第六章 -4
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ロングス家の若夫婦が、娘をアポロン神殿に連れてきたのは、ティベリウスが見てきた限り此度が初めてだ。だが頻繁に交流はあったらしい。とにかく彼らの後見人であるところのヴェルギリウスが、唯一笑顔に似たなにかを見せる機会が、亡き親友の孫を目に入れる時であるという。リヴィウスの邪魔にはなりたくなかったが、あまりにも日々塞ぎ込んでいるヴェルギリウスを見るに見かねて、若夫婦は娘を連れ出すことにした。コルネリアは司書の仕事があるので、ルキリウスがヴェルギリウスと二人、神殿の外で赤ん坊を遊ばせていた。ティベリウスが見た限りは、赤ん坊もヴェルギリウスも楽しんでいる様子だった。赤ん坊が遊び疲れると、ルキリウスは自身も困憊しながら寝かしつけ、ヴェルギリウスの部屋に預けた。あの時まで、赤ん坊と大詩人は、長椅子の上で仲良くすやすやと眠り込んでいたという。
「別にヴェルギリウス殿の執筆をせかすつもりはないんだ」
一日の終わり際、雨雲がさらに黒みがかるころ、ルキリウスはティベリウスとともに神殿を出た。
「ただ、ぼくら二人のためにローマへ出てきてくださったんだから、申し訳なくてね。少しでも気が晴れたらと思ったんだけど」
コルネリウス・ガルスの自死からもう四年が過ぎた。けれどもヴェルギリウスの悲しみはなお癒えていない。むしろこの頃は、筆の勢い盛んなリヴィウスと自身を比べてしまうのだろうか、さらに落ち込みがひどくなって見えるという。
「ナポリの家に戻られたほうがよさそうか?」
ティベリウスの問いに、ルキリウスは背後へ首を向けた。
「……正直、それはそれで心配だよ。どうしたらいいのかな……」
彼らのすぐ後ろにはコルネリアと、その両腕に抱かれた赤ん坊が続いた。雨は小降りになっていて、母親は自分の頭ごと娘をパラ(ヒマティオン)で覆っていた。
グネウスたち三人はひと足早く帰った。ドルーススも、アントニアがなんと彼のためにトーガに刺繍を施してくれたと聞きつけ、飛ぶようにオクタヴィアの家へ去った。
ヴェルギリウスの苦悩とは、親友を失くしたという事実に依るばかりではないのかもしれない。その悲しみを癒すための術さえ、彼は失くしているのではないか。ティベリウスたちは日課をこなし、アウグストゥスは仕事に専念し、アントニアは刺繍をする。コルネリアもまた新しい家族との日々を歩んでいる。けれどもヴェルギリウスは自分の心のやり場を持てないでいる。
詩作が彼の愛そのものであるならば、それすなわち最も愛する存在を思わずにはいられない時間だ。だが彼の中で亡きガルスとは、未だあたたかな思い出にならない。その悲運が、無念が、不条理が、なお彼を苛む。
いっそその暗澹たる思いを詠むか。友の心に代わって吐き出すか。
それはなおさら耐えがたいのだろう。そして世界も、ヴェルギリウスにそれを求めていないだろう。
詩人としても一個人としても、ヴェルギリウスは追い詰められていた。死んだほうがましと思う苦しみであるかもしれなかった。
そしてそれは、なお悪いことに終わりが見えない。その絶望を、幼いロンガッラが一瞬でも忘れさせるならば、現状ではこのうえもない働きであるはずだ。いつかきっと終わりが来る。それまでのささやかな時間稼ぎになるなら──。
「おいおいっ、ロングス? ルキリウス・ロングスか?」
だしぬけに遠慮のない声が飛び込んできた。ルキリウスは立ち止まり、すぐに思いきり嫌な顔をした。
「うえぇ……」
「俺だ! 無二の戦友イッキウス様だ! やぁやぁ、死んだと思っていたぞ!」
