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第六章 -15



 15



 同月四日、テレンティアの仕切り直しの誕生日会が、マエケナス邸で開かれた。「近衛隊」の隙のない警備の中、第一人者アウグストゥス、クラウディウス兄弟、そしてその母リヴィアまでが招待されて、乾杯をすることとなった。

 当初の予定より、さらににぎやかで華やかな宴となっただろう。詩人たちはいつにもましてテレンティアに群がり、盛んにほめそやした。彼女とリヴィアが並び、杯を傾けながらなにやら話しはじめた時は、一人また一人と逃げ出していったが。

 この日もテレンティアはだれよりも華やかで、輝いていた。しかし胸中は決して華やいではいなかったはずだ。七日前の誕生日当日は、あのような陰謀の舞台と化した。しかも首謀者は、かつての取り巻きであり、義理の兄となったムレナだったのだ。実兄ヴァッロの死からようやく立ち直りかけていた矢先のことだった。

「誕生日会と言いますが、テレンティア、あなたはいったいおいくつになったの?」

 テレンティアを横目でにらみ、母リヴィアが尋ねた。ここで異父兄プロクレイウスまでが逃げ出した。女王クレオパトラとさえ交渉したはずの人物が。

 しかし勇敢にも二人の前に留まり続けたのが、詩人ホラティウスだった。脚を引きずりがちではあったが、順調に回復しているのだろう。彼だけは楽しそうに婦人二人の会話を盛り上げていた。

 やがてテレンティアが笑い、母リヴィアも笑った。そろって腹を抱き、腰を折り、涙さえ浮かべて苦しそうにしていた。一世紀に一度の奇跡だ。ティベリウスはほっとしたが、女とはやはりわからないと思った。

 一方、継父はといえば、ドルーススを連れて庭園に出ていた。噴水のまわりで踊り子たちが舞うのだという。楽隊も用意を整えていた。

「ネロ、いいかい?」

 ティベリウスは宴の席を外した。この邸宅の主が、彼の私室にいざなった。

「君はぼくに怒っているのだろうね」

 そのとおりだった。アウグストゥスの片腕であろうと、国家の大人物であろうと、ティベリウスは彼を前にしてむくれ顔を隠せていなかったかもしれない。

 マエケナスはティベリウスのために、温かい葡萄酒と魚介の串焼きに高級ガルム添えたものを用意させていた。ティベリウスを向かいの長椅子に座らせ、彼は杯を揺らした。

「たぶんずっと前からだ。君の友人が来てくれなくて残念だ。彼は大丈夫なのか?」

「ええ」

 例によってルキリウスは、遠慮をして来なかった。ティベリウスは切り口上で言った。

「どうしてあの二人をここに置いておいたのですか? カエピオは論外として、ムレナもです」

「妻が男友達好きでね」マエケナスは震えて首をすくめた。「取り巻きが一人でも減ると、どうしてどうしてと大騒ぎする。おかげでぼくはいつまでも不眠だ。色々な酒を試したが、万策尽きつつある」

「マエケナス、失礼ですが──」

「わかっているよ」マエケナスは苦笑した。杯に口をつけ、それから少し真面目な顔になった。「おかしな話だと思うだろうが、ムレナのためだった。カエサルのためでもね。君も気づいてのとおり、ムレナのような共和政主義者は『市民よ、自由を奪われて奴隷に成り下がるのか』と嘆く。では、彼らの自由とはなんだ? 衣食住に困らないこと、職を選べること、選挙に行けること、そして思うがままに発言できることだ」

 ティベリウスが目をしばたたく間に、マエケナスは「自由」を定義してしまった。雄弁家が嘆きそうだ。

「たとえそれが国家への批判、第一人者への反駁でもな。好きなように演説させ、詩を作らせ、学ばせねばならない。そうしなければ、真の美とは生まれ得ないんだ」

 杯の向こう側で、マエケナスの目が鋭い光を帯びた。

()()()()()()()()()()()。言論を制限してみたまえ。それこそローマ人全員が気づく。我々はただ一人の人物の統治下にある、と」

「だからといって──」

「そうだな。此度はのさばらせすぎた」マエケナスは背中を丸めてため息をついた。「結果的にムレナたちを死なせた。……ああ、テレンティアにはまだ言ってないが、彼は昨日息を引き取ったよ。医者のところで」

 ティベリウスは黙した。

「君が負わせた傷のせいじゃない。あれは自害だったよ」

 マエケナスはそうつけ加えるのだが、それは問題ではない。ティベリウスは先日の裁判でムレナに極刑を求め、元老院に承認させた。彼を死なせたことに違いはない。

「ともかく君とその友人にも負担をかけたな。だがこれで、カエサルは堂々と護衛つきで歩けようさ。執政官でなくても」

「それは後付けと申しますか、結果を利用しているに過ぎないのでは?」

 すべては「近衛隊」の首都常駐を認めさせるためだったとでも? あれほどアウグストゥスを危険な目に遭わせておいて? ムレナとカエピオを陰謀に走らせるがままにしておいて?

「あの日、私が甘かった、か」マエケナスはうなずいた。「ごもっとも。だが君の元財務官隊を、大っぴらに首都に置くには、時期尚早だった。申し訳なかったが、あれが限界だったんだよ。ぼくとしても、よりによって妻の誕生日にはやめてほしかったんだけどね。あんな流血沙汰は」

 ティベリウスは苦りきった顔をするしかなかった。「私が逸ったためですか」

「いや、ぼくの落ち度だよ。間違いなく」苦笑し、マエケナスは杯を盛んに揺らした。「いくら万年寝不足とはいえ、あの人数の賊を、ムレナとカエピオがかき集めるままにした。二人だけ取り押さえて事無きを得ようとしたのが甘かった。君には本当に感謝しているんだよ、ネロ。彼らはおそらく最後にはぼくも殺し、財産を奪い、妻を好きにするつもりだっただろう」

「ホラティウス殿は?」

「君も見たとおり、彼はなにも知らなかった。確かに思想としてはムレナの側だろうさ、彼は。でも……わかるんじゃないかな、ネロ? 我が半身と思う人がいたなら、考えることを」

 まるでティベリウスにも半身と思う人がいて、それがだれだか知っているような口ぶりだ。だがそのように表現しなくてもいい。ホラティウスにはマエケナスがすべてだ。主義思想をかなぐり捨ててでも守りたい人だった。

 そのことが、ムレナとカエピオにはわかっていなかった。否、わかってはいたから、間際まで仲間に引き入れようとしなかったのか。いずれにしろ二人は、ホラティウスの思いの深さを計り知れなかった。

 そしてそれがホラティウスに限らなかった。彼らの敗因だ。

「あとはプロクレイウスが、無関係の客たちを屋敷の奥にかくまってくれていた。おかげで余計な犠牲が出ずに済んだ。君の友人は不服だろうけどね。カエサルも」

 妻子まで人質にされかけ、身代わりであわや死ぬところだったルキリウスは、ここへ来て文句の一つも言う権利があっただろうに。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、マエケナスはからりと笑うのだった。

「全部やりおおせていたら、彼らは今頃エジプトの神を名乗っていたかもしれないな。あの私領を盗めたら世界一の富豪だった」

「それは無理です。そうでしょう?」ティベリウスは忌々しがって言った。「彼らは神になれない。どれほど驕り高ぶったとしても」

「そのとおり」マエケナスはうなずいた。そして今度はすっきりとした笑みを浮かべるのだった。「今日を区切りに、カエサルとは少しずつ距離を置くつもりだ。カエサルとしても、もう以前ほどぼくを必要とはしないだろうからね」

