第六章 -2
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洪水の後始末がようやくひと段落したころ、一件の裁判がひっそりと開かれた。というのもその法廷は、第一人者アウグストゥスの臨席なしに始まり、それ自体は問題なかったのだが、その第一人者を当事者として取り上げたからだ。
被告はマルクス・プリムス。前年のマケドニア属州総督である。彼は元老院の承諾を得ずに、辺境の一部族に戦闘を仕掛けたとして告発された。
このプリムスの弁護を担当したのがルキウス・ムレナだった。前年シリアでの軍務を終えて帰国し、その後テレンティウス・ヴァッロ家の養子になっていた。
ムレナの弁論こそ、この裁判で集めた耳目のすべてだった。彼は被告人プリムスが決して国家の許可なく戦闘行為に出たのではないと主張した。第一人者アウグストゥス、そして後日には、なんとマルケルスからも許可を得ていたという。それこそ被告が正当である証とした。
法務官の法廷は、これで騒然となった。アウグストゥスはすでに国家の「前執政官上級命令権」──すなわち実質の全軍最高指揮権を認められている。しかしマケドニアはアウグストゥス属州ではなく、元老院属州である。もしも元老院に一切諮ることなく戦闘に討って出たならば、第一人者といえども法律違反であり、越権行為である。
ティベリウスはこの裁判を、途中から傍聴していた。
たとえやむを得ない戦闘だったにせよ、事前の兆候の報告もなく、事後の経過の報告もなく、年が明けて属州民に訴えられるまで黙っていたのならば、プリムスの行動は問題である。
だが裁判の争点は、たちまちにしてアウグストゥスとマルケルスの指示があったか否かに移っていく。
ムレナの言葉遣いは、亡きヴァッロとは似ても似つかなかった。率直で、あけすけで、粗削り。しかも極めて辛辣だ。実際、ムレナは激怒しているように見えた。
ティベリウスも以前継父から注意されたことがあるので、他人のことは言えない。
しかしムレナの意図とは、プリムスの弁護よりまずアウグストゥスへの批判である。そう気づいた。ムレナこそ国家の第一人者を告発せんとしているのだ。マルケルスの名前まで出したということは、カエサル家に継がれていく現状にも異を唱えているのだろう。
しかしなにが継がれていくことか。プリムスを盾に、ムレナは今必死でそれを暴こうとしている。まるでもう腹に据えかねている、限界だと言わんばかりだ。
だがそこで法廷が静まり返った。アウグストゥスその人が姿を現したのである。ムレナには不意打ちだったらしい。アウグストゥスが普段よりなぜか多い朝の伺候客に釘付けにされているあいだに、事を進める気でいたようだ。
「ここでなにをしているのか!」
第一人者に指を突きつけ、ムレナは口角泡を飛ばした。
「なぜあなたはここにいる!」
「国益のためだ」
アウグストゥスはそれだけ言った。市民の歓呼が、それ以上の議論を呑み込んでいった。
これでムレナは挫折した。彼が貶めたい第一人者とは、やはりローマで最も支持されている指導者だった。
プリムスは結局有罪となった。ムレナは憤懣やるかたないとばかりに肩を怒らせ、法廷を去った。だが少なからぬ無罪票も投じられていたので、彼の意図はまったく不首尾に終わったわけではないのだろう。もう少し長く、さらに明確に、第一人者の「横暴」を人々に印象づけたかったに違いないが。
「市民諸君! このままでいいのか!」
去り際、ムレナは大声を張った。
「統治権、軍団指揮権、挙句に日々の食まで第一人者に握られて! 諸君らは奴隷以下だ! 家畜そのものだ! このままローマをカエサル家に引き渡していくつもりか、情けない豚ども!」
「……豚とはあんまりだ」
ルキリウスがネロ家で昼の軽食をつまんでいた。卓にはほかに盤上遊戯一式が置かれ、ティベリウスを相手に油断していなかった。
「せめてぼくはラクダになりたい。ああ、今頃愛しのクラウディア号は元気にしているんだろうか。ポンペイウスからの手紙によれば、あのまま軍団基地で使われることになったらしいけど、ちゃんと餌をもらっているのかな。ラクダはちょっとその辺の草を食べただけで何日も頑張るもんな。……やっぱりぼくは豚でいいかな」
右手で駒を動かし、もう左手でパンにナツメヤシを押し込んで、もろとも器用に口へ運んでいく。
「兄上」
ドルーススはすでに腹を膨らませて満足していた。そのはずだが、なにかを疑うようなまなざしで兄を見た。
「マルケルスがどうしてそのプリムスとかいうやつに命令を出したんだ?」
「出していないだろう」本当のところはもうわからないが、ティベリウスは言った。「ムレナが、カエサルかマルケルスの指示さえあれば世界でなんでもできると示したかっただけだ。そのために勝手に名前を使った」
「でも、実際にそうじゃないのか?」
ドルーススが言った。ティベリウスは弟を見た。
マルケルスがこの世を去ってから、ドルーススの顔つきがいく分変わったと感じられた。
「二人の指示があったって意味じゃない。二人の指示があればなんでもできるってことさ。もうマルケルスはいないけど……」
ドルーススは遺憾げに眉を下げた。遺憾ではあるが、これでいいのか。そう言っているように見えた。
そして、実際に口にした。
「カエサルは一人で全部背負いすぎじゃないのか? もうマルケルスはいなくて、アグリッパも東方だ。また一人で無理をして、倒れたらどうするんだ? 命だって狙われるかもしれないんだぞ。ムレナの言い分はともかく、やっぱりもっと色々な人間に仕事を任せたほうがいいんじゃないか?」
ティベリウスは──そしてルキリウスも、ぽかんとドルーススの真面目な顔を眺めた。去年の今頃、大きい体にかまわず無邪気にルキリウスにじゃれついていた、あの少年はどこへ行ったのだろう。
いつの間にかドルーススは、ローマのあり方について真剣に考えていた。共和政支持者の意見に近いが、それは継父への思いやりに始まっているようだ。
ティベリウスは弟に言葉を返そうとした。だが上手くまとまらず、複雑な考えをあれこれ持て余して、唇だけ徒に動かした。その時ネロ家の門から、複数の足音が響いた。
「ティベリウス! 大変だぁーーーーっ!」
どたどたとアトリウムから飛び込んできたのは、ピソ、ファビウス、グネウス、それにマルクスとネルヴァ、最後にはうんざり顔のユルスまで入ってくる。
「レントゥルスが破産した!」
「……は、さん…………?」
食卓に身を乗り出すピソらの言葉を聞いても、ティベリウスにはしばらく意味がわからなかった。