その若い男──二十歳は過ぎているように見えたが──は、彼らの行く手から両腕を広げて歩いてきた。ルキリウスはさりげなく背後にコルネリアを隠し、さらに自身をもティベリウスの背中にくらまそうとした。イッキウスはかまう様子もなく、ばしばしと彼の肩を叩きにかかったが。
「壮絶な最期を遂げたんじゃなかったのか! やれエチオピア人の群れに一人で飛び込み、死体もわからなくなるほど滅多打ちにされただの、カンダケに一騎打ちを挑んで体を真っ二つにされただの──」
「……どっかのだれかが家族に余計な憶測を吹き込んだせいで」
「生きてたんなら、なぜ俺んとこに顔を出さんのか!」
ルキリウスのぼやきは聞こえないことにしたらしく、イッキウスはさらに顔を輝かせた。
「教えただろう? 俺は大詩人ホラティウスの弟子だと。彼のところへ訪ねてくれればよかった」
「だから間違っても訪ねないようにしていたんだけどな……」
ルキリウスはコルネリアもティベリウスも帰途へ押しやろうとした。
「もしやそちらの女人は、あの時の?」
しかしイッキウスは抜け目ない男のようだ。
「そしておまけに、あの時の赤ん坊か? この野郎め! ちゃっかり幸せになりやがって! 軍務中に女をはらませるなんてとんでもねぇぞ! うらやましい! 俺だってな、お前が総督推薦なうえアキレウスみたいな腕っぷしじゃなきゃ──」
「イッキウス! イッキウス──」ルキリウスはたまらず叫んだ。「品のない言い方は慎んでくれ! ここはアポロン神殿だぞ。それに、それに──」
「それに、この男はだれだ?」イッキウスはティベリウスを差して訊いた。「なんか……とんでもねぇ威圧感だぞ。お前のご主人様かなにかか?」
眼前で平然とこのように言ってのけるのなら、ティベリウスの威圧感とやらも、この図太い神経の持ち主にはさして影響力はないらしい。もう少し繊細さを備えなければ、この男はあまり長生きしないかもしれない。
「ティベリウス・クラウディウス・ネロ」
知らしめたのは、ルキリウスでもティベリウス自身でもなかった。また別の声が、まるで悠然と割り込んできた。
それだけで、ティベリウスとルキリウスは気色立った。コルネリアでさえ、イッキウスには平静で通した顔に、はっきりと嫌悪感を浮かべた。
にやにや笑いながら、ファンニウス・カエピオが歩いてきた。傍らにはルキウス・ムレナもいる。あのような弁論をしておいて、よくもまあパラティーノの丘まで現れた。勇敢なものだ。
カエピオはイッキウスの肩を親しげに叩いた。
「かの第一人者アウグストゥスの継息子だぞ。控えておけ」
「な、なんと……!」
イッキウスは控えるばかりか、あわあわとティベリウスの前にひざまずきさえした。
「貴きクラウディウス・ネロ家のご長男とは! お目にかかれて恐悦至極! 元第三軍団キレナイカ副官イッキウスにございます! なにを隠そう、かのアラビアで香料の産地を見つけ出したのは、この私! この事実を是非是非あなたの継父様にお伝え願いたく、また新たなる任務を頂戴したならば、必ずや大いに役に立つことを保証致したく……それにしてもいったいどうやって、そのルキリウス・ロングスを奴隷としたのでしょうか?」
「どっちが奴隷だ」
ティベリウスはおべっか使いが大嫌いだったが、イッキウスはあまりに調子が良すぎて、本気で腹を立てる気にもなれなかった。
「お二人は元から親友同士だったらしいぞ」
薄ら笑いを浮かべたまま、カエピオが口を挟んだ。
「七難八苦の末に再会を果たしたわけだ。特にロングスは今、君の言うとおり幸福の只中だろう、イッキウス。だが嫉妬する必要はない。彼はまぁ、それだけの奮闘をしたのだし、奮闘などしなくても、いずれ君の番も来ようさ。そう、幸福も不幸も永遠には続かん。それが運命というもの」
「ここへなにをしに来た?」
ティベリウスがカエピオに迫ったが、彼は飄然と肩をすくめた。
