第六章 -14
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二日後、ティベリウスは元老院議場に立った。ムレナとカエピオを、第一人者に対する陰謀の咎で告発したのである。被告二人は出席を求められたが、どちらも姿を見せなかった。ムレナは一昨日の傷が癒えていないため、カエピオは逃亡したためだった。
ティベリウスは弁護人を務めたことはあったが、告発者になるのは初めての経験だった。言葉の調子に気をつけながら、数多くの証拠、証言を元老院に提示した。
投票が行われ、ムレナとカエピオの有罪が確定した。しかし言い逃れのしようのない証拠が出そろっていながら、無罪票もわずかながら投じられていたことがわかった。
閉会後、ティベリウスは継父とともにパラティーノの丘に帰った。継父はティベリウスをカエサル家に招いた。
家の門をくぐるなり、継父はため息をついた。「被告が出席せずに逃亡しているような裁判で、無罪票とはな」
「すみません」
ティベリウスはまた自分の弁論が厳しすぎたのだと思った。けれども継父は首を振った。
「お前のせいではないよ、ティベリウス。罪はどうあれ、ムレナをかばいたい者がいるというだけだ。強情な心は変えられんよ」
継父はティベリウスの肩に手を置いた。
「まぁ、殺されずに済んだだけよかったと思おう」
ティベリウスは継父を見た。そうするといつのまにか歴と目線を下げるようになっていた。
「もう二度とこんなことがあってはなりません」
「わかっている。気をつけよう」
「カエサル」
「ティベリウス」継父は微苦笑を浮かべた。「時々お前は私にも口うるさくなるな。心配性というんだぞ。まるでアグリッパが帰ってきているみたいだ」
「……」
ティベリウスはアグリッパがアウグストゥスに口うるさくしているところを見たことがない。だがきっとティベリウスの見えないところでそうだったのだろう。無二の友であるから。
「ストラボたちの詰め所を、パラティーノに設けようと思う。元老院に行くとき以外、同行させる。それでいいな?」
「……失礼しました」
「いいよ。まぁ、ムレナみたいな者らはますます気に食わないだろうがな。しかしこれで護衛を受けるにやむを得ない理由が明らかになったわけだ」
継父の笑みは、ひっそりとしたたかに見えた。元財務官隊を「近衛」として置いたならば、軍の私物化であるとの非難が必至だ。しかし継父はいずれ近衛配備を通すつもりでいたのだろう。本土防衛という名目の下。
「さぁ、中へおいで」
継父に連れられ、アトリウムを抜け、中庭に出る。マルケルスの石像の前を通り、カエサル家の祭壇まで来て、ティベリウスは驚く。
「お帰りだったのですか」
母リヴィアが椅子に腰かけていた。向かい合ってオクタヴィアも座っていた。
二人のあいだにはトーガが掛けられていた。今継父が着ているものと同じ、白地に裾を赤く縁どった元老院議員用のトーガだ。
継父以外、この家に元老院議員はいない。けれどもそのトーガは、どこか懐かしい柔らかさを帯びているように見えたのだ。
否、ティベリウスにははっきりと見えた。
彼がいた。
「ティベリウス、来月一日より、お前を元老院議員とする」継父が告げた。「次の会議には、このトーガを着て席についてほしい。……本当は新品を用意するべきなんだろうがな、これを連れていってもらいたいのだ」
マルケルス。最後の一年間、彼は十九歳にして元老院議員だった。造営官の任務をこなす傍ら、これを着て登院していた。
オクタヴィアが立ち上がり、息子のトーガを衣架から下ろした。トーガとは大人の背丈の三倍ほどある。母リヴィアも手を貸した。
愛おしい我が子を抱くように、オクタヴィアはティベリウスの前に来た。差し出された両腕は、生まれたての赤子を抱かせるそれだった。
「ティベリウス、あの子を忘れないであげてね」
両眼に涙をたたえ、オクタヴィアは願った。
「これからも一緒に、ローマを守ってくださいね」
トーガを両腕に継ぐと、ティベリウスは振り返った。柱廊のマルケルスは、青空を見上げて微笑んでいた。
ネロ家に帰った後、議員用トーガを抱いたまま、ティベリウスはしばらく柱廊の片隅に座り込んでいた。
「ティベリ様?」
ティベリウスは飛び上がるほど驚いた。十一歳の婚約者が傍らに来ていた。そういえばあの陰謀沙汰の後、心身落ち着かなかろうからと、結局ネロ家に呼んで休ませることにしたのだった。
振り向いてから、気づいた。ヴィプサーニアもはっと息を呑んだ。
ただでさえ自刃したくなるほど恥ずかしかったが、よりにもよっていちばん見られたくない人に見られた。ティベリウスは大慌てで顔をこすった。
トーガはくたりと、ティベリウスの膝から階段に下がった。マルケルスがにやにやと笑っている気がした。
ヴィプサーニアはトーガの襞の中を迷わなかった。濡れていたに違いないティベリウスの手を取り、しかと握った。大きくて足りないと思ったらしく、もう一方の手も重ね、ぎゅっと力を込めた。ティベリウスは仕方なく空いたもう一方の手で主に目元を覆った。どこもかしこも熱い顔だった。しかし指のあいだから覗けば、ヴィプサーニアには動揺の気配もなかった。
