第九話
続きです。
よろしくお願いします。
私と私の界隈は穏やかに時を過ごし、ゴールデンウィークは今日を含めてあと二日となった午前中、父と母は仲良く買い物という名のデートに出かけ、兄は少し前に部屋に戻って何やらゴソゴソやっているみたい。
「ふむふむ」
私はリビングのソファで仰向けになったり俯せになったりしながら父のツマミの残りのさきイカを咥えて口先で動かしたりして解説付きの民法のテキスト、この連休前に自分で買った、最新版、2010年法改正にも対応、と帯に書かれているものを読んでいる。噂では、民法を制する者は試験を制する、らしいから。
「ほほう」
これは、私と明日香とあまちゃんの三人揃って駅まで歩く学校からの帰り、マクダナルズでまったりしていたらあまちゃんがちょっと寄りたいと言った駅に隣接するモールにある本屋さんに一緒に寄った時、あまちゃんと明日香が雑誌コーナーに向かうなか、私はひとり、偶然目に入った資格試験のコーナーの前までふらふらと行って、そこに居た人たちの真剣な顔付きと雰囲気に感化されてその気になって手に取ってそのままレジに向かってしまった私はあの時一体何を血迷っていたのか、素直に入門編にしておけば良かったなと今ちょっとだけ思っているテキスト。
「いやいや」
もともと勉強を始めてから、法独特の小難しい文言や抉った言い回しに慣れておくのもいいと思っていたし、これは絶対に役に立つと思って買ったわけだし、高くはないけど安い買い物でもないから無駄になんてならないしさせないししないし本棚の飾りにもしない。
だって、私はもう成年後見人と成年被後見人についてはちゃんと理解しているし保佐人のことだって知っている。なんなら補助人も付けてもいい。ほら大丈夫。ちゃんと成果があるんだから私は血迷ってなんかいない。
けど私には癒しが必要。
「んしょ」
体を起こしてスマホを取って、アプリを開いてプレイリストをタップする。曲が始まればテンションが上がる。
そのテンションの力を借りて、迷わずやるぞっ、やればわかるさっと気合を入れて私は再び文字を読み込んでいく。
「えーと、なになに」
それから暫く頑張って、スマホが鳴らすプレイリストが中盤を超えた頃、私はテキストから顔をそ向け…上げた。
「うーん? どうなのこれ」
こうして法というものに触れてみて思うことは、法とは個人の心情とか感情とは別の所にあるように思えること。たぶんそうだし、そうでなければいけないだろうと思うけど、私はど素人だから今は感情を優先させてしまう。
判例。私の感覚で理解できるものもあれば理解しづらいものもある。テキストの注釈にある判例とその解説を読んでみると、そう言う理屈? 言いたいことはわかる。わかるんだけどなぁと思うこともあったりして、私の感覚がその裁判の結果についていけなくててどうもしっくりこない部分があるというのが本音。
それに、同じような裁判で同じ法律を適用しているのに判決が異なるのはどういうことか? 詳細を知らないからなのかもだけどちょっとまだよくわからない。
とは言え素人の私がそんなことを思っても何の意味もないから、この道に進みたければそれについてはたくさん触れて慣れていくしかないということ。
「よし。じゃあ」
次、じゃなくて終わり。私の脳が限界を迎えてしまったようだからしょうがない。今日はここまでにしてあげる。
私はテキストを閉じた。こんな日もある。
「んんーっ」
腕を大きく上に上げて伸びをひとつ。背中と腰が伸びて気持ちいい。
スマホから特にお気に入りの曲が流れている。リストは私の厳しいチョイスだけに私の感性によく合っていて、こっちは違和感なく私の中に入ってくる。とてもわかりやすくて凄くいい。
もうすぐ私の好きな曲のエンディング部分。合わせて歌いたくてうずうずする。
「うーううううー、ぅおうぉう、いぇっ、いぇっ」
「美月」
「ごなっ、はーぁぁいー、あなっ、はぁぁいー」
「おーい。美月」
絶妙なタイミングでリビングの扉が開いて兄が姿を見せた。既にボーカリストと同化していた私は口を噤まず歌いながら顔だけ向けた。もう少ししたら俺も出かけると言っていたからその時間が来たのだろう。
「はぁぁぁあいっゃ、てれてん」
「相変わらず気持ちよさそうだな」
「うん最高」
「よかったな。俺そろそろ出かけるから」
「わかった…ん? もしかしてデート?」
何やら気合いの入っているようなないような兄の服装。普段使いの服の他にちょいとお洒落な服とアクセ。心なしか清潔感も増している気がする。ただ、イケメンかとかカッコいいかと言われると、それは私にはよくわからない。
「おう」
兄を見たことのある明日香を含めた中学の同級生はみんな、美月のお兄さんカッコいいねって言ってくれた。けど、妹の私には兄の見た目がカッコいいかどうかは今目の前にいる兄もよく見てもやっぱりよくわからない。酷くはないし自慢の兄だしそのうちいい男になるだろうなとは思うけど。
