第六章 -7
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ティベリウスはマルスの野を横切り、中央広場へ飛び込んだ。人混みをかき分けて、パラティーノの丘へ急ぐ。
もう少し事態を把握するべきだったかもしれないが、事は急を要した。まずなにより継父に知らせねばならない。その無事を確かめなければならない。
とはいえ最初には計らうべきは、アグリッパ家にいる者たちの身の安全だった。可能性は高くない──そう考えたいのはティベリウスの願望に過ぎないだろう。ユルスがカエサル家ではなくアグリッパ家に駆け込むと思い至る可能性。つまりマルケッラとドルースス、アントニアの入れ替わりから、ティベリウスがアグリッパ家に滞在していると知り、それを考慮して動く可能性。
あの陰謀屋どもが。
ユルスの話が本当であるなら、もはや連中に言い逃れはできなかった。連中にもそれがわかっているはずだ。陰謀はすでに走り出したのだ。
プリマ・ポルタの別荘から、ユルス・アントニウスは一人で逃げ出したのではなかった。彼のマントを取り払ったその下に、見間違いようのない少女がいた。
ユリアだ。
ティベリウスはヴィプサーニアと絶句した。いったいどういうわけか。
ユリアはいく分興奮しているように頬を赤らめていたが、それ以外何を考えているかは窺えなかった。
「人払いしろ!」
この状況で、緊急事態だとも叫んでおいて、ユルスはそう言い張ったのだった。
「お前とぼくたち、あとはドルーススとアントニアだけだ!」
応接間の天幕の仕切りだけでは心もとなかった。それでヴィプサーニアが彼らを自室に招き入れた。
しかしそれからユルスが伝えた話は、とても落ち着いて聞いていられる内容ではなかった。
プリマ・ポルタにリヴィアとオクタヴィア一行が滞在して以来十日、静かでゆったりとした時間を過ごす予定だったのだろうが、往々にしてそこへ友人たちの来訪というものがある。首都にいても会えるのだが、同じように避暑をして、田園暮らしの気分を味わいたいのだろう。妹のマルケッラが夫プルケルを伴って現れたのに続き、親戚、友人、その夫、その夫の友人──と膨れていき、気づけば決して数少なくはない別荘の居室が埋まるほどになっていたという。その中には、リヴィアやオクタヴィアの後援を受けている、あるいはこれから受けたがっている作家や芸術家もいた。
気づけばユルスは、敷地端の部屋で、ムレナとカエピオから杯に葡萄酒を注がれていたという。
最初、ユルスは二人がなにを話しているかわからなかったそうだ。
「オクタヴィア殿にぜひ見ていただきたい。マルケルス殿を讃える詩を作ったので」
そんな話から始まったはずだった。
「まったく惜しいことだ。マルケルス殿は心が優しく、実に素直な少年だった。生きていたなら、いずれローマに共和政の再興を、真の意味で実現してくれたはずであるのに」
主に話していたのはムレナだった。徐々に雲行きが怪しくなっていったという。
「意味深ですよねぇ、ユルス? 真の意味って、まるで今が共和政じゃないみたいだ」
カエピオが頻繁に茶々を入れるので、ユルスはしばらく二人がなにか冗談を言っているものと思ったらしい。彼らは酒を飲んでいた。しかし思えばその茶々が、話をさらに不穏な方向へ連れていった。
「なにが共和政体か」ムレナは顔を真っ赤にして憤っていたという。「みんなあの男にだまされているのだ。カエサル・アウグストゥス! ローマはあの男の独裁下に置かれているのだぞ! 馬鹿な民衆どもはそれに気づいておらん」
「ムレナ、八つ当たりはよせよ。このあいだの裁判で、アウグストゥスの鶴のひと声で負けたからって」
「ふざけるな、あの男め! ローマも属州も同盟国も、全部我がもの、カエサル家のものと見なしている!」
「おいおい、そんな真実をあまり大声で言うもんじゃないぞ。コルネリウス・ガルスの二の舞になりたいのか?」
「真実を叫べば殺される世界! アウグストゥスに気に入られなければ将来もない世界! 我々はそんなみじめな生き方を欲しているのか?」
「それはごもっともだが、だからってユルス殿に八つ当たりするなよ。彼はアウグストゥスの欺瞞がわからないほど馬鹿じゃないぞ。なにしろ彼は、かつて世界の半分を分かち合った男の息子なのだからな」
「マルクス・アントニウス!」とにかくムレナはその名を叫び、ユルスに飛びついてきたそうだ。その口に杯を押しつけんともしたという。「あの人だってただ自由に生きたかっただけだ。かわいそうに、ユルス! あの男に父親も兄も殺された。母親だって殺されたも同然だった。それなのに君は、残された弟妹のため、必死でアウグストゥスに従順であらんとしている」
「落ち着けって、ムレナ。勝手にユルス殿の立場を決めつけるな。どこかの民衆のように、気づかなくて幸い、見ないほうが安らかな現実というものがあるんだ」
「では生きながら永遠に虜囚であり続けろと言うのか、この立派な青年に? なんという残酷か。いずれアウグストゥスの気が変わって殺されるかもしれないのに?」
「オクタヴィアがいるうちは大丈夫だろうよ。彼女が生きているうちは──」
「しかし彼女の弟は、なんの罪もないアンテュルスを殺したのだ。まだ十五歳の子どもだった。さぞかし無念だっただろう! どんなにか怖くて苦しい目に耐えたことだろう! アウグストゥスめが、マルケルスを失って、少しはその痛みを思い知っただろうか。罰が当たったのだ!」
「迷信深い考え方をするなよ、ムレナ。若きマルケルス殿だって気の毒じゃないか。それに、ユルス殿に共感を求めているみたいじゃないか。心のどこかで、いい気味だと思っていないか……なんて」
「今こそその機会ではないか、ユルス?」
激しい目眩の最中で、ユルスはそのムレナの言葉を聞いた。
「お父上と兄上の無念を晴らす時。そしてご自身をアウグストゥスの虜囚から救い出す時!」
「…………あなたがたはさっきからなにを言いたいのか?」ずきずき痛む頭を押さえながら、ユルスは尋ねた。「ぼくにどうせよと言っているのか?」
「わかっているはずです!」ムレナは言い張った。「マルケルスが死んだ! ユリアに子はいない! 今こそが最大にして最後の機会!」
「なんの──」
「あの男が滅べば、ローマは必然元のあるべき姿を取り戻す! ユルス・アントニウス、立ち上がってください! 我々が力を貸します!」
「『ブルートゥス、お前もか』」カエピオはにんまりと笑っていた。「かの大叔父殿と同じ顔を、アウグストゥスにもさせたくないか? 君こそその最も間近な目撃者になれる。ムレナはその御膳立てをしたくてならないらしい。止めてやってくれ。演劇の観過ぎだと」
しかしムレナは、すでにその「御膳立て」を仕上げる間際にいるらしい。人手も集めた。仲間はこのプリマ・ポルタにも来ている。あとはいつ、どこで実行するか──。
もうそれら一切も、ムレナは決めていると言った。あとはあの三月十五日を再現するだけだ。独裁者から共和政体を取り戻さんとした、マルクス・ブルートゥスの勇気。元老院と大ポンペイウスの遺志を継ぎ、彼は正義を果たした。神君カエサルは、友人だと思っていた仲間大勢に斬りつけられ、ポンペイウスの石像の下で命果てた。
アウグストゥスを同じ目に遭わせようとしているのだ、このムレナは。そしてかの人に最期の絶望を与える役を、ユルス・アントニウスにやらせんとしているのだ。
温情をかけ、実の甥同然に育ててきた若者。彼の手で刃を突き立てられるとは、いかばかりの衝撃か。
一方でムレナたちには、担ぎ上げる神輿が必要であるのだ。共和政体の復興、そしてアウグストゥスの独裁専横への反旗。ユルスとはこのうえもない適任だ。彼らの暗殺行為を正義にし得る。少なくともそう思い込んでいる。
カエピオに茶化されながら、ムレナは勝手に話を進めていった。ここで下手なことを言えば、ぼくがまずこの場で殺されるに違いない──頭のどこかでそう考えたと、ユルスはティベリウスに言った。
ムレナはそれから、ユルスを安心させるためか、あれこれ条件を述べはじめたという。成功した暁には、ユルスを元老院議員として、さらに第一人者の称号を与える法案を通すつもりだとか、亡父アントニウスがアウグストゥスにより奪われた財産をすべて彼に返還するだとか、ヘリオスとプトレマイオスの将来も保証するだとか。
オクタヴィアはどうするべきか。一緒に殺すのか?