気丈夫だ。見上げるほどに。婚約者のそれは無論だが、こんな男の顔を、彼女は見たことがあっただろうか。
「……ずっとこらえておられたのですか?」
ティベリウスの手を抱きながら、ヴィプサーニアは尋ねた。
「…………違う」ティベリウスは認めるしかなかった。「泣けなかったんだ。あの悲痛の中で、薄情だろう?」
「違います」ヴィプサーニアはきっぱりと言った。「ティベリ様は強くあろうとしたのです」
そのとおりだった。心の弱さを認めた瞬間、自分が自分を保てなくなってしまう。半ば無自覚だったにせよ、ティベリウスはそれを恐れて、必死になっていたのだ。
それきり黙したまま、ヴィプサーニアはティベリウスの手を離さなかった。その間、ティベリウスはもう数度顔をぬぐわなければならなかった。つくづくひどいと思った。八歳も年下の少女──それも婚約者に対して、もう取り繕う体面もなにもないとは。
しかしヴィプサーニアは、このことをだれにも言わないだろう。ティベリウスはこの婚約者をすでに信頼していた。
婚約者。
「ヴィプサーニア」
ティベリウスは顔を上げた。とんでもないことを忘れていた。
「はい」
「次の元老院会議は八月一日だ。明後日だが、その前に君に知らせておくことがあった。私はその時初めて登院するが──」
「ティベリ様」
ヴィプサーニアがなにやら決然と立ち上がった。腕を吊られながら、ティベリウスはきょとんと見上げた。
「でしたら今、そのトーガをお召しになってください」
「いや、だから会議は明後日で──」
「その前に、きちんと練習しませんと」ヴィプサーニアは声にも腕にもなお一層力を込めた。「マルケルス様のトーガを、きちんと合わせてみませんと」
「そうか?」
「はい」ティベリウスの手をそっと下に置いてから、ヴィプサーニアはどんと胸を叩いた。明らかにアントニアの影響だ。「どうかわたしに、今お手伝いをさせてください」
「いや、ヴィプサーニア……」思いもかけない展開に、ティベリウスは目をしばたたいた。「あとで奴隷を呼んでやらせるよ」
トーガとは着るのが案外手間で、専門の奴隷数人がかりの仕事になることもある。ティベリウスはさておき、流れて連なる襞の一つ一つにこだわる者ならばなおさらだ。
だがヴィプサーニアはやる気満々、大真面目だった。「お任せください! わたしは父のお召しを整えたことがあります」
「ヴィプサーニア……」
「決して器用ではありません。でもなんとか予行にはなるよう、がんばりますから、どうか、どうか……」
「いや、かまわないのだが、どうしたんだ、急に?」
悲壮にさえ見えはじめたヴィプサーニアの表情が、ティベリウスには解せなかった。するとヴィプサーニアは精一杯のように笑った。
「一度でよいのです。ティベリ様の妻のような行いをさせてください。これっきり、最初で最後かもしれないのですから」
ティベリウスは飛び上がった。
「ヴィプサーニア!」
やはりとんでもないことを放置していた。慌てて婚約者の前に立ち、その肩を両手で引き寄せた。トーガが翻って階段に伸びた。
見つめれば、ヴィプサーニアの両目はうるんでいた。それでも頑張って微笑んでいるのだが、触れれば今にも崩れてしまいそうだ。
「誤解するな、ヴィプサーニア」
ティベリウスはかまわず彼女の両頬を挟んだ。
「私たちは結婚するぞ! 必ずだ! 実は、次の元老院会議である発表がなされるのだが、それは──」
八月一日、ティベリウスはマルケルスのトーガを纏って元老院議場に座っていた。隣にはルキウス・ピソが機嫌良さげに腰かけていいた。
「成人式の時とはずいぶん違って見えるな。同じ白地に赤を足しただけなのに」彼はティベリウスにささやいた。「マルケルスの形見だからというだけじゃなさそうだ。ドルーススも今回はあまりからかわなかっただろう」
「ああ。でもどうしてだ?」
「十年も前から着ているように見えるからだ」
「それはつまり、私が老けて見えるということか?」
「簡単に言うとそうなるな」ピソはくすくす笑った。「怒るな。威厳があるのはいいことだぞ。十九歳童貞とはとても信じられない」
ティベリウスはピソのふくらはぎを蹴った。
「ティベリウス、君は美しいぞ」苦笑して脚をさすりながら、ピソは言った。「少年に見えないだけで。ところで来月、とうとうぼくも身を固めることにした」
「ああ、聞いた」
「アヘノバルブスとアントニアの式の、次の吉日だ。レントゥルスがまた破産したら、ぼくたちの養子にしてやると脅かしておいた」
レントゥルスも来年には元老院議員のトーガを纏ってここに座るのだろう。継父もそうなるにふさわしくするため、多額の資金を援助した。
会議自体はつつがなく進行した。第一人者が手を上げて発言の機会を求めたのは、閉会する間際だった。
私的なことではあるが、私が甥を失って以来、諸君らも切に気にかけてくれたことゆえ、ここで報告したい、と。
議場はこの時までで最もどよめいた。だがその頂は、次の発言の後だった。
「我が娘ユリアが婚約した。夫となり、我が婿となるのは、マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパである」