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第六章 -6



 6



 この日の夕方には、母の不機嫌問題に一応の解決策が出された。この暑さでもあるし、郊外の別荘に行って、のんびりと過ごしてきたらどうか。ほかならぬ継父がそう提案したらしい。

 フラミニア街道を十数キロ北上した森蔭に、プリマ・ポルタという土地がある。「鶏の家」と呼ばれる別荘があり、アウグストゥスと結婚した時分から、母が愛着を抱いている。このごろは著名な画家を雇い、以前ルキリウスの母に弟子入りさせた娘たちも使い、壁面に美しい風景を描き出しているという。

 その別荘に出かけたなら、暑さも少しはましになる。家の事にもスクリボニアにも煩わされず、テレンティアのご機嫌を取る夫を見なくて済むというわけである。自分で見ないものは無きことと見なす。母はそういう意志を持ち得る人だ。

 そして別荘へ遠足に出るのは、リヴィアだけではなかった。オクタヴィアと娘たち、ユルスと弟二人、それにユリアも同行できることになったという。ティベリウスは内心ほっと胸をなで下ろした。服喪にも息抜きが必要であると、継父もやっと思い至ったのだろう。そもそも気まずさゆえに、自分が隠し事をしたゆえの事態でもあった。

 しかしいかに近場とはいえ、カエサル家の女たちほぼ全員の警備とは、重大事だ。かつての財務官隊がそれを担うことになった。ティベリウスもストラボたちならば安心と考えられたが、彼らはもはや財務官隊ではないのだろう。

 アウグストゥス、そしてカエサル家の、いわば「近衛隊」だ。

 とにかくこうして、リヴィアとオクタヴィアの一行はプリマ・ポルタに出かけていった。テレンティアの誕生日は十日後だが、夏の暑さが落ち着くまで、母たちは向こうに滞在するかもしれない。広い庭や果樹園、それにプールもあるので、同行者も退屈しないだろう。

 ドルーススも追いかけていきたがったので、勉学はいつもどおりこなすという条件で、ティベリウスは許可した。馬を飛ばせばすぐの距離であるので、好きな時に行って、戻ってくればよい。

 ところがこの数日後、少し困ったことが起きた。姉のマルケッラからの手紙を、ティベリウスは受け取った。曰く、自分もプリマ・ポルタの別荘に誘われていて、数日ほどでも滞在しようかと考えているが、ヴィプサーニアが遠慮して一緒に来たがらない。彼女が強く勧めるので、出かけることにはするものの、ヴィプサーニア一人をお留守番させるのはかわいそうであるので、できればあなたがクイリナーレの家に泊ってくれないか、と。

 ティベリウスはどうしたものかと思った。自分でよければ行ってあげたいのは山々だが、奴隷たちはいるにせよ、主もその妻もいない家に、婚約者とはいえ男が一人泊りに行って良いものだろうか。

 それで結局、ティベリウスはドルーススをマルケッラと入れ替わりで戻って来てもらうことにした。悪いと思ったが、事情を理解したドルーススは快く応じ、そして颯爽とクイリナーレの丘へ馬を駆ってきた。当たり前のように、自分の後ろにアントニアを乗せて。

 ティベリウスは今自分が考えていることの意味がわからなくなってきた。

 いくら事実上公認の仲であれ、この二人は婚約さえしていないのだが……。

「ヴィプサーニア!」

 馬から華麗に飛び下り、アントニアは胸を叩いた。

「あたしが来たからにはもう安心よ! お馬の乗り方を教えてあげる! カエサル公園へヤツメウナギも取りにも行くわよ!」

 アントニアは昔から自分より年下のヴィプサーニアに「姉貴風」を吹かせるのが好きだった。二人の気質はだいぶかけ離れているのだが、気にならないらしい。

 ティベリウスはほっとしたのも事実だった。アントニアがいてくれたほうが助かる。まだ来たばかりだが、ヴィプサーニアがティベリウスに対して臆している様子であるのが、なんとなく見て取れるのだ。これまでにはなかったことだ。

 ユリアの場合と似たように、なにを話していいかわからない自分がいた。しかし最近のヴィプサーニアの変化に関しては、ティベリウスに原因があるのだ。せめて一人にはしたくなかった。

 そうして四人は数日間、アグリッパの家で寝泊まりした。そのあいだも、ティベリウスは毎日ネロ家に帰り、継父のところへも顔を出した。

 七月二十七日、もう陽が沈んでいたが、ティベリウスはカエサル家に入った。前日にこの時間に来るよう言われたのだった。この季節、継父は涼しくなる時間を見計らって仕事をこなすと知っていた。

 継父は中庭にいた。ネロ家から連絡路を通って、ティベリウスは近づいていった。継父はティベリウスに背を向けていた。その前には、頭二つ分ほど見上げる高さに、マルケルスの石像が置かれていた。

 ティベリウスは足を止めた。

 マルケルスの像は、月明りを浴びて静かに輝いていた。今夜は満月であるのだ。

「かわいそうにな……」

 継父がぽつりとつぶやいた。

「どんなにか無念だったろうな。まだ十九歳だったんだぞ……」

 継父はティベリウスには気づいているのだろう。

「健気で、真面目で、こんなに良い子はいなかった。私が……いらぬ負担をかけてしまったのだろうな。私が死にかけた時、そして私が死ななかった時……あの子は、私に認められていないと誤解した。それで……無理をさせた」

