第六章 -12
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「あー、やっぱり見張りがいるな。どう考えてもムレナの仲間だよなぁ……」
ルキリウスは小声でぼやいた。アウグストゥスと二人、木蔭に身を隠していたが、見張りどもは正門前の戦闘に色めき立つし、正門前からはぽつぽつ逃亡者だか仕損じだかが流れてくるので、これ以上動くのは危険であるように思われた。
けれどもじっとしているのも心もとない。ティベリウスたちは奮戦しているし、もう大丈夫だろうが、まだ戦闘そのものは終わらない。庭園や邸宅のあちこちになお敵が潜んでいる恐れもある。
見張りどもの声が近づいてきた。戦闘離脱者たちと合わさり、現状をがなり合っていた。アウグストゥスはこちらへ逃げたはずだと知らせる声も聞こえた。
ルキリウスはそれで意を決した。いつでも飛び出せる体勢で低く構えてから、遠慮がちにアウグストゥスを見た。そこでさらに思い立った。
「カエサル、恐れ入りますが、そのお召しのトーガを貸していただけますか? ……いや、たぶん返せないんですけど……」
「なにをするつもりだ?」
アウグストゥスが訝った。ルキリウスは自嘲した。
「なぁに、我が父の真似事です」
言いながらルキリウスは、アウグストゥスを転がす勢いでトーガの裾を引っ張った。複雑な着方をしているせいでそう簡単にはいかないのだが、なんとかその一部を剣先で切り裂いた。
ぽかんと眺めているアウグストゥスを傍らに、ルキリウスは短くしたトーガを首から二の腕にかけて巻きつけた。自分の動きの制限にならない程度だ。薄紫色で、たぶんお気に入りなのだろうが、高級な生地というわけでもない。リヴィアかオクタヴィアかユリアの手ずからの品かもしれない。申し訳ないが、また作っていただくしかない。
夕焼けはすべての色を赤く染め上げる。だがマルクス・メッサラからの贈られたあの赤い帯を、なぜなのか携えていた。長めであちこちへ跳ねた自分の髪を、それで抑え込む。きっと風にもなびいて、良い目印だ。
「ここでお待ちくださいね」ルキリウスはアウグストゥスへささやいた。「すぐ戻りますから」
「待て」
飛び出しかけたルキリウスを、アウグストゥスが腕をつかんで止めた。この人はルキリウスがなにをやろうとしているか、もはや察しているようだ。
「どうしてそうまでしてくれる?」
「ぼくとコルネリアのことを、許してくださったじゃないですか」ルキリウスは苦笑した。「それにアウグストゥス・カエサル、あなたはいちばん大切な人です。ぼくにとって、いちばん大切な人の」
アウグストゥスの腕をそっと退け、ルキリウスは木蔭の外へ出た。
「あなたを守らなけば、ティベリウスが不幸になるんだ」
そうだ。ルキリウスにとってはローマの行く末とか、そういう御大層なことはどうでもいい。父がブルートゥスの身代わりになった時のように、国家の政体のために戦うつもりはない。
ただ友のためだ。友の幸福を守るためだ。
いつか守りきれずに滅ぶとしても。
赤い帯を翻しながら、ルキリウスは駆けた。わざと目を引くように、盛大に草木を踏み散らして。
「いたぞ! アウグストゥスだ!」
上等だ。彼らの目もメロエ人のカンダケ並みだ。まして金髪とは夕焼けの下にあっても唯一目立つ色らしい。
七人ほど引きつけたところで、ルキリウスは彼らに向き直った。あとは取って返し、彼らを一人ずつ一撃の下に沈めていくだけだ。貫き、まわし斬り、叩きつけ、斬り上げ、薙ぎ、また貫き、そのまま突き飛ばして最後の一人をよろめかせ、とどめを見舞う。その間、すべての攻撃をかわして済ませた。疲れがあり、三筋ほど浅い傷を負ったが、気にする程度ではなかった。
顔を上げると、そこにカエピオが立っていた。戦意も窺えなければ、日頃の忌々しい余裕の影もなかった。まさに茫然自失の体だ。
「どうしたんだい、カエピオ?」
恐るべき相手ではないと、ルキリウスは知らせてやったつもりだ。今まで散々侮って、心を弄んできた相手だ、と。
「こうなる未来は知らなかったのかい? それとも、ぼくが無名すぎて、死に様くらいしか歴史に残っていなかったのかい?」
ルキリウスが近づいても、カエピオは微動だにしなかった。切っ先を喉元に当てられても変わらなかった。
「武器を捨てろ」
命じると、カエピオは言われたとおりにした。ただ震える五指をかろうじて広げ、剣を地面に落としただけだ。
ルキリウスの切っ先は、ほんのかすかにカエピオの喉からの血で染まっていた。
「……俺を殺すのか?」
そう問うので、また少し血が吹いた。
「殺さないよ」ルキリウスはそれで満足することにした。「どうせあんたは極刑だ。自分で決めた運命なんだから──」
「ルキリウス!」
届いたティベリウスの声は、ほとんど悲鳴だった。ルキリウスはぎょっとして振り返った。気配がなかった。あったとしてもアウグストゥスだろうと思っていたのだ。戦士の殺気ではなかった。
だが彼は殺す気でいた。それが初めての素人ゆえ、ルキリウスはかえって気づくのが遅れたのだ。だが間に合わなくはなかったはずだ。相手も愕然として、止まろうとしたのだ。
振り向きざまの一撃は打てなかった。カエピオが剣刃を素手でつかんで止めていたからだが、そうでなかったとしてもルキリウスにはできなかっただろう。
ヴェルギリウスだった。彼の短剣は、アウグストゥスの切られたトーガのすぐ下を突き抜けた。刹那、全身を走り抜ける激痛に、ルキリウスの意識は遠のいた。
「ルキリウス!」
凶刃もカエピオも押しのけ、ティベリウスがルキリウスを抱きとめてうずくまった。
おいおい、おいおい、カエピオ。
ぼくは「思いのほか長く」ティベリウスと一緒にいられるんじゃなかったのかい?
余計なことを言うから、思いのほか短いと思ってしまうんだよ……。