 それは意外な宣言だった。二十年間──おそらくティベリウスが生まれるより前から、マエケナスはアウグストゥスを支えてきた。顧問として、陰ながらというわけでもない。マルクス・アントニウスら政敵との交渉をこなした。アウグストゥスの代理の権限で、首都を統治したこともあった。それこそエジプトを私領とするまでひどく金詰りだったアウグストゥスへ、経済的助力も惜しまなかった。

 そんな彼が、引退するとでも言っているのだろうか。

「それはアグリッパが帰ってくるからですか? カエサルの婿として」

「それもあるが。それだけじゃない」マエケナスは空の杯を差し向けた。「君がいる、ネロ」

「マエケナス、私ではあなたの代わりになれません」

「もちろんだ」

 彼は不敵に笑う。未だ自信に満ちて、自分以外にこの役が務まるものかと言うように。

 マエケナスの代わりなどいない。マエケナスは唯一無二だ。これまでも、これからも。

「だが君がいる。君のあの頼もしき友人たちがいる。もうカエサルはアグリッパとぼくだけが支える人じゃない」

 だからこのように言われて、ティベリウスは目を見張ったのだ。

「ローマが支えていくんだよ。カエサル・アウグストゥスという名の人を」

 マエケナスの目は冷徹で、曇りもなかった。

 そうだ。そうならなければいけない。ムレナの望むような共和政体ではないかもしれない。けれどもそれは、単なる独裁政治でもないはずだ。「カエサル・アウグストゥス」の下に一つとなり、彼を支えながら、共に平和と繁栄を享受する。そんな世界は、きっとかつてなく多くの人々を自由にし、幸福にするはずだ。我こそと希望を抱いて生きる者を、一人残らず。

 そういう世界を、ティベリウスは見たいと思ったのではなかったか。確かにアウグストゥスは第一位の後継者を失った。だが新しい世紀は留まらない。必ず来る。

 きっともう来ていることに、人々は気づきつつある。

 マエケナスは穏やかに、だが決意を込めるように言うのだった。

「芸術家たちの後援に専念するつもりだ。彼らはなにを創作してもいい。しかしこの空前絶後の黄金の時代を、芸術に遺さないなんてそんな悲劇は許されない。歴史の怠慢、人類の損失だ」

 彼にはまだ、やるべきことがあった。否、これからこそが真の我が生きる意味と考えているのかもしれない。

「美なくして永続するものはないんだよ、ネロ」

 彼はティベリウスに片目を閉じてみせた。

 永続。

 いずれローマにも滅びの時が来ると、かつてスキピオ・アエミリアヌスが言った。

 そのとおりであるのだろう。それでもなお永続するものとはなんだ? 芸術家たちの遺す作品。歴史の記録。建造物──。

 継父はマルケルスの名を永遠に残してみせると決意した。しかしマエケナスの考えどおりなら、継父こそ、最も名を残さねばならない人だ。世界の歴史に、永遠に。

 カエピオが本当に未来から来たのだとしたら、彼は見たのだろうか。名を残したローマ人を。ローマの亡骸を。亡骸と呼ぶにはふさわしくないほど、輝いていてくれたなら幸いだ。

 彼の話をもっと真剣に聞いてみるべきだったかもしれない。神話にもあるが、未来を知る者の声は、だれにも聞き取られないものだ。運命を変えることは叶わず、悲劇は幕を下ろす。だれにも相手にされないから、彼はあのような性格になり、あそこまでの凶行に走ったのかもしれない。

 マエケナスに勧められるがまま、ティベリウスは二杯目の葡萄酒を干した。最初の腹立たしさは今や静まり、むしろ胸がすっきりしたような思いでいた。我ながら単純な性質であるのかもしれない。

 しかしそんなティベリウスへ、マエケナスは少し意地悪げな笑みを浮かべてささやいた。

「ここだけの話だがね、アグリッパと君の二択だったんだ。ユリアの次の婿は」

 ティベリウスは三杯目の葡萄酒をむせた。

 考えてみれば、このうえもない人物だった。それでも皆があれほどに驚いたのは、アグリッパが既婚者だったからだ。「姉上の婿を譲ってください」とアウグストゥスはオクタヴィアへ頭を下げたそうだ。