「やっぱりね。うん。その格好悪くないよ」
「そっか」
褒められてやはり満更でもない顔の兄。じゃあ行ってくると手を挙げて、私に背を向けてリビングを出た。私はその兄の後ろをくっついて行き、スニーカーを履く兄のその背に声をかける。
「今日帰って来るの?」
「あー、んー。いやぁ、うーん。あー、うーん、あー」
歌? 違った。呪文? いきなりの事態に私は兄は一体どうしたのだろうと首を捻る。
私は特にまずいことを訊いたとは思わない。大学生になってから兄はたまに、兄曰く一人暮らしの男友だちだぞと言い張る人の部屋に泊まったりもするし、出来たばかりの彼女さんがどうか知らないけど兄は成人。学生とは言え自らの責任に於いてなんでも出来る大人だから。
「一応聞いておかないと父さんと母さんが心配するでしょ」
「あー、うー、えーと」
壊れたままの兄は言いにくのかしどろもどろでいつまでもハッキリしない。その態度が答えだと気づいていない。わざと私にあんな本を見せるために机に置いていたくせになにを今更と思う。
けど私には兄を困らせるつもりはないから話を切る。帰ってこないのならちゃんと親に連絡するだろうし。
「まぁいいけど。気をつけてね」
「お? おう。サンキュー」
「違うよ。今回は彼女さんがあの本みたいにならな」
「あーあーあーあー」
お前なぁと嫌な顔ひとつ残して、兄は声を上げながら出かけて行った。けどその足取りは軽やかだった。
私はそんな兄を玄関の扉が閉まるまで見送った。そして玄関が閉まったあとも、玄関脇の小窓には顔を寄せて、その浮かれているように見える兄の姿を見送っていた。
リビングに戻ってソファに座る。みんなはデートで私はひとり。
「いいなぁ」
と思う。けど、何もしないと決めている今の私ではこの格差をどうにかするのは無理。衝動にかられて今あるものを失うくらなら、裏と表でヒソヒソ言われて嫌な思いをするくらいなら我慢する方が絶対マシ。
想いを告げて得るものと失うもの。何も得る物が無いのに天秤にかけられない。そんなのは当然のこと。わかっていること。
成人まであと四年弱。大人になった私に期待するしかない。けど。
「四年かぁ。長いなぁ」
恋人がいる、とは一体どんなだろう。もしも私に恋人ができたなら、私も世界が変わってキラキラ眩しく輝いて見えるのかな。凄く満ち足りた気持ちになるのかな。
彼氏がいるクラスの子たち、みっちーや千佳子が彼氏の話をしている時は嬉しそうだし楽しそう。彼氏と一緒にいる時はいつもより表情が柔らかくて優しげに見える。彼氏に何か言われて照れている姿が私には余計に可愛らしく見える。私はそれを女性としてとても羨ましく思う。
「いいなぁいいなぁ」
明日香と恋人になることを想像したことがある。そういう妄想じみたことを今もたまにやってしまう。明日香と恋人になって一緒に過ごして手を繋いで肩を抱かれて抱きしめ合ってキスをして、とか。その先のことだって何度かある。
そんな時はいつも、そうなったらいいなぁ幸せだろうなぁ嬉しいだろうなぁ楽しいだろうなぁとニヤニヤしてしまうけどあとから寂しさや虚しさがやって来る。
私の想像は経験の無い私の想像だから、結局私の想像通りなのか全然違うものなのか謎のまま。経験のない私が百回想像しても誰かがする一回の経験に決して敵わない。
さっき足取り軽く出かけた兄だって、少なくとも二回は経験している。兄のウキウキする様子が羨ましいと思うし、恋人関係というものに憧れてしまう。
バレないように何もしない。そんなのわかっているけど恋人という存在には凄く憧れる。私だってと思ってしまう。そして私はそれがとても怖いことだと思っている。
こんなふうに、私の気持ちは年相応にいつもぐらぐらぐらぐら揺れている。
「なんだかなぁ」
時計を見るとお昼前。今からどうしようかなぁと考える。残っていたさきイカを知らずのうちに惰性で全部食べていたからお昼ご飯は今は要らない。出かけるにしても一体どこへ行けばいい? 明日香はお父さんのお墓参りを兼ねた里帰り。あまちゃんは家族で海外だって言っていた。クラスの子、みっちーたちもそれぞれ予定があった筈。
なんだか急に独りぼっちになった気がしてきた。
テンションが駄々下がる。これはちょっとヤバかも。私はこうなると暫く元に戻らないから今日の残りをうだうだ過ごすことになりそうな。
けどこんな日もある。私は大丈夫。
側にはスマホ。プレイリストを一周して頭から再生中。座った姿勢のままソファにパタリと転がってその音に意識を向けると好きなバンドが彼女はピンクが似合うと歌っている。それなら私はどうなんだろう。
私に似合う色は一体どんな色? 金色? それとも別の色?
年内の更新はここまでです。
ところでみなさま大掃除はお済みでしょうか?
私は三十日の午前中までお仕事ですのでまだしていません。ははは…
では、来年もよろしくお願いします。
読んでくれてありがとうございます。