第六章 -5
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それから特段何事も起こらず、七月になった。真夏の暑さが頂に近づき、パラティーノの丘にいてさえも、午前のうちからしのぎ難さを感じるほどだった。
ある日、朝の伺候を終えて、ティベリウスは応接間の外へ出た。すると柱廊の日陰に、母リヴィアがむっつりと座っているのに気づいた。
驚きはしなかった。最近、ネロ家とカエサル家のあいだには、玄関を通らずとも行き来できる連絡路が造られた。今日はこちらで過ごしたい気分であるのだろう。
ただ、日頃決して朗らかな母ではないが、見るからに機嫌が悪そうだった。
「おはようございます、母上」
そばへ行き、ティベリウスは挨拶をした。
「おはようございます、ティベリウス」
母はすました感じで応じた。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ、別に」
話したくはないようだ。そうですか、とうなずいて、ティベリウスは踵を返した。
うー、といううなり声が聞こえて、すぐに振り返った。
「母上」
母は息子に意固地な横顔を見せていた。息子がしばし途方に暮れていると、またうなり声が這ってきた。
「……母上、言っていただかねばわかりません」
うー。
ティベリウスはため息をついて、母のそばへ戻った。女とはときどきこればかりで意思を伝えたがるが、相手にしてみれば厄介につきる。ただ厄介をかけたいだけなのかもしれないが。なにかの八つ当たりで。
心当たりはあった。伺候に訪れた者が口々に、今朝はカエサル家の前がにぎやかだったと言っていた。昨日一昨日も訪れた者がいたなら、「今朝も」と言ったはずだ。
カエサル家の前に、スクリボニアが来ているのだった。この頃また頻度が増えた理由は、娘のユリアが、寡婦となったがために実父の管理下に戻ったことに因る。
マルケルスの妻であるうちは、なかなかによかったらしい。困り顔くらいはしただろうが、オクタヴィアは割合すんなり嫁と実母を会わせていたという。スクリボニアの家に行かせることにさえ、ほぼ彼女らの自由としていた。
またそれより前時点でも、決して悪くなかっただろう。アウグストゥスもリヴィアもそろって西方へ行っていたので、母娘の面会は、その間止められるものではなかった。カエサル家の奴隷たちも折れるしかなかったという。
母娘の状況が悪化したのは、昨年十月の暮れだ。
だが果たしてそれだけが、母リヴィアの不機嫌の原因だろうか。スクリボニアが娘に会わせるようにと門の前で騒ぐのは、今に始まったことではない。それともいい加減我慢の限界に達したのだろうか。
ティベリウスは母の傍らにひざまずいた。そしてようやく気づいたのだが、次の柱の陰に、ユリアその人が身を小さくするようにたたずんでいた。
ティベリウスは少々面食らった。
「相手をしておあげなさい」
母はティベリウスに切り口上で言った。
ティベリウスはますます途方に暮れた。相手をするもなにも、どうせよと言うのか。まずティベリウスは、女性全般に対して接し方がわからない。それにユリアとは、話題にするべき事柄がない。礼儀から、以前に会話を試みたことはあったが、まったく続かなかった。彼女の家族の話を訊いても、一言で途切れた。「わからない」としか返ってこないこともあった。では勉学は──詩の朗読、歴史書の精読、神話の解釈、地理学、天文学、建築論──どれも彼女の興味を惹きつけなかった。結局いつも苦笑するマルケルスや呆れ顔のユルスに、彼女が引き継がれるのを待つばかりだった。
「お前は女とそんな話をするのか! ドルーススのほうがずっとましだぞ」
ユルスは首を振り続けていた。
面目ないとティベリウスは思わないでもなかったが、アントニアやヴィプサーニアを思えば、ユリアほど気難しくないと見なすしかなかった。このような時でなければ、とにかく好きに楽しんでいてくれるような少女たちだった。彼女らが変わり者で、女とは大多数が違うのだろうか。
だれかの妻であるならば、もう少し距離をつかみやすく思うのだが。
「こちらへ。新鮮な桃がある」
ひとまずそう声をかけるしかなかった。手招きすれば、ユリアはなんとかついてきた。女奴隷のオピスも一緒だ。
「母上! おはよう! どうしたんだ? 怖い顔だぞ! カエサルと喧嘩したのか?」
ドルーススが現れ、子犬のように母へ向かっていった。ティベリウスはユリアを食堂に入れた。
