあったな。
とりあえず口を開いてみようか。
「なんで、私?」
忍は見逃さなかった。
この質問で彼女の眼が泳いだのを。
怪しさが飽和状態である。
「意味がわからない。何かごまかそうとしている?」
彼女は少しだけ言い淀んだが、空気に耐えかねたようで口を開いた。
「……あなたが選ばれたのは、ランダムの結果です。誰でもよかったといえばよかったんですが……。」
この一言で、忍の抑え込んでいたなにかに限界が来てしまった。
大きく息をすい、間髪入れずに脊髄反射で声を荒げる。
「まず部屋にトラックってなにさ!」
「神様ってもう少し威厳とかあるんじゃないの、なんで勢いでなんとかごまかそうとしてんの?!」
「なんかめっちゃ必死になってるけどそこまでしないといけない意味がわからん、理由を先に言え!」
「ランダムって何さ!適当なのか?!答えろ!なんだこれーーー?!」
「ぎゃー!ごめんなさい!ごめんなさい!全部説明します!」
ここまで色々と棚上げしていたが、積み上げきれなくなったツッコミが降ってきてしまった。
彼女は怯んだ様子だったが、深呼吸して一拍置くと状況を話しだした。
「まず、えーっとお名前はなんて読むんですか?」
そこからかい。
「しのぶ、あまはらしのぶ。」
こいつ今まで名前読めてなかったのか。
忍の神様のイメージが音を立てて崩れていく。
「すみません! えー、忍さんの死因は事故死です。誕生日の朝、自宅の一階にあったあなたの部屋に居眠り運転のトラックが突っ込んできたんです。 家が半壊する大事故だったんですが、朝方だったのもあって犠牲になった方は忍さんだけでした。」
なるほど、たしかに自室は大きな道路に面していた。
壁を壊してトラックが入ってきたというのはまったくないとは言えない。
「つぎに、えっと、ごまかそうとしてると言うか必死な理由でしたよね?」
「詐欺にしか見えない。どうしてこうなったか?そうまでしてなにをしてほしいのか?」
薄々気がついていたが、どうやら彼女はポンコツのようだ、一気に質問してしまったことも手伝って混乱している。
ちなみに、天然やポンコツという部類は忍の最も苦手とする部類の相手である。
彼らが発生させるイレギュラーの処理はとにかく大変なのだ。
「実は、わたくし運命の女神はですね。これからあなたの行く異世界の神様のひとりなんですが。あまり評判がよろしくなくてですね。話も何も聞いてもらえないんじゃないかと考えまして。」
言われてみれば運命の女神って気まぐれなやばいやつというイメージはある。
ガチャで運命の女神を邪神と揶揄して、血の涙を流す者のなんと多いことか。
「わたくし本来の仕事は運命の試練を神託として教えたり、少しだけ信者の皆さんの運勢を良くして手助けをしたりすることなのですが、この神託がものすごく不評でして。 受けた方がどうにかできるものを神託として与えているのですが。 ほとんどの場合、無視されるようになってしまって……。」
経験がある、無視というのは心を蝕んでくるからな。なんかこいつも大変なのかもしれない。
「その神託ってあんたと喋ったりはできる?」
「よっぽど信仰してくれているのならそういう事もできますが、普通は映像をちょっと夢に見るくらいです。先程は反応もなしにいきなり拒否をされてしまいましたから、ちょっと必死になってしまいました。」
一方的に夢で映像を送られても、きちんとメッセージを受け取れるわけがない。
神託なんてそんなもののイメージもあるが、彼女の言っていることは仕方ないことに思えた。
ちょっとくらい嫌な夢を見ても、そんなことを気にするものはそうはいないだろう。
「やってほしいことはですね、あの、魔王を倒すことと、わたくしの布教もお願いしたいです。ランダムのお話と関係しているのですが、あなたは拒否はできません。ごめんなさい。」
「うわぁ、横暴。しかも無理そう。」
なんか少しかわいそうな気になってきていたが、頼み事のハードルが高すぎないだろうか。
「布教はできればでいいので! ごめんなさい!」
打倒魔王は確定してるのか、こちらに拒否権はないらしい。
良い条件だけを並べ立ててなんとかしようとしていたのは、こちらに少しでも前向きになってもらいたいからだろうか。
怪しすぎて学生の頃連れて行かれた宗教勧誘を思い出してしまった。
神様本人から勧誘されていたわけなので間違ってはいないのだが。
いや、勧誘じゃなくて強制入信になるのか?