カエピオの笑い交じりの問いが、一瞬にしてユルスの酔いを醒ますところだった。
だがムレナが即座に首を振った。「だめだ。とんでもない。オクタヴィア殿はローマ婦人の美徳の象徴だぞ。彼女を殺したら、市民の支持を得られない」
「息子に続いて弟まで死んだら、オクタヴィアもいよいよ死んだほうがましだと思うだろうよ」
「彼女の娘たちも殺さない。だから生きる理由はある。それでも自死するならば、どうぞお好きにと言うしかないが」
「マルクス・アグリッパはどうするんだ? 怒って東方から軍勢を差し向けてきたら? 勝てるのか、君が?」
「元老院でやつを『国家の敵』と認定してやるまでだ。アウグストゥスと仲違いして引退した男だぞ。今更なにができるか」
「だったら、どうだ? ティベリウス・ネロも殺しておけ」
カエピオは愉快でたまらないといった様子でそう進言したという。しかしムレナは顔をしかめたらしい。
「どうしてだ?」
「継息子だろ。それに、君は彼に嫌われている」
「嫌われているのは君だ、カエピオ。そうでなければ彼も誘いたいと、私は考えていたのに」
「いやはや……面白すぎる」カエピオは腹を抱えて笑っていたという。「確かに彼でもブルートゥス役はできる。だが悪いことは言わない。彼もアウグストゥスとまとめて殺しておけ。今のうちだ」
「我々はネロもリヴィアも殺すつもりはないぞ。当面はな。でなければ、やはり市民の支持を得られん」
「ムレナ、君は甘すぎるぞ。アウグストゥスだけ殺せばいいと思っているのか? 確かにブルートゥスたちが殺したのは独裁官カエサルだけだった。だがその後あのアウグストゥスとアントニウスらは、復讐と称していったい何千人の反対派を粛清したのだったかな? どこの国でもやることだぞ。王を殺せば身内も同派も道連れ。当たり前だ」
「我々はローマ人だ。そんな野蛮なことはしない」ムレナはまるで誇らしげに胸を張ったそうだ。「リヴィアは所詮女だ。なにができる。ネロだって、アウグストゥスの血を一滴も引いてはいない。母親がいなければ、赤の他人なのだ。だいたい彼だって、長く共和政体を担ってきた貴族クラウディウス一門の主ではないか。時流が変われば、必ず共和政体を支持する。彼の実父だって、アウグストゥスに死に追いやられたようなものなのだから」
「君はなにもわかっていない」涙さえ浮かべ、カエピオはひたすら笑いこけていたという。「いいから殺せ。頼む、殺してくれ。あの若きティベリウスを、今この時に。そうすればローマの歴史は変わる。保証する。もう取り返しがつかない。私は……どうせならそういう未来が見たいんだよ」
又聞きだが、ティベリウスはカエピオの言葉の意味がよくわからなかった。ユルスもよくわかっていなかっただろう。ティベリウスの危機感を高めたくて、あえて強調したのかもしれない。
「……わかった。それも検討する」ムレナは結局うなずいたという。「できれば味方になってほしかった。彼は腕も立つようだからな。あの友人共々……」
「味方にできないなら、即始末する。これも暗殺の鉄則だろう」
カエピオはとうとうその言葉を口にした。ただしユルスを正気に戻したのは、この次の言葉だった。
「ユリアも殺せよ。後になって、アウグストゥスの孫を産まないように」
ユルスは冷水を浴びせられた心地がしたそうだ。
「女に家は継げない」ムレナはこれにも消極的だった。「ほうっておけばいいのでは? スクリボニアの娘だぞ。大ポンペイウスに連なる血なんだ。殺したら市民が怒る」
「君は他人の目を気にしすぎだ」カエピオはやれやれとばかりに首を振っていたという。「早晩、足下を掬われるぞ。やるからには、徹底的に非情になれ。禍根を残さないように。でも……そうだな、どうせなら殺す前に、私に預けてもらおうかな。容姿のすばらしさは申し分ないからな、あの娘。ゆっくり味見をさせてもらって、それからどうするか決めよう。なぁに、あのご高名なお体は、どうせもう処女ではない。子どもを授からなかったことからするに、マルケルスとは満足にできなかったらしいが、この私が名誉ある手始めだ。せいぜい愛というものを教えてやり、その泣き様が可愛らしければ、あるいは──」
ユルスの投げつけた杯は、カエピオの耳上へまともにぶつかった。
「……ふざけるな!」
両拳を握りしめ、ユルスは立ち上がっていた。全身がわなないていただろう。
「ユリアを殺すだと? 辱めるだと? 絶対に許さない! あいつが……あいつがいったいなにをしたっていうんだよ?」
それからユルスは、ひるんだカエピオを捨て置き、あ然の体のムレナを突き飛ばし、猛然と部屋を飛び出した。
──暗殺者どもだ!
