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第六章 -10



 10



 マエケナス庭園内の惨状を眺めながら、ルキリウスはつくづくティベリウスの友人になってよかったと思った。おかげで彼とその弟という、貴族の皮を被った大猪を敵にまわさずに済んだからだ。

 ドルーススは十六歳になっていた。兄がヒスパニアで軍団副官を務めたのと同じ年齢だ。自身も従軍していて、あの時からずっともどかしい思いを抱えていたのだろう。早く戦いたい。存分に暴れてやりたい。

 今、その願いが叶っているところだった。十六歳の槍使いは、次から次へとムレナの仲間たちを貫き、打ち飛ばし、見るからに手のつけようのない勇猛ぶりだった。ルキリウスはティベリウスの槍筋を見たことがあったが、あれよりももっと速く、激しく、そして大振りに見える。近くの兄が巻き添えで吹っ飛ばされていないのが信じ難い。

 一方、ティベリウスは弟の槍の間合いから逃げる敵を、瞬く間に始末していった。槍は確かに有利だが、一方で肉体を貫いてから抜き出す時、どうしても隙が生じる。深々と突き刺さったならなおさらだ。しかしティベリウスは、ほとんどだれにも気づかれないうちに、弟に生じるわずかな隙を埋めていった。抜き放たれ、また振りまわされる柄を自身も食らいそうになりながら、すんでのところで消えて、また次の敵にグラディウスを見舞う。まるで暴れ狂う軌道をすべて読んでいるかのようだ。おかげでドルーススは無傷のまま、まったく思うとおりに戦うことができていた。

 けれどもやがてドルーススも気づいていった。そして驚いたことに、戦いながらにして自らの槍筋を修正していった。無謀な大振りが減った。穂先の狙いもより的確になり、抜き出す間の無用な隙もほとんど消え失せた。ティベリウスはこれを見て取ると、もう大丈夫だろうとばかりに弟からもう数歩距離を取った。そうして戦線を伸ばし、自身へ群がる敵へさらに冴えた一撃を打ち込んでいくのだった。

 さながら破城槌のように突進しておきながら、今や鉄壁の壁だった。とはいえ兄弟はただ二人の人間、ないし猪であるので、彼らに近寄らないようにとても大まわりして、本来の目的を果たそうとする輩も出た。ルキリウスの役目は、そういった数名を着実に片づけるだけでよかった。

 けれどもとはいえ、多勢に無勢だ。非常に。そしてアウグストゥスを石塀の向こう側へ押しやる考えは、放棄したほうがよさそうだ。踏み台を用意したところで、アウグストゥス自身が登るに覚束なげな様子であることが一つ。叛徒の群れの向こう側から、槍やら矢やらまで飛んできていることが一つ。

 これでは狙い撃ちだ。クラウディウス兄弟の奮戦にも関わらず、敵勢は減った様子がない。むしろ増えていっているように見える。一方、兄弟がマエケナス夫妻とホラティウスのところまでたどり着いた瞬間、待っていたとばかりに甲冑姿の男たちが、柱廊の蔭から飛び出してくる。ストラボに見える姿もある。元財務官隊だ。彼らは叛徒どもをクラウディウス兄弟と挟み撃ちにした。

 だが彼らを潜ませていたのがマエケナスだとしても、彼の見通しも甘かった。たった八人だ。誕生日会の最中、ムレナとカエピオとその友人を押さえるだけなら事足りると考えたのかもしれない。プリマ・ポルタのリヴィアたちのところへ、多数を割り振るしかなかったのかもしれない。とにかく不足だ。ムレナとカエピオはこの日のために屈強な戦士を買いそろえておいたのだ。この邸内の奴隷に混ぜてもいたのだろう。

 だったらなにもこのぼくなんかを引き入れようとしなくてよかったのに、とルキリウスは胸中ぼやくのだった。ユルス・アントニウスに蹴られたうえに逃げられたために、連中も相当慌てたのだろう。アウグストゥスを暗殺し得たとて、「旗印」がなければ早晩破滅だ。例の暗殺者一味でさえ、そうなった。マルクス・ブルートゥスがいながら。

 ティベリウスがアグリッパの家に泊まり込んだ六日間、ルキリウスも少しだけ自身の生活を変えていた。午前はコルネリアと共にアポロン神殿に行き、そこでそのまま勉学し、午後の肉体鍛錬からティベリウスと合流することにしていた。ところがそのようになったちょうど始めの日あたりから、図書館長ヴェルギリウスの様子がおかしくなった。

 ──今日は来なくていい。

 ──早く帰るんだよ、コルネリア。ロンガッラのそばにいておやり。

 ──そうだ、ルキリウス。首都を出るべきだ。ほら、この暑さだしな。

 ──ご家族全員でだぞ。皆そろって行くべきだ。ガリアへでもヒスパニアへでも、またアレクサンドリアへでも……。

 ──明日も明後日も図書館を閉じるから、ここへは来ちゃだめだ。

 どう見てもおかしかったが、とうとうヴェルギリウスは本当に図書館を休みにしてしまった。ルキリウスはそれでも心配して、この昼、コルネリアとともにこっそりアポロン神殿へ様子見に出かけた。ひと月前、ムレナとカエピオに絡まれた翌日から護衛させている、奴隷二人も一緒だった。

 ヴェルギリウスは館内のどこにもいなかった。神殿内にもおらず、すさんだ仕事部屋をそのままに、大詩人は忽然と消えてしまっていた。

 ルキリウスは困り果てて閲覧室に戻った。するとそこで、血まみれで倒れている奴隷二人と、コルネリアに剣刃を突きつけている物騒な男ども五人がいた。

 内一人が、ルキリウスに言った。自分たちはルキウス・ムレナの同志であり、恐縮ではあるが、奥方と共にマエケナス邸までお越し願えないか、ロングス殿。できれば手荒な真似はしたくない──。奴隷二人を血祭りに上げ、コルネリアを抱えながら、連中は脅かしたのだった。