 マエケナスはさらりと続けた。「カエサルには、アグリッパを婿にするか、殺すかの二択だと申し上げた」

 もう葡萄酒を飲むどころの話ではなかった。怒るより正気を疑って、ティベリウスはマエケナスを見つめた。

 だが彼は気にも止めない様子だ。

「政治とは命がけなんだ、ネロ。あの二人がどれほど懇意で、互いが互いの半身であるとしても、アグリッパを婿にしなければ、いずれ彼を厄介と思う日が来る。カエサルもそれがわかっていたと思う」

 そんなはずはない。カエサルとアグリッパに限って、そんな日は永遠に来ない。マエケナスはなにを言っている。

 しかしティベリウスも心のどこかでは認めざるを得ない。あくまで一般論として、と抵抗しながら。歴史とは、権力争いの記録だ。国であれ、都市であれ、部族集団であれ、そしてほんの一家族であれ、見渡せば今もそこかしこで起こっている。二人の懇意である情とは別の現実が、ひっそりと迫り来る恐れはある。情を殺して別のなにかを取らねばならない状況が、絶対に訪れないとは言えない。

「それでも正直、ぼくは君を推すべきだと思った」

 マエケナスは淡々と続けた。ほとんどやめてほしいと訴える目で、ティベリウスは彼を見ていた。

「仮定の話だが、万一、カエサルが数年以内に病没したとする。果たして元老院は、アグリッパを第一人者として認めるだろうか?」

 こんな仮定に意味などあるのか? これこそが情を抜きに考えねばならない現実なのか。

「軍事に、公益事業に、あれほどの実績がある男でもだ。これも時期尚早なんだ。文明社会は歴史というものを背負う。どんなに大きな変化も、その過去の流れのたどり着く先だ。そして、人間とは貴種が好きだ。貴族ら自身もだが、庶民と奴隷に至るまでだ。血にこだわる生き物なんだよ。カエサルでさえ、出身は騎士階級だが、薄くともユリウス一門の血が流れているのは事実だ。だからぼくは、いざという時は君のような貴顕の男が表に出たほうが、元老院も市民も納得すると考えた」

 アグリッパが地方出身で、生まれが低いとささやかれていることを、ティベリウスは知っていた。だから彼は、昔から若いティベリウスに丁寧な言葉を使った。今はそれが彼からの親しみであると感じているが、少なくとも始まりはそうだった。

「どっちにしろ、君もアグリッパも大変な苦労をするだろうがね。長生きしていただかなきゃ困るよ。我らが初代カエサル・アウグストゥスには。彼がだれよりいちばん、わかっているだろうがね」

 そのとおりだ、とティベリウスは気を持ち直す。病は仕方がない。だができることならばそれに冒される恐れが小さくなるよう、継父を支えていかなければならない。彼を理解し、その労苦を減らし、重責を少しでも代わって担う。健やかで、幸福で、長生きをしてもらう。これこそ共に生きる者が、彼へ捧げられる愛だ。そしてローマと世界のためになることだ。

 平和であるように。健やかで、幸福で、永く続くように。

「アグリッパと君、そして若きドルースス。これからは君たちの時代だ。それでも担いきれないほどの重荷がのしかかるかもしれないよ」

 望むところだ。

「仲良くやってほしいものだね」とマエケナスはにやりと笑う。「ちょっと見てみたい気もするが。もう数年経ったくらいに、アグリッパと君が戦場で相まみえるとか。男とは馬鹿だからね。ただあいつに勝ちたいというだけで、戦争をするものだ。君もそそられないかい? ねぇ、今回の決定は、君にとって残念だったんじゃないだろうか?」

「アグリッパは私の最高の義父です」ティベリウスは杯を干した。マエケナスと二人で飲む、最初で最後の酒のつもりだ。「永遠に感謝します。あの人が我々といてくれることを」






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