「カエサル──」

 ティベリウスは違うと言いたかった。継父に、自分を責めないでほしい、と。

「あの子は私の身代わりになったようなものだ」

 しかし継父はそう続けた。石像のマルケルスの手を、そっと握った。

「喪失は、私の愛の行方ばかりではない。この子はかの『ローマの剣』マルケルスの最後の直系だった。ローマは偉大な英雄の血を永遠に失ってしまったのだ」

 継父と言うとおり、ローマは家を継ぐのは男であり、マルケッラやアントニアの子がマルケルス家を再建させるというわけにはいかないのだった。生前にマルケルス当人が養子を取っていたならば、そうではなかった。たとえ血のつながりはなくても、家系は存続とされる。

 そういう意味では、カエサル家の後継者の喪失を超える痛恨事だった。カエサル家はまだアウグストゥスが生きているので、たとえユリアが子をもうけなくとも、まだやりようはある。しかしマルケルス家の存続はもう取り返しがつかない。

 かつて「ローマの剣」と呼ばれ、世界じゅうにその名を馳せた英雄マルクス・クラウディウス・マルケルス。最期はカルタゴの名将ハンニバルに敗れ、戦場に倒れた。その訃報を知った当時のローマ人の絶望はいかばかりであったか。

 そして当代のマルケルスは、新しい時代の象徴として生きるはずだった。希望は潰えたのだろうか。

 否──。

「せめて私は、この子の名を永遠に残す」

 マルケルスの白い手に、アウグストゥスは力を込めた。

「この子が生きた証を、ローマに……世界に刻んでみせる。たとえ遠い将来この国が亡びる日が来たとしても、永遠に、マルケルスの名は留まるだろう」

 継父はまるでマルケルスの手を捧げ持つようにした。甥の目を見上げていただろう。

「そのために、私はこれからの日々を生きるつもりだ。この子の分まで、やるべきことをやりながらな。ああ、マルケルス……だから安心して休んでおくれ」

 土台まで上がれば、生前のように彼の頬を両手で包んでやることができただろう。だがアウグストゥスは、白く冷たい手に接吻することで、誓いの結びとした。

「お前を忘れはしない。お前が私の息子だったらよかった。そう思わなかった日はなかったよ、愛しい我が甥」

 最後の言葉は、ティベリウスにかすかな胸の痛みを自覚させた。それを打ち消さんとして、ティベリウスは小さく喉を整えた。前にも進み出た。

「カエサル……」

「ティベリウス」

 しかし継父が振り向くほうが、結局早かった。青白い月光が照らし出すその顔に、すでに悲しみの色はなかった。ただ不屈の決意があるだけだ。

「明日の夜がテレンティアの誕生日会だ。私はマエケナス邸に行く」

「はい」

「それが終わったら、ユリアの次の夫になる男を公にするつもりだ」

 心臓がどきりと飛び出しかけたのを、ティベリウスはかろうじて耐えた。継父の目に見えたとしてもおかしくはなかった。

 けれども継父は、変わらず怜悧な頬をしていた。

「ティベリウス、お前にも新しい任務を与えたい。長くマルケルスのそばについていてくれたこと、感謝する」





 翌二十八日、応接間の長椅子の上で、ヴィプサーニアは昼近くまで眠っていた。ティベリウスが聞いたところ、前の晩になかなか寝つけず、結局はティベリウスが帰ってくるのを待ちたいと言って、ここへ来た。父が留守のうちはだれも使わないが、来訪者があればすぐに気づく場所である。

 しかしヴィプサーニアは疲れを溜めていたのだろう。奴隷によれば、ティベリウスが戻るほんの直前に眠り落ちてしまったそうだ。ティベリウスもまた応接間の外に長椅子を持ってこさせ、その上で休むことにした。もちろん要らぬ誤解を避けるため、あいだに天幕を引き、奴隷を二人そばに置いたが。

「ティベリ様!」

 それでもヴィプサーニアには大変な衝撃だったらしい。もう太陽が高くまで昇っていること。そして寝起きをティベリウスに見られたこと。

 ティベリウスは読むふりをしていた書物をおもむろに膝上に置いた。悪いとは思った。だが待っていてくれた相手だ。こらえきれずに顔をほころばせていた。

 顔を赤らめながらも、ヴィプサーニアはびっくりしたようだ。

「ティベリ様?」

 首をかしげた。亜麻色の髪の毛があちこちに跳ねていた。

「ご機嫌がよろしいのですか? なにか良いことがあったのですか?」

「ああ、そうだ」

 微笑みながら、ティベリウスはヴィプサーニアに向き直った。たぶんルキリウスやマルクスが見ていたら、「なにか悪いものでも食べたのか?」とでも訝るに違いない。婚約者でさえ、ティベリウスの笑顔には戸惑っている。

 だがティベリウスはかまわなかった。ドルーススのことは決して言えない、無邪気なものだった。

「ヴィプサーニア、私たちは──」

「だれか! だれかいないのか!」

 門の向こう側から、だしぬけに大声が響いた。

「ティベリウス・ネロ! いるんだろ? 開けろ! 緊急事態だ!」

 ユルス・アントニウスの声だった。






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