 ギリシアでもローマでも、たぶんほかのどこでも、神殿と名乗る場所へ武器を持ち込んではならないことになっている。だからルキリウスは剣もなにも持っていなかった。護衛の奴隷たちでさえ、控えめな警棒を携えている程度だったのだ。

 不敬な者どもの予定外の第一は、ロングス殿の奥方にあった。この元女剣闘士もまた武装していなかったが、それでもかつて夫との愛の証とした強力な棘付きの指輪があった。それを不敬者の顔面に叩きつけたのだった。

 あとは神殿内だろうとかまわなかった。向こうが先に暴力を振るったのだ。不敬者どもから剣を奪い、ロングス夫妻はたちまち返り討ちにした。

 しかし全員を始末することはできなかった。外にも見張りがいて、返り血まみれのロングス夫妻が現れると、彼らはすぐさま逃げ出した。

 これで問題は終わりではなかった。そのしくじり屋どもの一部が、東ではなく西へ逃げたのだった。マエケナス邸ではなく、アヴェンティーノの丘。ロングス家の位置を、もう五年も前にムレナとカエピオに知られていた。

 ロンガッラ。

 だがだからこそヴェルギリウスはおかしな様子を見せていたのだ。ルキリウスもそれで神殿に来る前、家の警備を厳重にしてきた。叔父と母とその夫へ、自分が帰るまで絶対にだれも家に入れてはならないと言った。

 そうは言っても俺たちの稼業ってもんがあるからなぁ──などと叔父がこぼすので、ルキリウスは結局急ぎ実家に引き返すことにした。叔父たちだってさすがに警戒はするだろうが、万一のためだ。それにルキリウス自身、このまま非武装状態でいるわけにもいかない。

 陰謀がすでに始まっているのだ。

 コルネリアも一緒に来たがったが、ルキリウスはパラティーノの丘に残すことにした。ネロ家へ行き、ティベリウスに知らせるように。そうすると彼はマエケナス邸に直行するだろうが、ぼくもロンガッラの無事を確保し次第そこへ向かうから、一人で無茶をせずに待っているように。宴の開始までまだ時間があるはずだから。

 そう言伝てし、大急ぎでロングス家に引き返し、その門の前で不敬者どもを追撃して倒し、娘の無事を確認し、後のことをくれぐれもと叔父に頼みながら貯水槽に顔を突っ込み、水筒も突っ込み、自身の剣をひっつかんで、また駆け出した。たどり着く前に倒れそうだった。

 ティベリウスも守り、家族も守る。そういう道を選んだ結果がこれだ。無理難題であり、だから後者をそもそも持つ意思がなかった。ところが結局こうなった。せめて二度も三度も足を引っ張る事態は絶対に避けなければならない。ティベリウスに救われるのさえ、二度と許せない。妻子をムレナとカエピオの人質とされ、ティベリウスとアウグストゥスを殺すよう強制される。そんな目も当てられない未来は断固拒絶する。

 それはそうと、真夏に三丘を下りて上るをくり返すとは死ぬ思いだったが。途中、槍を数本抱えてとても元気そうなドルーススと行き会った。全部アグリッパのものだそうだ。

 こういうわけで今のルキリウスは、到底元気溌剌とは言えない具合だった。来たはいいが、すでに体力が尽きる寸前であるとは情けない話だ。ティベリウスには見抜かれていただろうか。だからアウグストゥスを任せて後ろに置いたのか?

 ルキリウスは次に来たゲルマニア人らしき巨体を一撃の下に屠った。さてどうすべきか? 元財務官隊が押されていた。敵主力である元戦闘部族らに比べ、体格差、そして経験の差が否めない。そして挟み撃ちする形になった分、かえってティベリウスとドルーススが担う敵が増えている。近くには下手に動くことができないマエケナスとテレンティア、それに負傷したホラティウスもいる。

 率直に言えば、ルキリウスにとって最も大事であるのはティベリウスの命だ。背後にかばう第一人者を含め、全員を見捨ててでもティベリウスだけは守りたかった。

 だがティベリウスにとって、それでは意味がないのだ。

「カエサル」

 次に迫った三人を斬り伏せた後、ルキリウスはアウグストゥスの手を取った。当の第一人者はあ然とした顔をしていたが、かまわず持ち上げて脱出させんとした。矢が飛んでこないか心配だが、もうやむを得ない。ところで日除け持ちらしき奴隷たちはどこへ行った? もう倒されてしまったのか? だったらどこかの蛮勇が考えるように、倒れた敵どもを踏み台にして──。

 そこでルキリウスは石塀を見上げた。考えを変えるに十分な状況がそろっていた。

「こっちです、カエサル!」

 アウグストゥスの手を引いて、ルキリウスは駆け出した。向かうはマエケナス庭園の奥だ。もう陽が傾いている。姿をくらますには十分な緑がある。遠まわりではあるが、敷地外に脱出もできるかもしれない。まだムレナとカエピオの手先が見張りをしている恐れはあるが。

 アウグストゥスの歩みは戸惑っていた。「待て!」

「いや、だめです!」

「……わかった、私はもっと下がる」アウグストゥスは譲歩しているらしかった。「君はティベリウスに加勢してくれ」

「大丈夫ですよ」

 ルキリウスは頑なに第一人者を引っ張り続けた。

「ところでローマの良き家柄のお坊ちゃんたちってのは、だれもかれも常識段階の礼儀を教わってないんですかね? 他人の家には壁をよじ登ってお邪魔するべからず、とか」






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