「母上のことをなにか知っているか?」
ユリアではおそらく埒が明かないと思い、ティベリウスは最初からオピスに訊いた。この奴隷も母付きではないのだが。
オピスもまたいく分呆れたような目線を寄越し、それから淡々とユリアのために桃の皮を剥きはじめた。
「恐れながら若きネロ、お心当たりもないのですか?」
「賢しい口を聞くな。スクリボニアか?」
「あなたではないですか、ネロ?」オピスは中年にありがちな高慢さでそう言ってのけた。「あなたがご主人様によりいつまでもお嬢様の婚約者に指名されないので、奥様は業を煮やした」
ティベリウスは息を呑んだ。ユリアを見ると、一瞬目が合った。ティベリウスから先に逸らしたかもしれない。
マルケルスの喪が明けるまで、あとひと月余りである。継父は未だユリアの身の振り方を決めていないらしい。あるいは、公にしていないだけか。
母が本気でティベリウスをユリアの次の夫にしたいならば、今日この日まで息子がなんの行動も起こさないでいるのを歯痒くも思っていただろう。だが母も今日この日までティベリウスになにも言ってこなかった。まさかそれも察しろという話なのか。
「……そうではないだろう」
しかしティベリウスは思い直す。
「そうであったら、今朝になっていきなりあの調子である理由にならない。今朝か、たぶん昨夜になにかあった。違うか?」
するとオピスはため息をついた。
「ご主人様がマエケナス邸に通われていることはご存じでしょう。たぶんお嬢様の今後のことで」
もったいぶるなと思った。ユリアの今後だけが顧問と話す内容とは限らないだろうとも思ったが、ティベリウスはただうなずくことにした。
ところが、次に口を開いたのはユリアだった。
「お父様と喧嘩したのよ」彼女にしては自信ありげな口調だった。「ドルーススの言うとおり。お父様が、今度テレンティアのお誕生日会に招かれていて、そのことを内緒にしていたから、リヴィア様が怒ったの」
今度はティベリウスが呆れる番だった。
「……それを私に察しろと?」
思わずこぼしていた。こんな無理難題があろうか。
母は今までテレンティアとの仲睦まじさの件で、大っぴらに夫と言い争ったことはなかった。ティベリウスの知る限りではだが。マエケナス邸に足繁く通うことにも、政治という男の領分に関わるのだろうと、口出しもしなかった。それがここにきて「テレンティアの誕生日祝い」ただそのために出かけること、しかもそれを黙っていたことに頭に来たわけか。
ほかにも色々積み重なるものがあったのかもしれないが。
「テレンティアは今年のお誕生日会をとても華やかにしたいんですって。去年はお兄様のことがあったから……」
ユリアはまだ続けた。すでに丸一個分ほど桃を食べて、手を果汁まみれにしていた。彼女はそれにかまわず食卓に伏せった。「……うらやましい」
その言葉は、ティベリウスには思いもかけなかった。
「あたしも早くお出かけしたい。思いっきりおしゃれして、綺麗なお化粧をして、いろんな人に会いたい……」
ユリアの言葉を聞きながら、ティベリウスは目をしばたたいていた。
彼女は涙ぐんでさえいた。「もう限界よ。いつまでおうちでじっとしていなきゃいけないの……? つまんない。毎日つまんない……。早くお出かけしたい……。もう息苦しくて、死んじゃいそう……」
ティベリウスはあっけに取られた。確かに夫を亡くし、ユリアは服喪期間にある。華々しい場に出ることを慎むように求められる。市民の目もある。
しかしアポロン神殿とか公園とか、まったく外出を禁じられているわけではなかったはずだ。それとも事実上禁じられていたのだろうか。図書館で見かけなかったのは、ただ彼女が勉学に興味がないからだとティベリウスは思っていた。
アウグストゥスの一人娘だ。寡婦となった今、これまで以上に身辺に気をつけなければならない。そうでなくとも十ヶ月も家にこもることを強いられたなら、ユリアでなくとも辛い。適度に息抜きができるよう、自分も含め、皆もっと彼女を気遣ってやるべきだった。
だが「死んじゃいそう」とは無神経ではないのか。死んでしまったのは彼女の夫だ。
「こんなのだったら、いっそ早く結婚したいわ」
しかしユリアはそのようなことまで口にするのだった。
「……もうだれでもいいから。そうしたらもうあたし、寡婦じゃないから。もっと自由に、好きなことできるから。お父様の娘でなくていいし、リヴィアと一緒にいなくていいし……」
ティベリウスは複雑な思いが腹に渦巻いたが、しくしくと泣かれてはなにも言えなかった。