そう叫びかけたのをすんでのところで呑み込み、気づけばユリアの部屋の扉を叩いていたという。
「来い、ユリア!」
ぽかんと顔を覗かせたユリア。その腕をユルスはつかみ上げた。
「一緒に来るんだ! こんなところにいちゃだめだ!」
オピスや寝室番の奴隷をどう言いくるめたのかはよく覚えていないらしい。オクタヴィアからの急の呼び出しだとか、スクリボニアが病気になったとか、とにかく四の五の言わず黙っていろと脅かしたはずだと、ユルスは言っていた。そうして彼は、信じ難いことにユリア一人を連れて、プリマ・ポルタの別荘を飛び出した。
満月が輝いているとはいえ夜道である。馬もなく、身一つの徒歩だった。道中気弱なユリアを必死でなだめすかしたのだろう。ムレナとカエピオが仲間とともに追跡に出ているかもしれず、街道を通るのははばかられた。道なき林や藪の中をさまようように行くしかなかった。それでもユルスはユリアの手を引き、夜が明け、さらに陽が高く昇ってようやくクイリナーレの丘に到達した。
ティベリウスには信じ難かった。だがユルスがここまでするとは余程のことだし、あのカエピオとムレナならやりかねないと思った。しかし馬を飛ばせばすぐの距離であるのに、母やオクタヴィアからの連絡は来ていない。カエサル邸へ直接向かわせたのだろうか。それともまだ進行中の陰謀に気づいていないのだろうか。ひょっとして、ユリアが気分がすぐれない等で昼まで眠っているものとし、そのままほうっておいているのではないか。オピスらがそう言い張ったのならあり得る。
いずれにせよ陰謀が事実であれば、母やオクタヴィアたちは、事実上ムレナとカエピオの一団に人質にされたも同然だ。ストラボたちはなにをしている。だが彼らとて許可を得たうえで通した客人と信じているのだろう。
ユルスは道中、陰謀屋どもの追跡があったと主張した。けれどもティベリウスはアグリッパの家の外へ出た時、平時と変わった様子は窺えなかった。ムレナたちはユルスとユリアを放置したか? 冗談だったのにと、とぼけるつもりであるのか? 確かに現在陰謀の証人はユルスしかいない。だが彼は非常に思い切った行動に出た。その意味を無視できようか。アウグストゥスの一人娘を一晩連れ出したのだ。追及はまぬかれない。それを覚悟の上で行動に出たはずだ。そしてここまで逃れてきた。
ユルスの顔に迷いは見えなかった。酒かなにかに酔わされていた気配はもう微塵もない。彼はこれが正しいと信じている。
ユリアのために──。
「あたし、殺されるの……?」
ユリアはおびえていたし、疲れた様子でもあった。当然だ。
ティベリウスは自分がまずカエサル家へ急ぐと決めた。継父に事態を報告しなければならない。なにより、すでにムレナとカエピオら暗殺者一味が向かっているかもしれない。彼らはユルスとユリアを取り逃がした。あきらめるより計画を早めることを選ぶかもしれない。半ば自棄を起こして。
そもそも、彼らはいかにして実行に移すつもりか──?