「ランダムというのは、わたくしのできることに関係しています。運命の女神は運命を確定させることはできません。運命とは常に変化しているものなのです。運命の範囲を狭めることはできても、運命の決定はランダムなんです。」
いきなり哲学的なことを言い出したな。
なんだろう、コミュニケーション能力不足の空気を感じる。
「すまない、もう少し具体的に話してくれるとうれしい。」
「あ、そうですね、あなたの場合は[15才以上30才以下、魔王を倒せる可能性がある]という範囲でランダムに選ばれたんです。わたくしはこのランダムの範囲を決めることはできるんですが。特定の人を選ぶことはできないんです。」
なるほど、なんとなくわかった気がする。
武器がほしいと願えば、武器が出てくるが、武器という範囲でランダムになるという感じか。
武器であれば剣でも槍でもでる可能性はあるが、特定のものは選べないしボールペンみたいなものが出る可能性もある。
「あー、なんとなく状況はわかった。拒否権がないならもうしょうがない。」
「ごめんなさい、他の神様なら望んでいる人を連れてきたり、こんな強制みたいにならないことが多いんです。そのかわりできる限りの加護を与え、あなたのサポートをするとお約束しますので。あとは、ほしい能力とかご要望をお聞きします。」
また人生がはじまるのか、しかも強制で、とても各種異世界モノの主人公たちのように前向きにはなれない。
考えれば考えるほど忍の目は死んでゆき、もはやゾンビのような土気色の顔になっていた。
「……あの、大丈夫ですか?」
「あー、要望、だっけ?」
そんな事言われてもぱっとなんて出てこない。
「ごめんなさい、もう時間が。」
急かされた、時間制限まであるのか。
「……じゃあ……仲間に裏切られたくない。」
この一言は、半ば思考が停止していたからこそ、素直に出てきた忍の心からの願いであった。
「わかりました、あなたの進む先に運命の車輪の加護があらんことを。」
こうして天原忍は、違う世界に召喚されることとのなったのだった。
『お兄ちゃん。 ひとつになりましょう。』
さて、このセリフから思い浮かべた娘は育ちがよくてピアノが得意なお兄ちゃん大好き正統派なのだが、果たしてこれはどういうことか。
イントネーションは完璧、セリフの内容も悪くない。
しかし、世の中をお兄ちゃん萌えで席巻したあの娘は、断じてこんな地獄の底から響いてくるような声ではない!
「なめとんのかぁ!」
思わず叫ぶと同時にガバっと起き上がる。地面が……ある、どうやら倒れていたようだ。
大きめの教室くらいの四角い部屋、周りにはいくつか灯籠のようなものがあり、広い空間を明るく照らしていた。
部屋の真ん中にはレッドカーペットが敷かれ、その先には思わせぶりな祭壇のようなものがある。
その祭壇の後ろには、光が届かない漆黒が広がっていた。
最初、その先には空間があるように見えたが、すぐにそれは間違いだと気づいた。
灯籠が漆黒の空間に対して近すぎるのだ。
煌々とした灯籠の光は祭壇の向こう側を照らすことなく、その空間との間でぷっつりと途絶えてしまっているように見える。
不意に、光を通さぬ黒一色のそれが、蠢いた気がした。
『……なぜ、効かない。』
頭の中にあのしわがれた声が響いた。