亡きマルケルスに対して、その言い方は薄情ではないのか。けれどもマルケルスは優しいから、残されたこの妻の現状を哀れむだろうか。確かにかわいそうなのはそのとおりだ。ティベリウスだってマルケルスの不在を財務官の仕事諸々で埋めた。喪中ゆえにひたすら慎めと言われたならば、とっくに耐えられなくなっていただろう。
だが本心であれ、もっと言い方というものがないだろうか。マルケルスへの悲しみや悼みはもうないのだろうか。次の夫が「だれでもいい」とは。
彼女に選択権がないことは事実だが。
「……あとひと月ちょっとの辛抱だ」ティベリウスは苦労して、そう言った。「だが気晴らしを欲するのもわかる。なにかやりたいことがあるのか? 華やかに着飾りたいか?」
「そして、踊りの会に出たいわ!」
顔を上げ、ユリアは珍しく声を張った。それからまた伏せった。
「……去年、マルケルスが中央広場で開いてたでしょ? あたしもああいうのに出てみたかった……。マルケルスにお願いしたのに……『ぼくらは参加する側じゃなくて、市民のみんなに提供する側なんだよ』って……」
それはそうだ。騎士階級の男女が踊ることだって醜聞になるぎりぎりで、だからこそ見世物になり得たのだ。マルケルスもアウグストゥスも、ユリアが市民の見世物になることを承知するはずがなかった。
いつぞやの美女の祭典は、継父の気の迷いだったのだろう。
それにしても、何事にも消極的に見えたユリアが、踊りの会に出たがったとは意外だった。もちろんマルケルスと舞台で手を取り合うことを夢見たに違いない。二人はやはり上手くいっていなくはなかったのだ。結婚生活は、ユリアに以前より自信を与えた。
もうその夢が叶わないのが残念だ。
「それは今は困難だが、ほかにはないのか?」
ティベリウスはそう訊くしかなかった。アグリッパがいてくれたらよかったと思った。あの人ならばあの気さくな笑顔で、ユリアを適切に気晴らしさせただろう。継父やマルケルスが西方に行って留守のあいだも、ほかの子どもら共々アグリッパ浴場に連れ出して遊ばせていたと聞いた。
しかしティベリウスとは、そのように気を利かせられる男ではない。どうしたらいいのだろう?
ところがそこへ、意外な来客があった。
「やっぱりここだったか」
食堂に入ってきたのは、ユルス・アントニウスだった。しかも片手をアントニア、もう片手をヴィプサーニアとつないでいる。この面々ならば、ネロ家の門番も主人に伺いを立てずに通しただろう。
「ここだったか」と言いながら、ユルスは食堂を見て取るなり、少し衝撃を受けたような顔になった。
「お前たちが二人?」
オピスを数に入れないならば、確かにティベリウスがユリアと二人だけでいるとは珍しい状況ではあっただろう。
一方ティベリウスも、なんだか胸がさざ波立つ感覚がした。妹であるアントニアならともかく、なぜユルスがヴィプサーニアと手をつないでいるのだろう。その不服を抑えながらヴィプサーニアを見ると、彼女もまた少なからぬ衝撃に打ちのめされているように見えた。
「……」
食堂には束の間沈黙が下りた。ティベリウスは今にも泣き出しそうなヴィプサーニアを目に映し、激しく動揺していたのだった。
「ティベリウスってば」
沈黙にただ一人かまわなかったアントニアが、頬をぷくっと膨らませ、ティベリウスに指を突き出した。
「ユリアとウワキね! 許さないわ! ヴィプサーニアという人がいながら! ユノーに代わって、あたしが成敗してあげるわ!」
それで、ようやく合点がいった。
がやがやと互いにもつれ合うように、若者らは中庭へ出た。
ユルスとティベリウスは言い訳合戦をした。ユルス曰く、ヴィプサーニアがマルケッラについてクイリナーレの丘から来たので、アントニアとまとめてネロ家に送り届けることにした。途中、裏道からカエサル家に入ったが、リヴィアとユリアがいなかったので、こっちだろうと考えた。外ではスクリボニアが例によって騒いでいたから。
だったら自分とユリアが一緒にいても不思議ではないだろうと、ティベリウスはユルスよりむしろヴィプサーニアに聞いてほしくて言っていた。いよいよお前はユリアと婚約しろと言われたのかとユルスに訊かれ、はっきり否と返した。
ユルスは結局、オクタヴィアの家には定期的に顔を出し続けているらしい。オクタヴィアがそれを願ったそうだ。
「なんだ? なんだ?」
アントニアがティベリウスに組打ちを仕掛けているように見えたので、ドルーススも乗り遅れまいと突進してきた。