「親愛なるヴェルギリウスのご機嫌を伺いに参った。なんなら今夜は一緒に葡萄酒をどうか。イッキウスの終わらないアラビア冒険譚でも聞きながら、と」
「ヴェルギリウス殿はお前に用はない」
「どうして君にわかる? 彼に直接訊く」カエピオはせせら笑った。「まさか彼に会うなとは言わんよな? そんな権限はないぞ。君にも、アウグストゥスにも」
そのとおりだった。だができることならばヴェルギリウスをカエピオやムレナに会わせたくなかった。余計な言葉でますます彼の心を苛むに違いないと思った。
ティベリウスとルキリウスは歯噛みをするしかなかった。イッキウスを立ち上がらせ、カエピオは勝ち誇り顔でアポロン神殿に向かおうとする。
「よかったな、イッキウス。せっかくアラビア帰りで小金持ちになったのに、この一年でもう使い尽くしたところだったからな。中でも春に小麦を買い占めたのが痛かったな。ホラティウスにもマエケナスにも見捨てられたが、言ったとおり、ほら、ここへ来れば新しいパトロン探しに困らなかった」
「神殿はもう閉めたわよ」コルネリアが冷たく口を挟んだ。「さっさと失せなさい。おととい出直せばいいわ」
「お父上に似てきたな」カエピオはにんまりと笑みを深くした。「だが可憐だ、相変わらず。コルネリアよ、できれば処女であるうちに我がものにしておきたかったな」
コルネリアがかっと顔を赤くした。我を忘れて赤ん坊さえ投げつけかねなかった。ティベリウスとルキリウスがなんとか押しとどめた。
「コルネリア!」妻を抱えながら、ルキリウスは強引に歩き出した。「もう帰るよ! あと、明日からは護衛付きで仕事だ。この男を見たら斬り捨ててかまわない! ティベリウスが証人だ」
「しかしよくもまぁ、父親を殺した男の娘を妻にできたものだな」
さもさりげないカエピオの言葉は、若夫婦の動きを永遠のように止めた。
「……なんですって?」
コルネリアが夫の顔をまじまじと見る。ルキリウスの顔が青白くなる。
「おや」まるで意外とばかりに、カエピオはのけぞった。「言ってなかったのか?」
「……なんで」はち切れんばかりに目を剥いて、ルキリウスがうめく。「なんで……お前が……? やっぱり最初から……」
五年前、マエケナス邸に誘拐された、あの日──。
しかしカエピオはひょいと肩をすくめたのだった。
「いや、私はプロクレイウスの昔話から推測して、もしやと思っていただけでね。でもひょっとしてその顔は、真実だったというわけかな?」
今度はルキリウスが、さながら獲物を仕留める豹のようにカエピオに飛びついた。首をちぎる寸前、ティベリウスが二人をかろうじて引き剥がした。
「この野郎──」ルキリウスはほとんど正気を失っていた。「この野郎──!」
この日まで、ルキリウスはその事実を、ティベリウス以外のだれにも伝えずに過ごしてきた。コルネリアにはもちろん、祖父にも明かさなかった。それで通せると考えていたのだ。わざわざ知らせる必要はなかった──。
ティベリウスは怒り狂うルキリウスを押さえ、茫然自失のコルネリアを泣き出した赤ん坊ごと抱え、大股でその場から離れた。
敗走だと思った。またもルキリウスを守れなかった。コルネリアもろとも傷つけられるがままにした。悔しくてならなかった。
カエピオをこのままにしておけるだろうか。だが今は退くしかない。一刻も早く。
「ルキリウス・ロングス! 君はこれでいいのか!」
追撃してきたのは、カエピオではなかった。これまで一途な顔で黙していたルキウス・ムレナだった。
「君のお父上はすばらしい男だった! ブルートゥスとアントニウスの最も忠実な友だった。よく考えろ! 今の君は、お父上の遺志に適っているか? だれの友になって、いかに生きるのか? そして死ぬのか!」
「余計なお世話だ!」
喉が裂け切ったような声で、ルキリウスはそれだけ返した。