だがもう急がなければならない。
アグリッパ家を出る前に、ティベリウスは残る者の安全を確保しなければならなかった。ムレナとカエピオの追跡はこれから迫り来る恐れがあった。けれども全員を連れ出したら、かえって危険だ。ティベリウスは門番や奴隷たち全員に、ネロ家の印を見せる者以外、決して中に入れてはならないと厳命じた。それからドルーススにネロ家の印章を渡し、これを押した手紙を首都長官スタティリウス・タウルスに送り、警備兵を派遣してもらうように指示した。それまではお前とユルスで女たちを守るように、いざとなったら倉庫の中にでも隠れるように、と。
「兄上は一人で大丈夫なのか?」
ドルーススはうずうずしていた。動きたくてならないようだが、女たちを守る役目は理解していた。肝心のアントニアは「あたしがみんなまとめてやっつけちゃうわ! 大将軍アントニウスの娘なんだから!」とアグリッパの剣や槍を勝手に倉庫に並べ、さらにかの人の考案なる謎の兵器の類まで物色しはじめていたが。ここで籠城戦をする気でいるようだ。
ティベリウスは非常に心もとなかったが、これ以上の手はなかった。だれかを呼ぶにしろ、まず自分が出て行かねばならない。そうしなければだれも守れない。
ユルスは疲れて苛立たしげにしていたが、もういい、早く行けとティベリウスをせかした。ユリアは不安そうに身をすくめていた。ヴィプサーニアはと言えば、うんっと槍を持ち上げて、女戦士アントニアに続こうとしていた。
「大丈夫だ、大丈夫」
彼女の頭にそっと手を置き、ティベリウスは残る全員に言った。
「すぐに警備の者が来る。それまで滅多な真似はするなよ!」
そうして今、ティベリウスはパラティーノの丘に差し掛かろうとしていた。この場から見るかぎり、なお物騒な動きはない。普段と変わりない。
継父はまだ家にいるだろうか。すでにマエケナス邸に発ってしまっただろうか。
ムレナがユルスに話したとおりの考えの持ち主であれば、彼は家にいるところを襲撃するという形は取らないはずだ。ユルスをブルートゥスの役にせんとしたのだ。私的な場ではなく公の場で、ひっそりとではなくむしろ華々しく、彼らの「正義」を果たそうとするのではないか。毒を盛るなどという陰険な手は選ばないだろう。
奴隷たちはいるが、継父には今公的な護衛がいなかった。執政官ならば先導警吏が十二人つくのだが、継父は昨年にその地位を辞退したきりだ。すなわち第一人者であり最高司令官であり護民官特権所持者であるところの人物が、現在は国家から身辺警護を受けない状態で過ごしているわけだ。
今更ながらティベリウスは愕然とする思いだ。
確かにこのうえもない時宜だった。アウグストゥスを亡き者にするには。
なにもこの目で見ていない今は、すべてが推測にすぎない。しかし家にいてくれるならばまだ安全であるはずだ。
カエサル家の門番は、常と変わらず、落ち着き払って立っていた。傍らには、「鶏の家」にある月桂樹の葉からなる花輪が掛けられ、青々と誇らしげに見えた。
ティベリウスはここでいく分ほっとしたが、早すぎた。カエサルは中にいらっしゃるかと尋ねると、門番は否と答えた。曰く、なんと昨夜、結局蒸し暑くて眠れなかったので、より日中の涼が期待できる解放奴隷の家に泊りに行ったという。
ティベリウスはあんぐり口を開けた。
──……このことをだれかに話したか?
──いえ。ですが家の者たちはおおむね知っているかと。
──だが、今日の予定は?
──マエケナス様の奥方の誕生日会でしたら、お目覚め次第直接向かわれるのでは?
ここでティベリウスはようやく思い至った。テレンティアの誕生日会! マエケナス邸! ムレナとカエピオの根城だ。
連中が陰謀を果たさんとする公の場所とは、ほかにあり得ない。
ティベリウスはただちに踵を返した。今ならばまだ間に合うはずだ。まだ──。
駆け出さなかったのは、背後にただならぬ気配を感じたからだ。途切れ途切れの吐息が聞こえる。そして陽光に蒸された空気に乗って、覚えのある錆びたにおいが鼻を突く。
血だ。血のにおいだ。
ティベリウスは振り返った。
右半身をどす黒く染め、コルネリア・ガッラがよろめいていた。